「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「キリストの体」2021・8・8説教要旨

讃美歌285番 1番 主よみ手もて ひかせたまえ ただわが主の 道を歩まん いかに暗く けわしくとも みむねならば われいとわじ 4番 この世を主に ささげまつり かみのくにと なすためには せめもはじも 死もほろびも 何かはあらん 主にまかせて 

朝位真士

今日は1コリント12・12~31節を見ていきましょう。この12・12~14キリストの体である教会の有機的一致。15~27肢体の一致の必要。28~30賜物による種々の職務。31最高の霊的欲求。ここでは、教会、教会と信者との関係、信者相互の関係を説く。教会はキリストをかしらとする1つのからだで、信者個人個人は皆その肢体(12-14)。(からだが1つであっても肢体は多く)ある。肢体が多くあるのは、またその肢体のそれぞれの力と働きが異なるのは、教会を維持するのに欠くことのできない務めをさせるためである。すなわち、目は目の用をなし、鼻は鼻の用をする。手は手、足は足、互いにその務めは異なるが、皆ひとしく全身を維持するために働く。おのおのの肢体にはそれぞれの使命があり、互いに助け合ってからだを保ってゆくべきで、自分だけ孤立すべきでなく(15-20)、また、自ら高かぶって他を卑しめたり退けたりすべきではない(21)。最も弱い者、最も卑しいと思われる者は特に顧みなければならない(22-25)。このように信者は、おのおのその賜物を異にし、したがって務めが異なっていても、皆互いにからだのために働き、教会の徳を建てる。それゆえ、賜物のいかんによって人を軽んじたり卑しめたりしてはならず、また互いの間に党派を立て、分裂するようなことがあってはならない。信者はすでに1つのからだの肢体で、利害を同じくし、苦楽を共にする者である。(もし1つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、1つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ)26。これは、キリスト者間の当然あるべき麗しい一致同情である。指の先にけがをしても全身の活動や気分に影響するように、教会内の「最も小さい者」のひとりの苦しみも、全体に響くほどでなければならない。こうして「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」キリスト者的同情が表れるのである(ローマ12・15)

1コリント12・12~31を見て下さい。ここでは私達の体のことを考えて見ましょう。神はむだなものは何1つ造られない。またよく観察すると、1つの器官は多くの目的のために造られている。各器官が実に便利に造られており、どれも欠くことができないのであります。それは教会でも同じで、1見役に立たないように見える人が実に教会に欠くことのできない重要な存在だったりします。その人に適した働きが必ず、そしてたくさんあります。こんことによって私達は多くの問題を解決することが出来ます。特にパウロは言おうとしているのは、キリストのからだなる教会のあり方であります。12・12~13節を見て下さい。また各自の信仰生活においても同じであります。12・8~11を見て下さい。更に神は、他より劣っていると見えるところをことさらに尊んで体全体の調和を図り、分裂をなくし、各部分が互いにいたわり合ってキリストのからだとしての栄光を現わすことを望んでおられる(12・22~27)。また私達は霊的には、キリストのからだという有機的統一体に属しているのであって、1人1人はその器官であります。だから1人の問題はまた全体の問題なのです。

12・26節を見て下さい。からだの各器官はそれぞれ使命を持ち、どれ1つを欠いても全体は存在しないのであります。それと同じように、わたしたちキリストにある者は各自に与えられた分を感謝し、最善を尽くして全体のために奉仕すべきであります。これがキリストに栄光を帰す道であります。

結び

もう1度1コリント12・27~31節を見て下さい。初代教会における働き人としての種類が8つ挙げています。始めの3つは使徒、預言者、教師は教えることをなす者で、次の2つは力あるわざを行う者、いやしの賜物を持つ者は実際的活動に属する者で、その次の2つは補助者、管理者は教会の事務や政治に関する役目であり、最後に異言を語る者が置かれています。人にはそれぞれ異なった賜物があります。また教会には異なった奉仕活動の分野があります。すべての人が同じ任務につくことは、適当でないばかりか、それでは教会活動は正常に運営されない。違った人が、違った任務を分担して、互いに助け合ってこそ、教会は生かされる。高い地位やはなやかな働きをする人だけが、教会に必要な人ではありません。ここに「みんな」という字が何回もくりかえされていますが、教会ではこのみんなが分に応じて、それぞれ貢献したいと思います。最後に12・31節を見て下さい。これは12章の結尾の句であると共に13章へのつなぎとなる言葉である「更に大いなる賜物」は教会生活において最も大切な賜物であります。外面的にははなばなしい活動する力も神の賜物である。しかし、たとい外に表れなくても、多くの人を益し、真に教会の徳を立ててゆくものがあれば、それこそわたしたちがまず何よりも「熱心」に慕い求むべきものであります。それは一体何か。1コリント13章にパウロが調子も高く歌いだした愛がそれであります。これこそ聖霊の賜物にうち一番尊いものなのです。

