「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/12/17 週報メッセージ

「闇に輝くキリストの光」 (ヨハネ書1:1-5)

          

待降節第二主日に入りました。この時期にはキリストご降誕の記事(マタイ書、ルカ書など)を熟読し、思いを深めていきましょう。

クリスマスの二つの特徴を聖書からあげますと、第一は、クリスマスは不思議で、神秘的で、驚きに満ちた出来事であり、第二は、クリスマスは喜びと賛美に溢れる出来事であったことです。私たちが聖書の、真のクリスマスに近づけば近づくほど、不思議と神秘を発見し、喜びと賛美に満たされるでしょう。

今朝の聖書箇所は「暗闇」が強調されています。創世前も、旧約の時代も、イエスの時代もそして現代も「暗闇」の中にあるのです。では「聖書のいう暗闇」とは何でしょうか。聖書の暗闇とは、私たちを造られた神さまに背を向けている、神さまとの関係が断絶している、自分中心に生きている。…その結果、この世は罪と汚れに満ちている。これが闇だというのです。 この暗闇に、『光』として主イエス・キリストが来られたのです。

この「光」は二つの目的を持っていました。一つは「愛の光」です。自己中心の、冷たい私たちの心を、人を愛することができる心に変える「光」でした。もう一つは「いのちの光。永遠の命の光」です。イエスは「わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)といわれました。イエスキリストの言葉を聞き、イエスキリストの十字架と復活を信じるものは、「死から命に移っている」のです。

さらに聖書は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(5)という喜びの知らせを告げているのです。喜びと賛美にあふれたクリスマスを迎えましょう。

12/10  山本修一師説教

2023/12/10 週報メッセージ

「お言葉どおり、この身に」 (ルカ書1:26-38)

          

アドベント第一主日を迎えました。本日は「マリアの信仰」を学んでいきましょう。

イエスの誕生物語には、三つの奇跡があったといわれています。①神が人となられたこと、②処女が妊娠したこと、③これをマリアが信じたこと。この中で最も偉大なのは、三番目であると、いわれています。マリアの信仰とは、「聖霊によってイエスの母になる」という召命に、素直に,純粋に応答したものです。

いったいマリアとはどんな人だったのでしょう。聖画などでは、母として完成された、包容力のある「聖母マリア」として描かれていますが、天使の知らせを受けたときのマリアは、いまだあどけなさも残る10代前半の少女でした。平凡で普通の結婚を夢見る人でした。しかし彼女は、主イエスを受け入れるにふさわしい、純心で、思慮深く、信仰の篤い人であったと想像されます。

マリアにとっては、この受胎告知は、前代未聞で、耳を疑うような知らせでした。当初は、「どうしてそのようなことが…」と疑ったのです。喜びはなく、不安と戸惑いでいっぱいでした。そもそも天使に出会うということさえ驚きの出来事でした。

その後、マリアは天使の知らせを思慮深く聞きました。天使の最後の「神にできないことは何一つない」との宣言を聞いて、マリアの信仰は目覚め、大きく変えられました。神の言葉を信じれば、「神にできないことは何一つない」ことに気づいたのです。マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と信仰告白をもって応え、やがて神の子を身ごもることに伴って起こる命の危険、労苦、困難をも乗り越えていくことをも受け入れたのです。

12/3  山本修一師説教

2023/12/3  週報メッセージ

 「慰めに満ちた天国の礼拝」 (ヨハネ黙7:9-17)

          

「礼拝」は、聖書全体のテーマの一つです。創造者であり、救い主であり、王である神さまに、礼拝を捧げることは、地上においても天上においても、私たちの最大の務めです。では正しい礼拝とは何か、正しい礼拝の姿勢・態度とは何かを、聖書に基づいて考えていくことは、とても大切なことです。

「ヨハネの黙示録」は新約聖書の中でも特異で難解な書物ですが、将来起こる最終の出来事を、そして天上ではどのような礼拝が行われているかを教えてくれる貴重な書物です。

1世紀末、初代教会の人々は皇帝礼拝が命じられ、圧政と迫害の中にあって「涙と苦しみの礼拝」を捧げていました。パトモス島に流刑となったヨハネは、「ある主の日」に聖霊に導かれ、天上での幻の出来事を経験します。ヨハネは黙示録に著し、殉教者たちが、天上ではどんなに慰められ、平和と歓喜に満ちた礼拝を捧げている様子を描いています。これを聞いた地上の教会の人々は、大いに励まされたようです

