「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2024/2/11  週報メッセージ

「わたしの主、わたしの神よ(ヨハネ書20:24-29)

           (イエス・キリストを知る④)

「イエス・キリストを知る」の4回目です。

私たちはパウロの残した「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」という信仰告白を学んでいます。どうしてイエス・キリストを知ることが、「特権」であり、「特別の恵み」であり、「絶大な価値」といえるのでしょうか。

本日の聖書箇所から、「キリスト・イエスを知る」ことは、「人格的な主イエスとの出会い」であり、究極的な意味では、「復活されたイエスに出会う」こと、「圧倒的に臨在するイエスの前に立つ」ことであることを教えられます。

トマスは、「他の弟子たちが、復活のイエス・キリストを見た」と言っても、疑った人物として知られています。主の復活に対して「自分の目で見て確認しなければ」と懐疑的な立場を取っていました。そもそも信仰とは疑いを持たないことではありません。自分の疑問や疑いを率直に神とイエスさまに「主よ、なぜなのでしょう」と問いかけることも大切です

その後、トマスは復活のイエスに出会い、声をかけられ、そのあまりの感激に(すばらしさに)、ひれ伏して、心からなる信仰告白を捧げたのです。「わたしの主、わたしの神よ」との告白は、キリスト教信仰の核心であると言えます。

「わたしの」という言葉が大切です。「彼のため」、「彼女のため」ではなく、この「わたしのため」に、ご自身の命を捨ててくださった(ガラテヤ2:19、20)「主イエス・キリスト」を、あがめ信じる告白だからです。

今、私たちも、「わたしの主、わたしの神よ」と告白し続けましょう。(2/4 山本師説教)

2024/2/4  週報メッセージ

「イエス・キリストを深く知る(フィリピ書3:1-11)

                (イエス・キリストを知る③)

今年の教会標語聖句「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をさらに学びましょう。本日は3回目。「イエス・キリストを深く知る」というタイトルなのに、どうしてパウロの話なのでしょうか。パウロを学ぶのは、イエス・キリストを深く知るためです。

パウロはユダヤ人で熱心なパリサイ派でした。キリスト教徒を迫害、弾圧していました。そのパウロがダマスコ途上で、衝撃的な出来事があり、そのことにより劇的に信仰・価値観などが変えられたのです。それは復活のイエス・キリストとの決定的な出会いでありました。パウロにとってイエス・キリストを知るとは、復活のイエス・キリストとの出会いであり、そのイエスを愛することであり、「そのイエスを信じることが救いである」という信仰でありました。

このところからある牧師から厳しく教えられます。

①「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(8)にパウロは驚嘆していますが、私たちはなんと無関心・無感動でしょうか。私たちの価値観が変わらないのはなぜでしょうか。

②パウロはこの世における自分の有利に思える状況((お金、財産、名誉、学歴、能力、実績、友人…)(5-6)を「塵あくた」(排泄物)ととらえたのに、私たちは人生・生活が少しでもプラスになるように、なぜ塵あくたを求めているのでしょうか。「肉に頼る信仰」「人間の肉によって救いを得ようとする信仰」(4)を大切にしているからでしょうか。

③パウロは「キリストのゆえにすべてを損失と見なした」(7)のに、私たちは、キリストを信じながら、なんとかその一部でも手に入れたいと、物欲しげに求めているのではないでしょうか。

(1/28 山本師説教)

2024/1/28  週報メッセージ

「抵抗せよ」(Ⅰペトロ 5:6-11)

18世紀のフランスに生きたマリ・デュランは、プロテスタント信仰を守るために38年間も牢獄に閉じ込められました。彼女は牢獄の石の壁に、血を流しつつ爪で「レジステ、抵抗せよ」と刻み続けました。レジステという言葉は、本来は「立ち続ける」という意味だそうです。

「信仰にしっかり踏み止まって、悪魔に抵抗しなさい。」(9節)この言葉は、マリ・デュランよりもっと厳しい迫害の中にいた初代教会の信徒たちに、使徒ペトロが送った励ましの言葉です。ペトロは、信仰生活とは悪魔との絶えざる戦いである、と言っています。主イエスも、人間を罪の虜にしようとしたサタンと、戦い続けられました。サタンは、人間を罪から贖い出す十字架を何とか阻止しようとしました。主は、そのサタンと戦い続けられました。