「賜物の多様性」2021・8・1説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント12・1~11節を通して聖書を学んで行きましょう。この12章は種々の霊の賜物。1つのからだにある多くの肢体。1~3回心前の偶像信仰と、聖霊による信仰告白。4~11 1つの御霊による種々の賜物。と分解出来ます。ナザレのイエスを主と呼び、神と信じるのは、(聖霊によらなければ)出来ないことでありましょう。(3)。真の信仰は聖霊の感化による。このように、聖霊は主を示されるばかりではなく、主を信ずる者に、種々の賜物を与えて奉仕させたもう。私達が救われたのは主に奉仕するためでありますが、有効的に主に仕えるには、聖霊の賜物が必要であります。これには伝道者と信徒の区別はありません。神は(全てのものの中に働いて全てのことをなさる神であります)(6)。(コロサイ1・29)。(賜物は種々)あり、したがってその務めや働きはいろいろあるが、その賜物の源である御霊。そのうちにいます主、その人のうちに働きかける神は同じである。ここに特に三位一体の神が示されていることに注意しなければなりません(4-6)。賜物とは、神に対する奉仕をさせるために与えられる霊的な才能で、あるいは御霊御自身の顕現とも言うべきもので、教会の徳を建て、(全体の益になるため)に与えられるものであります。(7)。その賜物は種々あっても、皆1つの御霊から出て、また御霊の(思いのままに各自に分け与えられる)ものであります(11)。神はひとりびとりに最もよく知り、人それぞれに最もふさわしい賜物を与えられるので、私達は自分の注文を捨て、与えられた賜物に従って忠実に奉仕することが大切です。

1コリ12・Ⅰ~11節を見て下さい。この12章1~31節は御霊の賜物と教会に一致が語られています。そして1~3節は御霊の本質です。コリント教会のキリスト者に注意を促したパウロは、まず2つの点を強調しています。1・人は生まれながらの状態では偶像礼拝に走らざるを得ないことであります。(2)。2・その人が偶像を捨てて、生ける神を拝するようになるには御霊の力によることであります。(3)。この2つの事を導くのは御霊の働きであり、賜物である。また、人の内に宿る霊は、その人の信仰告白によって、神からの霊(聖霊)であるか悪魔からの霊(悪霊)であるかを見極めることが出来るのであります。ここで私達が知っておくべき大切なことは、イエス・キリストを自分の主と告白するに至らせるのは自分の力ではなく、その人の内に働く御霊の力であるということです。キリストを信じる信仰は、すべて神の賜物であります。エペソ2・8引用してください。勿論その過程において

人の力が作用することは言うまででもないが、それらもせんじ詰めれば神が用いたものにすぎないのであります。したがって信仰は御霊の賜物なのであります。12・4~31は個と全体キリスト信仰は御霊の賜物であります。この賜物がなくては私達の信仰はありえないのです。そしてキリスト信仰の原動力は御霊の賜物である以上、それはまた信仰生活の全てにおける原動力であることは明らかであります。先ず御霊の賜物はそれぞれに違った現われ方をします。万物は神の霊によって創造された。詩篇33・6p863引用します。さて1コリ12・4~6節を見て下さい。神は御旨に従って私達にそれぞれにふさわしい御霊の賜物を与えられています。それは7節を見て下さい。個はただ全体のために存在し、全体な益のために働いて初めてその存在意義があります。すなわち相手を生かすことによって自分も生きられるのであります。そして個が集まって全体を構成し、全体と有機的に関係して働くこと、これが神の創造の目的であり、御旨なのであります。私達の体のことを考えてみましょう。神はむだなものは何1つ

