「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/6/11 週報メッセージ

「事実・真実・メッセージ」(ルカ 6:1-15) 

(多く赦された人は多く愛する

毎年、6月第一聖日の記念日礼拝に桜ヶ丘教会に招かれています。もう20数年にもなります。昨年も朝位真士先生は駐車場まで見送って下さり、「来年もお願いします」との申し出を受けました。それがどうしてこのようになった(朝位師の召天)のでしょうか。

この「罪深い女が涙でイエスの足を洗ったという物語」は、絵画史上では、美しい聖画として、イエスを愛する献身的女性の姿として描かれています。しかし理解に苦しみ、奇妙で、受け入れがたい事実でありました。決してそんなに美しい絵のごとき現実ではなかったのです。

この女性は多くの人々の突き刺すような視線と軽蔑を感じながら、イエスの足下に座りました。イエスはファリサイ派の人たちから歓迎されて家に入ったわけではなく、大きな陰謀の中で食卓に着いたのです。

私たちは信仰の心でこの話を受け止める必要があります。罪の女は、イエスによって罪が赦されることを知っており、イエスの前で涙を流しました。自分が犯した深い罪を赦していただくためにイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐったのです。聖書は言います。「多くを赦された人は多く愛する」と。 私たちは事実の中に真実を見出し、真実の中から神さまのメッセージを聞くのです。

「私は高校受験に失敗し、やむなく失敗した生徒の集まる高校に入学しました。しかし理科と数学がさっぱり分からず、一学期と一日で退学しました。絶望的で、みっともない、情けない思いを引きずりつつ、必死に祈りました。あるとき主から恵みの雨が降り注ぎ、一週間続きました。後にも先にもない大きな恵みの経験でありました。このとき牧師になる決心がつきました。以来66年間、一度も後ろを振り返ることなく、主に仕えてきました。私は他のことは何も知らない人間ですが、そのつど教会の優秀な人々に支えられて来ました」

(6/4 岸義紘師説教  代筆山本)

2023/6/4 週報メッセージ

「霊的な救い」 (マルコ 5:1-:20) 

悪霊に取り憑かれ、正気を失っていた人を、主は救われました。主は悪霊を、この人から2000匹の豚の中に移したことで、悪霊から解放されました。悪霊はレギオンという名。大勢いた。たくさんの悪霊が一人の人を苦しめていたのです。

ここでいう「大勢」とは、豚2000匹の飼主、養豚で利益を得ている人、その税収入で支えられていた町全体を指します。また大勢とは国家のことであり、社会であり、この世の営みのことでしょう。彼らが生きるために、彼らの罪を一人の男に背負わせて世の隅っこに閉じ込めていました。

大勢の社会に馴染めない人がいます。また無理をして社会に合わせようとするために、自分らしさを失って病んでいる人がいます。「正気に戻る」とは、たとえ大勢の人とうまくやれなくても自分らしく生きられるようになった人のことではないでしょうか。99匹と迷子の1匹の羊のように主イエスは1匹の救いのために命を犠牲にされました。主イエスは大勢の人に捕らえられ十字架で死なれました。一緒に十字架にかけられて悔改めた罪人に対して「今日、あなたはわたしと共にパラダイスにいる」と語られました。神は個の救いをまず大事されます。

大勢の99匹だけでは欠けています。1匹のピースが嵌ってこそ100%(完全な救い)となります。自分らしさを失ったあなたが救われることを神は願っておられます。

その1匹を教会は迎え入れるのです。社会に馴染めない人も、教会に溶け込めない人もゆるく受け容れるのです。その1匹に大勢の罪を担わせ、追い出してはいけないのです。なぜなら、主イエスが全ての人を十字架で担い、全ての人の罪を赦して下さったからです。あなたの魂が、わたしの魂が主によって霊的に救われることが人生で最も大切なことではないでしょうか。

(5/28 川崎信二師 説教)

2023/5/28 週報メッセージ

「注がれる愛」 (エレミヤ 31:20、ホセア11:8) 

義なる神様は、ご自分に背き、異教の神々を礼拝するイスラエルの民を、裁かざるを得ません。そのことを怒り、そして深く嘆かれます。エレミヤ書は、1章からずっと、神様の怒りと裁きについて語っています。しかし31章に入りますと、今までの裁きの言葉が消えて、慰めに満ちた愛のメッセージが語られています。神様は、罪を犯し続けるイスラエルを、裁かなければならない。しかし、裁けば裁くほど、イスラエルに対する神様の思いは、更に深まるというのです。「彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられない」(31章20節)。この「胸は高鳴り」という言葉を、ある英語の聖書は「my heart is broken」 と訳しています。裁かれる者ではなく、裁く神様の方が、胸が張り裂けるばかりに苦しまれているのです。神様は、罪を犯して裁きを受けなければならない弱い私たちを、どうしても見捨てておくことが出来ないお方なのです。