私たちの信仰生活も、常に神様に従うか、サタンの誘惑に負けるか、という戦いの中にあります。サタンは極めて巧妙に私たちを誘惑してきます。ですから自分の力では打ち勝つことはできません。思い煩いをすべて主に委ね、主に戦ってもらうのです。主に大将となって頂き、自分はその後に従って、大将の指示に従って戦うのです。あらゆる恵みの源である神様は、私たちを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。「完全な者とし」という言葉は、破れたものを繕い直す、という意味の言葉です。母親が愛するわが子の着物の破れを丁寧に繕うように、神様は、私たちの欠けを繕ってくださり、本来の姿を回復してくださるのです。

この神様の恵みの中に、私たちは立ち続けるのです。サタンに襲われ易い人とは、神様に委ねることをしないで、一人で思い煩っている人です。自分で何とかしようと思い煩う者は、やがて疲れ果てて、サタンに隙を見せてしまいます。その隙を見せた所に、サタンは襲い掛かってくるのです。どのように神様の恵みの中にしっかりと立ち続けることができるか。それがサタンとの戦いの鍵なのです。(1/21 柏明史師 説教)

2024/1/21 週報メッセージ

「イエス・キリストを知る」(2)(マタイ16:13-20)

今年の教会標語聖句は、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(フィリピ3:8)というみことばです。この一年少しでも、ひとつでもキリストのすばらしさを体験してみませんか。

もう少し「キリストを知る」ことについて学んでいきます。

第一に、「イエス・キリストを知る」ことは、「永遠の命を獲得する」ことです。聖書は、はっきりと永遠の命とは、唯一の神とイエスを知ること(ヨハネ17:3)だと語ります。どこまでわたしたちは「イエスのご降誕、受難、十字架、復活、昇天、神のゆるし、愛」などを知っているでしょうか。

第二に、「イエス・キリストを知る」ことは、「イエス・キリスト愛する」ことです。創世記の4章1節には、「さてアダムは妻エバを知った」とあります。罪のためにエデンの園を追放されたアダムとエバが、神様の導きによって、夫婦として結ばれていく記事が載せられています。ここで「知る」というのは「愛する」「一体となる」ことを意味します。イエス・キリストを知るということは、「イエス・キリストを愛する」「イエス・キリストと一体となる」ことを示しているのです。

第三に「イエス・キリストを知る」ことは、「わたしたち自身の目で、耳で、体験の中で知る」ことです。ペトロは、人々のイエスの噂、評判を盲信したのではなく、ペトロ自身の目で、耳で、体験の中で知って、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したのです。

第四に、「イエス・キリストを知る」ことは、「わたしたち自身が変えられる」ことです。イエスを知ることによって、わたしたちの中に重大な変化が起こり、わたしたちの生き方・価値観が変わることです。もし「イエス・キリストを知る」ことによってなんら変化がないなら、いま一度信仰生活を見直す必要があるのではないでしょうか。(1/14 山本師 説教)

2023/1/14 週報メッセージ

「イエスを知ることのあまりのすばらしさ」

(フィリピ3:5-14)

穏やかな、平和な元旦を迎えましたが、その夕方には能登半島で激しい地震、津波、火事、があり、翌日には羽田空港・衝突事故がありました。波乱と恐怖の一年の幕開けなのでしょうか。それとも信仰と祈りに立って歩むべしとの警醒でしょうか。

今年の標語聖句は、フィリピ書3章8節からきらめくようなすばらしいみ言葉が与えられました。パウロはどのような状況でこの信仰告白をしたのでしょうか。それは不潔な、暗い、冷たい牢獄の中でした。鞭で打たれた痛みでうずきました。いつ裁判で死刑にされかねない不安もありました。にもかかわらずパウロは、「喜び」を強調するフィリピ人への手紙を書いたのです。

パウロはこの手紙では、ただ単に「イエスを知ること」だけでなく、「イエスを知ることのあまりの素晴らしさ」を伝えようとしています。

ではそれはどういう意味でしょうか。なぜ「キリストを知る」ことが、そんなにすばらしいのでしょうか。

パウロはイエスに出会って(知って)から、価値観が転換し、これまで大切にしてきたこの世の利益が、無価値に思われるようになったのです。

ところで「イエスを知る」とは、知識としての「知」ではなく、神を「あなた」と呼び、神に「私は」と応える人格的な関係のことをいいます。この人格的な交わりによって、私にとって神がかけがえのない方となり、一緒にいることを喜ぶ関係となるのです。そのような神との交わりが「永遠の命」(ヨハネ17:3)につながるのです。