本日の聖書箇所には、天上での礼拝について三つのことが書かれています。第一に神と小羊を中心として、「救い」が高らかに賛美されていることと。第二に礼拝者は「白い衣」(義、きよめ)を着、「ナツメヤシの枝」(勝利と賛美)をもって礼拝を捧げていること。第三に子羊(キリスト)が牧者となって、礼拝者を「命の水の泉」(聖霊)に導かれること…です。

天上の礼拝は、地上の礼拝とはまるで異なっているようですが、あるべき礼拝、将来の希望を伝えるものです。

私たちは、天国の礼拝を目指すこの地上の聖日礼拝で、砕かれた悔いた心をささげて、神の小羊イエス・キリストを礼拝し、いのちの水に満たされようではありませんか。           (11/26  山本修一師説教

2023/11/26 週報メッセージ

「弱さの中の強さ」 (Ⅱコリント12:1-10)

             

ある時パウロは、想像を絶するような神秘的な聖霊体験をしました。それがあまりにも素晴らしかったので、そのことの故に思い上がらないようにと、一つのとげがパウロに与えられました。そのとげは彼の宣教活動を妨げるものでした。パウロはそのとげを取り去ってくださいと主に何度も祈りましたが、主はパウロに応えて言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」文語訳聖書では「我が恵み、汝に足れり」と訳されています。その「とげ」は、パウロにとってはまさに「弱さ」でした。しかし、その「弱さ」こそが、主の「恵み」を働かせる「場」であったのです。ですからパウロはその弱さを誇ると言っているのです。自分が強いと思っている時、私たちは自分の力に頼っています。その時キリストの恵みを見ていません。キリストの恵みに信頼していません。主の恵みは自分の弱さを知った時に、初めて本当に見えてくるのです。弱さの中で発揮されるのです。十字架の主イエスのお姿。それは弱さと無力さの極みのお姿です。しかし主の恵みは、その十字架において最も豊かに発揮されたのです。主はその十字架の上から「我が恵み、汝に足れり」と言っておられるのです。十字架の恵みとは「もうこれ以上、私はあなたに与えることができない」と言われる程の究極の恵みです。「我が恵み汝に足れり。」この点において、私たちには不足も不平もない筈です。これこそが、本当の強さです。「主よ、あなたの恵みは、今、私に十分です。」「主よ、あなたの赦し、あなたの愛、あなたの恵みは、今、私に十分です。」この言葉は、私たちが自分自身の弱さに立ったときに初めて言える言葉です。逆境の中でも、行き詰まりの中でも、主の十字架の恵みは私に十分なのです。私たちは、自らの弱さを自覚した時に、自分の強さではなく、主イエスの強さに依りすがる者とされます。それこそが本当の強さなのです。

11/19  柏明史師説教

2023/11/19 週報メッセージ

「招きとしての礼拝」(礼拝③)

    (ルカ14:15-24)

召天者記念礼拝が終わり、再び、もう少し礼拝について学んでいきます。今回は招きとしての礼拝です。

もうすぐクリスマスの季節に入ります。思い返していただきたいのですが、幼子イエスの誕生に誰が招かれたでしょうか。近くから羊飼いたち、遠くの東方の国から幾人かの博士たち、…だけでした。彼らは幼子を礼拝するためだけに、地図もなく、闇夜に星に導かれて、招かれたのです。礼拝とはなによりも神さまに招かれることを示しています。

主イエスはファリサイ人らの前で「大宴会のたとえ」(15)を話されます。そのたとえでは、神の宴会の招待を受けた人々が順序通りに招待されることをあらわしています。しかし最初に招待されていた人たちは、些細でとるに足りない言い訳をしながら拒否します。彼らは神の律法を守ることに熱心で、真面目で、忠実でしたが、本心は「神の国」より「自分の地位、名誉、プライド」の方を優先しました。ですから「神の招き」(晩餐、宴会)よりも、「この世の生活」の方を大切にしたのです。

