「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/10/22 週報メッセージ

 「ああ、救われた!」(ヨハネ 8:1-11) 

                 

主イエスの敵対者たちは姦淫の現場で捕えた女性を連れて来て、「こういう女は、石で打ち殺せと律法は命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と主イエスを問い詰めました。主は「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。確かにこの女には罪がある。しかしあなた方はどうなのか?罪があるのは彼女だけなのか?この主イエスの一言によって、裁こうとしていた人たちが、逆に裁かれる立場に置かれました。全き聖であり全き義である主イエスの前では、人は、自分の罪に否応なく気付かされます。

やがて年長者から一人去り、二人去り、遂に全部の者が去って行きました。主イエスは女性に「あなたを罪に定める者はいなかったのか」と言われました。これは「全ての人は罪の中にある。だから誰も他人の罪を裁くことができない。しかし、また、誰も罪を赦すことも出来ない。だから、あなたの罪はまだ残っている」という、まことに厳格なお言葉なのです。私は今、本当に恐れなくてはならないお方の前に立っている。彼女はそのことを知らされました。

その彼女に、主イエスが言われました。「私もあなたを罪に定めない。」主イエスは、ご自身が身代わりになって罰を受けるということによって、彼女の罪を赦すと言われたのです。この時、主イエスは既に、十字架での苦しみを味わっておられたのです。主イエスは、彼女に「行きなさい」と言われました。しかし、大罪を犯した彼女の行くところなど何処にもありません。主イエスは、具体的な場所ではなく、「私の愛のうちを行きなさい」と言われたのです。主イエスの愛には、「これからはもう罪を犯してはならない」という切なる願いが込められています。

主イエスは今日も言われています。「行きなさい、私の愛のうちを。これからはもう罪を犯してはならない。いや、私の愛の内に留まっているならば、もう罪を犯そうとはしない筈だ。」

(10/15 柏明史師説教)

2023/10/15 週報メッセージ

「十字架の愛」(神の愛⑧)(Ⅰヨハネ 3:11-18) 

                 

説教者にとって、十字架を語ることは、普段以上に厳粛な気持ちに立たされるものです。それでも心の中は喜びに満ち、光栄に感じています。

十字架はキリスト教信仰にとってはなくてはならないものです。十字架のない教会もありません。では十字架信仰とは何でしょう。十字架信仰とは、人の罪を救済するために、御子イエスが十字架にかけられ、復活されたと信じる信仰です。

十字架は、ローマ帝国のおそるべき極刑でしたが、それ以上に主イエスの使命と目的に驚かされます。御子イエスのご降誕は、「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)ためであり、主の十字架はわたしたちの罪を赦すためでありました。これが十字架の意味です。

私たちは教会歴が長くなると、この驚くべき真理が、驚きを通過して何も感じなくなってしまう傾向があります。わたしたちの十字架信仰は、十字架についての知識を積むこと、学ぶことではありません。キリストの十字架は「我が罪のためなり」との一事を知ることであり、信じることであり、生涯を通して究めていくことであります。

十字架の愛のすばらしさは、たとえようがありません。十字架の愛は、第一に「与える愛」でした。それは犠牲の愛であり、徹底的に与える愛でありいのちをささげる愛でした。第二は「赦しの愛」でした。私たちは人を赦すことができませんが、主イエスがいのちをささげて多くの罪を赦してくださったのですから、私たちも人の罪を赦すことができるのです。第三は、「最も崇高な愛」でした。十字架の愛は 言葉では表現できないほどの純粋で、高潔で、崇高であります。

この十字架の愛を慕い求める者には、その愛は注がれるのです。

最後に十字架の力です。それは物理的な力ではなく愛の力です。弟子たちは弱さから強さへ、恐れから勇気へ、疑うものから確信するものへ、大きく変えられました。十字架は人の人生を変える力があるのです。

(10/8 山本修一師説教)

2023/10/1 週報メッセージ

「神の選びと愛」(神の愛⑦)(ローマ9:6-18) 

私たちは、生まれてからこの方、数え切れない選択をしてきました。 「人は、毎日、小さなことから、大きなことまで1000個以上の決断をしている」「現在の私たちは過去の選択の結晶である」といわれているのです。

聖書の中には「選び」の言葉が多くあります。その「選び」が静かに、ときには激しく強調されています。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(15)。 これは創造主である神の被造物である人間に対する絶対的な主権を表現しています。

いくつかの「選び」を振り返ってみましょう。なぜ神は、弱小のイスラエル民族を神の民として選ばれたのか、なぜ最初の子イシュマエルではなく、二番目の子イサクが神の子として選ばれたのか。なぜ長男エサウがしりぞけられ、不正の手段をつくした次男ヤコブが選ばれることになったのか。なぜ神は敵対者・迫害者であるパウロを選ばれたのでしょうか。

