「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/8/13  週報メッセージ

「はかりしれない愛」 (エフェソ書 3:14-21) 

ひとまず「ヨハネ福音書の七つのしるし」を終了し、今月から「愛」について、何回かにわたるシリーズで考えていきます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。「ここにある」神の愛は聖書を通して、十字架を通して知る愛です。人間の罪を救うために、御子イエスは地上に来られ、十字架にお架かりになりました。これが「神の愛」です。

とはいうものの「神の愛」「十字架の愛」とは、何のことか理解に苦しむものですが、一面、救いを信じる私たちの心に、気高さといたわりをもって迫るものでもあります。現代の社会において、「愛」という言葉が氾濫していますが、私たちキリスト者は「神の愛」に焦点を合わせて学んでいきましょう。

エフェソ書では、パウロは獄中から、元気をなくしたエフェソの教会の人々に手紙を書き、今一度奮い立って「愛に根ざし、愛に立つ」ようにと励ましています。パウロは「キリストの愛」は「人知をはるかに超えた愛」 (19)であり、その愛を「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」の視点から表現しています。

パウロはエフェソの人たちのために祈ります。「内なる人が強められるように」「キリストが内住するように」「神の愛をもっと知るように」「霊にあって満たされるように(成熟するように)」。これは同時に私たちの祈りの目標です。

私たちは日々の忙しさ、この世の営みに心を奪われて「神の愛を知ること」がおろそかになっていないでしょうか。

8/6 山本師 説教)

2023/7/30 週報メッセージ

「有能な人より有益な人に」 (フィレモン 8-22) 

パウロは、コロサイ教会の有力な信徒であるフィレモンの家から逃亡した奴隷のオネシモを赦して、主にある兄弟として受け入れて欲しいと、フィレモンに依頼しています。今やオネシモは役に立つ人、有益な人になったといっています。新約聖書の中で役に立つ人、有益な人として紹介されているのは、オネシモとマルコの二人だけです。しかし、この二人はいずれも、過去において大失敗をした人でした。しかしパウロやバルナバの愛の導きによって、役立たずの者から、役に立つ者へと変えられていったのです。聖書は、有能な人ではなくても、周りの人を慰め、励まし、温かく覆い包むような人となることを勧めています。その人の周りには、いつも平和があり幸せな空気が流れている。有益な人とはそういう人のことです。有能な人は自分の内側にあるものによって仕事をします。しかし有益な人とは、自分を超えたもの、神様から与えられるものによって仕事をします。神様にしっかりと繋がれて、神様の恵みの中で喜んで生きているならば、その人がそこにいるだけで周囲に慰めと励ましの輪が広がるのです。逃亡奴隷であったオネシモは、後にエフェソの教会の優れた監督として、多くの教会員から尊敬される者へと変えられていきました。当時、エフェソの教会においてパウロの手紙が集められ、書簡集として編纂されることになりました。フィレモンへの手紙には、オネシモが盗みを働いて主人の家から逃亡した奴隷であったということが記されています。オネシモにとっては、覆い隠したいような暗い過去の出来事です。それにも拘らず、オネシモはこの短い手紙を書簡集に是非加えたいと強く願いました。自分に注がれた神様の恵みの大きさをすべての人に知ってもらいたいと強く願ったからです。 (7/23 柏師説教から)

2023/7/16 週報メッセージ

「神の業が現れるために(2)」(ヨハネ 9:13-41) 

ヨハネ書9章の前半は、主イエスが生まれつき目の見えない人を癒やす話でしたが、後半では、もっと大切なこと、すなわち霊の目が開かれる話が展開されていきます。

その日は安息日でした。ファリサイ人たちは、盲人の目を癒やしたことはともかく、安息日を守らなかったことに腹を立て、怒ったのです。ファリサイ派の人たちは、形式的な律法解釈にこだわり、心がかたくなになり、神の業(神の栄光)が見えなくなっていました。ヨハネ書は「安息日にとらわれて、神の業を喜ばない」ファリサイ派の人たちのかたくなな罪を指摘しているのです(41)。

一方、盲人だった人は、執拗な、誘導的な尋問を通して、逆に目が開かれるように、イエスに対する認識が「人」から「神の子」へと変わっていったのです。

苛立ったファリサイ人たちは、癒された盲人を外に追い出します。彼を追放します。ユダヤ人社会から破門にします。もうシナゴーグで神を礼拝することはできません。正しいことを貫いたゆえに、このような辛い目にあうのです。しかしここから彼の新しい人生が始まるのです。