造られない。各器官が実に便利に造られており、どれも欠くことができないものであります。

それは教会も同じで、1見役に立たないように見える人が実は教会に欠くことが出来ない重要な存在だったりする。その人に適した働きが必ず、そしてたくさんあるのです。

結び

もう1度1コリ12・1~11節を見て下さい。特に4~11節ここに種々の神の賜物が記載されています。このところにおけるパウロの狙いは、教会の本質的統一を強調するところにあります。教会はキリストの体であるが、健康なからだの特徴は、それぞれの部分が、全体のために、それぞれの役割を果たしているということであります。教会の中には、様々な役割がある。それらはことごとく同じ御霊から与えられたものであります。しかも、各人に栄光のためにではなく、全体の益になるように賜ったのであります。初代教会はこの生き生きとした力強い活動をしていたが、それはすべて、聖霊の働きであることをしていました。聖霊は、各人に、自分のためではなく、他者のために用いるように、それぞれの賜物を与えて下さったのであります。私達もそれぞれ聖霊の賜物が与えられていますので、これを教会のため、人のために用いようではありませんか。最後にローマ12・6~8を見て下さい。人はそれぞれ異なった賜物を神から頂いていますので、各人はそれに応じて預言、奉仕、教え、勧め、寄付、指導、慈善のような仕事を教会の中でさせて頂きましょう。桜ヶ丘教会が100周年を迎えるに当たって、2023年6月1日ですが、すべての教会員が、各自の受けた賜物に最もふさわしい務めに従い、働きにつくことが大切です。

お祈り致します。

「新しい契約」礼拝メッセージ 2021/7/25

朝位真士

聖書箇所「新約聖書」コリントの信徒への手紙一 

第11章17節~34節

「新しい契約」2021・7・25説教要旨

今日は1コリント11・17~34節を通して聖書を見ていきましょう。この11・17~34節は17~19教会内の紛争、20~22乱れた晩餐、23~27聖餐礼の制定、28~34自己吟味と裁き

当時コリント教会には、愛餐と言って、各自食物を教会に持って来て食事を共にする風習があった。ところがこの教会には分争があり、1つの場所に集まって愛餐をするときにも、富んでいる者と貧しい者とは食を異にし、富んでいる者は贅沢な物を飽きるほど食べながら、貧しい者を顧みず、そのために(神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめる)こととなり(21,21)、集会によってかえって損を受けるばかりであった(17)。パウロはこれを責め、真の晩餐礼を重んじることを力説した。教会はクラブではない。飲食によって交わるべき所ではない。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖餐における喜びとである」(ローマ14・17)。この事に注意すべきであります。聖餐は洗礼と共にキリスト教会の2大礼典の1つであります。パウロはここに、この聖晩餐礼の制定の由来とその意義を示して(23~26)、軽々しくこれに預かってはならないことを警告する(27~30)。これは厳粛に守るべき礼典で、一片の儀式として軽々しく預かるようなことがあってはならない。これは主が弟子たちとの決別の最後の晩餐の時、制定された礼典で(マタイ26・26~28)、過去を顧みて十字架の贖いを記念すると共に、将来を望んでキリストの再臨を待つことを表す(26)。また、キリストの肉と血は魂を養う真の飲食物で、これによって現在、主との交わりを保ち、また未来において、必ず復活する保証を得るのである(ヨハネ6・54~56)。