では私たちはどうでしょうか。なぜ私たちは、洗礼を受け、この教会の会員になり、教会に奉仕をしているのでしょう。私たちが真面目で、従順で、優しく、優秀だから選ばれたのでしょうか。これが『神の選び』の問題です。 

私たちは、自らの意思と選択で自由に振舞っているように見えますが、実は、神さまの大きな、一方的なご計画の中で生かされているに過ぎないのです。「神の選び」は、信じる者にとっては、「愛」であり、「恵み」なのです。

私たちは、神さまのご計画、御心は知ることはできません。なぜあの人は選ばれ、この人は選ばれなかったのか、なぜ救われる者と救われない者とが分けられるのか。なぜ世の初めに神さまは救いにあずかる者を選ばれていたのか。選びの問題は、人間の理解、見識を、そして民族や国や時代の壁を越えているのです。

私たちは、なぜを追求することより、神さまから「選ばれた事実」「選ばれた恵み」「選びの愛」を感謝して歩みましょう。

(10/1 山本修一師説教)

2023/10/1 週報メッセージ

「愛と罪の赦し」(神の愛⑥)(コロサイ1:14,2:13) 

                 

私たちは人を赦すことは、ほんとうに難しいことを知っています。心の中で死んでも赦せない人をかかえている方もいらっしゃるかもしれません。

ペトロは、「兄弟が罪を犯した場合、何回赦すべきか」とイエスに尋ねました。イエスは「7回を70倍するまで」といわれました(マタイ18:21-22)。それは無限に赦すことを意味するものでした。

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」 (マタイ6:14) ここでイエスは人を赦すことを、しかも無条件で赦すことを教えられます。私たちが天の父からどれほど多くの罪を赦されたか、何度も何度も赦されたかを知っているなら、人を赦すことができる、という意味なのです。

私たちは神さまから何を赦されるのでしょう。私たちの罪です。幼子イエスのご降臨の目的は「自分の民を罪から救うため」(マタイ1:21)といわれています。

改めて「罪とは何か」考えます。第一に、的外れです。的外れとは創造主から外れていること。創造主を忘れ、創造主から離れていることです。第二は、罪とは神の律法に反すること。第三は、生まれながらの罪、原罪です。原罪とは、あらゆる人間のうちに潜む、悪を選ぶ傾向のこと。原罪(心の性質)は、赦される問題ではなく、潔められるべき問題です

聖書が提供する「罪」の解決法は、キリストの十字架による赦ししかないのです。私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じる者は、罪を赦されるのです。そしてキリスト者は、十字架の血潮によって「赦された」ものとして、互いに赦し合わなければならないのです。 

キリストの福音の中心的メッセージがここにあります。キリスト教の救いとは「罪の赦し」でもあります。

(9/24 山本修一師説教)

2023/9/17  週報メッセージ

「放蕩息子を待つ父の愛」 (ルカ 15:11-32) 

     (神の愛⑤)

放蕩息子の物語は、だれもが一度は感動したことと思います。このお話は、「たとえ話の中の真珠」「福音の中の福音」とも呼ばれる有名な箇所です。

このたとえ話は、何を私たちに伝えているのでしょうか。第一に放蕩息子の帰還・悔い改め、第二に父の愛と赦し、第三に、義に生きる兄の不平と不満などのテーマが考えられます。

ところでルカ15章には三つのたとえ話があります。①「見失った羊」のたとえ、②「無くした銀貨」のたとえ、③「放蕩息子」のたとえです。この三つに共通する主題は「失われたもの」「回心」「喜び」です。そして迷った羊が見つかり、失った銀貨が戻り、放蕩息子が帰ったときの大きな喜びで結んでいます。

③では父親は財産を与えたばかりか、それを遊びで使い果たして帰ってきた弟息子を喜び、温かく迎え入れたのです。しかし③の兄は、弟の帰還を喜べず、家に入ることを拒んだのです。ここに兄の深刻な問題がありました。

兄は、父に多年忠実に仕え、言いつけに背くこともなかったのですが、その心は不平、不満がたまっていました。弟を赦せず、弟を無条件に赦す父をも受け入れられませんでした。兄は、父と一緒に住んでいても、弟以上に父の愛から遠かったのです。

私たちの中にも、神と共に歩むことをあかししながら、喜びも感謝も知らず、キリストの愛から離れている人はいないでしょうか。私たちは、今一度、十字架のイエスの元に帰り、罪の告白、人(家族、友人)との和解、ねたみと憎悪の除去、主と共にあることの恵みと豊かさの再発見を求めていきましょう。それが私たちのなすべき悔い改めのわざに他なりません。