イエスは会堂から追放された盲人に会うために来られた。再会した盲人は、イエスを「主」と知り、ひざまずき、「主よ、信じます」と感謝を込めて信仰告白をしたのです。盲人だった人は肉体の目ではなく、霊の目も開かれ、主イエスに出会ったのです。

ヨハネ書は、七つのしるしの六番目のしるしを通して、霊の目が開かれることの大切さを強調しています。

私たちも霊的なことに対して無知で、鈍感で、盲目ではないでしょうか。いっそう謙遜になって目が開かれるよう祈っていきましょう。

(7/9  山本師説教から)

2023/7/9 週報メッセージ

「神の業が現れるために(1)」 (ヨハネ 9:1-12) 

七つのしるしの6番目を学びます。この6番目と7番目は「七つのしるし」の中で特に大切なものです。

この6番目の物語は、生まれつきの盲人の目がいやされるというお話しですが、このテーマは「目が開かれること」です。目の見えない盲人が、肉眼のみならず、霊の目が開かれていく様子が詳細に語られています。

「この人が生まれつき目が見えないのはどうしてですか」との疑問は、弟子たちだけでなく、当時の人々の共通するものでした。因果応報という考えが支配していました。目の障害(結果)は、本人の罪か両親の罪が原因していると考えました。私たちの中にも、障害・災い・不幸があると、原因を追及したり、だれかを批判したり、環境のせいにしたりする傾向がないでしょうか。

イエスさまは、「だれの罪のせいでもないんだよ」と因果応報をきっぱりと否定されました。そうではなく「神の業が現れるため」と宣言され、即座にみ業を行われたのです。「神の業」とは「神の恵み、憐れみ、信仰、救い、いのち」です。この盲人は、生まれたときから、本人や両親に罪があるからと決めつけられ、神に見捨てられた罪人として、いわれなき苦しみを背負ってきました。主イエスの言葉は、思いもかけない、驚くべき言葉でした。

生まれながらの障害については、だれにもその原因はわかりません。神の目から見て、なぜこのような障害があるのか、神のみ業がどのように表れているかを考えていくことが求められています。星野富弘さん、レーナ・マリアさん、水野源三さんらは、重い障害を負いながら、なんと驚くべき豊かな人生を送られたことでしょう。すべて「神の業が現れるため」です。

最後に冒頭で、この物語のテーマは「目が開かれること」とお話しました。聖書は私たちの目が盲目であることをたびたび強調しています。私たちは霊の目が開かれるように日々、求めているでしょうか。 

(7/2  山本師説教から)

2023/7/2  週報メッセージ

「わたしだ。恐れることはない」 (ヨハネ 6:16-22) 

 

再び、ヨハネ書の「七つのしるし」を学んでいきます。今回は五つ目の「湖の上を歩くイエス」の話です。弟子たちを乗せた舟は逆風と高波のため進むことが出来ず、真っ暗な湖上で何時間も立ち往生していました。そこにイエスが湖の上を歩いてこられたという話です。

「こんな話はバカバカしい」「ありえない」と否定したり、軽視したり、飛ばしたりすることはないでしょうか。ついつい私たちは聖書の中の不可能、不可思議、不自然、疑問、神秘的と思われる出来事につまずきやすいのです。この「しるし」が,当時の人々に、そして現代の私たちに何を意味し、何を伝えようとしているかを読み取ることが大切です。

舟内には漁師の経験のある弟子たちも混じっていましたが、逆風と高波は彼らの経験、知恵、力をもってしても、なすすべがありません。コントロール不能の状態におちいっていました。不安でおびえ、助けを求める弟子たちに、主イエスは近づき、「わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださいました。それは主の懐かしい、力強い言葉でした。イエスを舟に迎え入れると、嵐はやみ、平安と安心が与えられたのです。

私たちの人生においても、おしよせる困難を前にして、一歩も前に進めない、先の見通しが立たない、不安や焦り、悲観が覆うことがあります。こんな時こそ、その信仰が試され、鍛えられるときです。また主を近く感じるとき、主の恵みと御心を発見できるとき、主とお会いできるときなのです。「わたしだ。恐れることはない」とのみ言葉を待ちましょう。このみ言葉が、つねに私たちの信仰の支えとなるように記憶しましょう。 (6/25  山本修一説教から

2023/6/25 週報メッセージ

「神の言葉はつながれていない」 (Ⅱテモテ 2:1-13) 

 

1942年の6月26日の早朝、全国のホーリネス系諸教会の教職が、治安維持法違反の嫌疑をかけられ一斉に検挙されました。81年前のホーリネスの弾圧という出来事が、現代に生きる私たちにどのようなことを教えているのかを、テモテへの手紙二の御言葉から学びたいと思います。