別の言い方をすれば、「イエスを知る」とは、「私たちに何をしてくださったのか」を知ることです。この世に降臨されたこと、十字架に架けられたこと、三日目に復活されたこと…などの真理をとことんまで知ること、知り尽くすことです。                        (1/7 山本師)

 

2024/1/7 週報メッセージ

「いつも感謝していなさい」 (コロサイ3:12-17)

皆様にとって、今年は感謝にあふれた一年だったでしょうか。それとも不満ばかりの一年だったでしょうか。あるいは感謝もあり、不満もありの一年だったでしょうか。

感謝は神さまの「命令」。文法上では命令形で書かれています。しかし神さまは私たちの意思を無視して命令されるお方ではありません。むしろ私たちがどんな状況の中にあっても、いつも感謝できる人になってほしいと望んでおられるのです。感謝すればするほど、神さまは私たちに「最善のもの」、「あらゆる人知を超える神の平安」、「満ち足りる心」、「喜び」、「成熟」を与えて下さるのです。

コロサイ書は最初から感謝を強調しています(1:3)。「…いつも祈り、…神に感謝しています」(1:3)「あふれるばかりに感謝しなさい」(2:7)、「いつも感謝していなさい」(3:15)…。その時のパウロの置かれたところは牢獄の中でした。とても喜べる、感謝できる環境にはいなかったのです。にもかかわらず感謝を続けました。

私たちはどうすれば感謝の心が身につくのでしょうか。感謝は、私たちの感情ではなく、私たちの意思で選択するものです。感謝を「習慣化」する必要があります。まずは小さな感謝を見つけては、感謝をくり返すことが大切です。

感謝できない、愛せない、赦せない…とき、イエス様を見つめ、主の愛を思い起こし、主に愛されてきた経験を思い出しましょう。そこから小さな感謝の心が芽生えてくるのではないでしょうか。

感謝の反対は何でしょうか。それは、不平不満、つぶやきであります。残念ながら、私たちは感謝することより、不平不満が出やすい傾向があります。これは神さまが最も、嫌われるものです。聖書も、不平不満やつぶやきがいかに罪が深いのか警告しています(Ⅰコリント10:10)。

(12/31山本師)

2023/12/31 週報メッセージ

「神が人となられた」 (フィリピ書2:6-11)

         

今週は「説教断片」」はお休みです。

今年のクリスマスも、ベアンテ・ボーマン先生のメッセージとチェロの演奏を聴きました。柔和なお顔で、流暢な日本語を話し、時折出るユーモア、ご夫妻の掛け合いは、楽しかったですね。そしていわずもがなチェロの演奏はすばらしかったです。家に帰ってあらためてボーマン師の「CD」を聞きました。私は音楽のことはよく分かりませんが、心に響くチェロの表現力の豊かさには感動しました。

ボーマン先生は70数年間、神さまに豊かに用いられてきました。なおもこの器が豊かに用いられるように祈っていきましょう。

ところで「なぜ神の子であるイエスが人となられたのでしょうか。」少し補足します。

第一に、人に対する神さまの愛を明らかにするためです。イエスさまが神のご栄光のままであれば、だれも近づくことはできません。人となって、愛し、愛される関係になられたのです。

第二は、私たちの罪を救うため、救い主となるためです。私たち人間には絶対にできないことの一つは、自分の罪を解決するということです。人としてのイエスは十字架につけられて、私たちの罪から救って下さったのです。

第三は、キリストはダビデの町でお生まれになるという預言が実現されるためでした。旧約時代の預言によれば、人類の救い主(メシア)は、このダビデ王の子孫から生まれるとの約束がありました。私たちの約束は何でしょう。「キリストを救い主として信じるものは、一人として滅びることなく永遠のいのちを持つ」ことです。

それでは皆様よいお年を。(山本)

2023/12/24  週報メッセージ

「限りなく尊い愚かさ」 (マタイ書2:1-12)

         

