「神の定めた生き方」2021・5・9説教要旨

                    朝位真士

今日は1コリント7・17~24節を通して聖書を学んで行きましょう。この17~24節は召された時の身分にとどまるべき事を語っています。17節の「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」との言葉を受けて、結婚問題から転じて信者の身分問題を挿入したものである。かれは奴隷制度の禁止という社会問題よりも、(各自は、召されたままの状態にとどまって)(召された状態ままで、神のみまえにいるべきである)と(20,24)、個人の魂の問題を力説する。彼はここまではやかましい割礼問題にも超越しているように(18,19)、奴隷制度の善悪にふれずに、いかなる境遇のなかにあっても主との関係を意識して(23,主の血によって買い取られた身分であるから)、

聖徒らしく神と共に、神の御前に生活すべきことを勧める(1ペテロ2・18~20)。私達はどのような身分であっても、この心得が必要である。

1コリント7・17~24節を見て下さい。コリント教会の人々は、夫婦のきずなの問題のほかに、社会的身分においても何かしなければならないと思い込んで、騒いでいたようであります。そこで19,20,24節を見て下さい。人間はやたらに騒いで、結局は有害無益に終わることがよくあります。だから21節をご覧下さい。と言うパウロの一見無批判的な言葉に対して不満を感じる人も多いと思います。しかしパウロのやり方は、巨大な氷山を崩そうとして必死につるはしを振りかざしてすぐに疲弊してしまうのではなく、太陽の熱で静かにしかし根本的に溶かし去る道なのです。(ピレモン16~17)p399もう1度17節をみてください。20節も見て下さい。神から賜ったものとしてそこに使命を自覚して生きるべきであります。キリスト者は、毎日の平凡な生活の中に、神の栄光を現わすことです・すなわち、神の御旨に従って「歩む」ことです。私達はキリストの奴隷です。すべてをキリストの御心に服従して生活する。だからキリスト教会においては全てが平等です。お金持ち、貧しいひとも、教養のある人も、ない人の老人も若者も子供も大人も神の前では平等です。すべてのキリスト者は、キリストの尊い贖いの血で「買いとられた」者であります。(1ペテロ1・18~19)p429もはや罪という古い主人の下にはいないのです。新しい主イエス・キリストに仕えて生きなければなりません。そしてキリストに仕え、キリストのものとなりきることが、霊的に自由に徹することであります。(ガラ5・1,13)p349

結び

もう1度7・17~24節を見て下さい。最後の24節は17節以下の精神をもう1度総括してみたのであります。キリスト者は、強いて外的変化を求めず、召されたままの状態でいなさいといっています。ただ大事な事は、「神の御前にいる」という心がけと態度であります。これさえあれば、どんな境遇に中にも、処することが出来ます。

フィリピ4・10~13節見て下さい。p366

ウイリアムバークレーこのコリント教会ここの箇所7・17~24節を召されたままの状態で神に仕える事と言っています。「今ある状態でキリスト者たれ」と言っています。パウロは、キリスト教の機能は人に新しい生活を与えることではなく、彼の古い生活を新しくすることであると言っています。キリスト者はキリストに買いとられたもの、従ってキリストの個人的所有物である。だから人間的身分はなんであれ、彼は全ての人間から自由である。今や

彼はイエス・キリストの所有物なのだから。どんなに卑しい仕事でも、もはや人のためにするのではなく、キリストのためにするのであります。