殉教の死が迫っているパウロは、息子に遺書を書き残すような思いをもって愛弟子のテモテに「わたしの子よ、あなたは、キリスト・イエスにおける恵みによって、強くなりなさい」と語り掛けています。私は今、獄につながれている。テモテよ、お前はそのことの故に気弱になっているかも知れない。そのことを恥じているかも知れない。しかし、どうか恥じたりしないでほしい。なぜなら私は主によって捕らえられているのだから。弾圧に遭ったホーリネスの牧師は、決して華やかな英雄ではありません。苦しみ、悩み、涙し、時には恥ずかしい思いを忍びながら、必死に生き抜かれたのです。キリスト者の生き方は、世間から見て要領の良い、いわゆる得な生き方ではありません。馬鹿正直で損な生き方。時には不器用な生き方と見られるかもしれません。しかし、そんな生き方を恥じることはないのです。弾圧に遭った牧師たちは、極限状態にあっても御言葉の恵みに支えられて耐えることが出来ました。獄中にあっても御言葉は先生方を守り続け支え続けたのです。まさに神の言葉はつながれていなかったのです。家族から隔離されても、教会を奪われても、拷問を受けても、命の危険に晒されても、御言葉が与えられていたから耐えられたのです。米田豊牧師は「獄中の感」としてこういう言葉を残しています。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。この短い言葉に、神の言葉に生きる者の幸いのすべてが込められています。                             

(6/18 柏 明史師 説教から)

2023/6/18  週報メッセージ

「まさにこの人こそ」(七つのしるし④

                       (ルカ 6:1-15)

 

7つのしるしの4番目は、「五つのパンと二匹の魚」の物語です。この物語は4つの福音書すべてに登場する重要な物語です。

五千人の給食のしるしはどこでなされたのでしょう。共感福音書(マタイ・マルコ、ルカ)によれば「人里離れた所」であり、ヨハネによれば「山」でありました。「人里離れた所」とは、原語では「荒野」(エレーモス)です。主イエスが洗礼後、サタンの誘惑を受けられたところです。聖書のいう「荒野」とは、単なる自然の荒れ地をいうのではなく、「人に頼ることのできない、神にしか頼ることのできない場所」を意味しています。現代の私たちも、人に依存しない、神にのみ依存せざるを得ない「荒野」に立っていることを自覚したいものです。これは信仰の第一歩です。

この物語では主の弟子たちの不信仰が問われました。フィリポは、五千人以上のパンをまかなう店も、それを買う金もない(7)…、アンデレもたった五つのパンと二匹の魚ぐらいでは、焼け石に水だ…と思いました(10)。これは私たちの「見える世界」の合理的(常識的)な判断です。見える世界に支配されている人々は、その解決を見える方法の中に見出そうとします。しかしイエスのとられた方法は、「ことば」でした。ベトザタの池で38年間病気だった人を、王の役人の子どもを、癒やされたのは主のおことばによるものでした。

人々は、この大きなしるしを見て、イエスを何者ととらえたかがこの物語のテーマなのです。 人々はイエスを預言者だ(14)といい、政治的な王、民を満腹させてくれるメシヤに立てようとしました。人々はポイントがずれ、イエスを正しくとらえることはできませんでした。ヨハネは力説します。まさにこの人こそ、メシヤ、救い主である…と。

(6/11 山本修一師説教から) 

2023/6/11 週報メッセージ

「事実・真実・メッセージ」(ルカ 6:1-15) 

(多く赦された人は多く愛する

毎年、6月第一聖日の記念日礼拝に桜ヶ丘教会に招かれています。もう20数年にもなります。昨年も朝位真士先生は駐車場まで見送って下さり、「来年もお願いします」との申し出を受けました。それがどうしてこのようになった(朝位師の召天)のでしょうか。

この「罪深い女が涙でイエスの足を洗ったという物語」は、絵画史上では、美しい聖画として、イエスを愛する献身的女性の姿として描かれています。しかし理解に苦しみ、奇妙で、受け入れがたい事実でありました。決してそんなに美しい絵のごとき現実ではなかったのです。

この女性は多くの人々の突き刺すような視線と軽蔑を感じながら、イエスの足下に座りました。イエスはファリサイ派の人たちから歓迎されて家に入ったわけではなく、大きな陰謀の中で食卓に着いたのです。

私たちは信仰の心でこの話を受け止める必要があります。罪の女は、イエスによって罪が赦されることを知っており、イエスの前で涙を流しました。自分が犯した深い罪を赦していただくためにイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐったのです。聖書は言います。「多くを赦された人は多く愛する」と。 私たちは事実の中に真実を見出し、真実の中から神さまのメッセージを聞くのです。