 1コリント11・17~34節を見て下さい。ここは3つに分類されます。1・11・17~22現状についての批判。2・11・23~26主の晩餐の伝承。3・11・27~34主の晩餐の守り方この結論は11・25(わたしの血によって立てられる新しい契約)。(あなたがたのための)はイエスの十字架の体による「罪の赦し」「贖い」を意味し、(新しい契約)はエレミヤ31・31の預言がイエスの血によって成就したことを表す「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」p1237これが今日のキイワードの言葉です。これの成就が主イエス・キリストによって成就されたのです。11・33~34に実践的な指示を3つまとめています。1・晩餐のために集まる時は互いに待ち合わせよ。2・もし誰かが空腹であるなら、家で食べよ。3・その他はパウロがコリントへ行った時に決める。と語っています。もう1度11・17~22を見て下さい。ここでは乱れた聖餐が記されています。聖餐式は、目で見、手でさわり、舌で味わう事によって、キリストの十字架を思い起こすことであります。それゆえ聖餐式は目で見る福音と言われています。初代教会においては、聖餐式はキリスト者の会食(愛餐)と併せて行われていました。これら2つは密接な関係が合ったので、事実上は1つの式典と見なされていました。この食事は各自が食物を持ち寄り、互いに分け合ってなされた。こうしてかれらは兄弟愛を促進し、またキリストの犠牲の死を覚え、信仰を励まし合っていた。ところが各自持ってきた物を自分勝手に食べてしまうのである。富んでいる者は贅沢な物を飽きるほど食べながら、貧しい者を顧みなかった。会食の本来の目的である聖徒の愛の交わりは不可能である。彼らの集まりは益とならないで、かえって害になった。パウロはこのことを戒めたのである。11・23~26主の晩餐の次第であるここに2つのことが語られています。1・これはわたしのからだです。2・パンが「あなたがたのための」からだであると言うことは、イエスがその弟子たちのために御自分のからだを与え、彼らのために死ぬという意味である。杯は、わたしの血による新しい契約です。

3・「わたしを覚えて、これを行いなさい」11・27~34聖餐における正しい態度が語られています

結び

教会の礼拝は、神の恵みへの応答としておこなわれる人のわざのことであります。信じる者を義としてくださる神への感謝として行われるのであります。聖餐式が英語でユーカリスト(感謝)とよばれるのもそのためであります。聖餐式は、説教によって宣べ伝えられた神の真理をうらづけるものとして、また説教だけで宣べ伝えられなかった点を補うものとして、さらに時としては説教で誤りが宣べ伝えられたところを訂正するものとしても礼拝と強く結びついています。説教には主観的要素が多く、聖餐には客観的要素が多いといえます。最後にもう1度今日の1コリント11・25節を見て下さい。新しい契約エレミヤ31・31です。それは神がモーセを通して、律法によって与えられた古い契約ではない。私達の為に流されたキリストの血をとおして、なんらの功績にも所業にもよらず、神の恵みによって(それを信じさえすれば)救われるという新しい契約であります。わたしたちは聖餐において、実際のこのキリストにふれ、罪の赦しの保証を頂くのであります。すなわちわたしたちが具体的に神の恵みにあずかる最大の手段は、神の言葉と共に実にこの礼典であります。

「キリストに倣う者でありなさい」2021・7・18説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント11・1~16節を学んで行きましょう。この11章部分は男女の地位。聖晩餐礼典の意義。1私にならいなさいとのパウロの勧め。2~16男女の地位と婦人のかぶり物の問題。ある注解書ではこの部分は3つに分けることができます。(1)11・2~3守るべき伝承と秩序。(2)11・4~6礼拝でのかぶり物。(3)11・7~16かぶり物についての根拠

1コリ11・1~16節を見て下さい。(1)始めにパウロはコリント人らを(立派だと思う)(称讃する)と言う。それはパウロのことをよく記憶し、伝承を固く守っているからだと言う(2節)。つまり11・23以下の聖餐に関する伝承と15・3節以下の告知された福音の内容を彼らが固守していることをパウロは称讃している。だがそれに加えて(知っておいてほしい)ことを3節で述べる。(すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神)。これは「創造の秩序」を示した創2・18~23のラビ的注解と解される。これは神の支配はキリストによって全ての男女に及び、同様にキリストの支配は全ての男女に及ぶことを示しています。しかも男はキリストに従うことによって神に従い、女はそのような男に従うことによって神とキリストの支配下に立つことを示している。ゆえにこれは創造論的・キリスト論的秩序と解される。(2)4~6この秩序に基づき、礼拝における男と女のかぶり物について述べる。パウロはここで女も男同様公然と(祈ったり、預言したりする)ことを認める。