ホセアという預言者も、イスラエルを裁かなくてはいけない神様の愛と苦しみを預言しました。ホセア書11章8節は、裁きの神が愛の神と戦われ、苦しまれているお姿を語っています。「憐れみに胸を焼かれる」という言葉を、ある英語の聖書は、「my love for you is too strong」と訳しています。「あなたに対する私の愛は、強すぎる」というのです。強すぎる愛の故に、神様は苦しまれるのです。心の向きを強引に変えて、裁きを愛に替えてくださったのです。この神様の愛と苦しみは、主イエスの十字架において、その頂点に達しています。主イエスの十字架は、神様が愛と裁きのジレンマの中で苦しまれた、その究極のお姿を示しています。十字架は、神様の怒りに神様の愛が勝利した場所なのです。十字架の苦しみ。それは、私たちのことを見捨てることができない、神様の激しいばかりの痛みなのです。

(5/21 柏明史師 説教)

2023/5/21 週報メッセージ

「母さん、ありがとう」 (エフェソ 6:2-3)

 

  本日は、ご一緒に母の日礼拝をささげましょう。皆様は「お母さん」に対して、どんな思い出を持っておられることでしょうか。

 父にではなく、母にしか流せない涙があります。子を思う母の涙です。家族の救いのために母にしか出来ない愛の姿があります。私たちは母の祈りによって、涙によって育てられました。教会もこの母たちの涙の祈りに支えられているのです。

  この時代が急激に変化し、ものの見方・考え方・価値観が大きく変わってきています。家族観、夫婦観、母性観も揺らいでいます。

ところで聖書の教えるものは古い、時代とマッチしない…と考える人がいます。そうでしょうか。聖書はいつの時代であれ、変わらないもの、変えてはならないものがあることを伝えているのです。

 パウロは「父と母を敬うこと」は、すべての人間関係において、基本中の基本として「最初の掟」と考えたのでしょう。「父と母を敬う」こと、母の愛に感謝することは、いつの時代であれ、どこの国であれ不変な真実です。

 聖書の中には、わが子のために、涙ながらに祈る母が、何人も登場します。モーセの母ヨケベド、サムエルの母ハンナ、イエスの母マリア…これらの母親たちの信仰と祈りが、生きざまが、子どもに大きな良き影響を与えたと考えられるのです。

  歴史的に有名な母といえば、古代の神学者アウグスティヌスの母モニカでしょうか。手塩をかけて育てた息子が、キリスト教信仰に反発し、母の元を去り、放蕩生活をし、肉欲におぼれ、異端のマニ教に走ったのです。モニカはひたすら祈りました。日々涙の祈りをささげました。「現代のモニカ」にとって「涙の祈りはきかれる」(イザヤ38:5)という信仰、「涙の子は滅びない」という祈りを深く教えられるのです。       (5/14山本師 説教)

2023/5/14 週報メッセージ

「起き上がりなさい」 (ヨハネ書  5:1-18) 

  今週から、ふたたびヨハネ福音書から「七つのしるし」を学んでいきます。今回は三番目のしるしです38年間も病気で苦しんできた人が、イエスの命令によって起き上がったというしるしです。

  38年間病気だった人は、ベトザタ池の言い伝え(伝説)は信じていましたが、イエスを信じていたわけではありません。イエスに近づき、癒やしを求めたわけでもありません、癒やされたときも、祭の時であったとはいえ、イエスへの感謝の一言もありません。安息日の律法違反の罪を問われるとイエスに押しつけました。…どうみても自分のことしか見えない、非常識な人です。

  この第三のしるしでは、その人に信仰があったかどうかではなく、癒やし主がどのようなお方であったかに力点が置かれています。最初から最後まで、イエスが主導権を持って、この人に憐れみをそそがれました。ベトザタの池に行かれたのも、その男に近づき、声をかけられたのも、癒やされたのもすべてイエスの一方的な「憐れみ」によるものでした。この池が「ベトザト」(あわれみの家)という名前であったのもそのためでしょうか。

  私たちはしるしを求めることによって神を信じることができると思いやすいのですが、そうではなく、神の言葉を信じることによって、神のしるしを見ることができるのです。

  最後に、イエスから私たちに「良くなりたいか」「変えられたいか」と問うておられます。私たちの信仰生活がずっとかたちだけで、とどまっていることはないでしょうか。私たちは今一度、信仰生活が良くない状態にあるという自覚があるか、良くなりたいという願望があるか、本気で良くなりたいという意欲があるかを点検して見ましょう。