(9/10 山本師説教)

2023/9/10  週報メッセージ

「善きサマリア人のたとえ」 (ルカ 10:25-37) 

        (神の愛④)

「善きサマリア人の物語」は、とても有名で、印象的で、感動的な聖書のお話です。

律法の専門家から「隣人とはだれか」と問われて、イエスはサマリア人のお話を展開します。

物語に登場する通行人が、祭司とレビ人、ユダヤ人の嫌うサマリア人の三人でした。強盗に襲われたユダヤ人の旅人が横たわっています。

祭司、レビ人は、瀕死の旅人の側に近づかず、向こう側を通って(避けて)過ぎ去りました。この「向こう側」との言葉に注目しましょう。「向こう側」とは、単に「道のあちら側のことではありません。それは「相手の立場に立つことなく、自分の立場に立つこと、すなわち自分の可能なことだけ、ただ自分のできる範囲だけで、人を愛するという立場に立つこと」です。彼らは旅人の痛み、苦しみを慮(おもんぱか)るのではなく、自分の立場ばかりを考えていました。やれ祭司服が汚れる、やれ仕事の帰りで疲れている。もし死んでいたら、一週間のきよめの儀式を行わなければならない、ぐずぐずしていたら別の強盗に襲われる可能性がある、などなどです。

このサマリア人の愛・親切は、国、宗教、敵・味方,親疎などすべての境界線・壁を超えるものでした。その愛の中心には、「憐れに思う心」(33)すなわち「はらわたを突き動かされる」「心を揺り動かされる」慈愛がありました。

愛とは、「だれが隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(37)というイエスの言葉に従うのが愛です。すなわち私たちが愛の行為をすれば、その人は隣人となり、なんの行為をしなければ隣人にならないのです。主イエスは宗教的指導者に対して、「あなたたちは何をすべきかを(律法で)知っているのに、実行しようとはしない」「自分の可能なことだけをし、自分のできる範囲のことをしているだけでは、隣人を愛したことにはならない」と語るのです。厳しいイエスのお言葉ですが、私たちに向けられたメッセージでもあります。

9/3 山本師説教)

2023/9/3 週報メッセージ

「あなたを罪に定めない」 (ヨハネ 8:1-11) 

      (神の愛③)山本修一

ファリサイ派の人たちは、現行犯で逮捕された姦淫の女を、イエスの前に連れてきました。イエスを試すためでした。

もしイエスが「この女を赦してあげなさい」と言われたら、イエスはモーセの律法にそむく者と非難したことでしょう。もしイエスが「この女を石で打ちなさい」と言われたら、日頃のイエスの愛の言動と矛盾すると非難したことでしょう。この女のいのちを救うにしても、女の処刑を肯定するにしても、いずれも窮地に立たされるところでしたが、主は威厳と知恵を持って勝利されました。『罪なき者が女を打て』。その言葉が宗教的指導者たちの心に突き刺さったとき、彼らは握りしめていた石を捨ててその場を去りました。

この印象的な物語は私たちに、罪と赦し、律法と裁き、愛と死など多くの真理を伝えるものですが、なお最後に、「自己吟味」を学びます。私たちは、他人の過ち、欠点、罪はよく見えても、自分自身のものはよく見えません。マタイ書でも人間の盲点(マタイ7:1-5)として取り上げられているところです。しかも自分の罪(欠点、弱点)は棚上げにして、他人の罪を責め、自分の義(正しさ)を押し通そうとする傾向があります。イエスの『罪なき者が打て』とのみ言葉が、彼らの良心を呼び覚まし、自分の罪と欠点に向き合うように強いたのです。

信仰の世界では聖書に照らしての自己吟味、自己点検、自己検査がとても大切です。私たち自身が罪人であること(ローマ3:23)、たえず神の恵みと憐れみが必要であることを自覚し、主の赦しを求めることに熱心でありたいものです(1ヨハネ1:9)。

         (8/27 代読 説教)

2023/8/20 週報メッセージ

「愛がなければ」(神の愛②) 

                    (Ⅰコリント書 12:31~13:13)

 Ⅰコリント13章は新約聖書全体を通して最もすばらしい「愛の章」「愛の賛歌」といわれるところです。コリント教会はそれほどすばらしい、理想的な教会だったのでしょうか。