この物語は今日の私たちに向けられた言葉です。聖日ごとの礼拝は、じつは「神の国の食事」「神の晩餐会」のひな形であります。かつては、私たちは神さまから遠い「罪人」であり、選ばれていない「異邦人」でした。今や聖日ごとに、私たち一人一人は主の招きを受けています。その主の招きに対して、素直に、進んで、喜んで応答することが礼拝です。そのつもりでいるはずですが、いつのまにか些細な日常的なことで、私事都合で、家事都合で、自己都合で、神さまの招きをお断りしていることはないでしょうか。そして招待されるにふさわしい「礼服」(マタイ22:11)を着て参加しているでしょうか。

(11/12 山本修一師説教)

2023/11/5  週報メッセージ

「愛と真理をもって礼拝する」 (礼拝②)

   (ヨハネ4:16-24) 

主イエスは、サマリアの女に「まことの礼拝」について切々と語られました。イエスの言葉はこれまでの礼拝の概念をまったく変えるものでした。私たちの時代においては、さほど感じられないのですが、旧約時代に生きてきた人にとっては、礼拝の考え、あり方、姿勢を驚くばかりに転換するものでした。その後のキリスト教の礼拝は、①いつでも、どこでも「礼拝」できる。神殿でなくても礼拝できる。②聖霊によって、イエスを知り、父なる神をあがめる。③旧約のいけにえ、儀式をしなくても、ただイエスの贖いを通して、聖なる神に近づくことができる…ものとなりました。

主イエスはサマリアの女に「本物の礼拝」とは何か教えました。最初は心を閉ざしていたのですが、次第に心が開かれ、イエスさまが預言者(19)、続いて救い主であることに気づいたのです。「あなたと話しているこのわたしが、それ(キリスト)である」(26)。 この時、この女性は変わりました。

まず救い主(キリスト)との出会いが礼拝の原点です。私たちも礼拝のたびごとに、主イエス・キリストとの出会い、み言葉との出会い、み言葉の悟りと迫り、を求めていかなければなりません。

次に「霊と真理をもって」とは何かを学びましょう。「霊」とは、「聖霊」のことです。聖霊なくして、イエスを知り、従うことができないのです。ですから霊によって礼拝するには、「悔いて、開かれた、きよい心」が必要となるのです。「真理」とはイエスまたはイエスのみ言葉。イエスご自身、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。「父なる神さまに向って、聖霊が臨在する中で、イエス・キリストの御名によってささげる」…これが三位一体の神への礼拝となるのです。

(10/29 山本修一師説教)

2023/10/22 週報メッセージ

 「ああ、救われた!」(ヨハネ 8:1-11) 

                 

主イエスの敵対者たちは姦淫の現場で捕えた女性を連れて来て、「こういう女は、石で打ち殺せと律法は命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と主イエスを問い詰めました。主は「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。確かにこの女には罪がある。しかしあなた方はどうなのか?罪があるのは彼女だけなのか?この主イエスの一言によって、裁こうとしていた人たちが、逆に裁かれる立場に置かれました。全き聖であり全き義である主イエスの前では、人は、自分の罪に否応なく気付かされます。

やがて年長者から一人去り、二人去り、遂に全部の者が去って行きました。主イエスは女性に「あなたを罪に定める者はいなかったのか」と言われました。これは「全ての人は罪の中にある。だから誰も他人の罪を裁くことができない。しかし、また、誰も罪を赦すことも出来ない。だから、あなたの罪はまだ残っている」という、まことに厳格なお言葉なのです。私は今、本当に恐れなくてはならないお方の前に立っている。彼女はそのことを知らされました。

その彼女に、主イエスが言われました。「私もあなたを罪に定めない。」主イエスは、ご自身が身代わりになって罰を受けるということによって、彼女の罪を赦すと言われたのです。この時、主イエスは既に、十字架での苦しみを味わっておられたのです。主イエスは、彼女に「行きなさい」と言われました。しかし、大罪を犯した彼女の行くところなど何処にもありません。主イエスは、具体的な場所ではなく、「私の愛のうちを行きなさい」と言われたのです。主イエスの愛には、「これからはもう罪を犯してはならない」という切なる願いが込められています。