(5/7山本師説教)

2023/5/7  週報メッセージ

「あなたはわたしを愛するか」 (ヨハネ書 21:15-19

山本修一

  今週もヨハネ書21章から学びます。21章は、不思議な章です。ヨハネ書は20章の終わりの結びの言葉で完結し、21章でまた新しく始まっているようです。この謎は後世の人が編集加筆したものと考えられています。それにしても21章は、20章と並んで、ヨハネ書の中でもっとも重要な章といわれています。21章は、主イエスの復活は幻影・幻想ではなく、現実であったことを決定的に示すものとして付け加えられたと考えられているのです。

 主イエスの「あなたはわたしを愛するか」という質問が、なぜ三度もくり返されたのでしょうか。

ペトロは十字架前に、臆病で不信仰であったために、イエスを否認して、その場から逃亡しました。しかし彼の心は深く傷つき、痛みを味わっていました。主イエスは、ペトロが立ち上がり、羊の群れを牧するように、ペトロの悪夢のような記憶を癒やし、愛の呼びかけをなされたのです。ペトロは三度主を否定したのですが、主はペトロに三度も愛の応答をさせたのです。この神さまに対する愛の確認によって、ペトロの心は癒やされ、霊的に回復したのです。

ペトロは、その後、初代教会の指導者として、立派にその役割を果たしていくことになります。教会も、そこから大きく成長していくのです。(使徒2~5、10~12章)。

  私たちは、「目に見えない神さまを全力を尽くして愛する(マル12:30)ことなど、どうしてできるのか」と、初めから諦めてしまっていることはないでしょうか。将来のことではなく、過去のことでもなく、主イエスは「今」、私たちの気持ちはどうなのかと呼びかけておられるのです。(4/30 山本修一師 説教から)

2023/4/30  週報メッセージ

山本修一

「新しい時代に生きる」 (ヨハネ書 21:1-15)

  主イエスの復活によって、世界は、新しいキリスト教の時代に入りました。新しい時代に生きるとは、古い生き方、肉の生活、律法的な生き方にしばられることなく、イエス・キリストに結ばれて、日々、新しく創造されること(ガラ 6:15)なのです。ヨハネ21章を通して、復活の主との出会いから、弟子たちの信仰がどのように大きく変えられていったかを学びましょう。

第1は、七人の弟子たちは、「主がおられない現実」をひしひしと味わったことです。自らの経験と力で、夜通し、懸命に網を打ち続けたのですが、結局 一匹もとれませんでした。これは主イエスが「不在」だったことをあらわしています。イエス様と離れて生きることのむなしさ、無力さを徹底的に味わう時でした。

第2は、「何もとれなかった現実」です。私たちの信仰や伝道において、一 生懸命、努力したものの、何も結果が出ず、信仰のむなしさ、宣教の愚かさを感じる時があります。イエスさまのお言葉を聞き「舟の右の方に網を下ろす」と大漁でした。み言葉に従うときに、私たちの思いを超えて、「できない者」 が「できる者」とされていくのです。

第3は、「主の食卓に招かれる」体験です。復活の主は湖畔で、食事を用意し、招いて下さいました。寒く、むなしく、惨めだったのが、本当の主と共にある喜びを味わったのです。信仰とは、私たちが努力して主を食卓にお招きすることではなく、主が招いて下さる招きに応じることです。

最後に、私たちはだれも「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じ、……すばらしい喜びに満ちあふれている」(Ⅰペトロ 1:8-9)。私たちも復活の主との体験を重ねていきましょう。(4/23山本修一師説教から)

2023/4/23  週報メッセージ

「イエス様と呼ぼう」 (使徒言行録  4:5-14)