アドベント(到来)という言葉は、ラテン語の「アドヴェントゥス」という言葉から派生しています。アドベンチャー(冒険)という英語も同じ言葉から派生しています。神の御子の到来アドベントは、また神の冒険アドベンチャーでもあるのです。主イエスは、どれだけの人が主に立ち帰るか何の確証もないままに、ただ私たちを愛するが故に、命懸けの冒険を冒して来て下さいました。占星術の学者たちは、ただ救い主を礼拝するだけのために、遥々やって来て最上の物を献げ、それだけでもう十分に満たされ帰っていきました。これこそがクリスマスの祝い方です。私たちを救うために、命懸けの冒険を冒して来てくださった神様に対して、私たち人間にできることは、ただその神様を礼拝することだけなのです。学者たちの贈り物は彼らの商売道具であったという説があります。それを献げたのであれば、彼らは仕事を変えたのです。自分のためにする仕事から、キリストのためにする仕事へと変えたのです。しかし彼らの目の前には、粗末な布に包まって貧しい若夫婦に抱かれている赤子がいるだけです。貧しさと弱さと無力さの象徴のような赤子に、大切な商売道具を献げて自分の生き方さえも変えようとする。そんなことは愚かです。しかしその愚かとも見える行為こそが、実はクリスマスに最も相応しいのです。なぜならクリスマスとは、父なる神様が最も大切な独り子を、十字架の死という最も愚かな方法で、私たちのために献げて下さった出来事だからです。ご自身に背き、御心を悲しませてばかりいる私たちのために、最も大切な独り子を犠牲にして下さった。それによって人間が神様に立ち帰るという保証は何もないにもかかわらず。これは愚かです。賢くありません。しかし私たちは、この限りなく尊い愚かさによって救われたのです。私たちも、愚かと思えるようなひたむきな思いを持って主を愛していきたいと思います。それが主の冒険に応える私たちの冒険なのです。

(12/17  柏 明史師説教)

2023/12/17 週報メッセージ

「闇に輝くキリストの光」 (ヨハネ書1:1-5)

          

待降節第二主日に入りました。この時期にはキリストご降誕の記事(マタイ書、ルカ書など)を熟読し、思いを深めていきましょう。

クリスマスの二つの特徴を聖書からあげますと、第一は、クリスマスは不思議で、神秘的で、驚きに満ちた出来事であり、第二は、クリスマスは喜びと賛美に溢れる出来事であったことです。私たちが聖書の、真のクリスマスに近づけば近づくほど、不思議と神秘を発見し、喜びと賛美に満たされるでしょう。

今朝の聖書箇所は「暗闇」が強調されています。創世前も、旧約の時代も、イエスの時代もそして現代も「暗闇」の中にあるのです。では「聖書のいう暗闇」とは何でしょうか。聖書の暗闇とは、私たちを造られた神さまに背を向けている、神さまとの関係が断絶している、自分中心に生きている。…その結果、この世は罪と汚れに満ちている。これが闇だというのです。 この暗闇に、『光』として主イエス・キリストが来られたのです。

この「光」は二つの目的を持っていました。一つは「愛の光」です。自己中心の、冷たい私たちの心を、人を愛することができる心に変える「光」でした。もう一つは「いのちの光。永遠の命の光」です。イエスは「わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)といわれました。イエスキリストの言葉を聞き、イエスキリストの十字架と復活を信じるものは、「死から命に移っている」のです。

さらに聖書は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(5)という喜びの知らせを告げているのです。喜びと賛美にあふれたクリスマスを迎えましょう。

12/10  山本修一師説教

2023/12/10 週報メッセージ

「お言葉どおり、この身に」 (ルカ書1:26-38)

          

アドベント第一主日を迎えました。本日は「マリアの信仰」を学んでいきましょう。

イエスの誕生物語には、三つの奇跡があったといわれています。①神が人となられたこと、②処女が妊娠したこと、③これをマリアが信じたこと。この中で最も偉大なのは、三番目であると、いわれています。マリアの信仰とは、「聖霊によってイエスの母になる」という召命に、素直に,純粋に応答したものです。

いったいマリアとはどんな人だったのでしょう。聖画などでは、母として完成された、包容力のある「聖母マリア」として描かれていますが、天使の知らせを受けたときのマリアは、いまだあどけなさも残る10代前半の少女でした。平凡で普通の結婚を夢見る人でした。しかし彼女は、主イエスを受け入れるにふさわしい、純心で、思慮深く、信仰の篤い人であったと想像されます。

マリアにとっては、この受胎告知は、前代未聞で、耳を疑うような知らせでした。当初は、「どうしてそのようなことが…」と疑ったのです。喜びはなく、不安と戸惑いでいっぱいでした。そもそも天使に出会うということさえ驚きの出来事でした。

その後、マリアは天使の知らせを思慮深く聞きました。天使の最後の「神にできないことは何一つない」との宣言を聞いて、マリアの信仰は目覚め、大きく変えられました。神の言葉を信じれば、「神にできないことは何一つない」ことに気づいたのです。マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と信仰告白をもって応え、やがて神の子を身ごもることに伴って起こる命の危険、労苦、困難をも乗り越えていくことをも受け入れたのです。

12/3  山本修一師説教