パウロはコリントで長く滞在し、生活を共にしたのですが、伝道は困難を極めました。「神よりも悪魔が支配しているとさえ思われる」(カルヴァン)、欲望や自己中心が渦巻いているような教会でした。不一致、分裂、争い、訴訟、性的不品行、偶像への供え物、などの問題が絶えませんでした。日本の最悪といわれる教会よりひどかったかもしれません。信徒にはねたみがあり、高ぶりがあり、いらだちがあり、恨みもあるような状況だったのです。パウロは、愛の賛歌を格調高く歌い上げたものではなく、信徒を叱責し、戒め、勧告をしたものであります。

15の愛の定義(4)は、具体的な愛を提示するものです。「愛」を「神」に換えて読むと、改めて神の愛を理解できます。逆に「愛」を「私」に言い換えて読むことを勧めるのが作家の三浦綾子さんです。不思議にも自分の弱い、みじめな姿がよく見えてくるようになります。

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13)。コリント教会では信仰や希望の大切さの陰に隠れて、愛の問題がおろそかになっていました。現代の教会にも通じることです。

パウロは信仰と希望は愛の中に含まれている(7)というのです。私たちは主イエスの十字架を通して、愛を知りました。その神の愛に応えるのが信仰であり、この救いに希望を置くのがクリスチャンです。

私たちは神の愛をとことん知り、神を愛する者にとことん変えられて、始めて「生きる者」になるのです。私たちは この「愛がなければ」生きることは出来ないのです。

8/13 山本師 説教)

2023/8/13  週報メッセージ

「はかりしれない愛」 (エフェソ書 3:14-21) 

ひとまず「ヨハネ福音書の七つのしるし」を終了し、今月から「愛」について、何回かにわたるシリーズで考えていきます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。「ここにある」神の愛は聖書を通して、十字架を通して知る愛です。人間の罪を救うために、御子イエスは地上に来られ、十字架にお架かりになりました。これが「神の愛」です。

とはいうものの「神の愛」「十字架の愛」とは、何のことか理解に苦しむものですが、一面、救いを信じる私たちの心に、気高さといたわりをもって迫るものでもあります。現代の社会において、「愛」という言葉が氾濫していますが、私たちキリスト者は「神の愛」に焦点を合わせて学んでいきましょう。

エフェソ書では、パウロは獄中から、元気をなくしたエフェソの教会の人々に手紙を書き、今一度奮い立って「愛に根ざし、愛に立つ」ようにと励ましています。パウロは「キリストの愛」は「人知をはるかに超えた愛」 (19)であり、その愛を「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」の視点から表現しています。

パウロはエフェソの人たちのために祈ります。「内なる人が強められるように」「キリストが内住するように」「神の愛をもっと知るように」「霊にあって満たされるように(成熟するように)」。これは同時に私たちの祈りの目標です。

私たちは日々の忙しさ、この世の営みに心を奪われて「神の愛を知ること」がおろそかになっていないでしょうか。

8/6 山本師 説教)

2023/7/30 週報メッセージ

「有能な人より有益な人に」 (フィレモン 8-22) 

パウロは、コロサイ教会の有力な信徒であるフィレモンの家から逃亡した奴隷のオネシモを赦して、主にある兄弟として受け入れて欲しいと、フィレモンに依頼しています。今やオネシモは役に立つ人、有益な人になったといっています。新約聖書の中で役に立つ人、有益な人として紹介されているのは、オネシモとマルコの二人だけです。しかし、この二人はいずれも、過去において大失敗をした人でした。しかしパウロやバルナバの愛の導きによって、役立たずの者から、役に立つ者へと変えられていったのです。聖書は、有能な人ではなくても、周りの人を慰め、励まし、温かく覆い包むような人となることを勧めています。その人の周りには、いつも平和があり幸せな空気が流れている。有益な人とはそういう人のことです。有能な人は自分の内側にあるものによって仕事をします。しかし有益な人とは、自分を超えたもの、神様から与えられるものによって仕事をします。神様にしっかりと繋がれて、神様の恵みの中で喜んで生きているならば、その人がそこにいるだけで周囲に慰めと励ましの輪が広がるのです。逃亡奴隷であったオネシモは、後にエフェソの教会の優れた監督として、多くの教会員から尊敬される者へと変えられていきました。当時、エフェソの教会においてパウロの手紙が集められ、書簡集として編纂されることになりました。フィレモンへの手紙には、オネシモが盗みを働いて主人の家から逃亡した奴隷であったということが記されています。オネシモにとっては、覆い隠したいような暗い過去の出来事です。それにも拘らず、オネシモはこの短い手紙を書簡集に是非加えたいと強く願いました。自分に注がれた神様の恵みの大きさをすべての人に知ってもらいたいと強く願ったからです。 (7/23 柏師説教から)