「私は高校受験に失敗し、やむなく失敗した生徒の集まる高校に入学しました。しかし理科と数学がさっぱり分からず、一学期と一日で退学しました。絶望的で、みっともない、情けない思いを引きずりつつ、必死に祈りました。あるとき主から恵みの雨が降り注ぎ、一週間続きました。後にも先にもない大きな恵みの経験でありました。このとき牧師になる決心がつきました。以来66年間、一度も後ろを振り返ることなく、主に仕えてきました。私は他のことは何も知らない人間ですが、そのつど教会の優秀な人々に支えられて来ました」

(6/4 岸義紘師説教  代筆山本)

2023/6/4 週報メッセージ

「霊的な救い」 (マルコ 5:1-:20) 

悪霊に取り憑かれ、正気を失っていた人を、主は救われました。主は悪霊を、この人から2000匹の豚の中に移したことで、悪霊から解放されました。悪霊はレギオンという名。大勢いた。たくさんの悪霊が一人の人を苦しめていたのです。

ここでいう「大勢」とは、豚2000匹の飼主、養豚で利益を得ている人、その税収入で支えられていた町全体を指します。また大勢とは国家のことであり、社会であり、この世の営みのことでしょう。彼らが生きるために、彼らの罪を一人の男に背負わせて世の隅っこに閉じ込めていました。

大勢の社会に馴染めない人がいます。また無理をして社会に合わせようとするために、自分らしさを失って病んでいる人がいます。「正気に戻る」とは、たとえ大勢の人とうまくやれなくても自分らしく生きられるようになった人のことではないでしょうか。99匹と迷子の1匹の羊のように主イエスは1匹の救いのために命を犠牲にされました。主イエスは大勢の人に捕らえられ十字架で死なれました。一緒に十字架にかけられて悔改めた罪人に対して「今日、あなたはわたしと共にパラダイスにいる」と語られました。神は個の救いをまず大事されます。

大勢の99匹だけでは欠けています。1匹のピースが嵌ってこそ100%(完全な救い)となります。自分らしさを失ったあなたが救われることを神は願っておられます。

その1匹を教会は迎え入れるのです。社会に馴染めない人も、教会に溶け込めない人もゆるく受け容れるのです。その1匹に大勢の罪を担わせ、追い出してはいけないのです。なぜなら、主イエスが全ての人を十字架で担い、全ての人の罪を赦して下さったからです。あなたの魂が、わたしの魂が主によって霊的に救われることが人生で最も大切なことではないでしょうか。

(5/28 川崎信二師 説教)

2023/5/28 週報メッセージ

「注がれる愛」 (エレミヤ 31:20、ホセア11:8) 

義なる神様は、ご自分に背き、異教の神々を礼拝するイスラエルの民を、裁かざるを得ません。そのことを怒り、そして深く嘆かれます。エレミヤ書は、1章からずっと、神様の怒りと裁きについて語っています。しかし31章に入りますと、今までの裁きの言葉が消えて、慰めに満ちた愛のメッセージが語られています。神様は、罪を犯し続けるイスラエルを、裁かなければならない。しかし、裁けば裁くほど、イスラエルに対する神様の思いは、更に深まるというのです。「彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられない」(31章20節)。この「胸は高鳴り」という言葉を、ある英語の聖書は「my heart is broken」 と訳しています。裁かれる者ではなく、裁く神様の方が、胸が張り裂けるばかりに苦しまれているのです。神様は、罪を犯して裁きを受けなければならない弱い私たちを、どうしても見捨てておくことが出来ないお方なのです。

ホセアという預言者も、イスラエルを裁かなくてはいけない神様の愛と苦しみを預言しました。ホセア書11章8節は、裁きの神が愛の神と戦われ、苦しまれているお姿を語っています。「憐れみに胸を焼かれる」という言葉を、ある英語の聖書は、「my love for you is too strong」と訳しています。「あなたに対する私の愛は、強すぎる」というのです。強すぎる愛の故に、神様は苦しまれるのです。心の向きを強引に変えて、裁きを愛に替えてくださったのです。この神様の愛と苦しみは、主イエスの十字架において、その頂点に達しています。主イエスの十字架は、神様が愛と裁きのジレンマの中で苦しまれた、その究極のお姿を示しています。十字架は、神様の怒りに神様の愛が勝利した場所なのです。十字架の苦しみ。それは、私たちのことを見捨てることができない、神様の激しいばかりの痛みなのです。

(5/21 柏明史師 説教)