その場合、男は頭にかぶり物をかぶってはならないことを命じる。男はキリストにあって、かぶり物なしに主の栄光を反映し得ると考えられたからである。(7,2コリ3・18)。これに対して女がかぶり物をしないことは、頭を侮辱することになるから、髪の毛を切ってしまいなさい。と命じる(6)。女が人前でかぶり物をすることは当時の習慣として一般化されていた。(3)7~16始めに(男は神の姿(像)と栄光を映す)ことと(女は男の栄光を映す)ことが示される。8節以下はこれに対する論証。(女が男から出て・・・男のために造られた)というのは創2・18以下のラビ的注解で、男と女の創造の秩序である。11節パウロはこれに加えて(主においては、男なしに女はなく、女なしには男は)ないと言う。これは(主において)の「救いの秩序」である。パウロによれば「創造の秩序」を廃棄しないし、止揚しない。ただ(主において)こそ(女が男から出た)ということと12節(男も女から生まれ、またすべてのものが神から出ている)ということが実現する。ここで女がかぶる物をするのは「み使いたちにために頭に権威を持たせるため」(頭に力の印をかぶるべき)という(10節)のはどういう意味であろうか。これをみ使いたちの性的誘惑(創6・1以下)から女を守るためと解釈する者もいる。しかしパウロはみ使いたちの性的誘惑についてはどこにも語っていないので、この解釈は当たらない。「権威」「力」を(自由)と解して女性がかぶり物をするのは、礼拝における自由の印と見る解釈もある(フランシスコ会聖研)。しかし、これはみ使いたちの超自然的な力に対する女性の弱さを守る防御の印と解してよい。この部分の結びとして、かぶり物をかぶることの賛否を読者自身の判断と自然理解に委ねると共に教会の習慣に従うよう勧める(13~16)。

結び

もう1度11・1~16節を見て下さい。当時ギリシャでは、男子は頭に物をかぶらず、婦人はかぶるのが通例であった。パウロはこのギリシャ人の風習を尊重し、それに霊的意味を加えて、4~5に語っています。しかし婦人がかぶらないのは服従しないことを表すので、恥ずべき事であるという。当時奴隷の女や姦淫の女は髪をそっていた。物をかぶらないのは(髪)をそったのと全く同じだからそれを恥じて物をかぶりなさいというのである(6)。ここでもう1度11・1節を見て下さい。「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」自分の覚悟を述べてきたパウロは、大胆にこう呼びかける。非常な確信を持って、信者に迫り得たパウロは本当に素晴らしいと思います。しかしその確信は、決して、独りよがりの者ではありません。「私がキリストにならう者であるように」と言うところに、彼の深い謙遜が示されています。キリストは「御自身を喜ばせることなく」(ローマ15・3)、「おのれをむなしくして僕に形を取り」フィリピ2・7、「ご自身をいけにえとしてささげ」られたエペソ5・2。パウロはこの主イエス・キリストにならった。パウロは、愛の為に、喜んで自分を束縛させた。叉同胞の救いのためには、自分は滅びてもよいと思い(ローマ9・3)、同信の共のためには自分の生命をも与えたいと願った(一テサ2・8)

まことにパウロは、わたしたちが模範として、仰ぐに足る人物であるこれはすなわちイエス・キリストに従ったパウロであるその模範はイエス・キリスト様であります。主イエスは私達の罪のために身代わりとして十字架で死に3日目に復活された活ける神主イエス・キリスト様です。このかたに倣って行きましょう。

「神の栄光を現わしなさい」2021・7・11説教要旨

朝位真士

今日は1コリント10・14~33節を通して聖書を学んで行きましょう。この10・14~33節は偶像に関する警告。14~22聖餐における聖徒の交わりは偶像礼拝を避けるべきことを要求する。23~30再び、偶像にささげた肉を食べる事について、キリスト者自由の制限、31~33飲食における愛の道。