主イエスは今日も言われています。「行きなさい、私の愛のうちを。これからはもう罪を犯してはならない。いや、私の愛の内に留まっているならば、もう罪を犯そうとはしない筈だ。」

(10/15 柏明史師説教)

2023/10/15 週報メッセージ

「十字架の愛」(神の愛⑧)(Ⅰヨハネ 3:11-18) 

                 

説教者にとって、十字架を語ることは、普段以上に厳粛な気持ちに立たされるものです。それでも心の中は喜びに満ち、光栄に感じています。

十字架はキリスト教信仰にとってはなくてはならないものです。十字架のない教会もありません。では十字架信仰とは何でしょう。十字架信仰とは、人の罪を救済するために、御子イエスが十字架にかけられ、復活されたと信じる信仰です。

十字架は、ローマ帝国のおそるべき極刑でしたが、それ以上に主イエスの使命と目的に驚かされます。御子イエスのご降誕は、「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)ためであり、主の十字架はわたしたちの罪を赦すためでありました。これが十字架の意味です。

私たちは教会歴が長くなると、この驚くべき真理が、驚きを通過して何も感じなくなってしまう傾向があります。わたしたちの十字架信仰は、十字架についての知識を積むこと、学ぶことではありません。キリストの十字架は「我が罪のためなり」との一事を知ることであり、信じることであり、生涯を通して究めていくことであります。

十字架の愛のすばらしさは、たとえようがありません。十字架の愛は、第一に「与える愛」でした。それは犠牲の愛であり、徹底的に与える愛でありいのちをささげる愛でした。第二は「赦しの愛」でした。私たちは人を赦すことができませんが、主イエスがいのちをささげて多くの罪を赦してくださったのですから、私たちも人の罪を赦すことができるのです。第三は、「最も崇高な愛」でした。十字架の愛は 言葉では表現できないほどの純粋で、高潔で、崇高であります。

この十字架の愛を慕い求める者には、その愛は注がれるのです。

最後に十字架の力です。それは物理的な力ではなく愛の力です。弟子たちは弱さから強さへ、恐れから勇気へ、疑うものから確信するものへ、大きく変えられました。十字架は人の人生を変える力があるのです。

(10/8 山本修一師説教)

2023/10/1 週報メッセージ

「神の選びと愛」(神の愛⑦)(ローマ9:6-18) 

私たちは、生まれてからこの方、数え切れない選択をしてきました。 「人は、毎日、小さなことから、大きなことまで1000個以上の決断をしている」「現在の私たちは過去の選択の結晶である」といわれているのです。

聖書の中には「選び」の言葉が多くあります。その「選び」が静かに、ときには激しく強調されています。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(15)。 これは創造主である神の被造物である人間に対する絶対的な主権を表現しています。

いくつかの「選び」を振り返ってみましょう。なぜ神は、弱小のイスラエル民族を神の民として選ばれたのか、なぜ最初の子イシュマエルではなく、二番目の子イサクが神の子として選ばれたのか。なぜ長男エサウがしりぞけられ、不正の手段をつくした次男ヤコブが選ばれることになったのか。なぜ神は敵対者・迫害者であるパウロを選ばれたのでしょうか。

では私たちはどうでしょうか。なぜ私たちは、洗礼を受け、この教会の会員になり、教会に奉仕をしているのでしょう。私たちが真面目で、従順で、優しく、優秀だから選ばれたのでしょうか。これが『神の選び』の問題です。 

私たちは、自らの意思と選択で自由に振舞っているように見えますが、実は、神さまの大きな、一方的なご計画の中で生かされているに過ぎないのです。「神の選び」は、信じる者にとっては、「愛」であり、「恵み」なのです。

私たちは、神さまのご計画、御心は知ることはできません。なぜあの人は選ばれ、この人は選ばれなかったのか、なぜ救われる者と救われない者とが分けられるのか。なぜ世の初めに神さまは救いにあずかる者を選ばれていたのか。選びの問題は、人間の理解、見識を、そして民族や国や時代の壁を越えているのです。

私たちは、なぜを追求することより、神さまから「選ばれた事実」「選ばれた恵み」「選びの愛」を感謝して歩みましょう。

(10/1 山本修一師説教)