山本修一

  ペトロとヨハネが生まれながらに足の不自由な男を癒したことが知れ渡り、 エルサレム中が大騒ぎになりました。ユダヤの最高議会はペトロとヨハネを捕らえて「誰の名によって、何の権威によって、ああいうことをしたのか」と尋問しました。これに対してペトロは力強く答えました。「この人が癒されたのは、あなた方が十字架につけて殺し、神様が復活させられたイエス・キリストの名によるのです。ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。ペトロは聖霊によって、主イエスの十字架が自分の身代わりの死であったことを知らされました。もし誰かが自分の身代わりになったら、その人は強く生きざるを得ません。ペトロは十字架と復活の恵みに押し出されて堂々と語りました。「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか人間には与えられていない。」これはペトロ自身の救いの体験から発せられた信仰告白です。背き続ける私たちを滅ぼすのではなく、逆にご自身が私たちの罪を代わって負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった神様。そんな神様は、このお方、イエス・キリストの他には絶対にいない。ペトロはそう断言しているのです。物事がうまく進んでいる時には、人間は様々な名によって生きることが出来ます。しかし八方塞りの中でも呼ぶことの出来る名は多くはありません。特に死に直面している時に、尚もそこで望みを託して呼ぶことの出来る名。それは死に打ち勝ったお方、イエス・キリストの名だけです。私たちは愛する人々に、この「イエス・キリストの名によって生きる生き方」をもっと力強く勧めていきたいと思います。どんな時も「イエス様と呼ぼう」と語り掛けていきたいと思います。(4/16 柏明史師 説教から)

 

2023/4/16 週報メッセージ

(説教断片)

「死は勝利にのみ込まれた」 (Ⅰコリント15:50-58) 

山本 修一

 キリスト教の初期伝道で最も問題になったのが、キリストの復活論争でした。キリストの復活は信じられるか、それから2000年間にわたって問われてきた問題です。

 死者がどうして復活するのか。人間の理性と知識で理解しようとする限り、不可能なことです。「世は自分の知恵で神を知ることはできません」(Ⅰコリ1:21)。しかしパウロは、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(同15:16)と断言します。

 14世紀半ば、ヨーロッパ中にペストが大流行し、全人口の1/3とか1/4とかが、恐ろしく悲惨な黒死病の犠牲になったといわれています。新型コロナウィルスどころではありません。この時代のあらゆるところで「メメント・モリ」(死を思え)の叫びが響き渡り、教会でも生の虚しさが説かれたとのこと。それほど「死」が社会や教会を覆い、まるで勝利者のように振る舞ったのです。

これは中世の時代の問題にとどまらず、超高齢化を迎えた現代の多くの教会の抱える問題です。死は教会に深く忍びこんでいます。死の力の前に、希望なく、無力を感じる教会も増えています。

 いまこそ、この世の状況に動かされることなく、教会に、そして一人ひとりに復活の信仰が問われているのです。私たちはさりげない日常生活の中で「主は生きておられる」と信じて歩んでいるでしょうか。祈りが、かなえられてもかなえられなくても、復活の主を信じておられるでしょうか。つらい時、悲しい時にも必ず復活の主は応えて下さる、手をさしのべて下さると確信を持っておられるでしょうか。ペトロのように「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いるでしょうか(Ⅰペト1:8)。(4/9説教から)

2023/4/9  週報メッセージ

説教断片「十字架につけられる」(ヨハネ19:16b-27)

山本 修一  

 今週は受難週に入ります。本日の「シュロの聖日」から、イースターの前日までが受難週です。受難日が金曜日です。

 私は十字架を説教するときには、いろいろな思いが重なります。

第一に、福音の奥義である十字架を語れることは大きな喜びです。第二に、その反面、あまりに高く、広く、深い十字架の真理を、どこまで把握しているかという不安と戸惑いもあります。第三に、十字架を学べば学ぶほど心が滅入る(苦しくなる)のです。十字架の苦しみと痛みを覚えます。イエス様の体にムチが打たれ、手に釘が打ちつけられ、槍で突き通された姿を思い浮かべると、胸が締め付けられます。さらにその痛み、苦しみは私の身代わりであったことを思う時に、自分の罪深さ、愚かさに心責められるのです。

 かつて高校生の時に、名古屋の教会に宣教師のダビデ・マーチン先生が来られました。その時に十字架の説教をされました。大きな体で、両手をいっぱい広げ、たどたどしい日本語で、十字架のお話しをされました。そのとき先生はうっすらと涙を流しておられたことに気づき、驚きました。2000年前のイエスの十字架のことで、目に涙を浮かべて語られたことを忘れることができません。

  本日の聖書箇所は、主イエスの最期の場面です。ヨハネ書は、他の福音書とは異なり、十字架への道をとても簡潔に書いています。私たちが見るべきは 「自ら背負った」 主イエスの十字架なのです。ここにこそキリスト教の神髄ともいえる、重大で、深い、驚くべき真理があります。それは私たち罪人が背負うべき十字架を、罪のない主イエスが自ら背負ってくださったという極みの愛です。このため主イエスは、父なる神と霊的に断絶せざるを得ず、それが地獄のような肉体の苦しみ以上の霊的苦しみを味わわなければならなかったのです。(4/2説教から)