聖書を見て下さい。10・14~33節14節以下は、偶像とそれに供えた肉を食べることについての、再度の警告である(8・4、7)。悪の霊が偶像を用いて人々を迷わせ、真の神を真理から離すのである。偶像礼拝に加わり、(悪霊どもの杯)を飲むことは、聖霊によって主の肉と血を受けるわたしたちのなすべきことではない。(20,21)。昔、供え物を食べる祭司たちが祭壇と関係を持つように(18)、主の肉と血を味わう聖餐にあずかる者は、主と1体となり、その聖徒の交わりに入るので(16,17)、このような者は偶像に遠ざからなければならないのは勿論であるが(14)。偶像そのものは存在するものではないが、偶像礼拝の背後には悪霊の勢力があるからである(19-22、申命32・17)、しかし、キリスト者は偶像信者と交わってはならないというのではない(1こり5・10)。彼らに招かれてもなされることもあり、偶像にささげたあと市場に売る肉を出されることもある時、(いちいち良心に問うこともしないで)食べてもさしつかえないが((25~27)、もしその事を特に注意され、あるいはそれによって私達の信仰が試みられるような場合には、その人の良心のために食べてはならない(28,29)。すべてのことが自分にとって別に悪いわけでもなくても(しかしすべてのことが益になるわけではない)、私達は自分の利益を求めないで他の人の益を求めるべきである。(23,24)。要は(飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである(31)。自分は自由をわきまえていても、そのために人にそしられたり(30)、また人をつまずかせたりしてはならない(32)。かえってどうにかして人を救う為に、自分の益ではなく、人の益を求め、(すべての人に喜ばれるように努め)なければならない(33)。わたしたちの言行は、人の救いのために利益とならなければならない。

パウロの書きぶりからすると、コリント教会のキリスト者の中には、信仰の自由の名のもとに、偶像の宮で偶像にささげられた肉をおおぴらに食べて弱い兄弟たちを躓かせていた者がいたようです。もっぱら主にある兄弟姉妹に対する愛の配慮の為に身を慎むようにという線で勧めを8章でしていました。しかしここに至ってパウロは別の角度かあるこの問題に警告を発しています。キリスト者は、聖餐によってキリストと1体になっているのである。それにもかかわらず、そのキリストにある者が偶像にささげられた物を食べるなら、彼は偶像と1体となる。悪の霊は偶像を用いて人々を惑わし、彼らを真の神と真理から引き離す。サタンは、人間が真の神以外のものを拝むことを喜ぶ。人間が偶像の宮で礼拝することは、悪霊を喜ばせることにはかならないのであります。パウロは自由制限の精神を31節を見て下さい。

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしる、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」自分のためではなく、人のためにという配慮は素晴らしい。しかし私達キリスト者は、それ以上に神の栄光のためにという祈りと願いをもたなければならない。そうする時初めてわたしたちは自分より他人のことを真に第1に考えて生きられるようになるのであります。パウロは世界的視野に立って、32,33と行っています。パウロは8章以来長く続いた「偶像にささげた肉」についての考察を閉じる。

結び

もう1度1コリント10・31節を見て下さい。「だから、飲むにも食べるにも、」また何事をするにも、全て神の栄光にためにすべきである。これはキリスト者生活の大原理であります。わたしたちが、この世に生かされている究極の目的は「神の栄光のため」であります。だから、日常生活のすべてにおいて、このことを念頭におおて生活しなければならない。そしてその目的は32節33節です。パウロはここにキリスト者の心がけを述べたが、ここでは自分の覚悟を語っています。「多くに人が救われるために」、「彼らの益を求めて」つねに自分の行動を定めたのであります。一人でも多くの人が救われる為に、喜んで自分の自由を制限しようというのであります。

新約学者ウイリアムバークレーは「わたしたちは、同胞にたいして果たすべき義務を念頭においたとき、はじめて、すべてのことを神の栄光にためにすることができるのである。また、キリスト者の自由は自分のためにではなく、他者のために与えられているのだということを念頭においたとき、初めて、同胞に対して果たすべき義務を考えることができるのである」と記しています。

「賞を得なさい」2021・6・27説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント9・19~27節を通して聖書を学んで行きましょう。この9・19~27節は真の奉仕の方法と報い、19~23人をキリストに導く為の奴隷的態度、24~27勝利の冠を得る為のパウロの克己の生涯。パウロは自ら進んですべての人の奴隷になった(19~23)、(できるだけ多くの人を)主に導くために、(ユダヤ人には、ユダヤ人のように)(弱い人には弱い者に)なったとは、自分の信仰と主義を曲げて人に迎合し、八方美人的にだれにも妥協したというのではない。彼は決してそんな人ではなく、ただあらゆる人種あらゆる階級の人の魂を救うために、すべてに人に譲歩し、自分を彼らの標準において、彼らの友となったのである。それは(なんとかして幾人かを救うためで、(22,ローマ11・14)、(福音のために、わたしはどんな事でもする)という(23)。ここに彼の謙遜と熱心が表れています。伝道者は勿論であるが、誰に向かっても福音をあかししてその魂を救おうと心がける者は、この愛による

同化性を持たなければならない。この愛のある者だけが人をとらえる。

 1コリント9・19~27節を見て下さい。この終わりには、勝利者となることを、競技の例を引いて勧め、自分の克己の模範を示しています(24~27)。当時オリンピックと同様の競技が2年ごとにコリント市郊外で行われ、全ギリシャを熱狂させた。それに加わる選手は、10ヶ月も前から特別に克己節制して練習し準備しあったという。まして霊界の競技場で

勝利の月桂冠は、朽ちない、いのちの冠である(25)、わたしたちの信仰生活や奉仕は、目標にない競争ではなく、必ず上からの賞与がある(フィリピ3・14)。私達の信仰の戦いは(信仰生活と奉仕は戦いである)、空を打つような拳闘ではなく、(26)、目に見えない敵が現実に存在する。これを思う時、緊張しないわけにはいかない。ことに克己自制の必要がある(27)。(服従させる)とは、「奴隷として引きずり回す」というような言葉で、肉体の欲や安逸に機会を得させないために、これを征服すべきことを言う。そうしなければ、審査に合格せず、賞を得ることが出来ない。パウロは自らを(すべての人の奴隷)にしただけでなく絶えず用いられる器となるために、主人が奴隷を打ったように、(自分の体を打ちたたいて服従させた(27)。パウロにはキリストの愛から離れさせられる恐れは少しも無かったが(ローマ8・38~39)、用いられる器としての特権を奪い去られることを恐れて、大いに刻苦勉励したのである。真の愛とは、外側から相手に与える同情ではなく、相手の立場に自分を置いて、相手と同じ気持ちで物を見たり、感じたりすることである。これはとても自分の力ではできることではありません。賜物として神から与えられる愛に根ざしてのみできることであります。パウロはこの愛を求めるようにと私達に命じています。(1コリント14・1p317)

結び

もう1度9・24~27節を見て下さい。ここに自分に対する厳しさここでパウロは、福音の宣教者が、福音を伝えられて救われた者と共に救いの完成を目指して努力すること、つまり自己訓練をすべきことをといています。パウロが、救われた者が、救いの完成をめざして努めることである。(ローマ8・23,フィリピ3・21)。パウロは信仰生活には、克己の精神が必要であることを述べています。コリントもギリシャ都市で、スポーツははなやかであった。全国から青年男女が集まって、栄冠を競うた。競技の種目はランニング、跳躍、円盤投げ、レスリング、拳闘の類いであったと言われる。市民はこれらのことをよく知っていた。その出場選手の全てが、栄冠を得るのではない。優勝者はただ1人である。同じように、キリスト者も、万人注視の中に、信仰生活のコースを走っている。しかし用心しないと、途中で落伍する者もでる。だから、最後に主より栄えの冠りを受ける者となるためには、心して励み努めなければならない、パウロは自分は朽ちない冠を目指して走っている。その目標ははっきりしている。これはパウロの確信であった。信仰生活において打つべきところはどこであるか。それは他でもない。「自分のからだ」であるすなわち、肉の欲を制して、霊の力に従わせることである。そうでないと、口先でどんなに立派なことを

説いても、生活がそれに伴わないと、多くの人をつまずかせ、主を裏切ることになる。こうして最後の審判の日に、「失格者」の烙印押されて、外にすてられるであろう。その恥と悲惨を思うべきである。私達は信仰だけで救われる。しかし、その信仰は生ける信仰でなければならない。生ける信仰には、生ける生活が必ず出てくるはずであります。それはまことに緊張した不断の努力でなければならない。

最後にエリックのことについてこのToKYOの大会の歴史と物語のなかp13からp34引用します。

福音宣教の喜び」2021・6・20説教要旨

朝位真士

今日は1コリント9章1~18節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの9章全体を伝道者の権利と克己。福音宣伝の責任。勝利者の節制と語って、1~3パウロの使徒たること。4~6使徒としての彼の権利と自由。7~15伝道者の生活に関する律法の与える権利と、パウロの自己放棄。16~18彼の福音宣伝の責任と報い。19~27真の奉仕と報い。

19~23人をキリストに導くための奴隷的態度。24~27勝利の冠を得るための彼の克己の生涯と分解しています。

1コリント9・1~18節を見て下さい。パウロには、使徒として教会からの供給を受けて生活し、また他の使徒のように妻を持つ権利と自由があるはずであり(4~5)、天幕造りをして働きながら自給伝道をする必要はないはずであった(6、使徒18・3)。福音を宣べ伝える者が福音によって生活することは当然の事であり(14)、伝道者が信者から物質上の供給を受けることは当然の権利であり、霊の恵みを与えて肉体に必要な物をもって報いられることは決して分に過ぎたことではない(7、11)。これは律法の示す権利であり、神の定められた道である(8-10、13,14)。けれどもパウロはこの当然の権利さえ放棄して、天幕造りの労働をしながら、伝道したのは、福音の宣教の業にいささかも妨げにならないようにとの心からであった(12,15)。パウロが福音宣教のためにこれほど大きな克己犠牲の生活を送った精神は、私達すべての伝道者が見習わなければならない。伝道者が当然の権利を用いずに、

克己犠牲の生活を送って奉仕に専念し、信者は聖書の命じるように伝道者を敬い尊び、その労をねぎらい、豊にそれを報いる心があってこそ、教会は進歩し、強固に発展するのであります。パウロは、福音宣教の大使命のために選ばれ、主に捉えられたものであります。好むと好まざるとにかかわらず、その責任を免れることはできない。熱心に宣べ伝えたからといって誇るべきことはなく、怠れば実に災いであるという(16,17)。彼はそのために使徒としての権利を用いないばかりか(12)、むしろすすんですべての人の奴隷となった。それはできるだけ多くの人を主に導くためであると言っています。この9章1~18節はパウロの誇りを語っています。16節を見て下さい。「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、わたしがどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」と言っています。つまり福音宣教は神によって課せられたパウロの義務であったのです。このように、パウロが使徒であることの証拠は、彼のあり方そのものに現れていますが、特にキリストの福音宣教を神から委託されていること(17)と、「私の働きに実」(1)であるコリント教会の存在であった。

結び

もう1度8・15~18節を見て下さい。

パウロは生活の料(しろ)を得るためでなく、ただ福音を伝えた。しかし、福音を伝えること自体を別に誇っていない。何故ならば、それはパウロにとってやむにやまれないことであったのである。彼は、神によって、福音宣教のために捕らえられていた(フィリピ3・1から11節p364)もしそれを怠るならば、神の御心に反し、自分の使命に不忠実となる。そうなれば実に災いである。こうして、狂える者のように、ひたむきに伝道の業に励んだのである。パウロは物質的報酬を受けずに伝道した。それでは、伝道には、何も報いはないかといえばそうではない。伝道それ自身が報いである。そして他人に経済的負担をかけずに働くことの中に、大いなる誇りがあり、喜びがある。彼が求めたものは、物質的援助ではなく、福音宣教からくる内なる喜びであり、高い誇りであったことがわかります。最後に付け加えておきたいことは9・4~9節を見て下さい。パウロはここに1つ1つ権利を挙げています。1・教会より経済的支持によって生活することをさしています。2・妻帯の権利をいっています。3・

第1のものを別の言葉でいっただけであります。パウロ自ら天幕造りをしながら伝道した(使徒18・3)働く伝道者に、権利のあることを裏書きしています。伝道者が教会より経済的援助をうけることは、むしろ当然ありますが、パウロはあえてその権利を使用しなかった。旧約聖書申命記25・4引用ですが、牛でさえ、働く時には、食を得ることが出来る。それが神の律法であるならば、神の為に働く人が、その報酬をえることは当然といわねばならない。

けれどもパウロは自給伝道したのであります。それは個人によって色々です。私の場合は九州では会堂建設のため妻フミ子牧師が音楽教室をしてその月謝を会堂献金に献げました。皆さんも会堂建築のため信者の皆さんが多額の献金を献げられたのです。そして今日このような立派な音響装置の完備した礼拝堂でチャペルコンサートーに岸先生やベアンテ先生や高田先生などの音楽関係のプロの方々をお呼びすることが出来て感謝です。