「旧週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2018/5/13 週報メッセージ

   母の日に当たって
                                                                                                              朝位 真士
  今日は「母の日」です。母への感謝を表す日です。昨年も記載したと思いますが、母の日の起源について記します。
 アメリカ・ヴァージニア州のウェブスターにあるメソジスト教会に、アンナ・M・ジャーヴィスという教会学校の教師として二六年間奉仕した夫人がいました。ジャービス夫人が亡くなり、教会での追悼会の時、娘のアンナは以前お母さんから聞いた「あなたの父と母とを敬え」の箇所を思い出し、多くのカーネーションの花をささげ、お母さんを偲びました。このことが列席者一同に大きな感動を与え、やがて有名な百貨店王と言われ、後に大臣になっても教会学校の校長を続けたジョン・ワナメーカーの賛同を得、同氏の店頭で五月第二日曜日に盛大な記念会が催されました。これが母の日の始まりで、一九〇八年(明治四一年)のことでした。一九一四年にアメリカ議会は五月第二日曜日を母の日と定め、国旗を掲げてお母さんに敬意を表すことになり、やがて母の日は全世界に広まったのです。 
 個人的に恐縮ですが、私の母は一九六五年六月二五日午前〇時四五分頃、五〇歳の若さで召天しました。母は大変世話好きで、私共には優しく、従業員の方々にも親切であって、皆から慕われていました。当時私は、九州の博多で就職をしていまして、日曜日は教会に出席していました。汽車で百キロ位ある小倉から博多の私の寮へ来て、留守の時は置き手紙と弁当を置いて帰りました。私がもう少し熱心に信仰を勧めていたら、きっと信者になったと思います。父は晩年、本田弘慈先生によって導かれ、キリスト教徒となり、私が司式をしてキリスト教式で葬儀をいたしました。
 私の母教会は北九州復興教会です。一九六一年一二月二四日に受洗しました。一九九四年に牧師として桜ヶ丘教会に赴任して今日迄ありますが、今迄支えられているのは母教会のお祈りのおかげと神に感謝をしています。

2018/5/6 週報メッセージ

   唯一神信仰の宗教
                                                                                                             朝位 真士
  キリスト教は唯一の神を信じ礼拝する宗教です。多くの神々を拝む多神教ではなく、その多神教から進化発展してきた宗教の一つでもありません。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。……わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主。これらのことをするものである。」(イザヤ四五・五~七)ここで神は、唯一の存在であると主張しています。真理が唯一絶対であるように、真の神も唯一です。また神は、ご自身を万物の創造者であり、さらに繁栄やわざわいなど人間の運命を、ご自分の意のままに決定する主権者であるとも語っています。
 キリスト教は、この真の神を神として信じ、従い、すべての栄光をこの神に帰する宗教です。したがって、真の神は、偶像礼拝というものを、大いなる罪として厳しく禁じています。モーセの十戒にこう記されています。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神。わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト二〇・三~六)
  ここでは、偶像を造ることや拝むことが固く禁じられています。反面、真の神を信じ、愛し、そのご意志に従って生きるところには、その祝福が親から子へ、子から孫へと引き継がれ、「千代」にまで及ぶという、驚くべき約束が記されています。

2018/4/29 週報メッセージ

   ハイデルベルク信仰問答より
                                                                                                              朝位 真士
  第七問 それでは、そのような、人間の腐敗した性質は、どこから来たのですか。
 答 楽園における、わたしたちの最初の祖先、アダムとエバの堕落と不従順からであります。そこで、わたしたちの本性は、毒されてしまったので、わたしたちは、すべて、罪の中で孕まれ、生まれるのであります。創三。ロマ五・一二、一八、一九。詩五一・五、七。ヨハ三・六。
 第八問 しかし、わたしたちは、善にたいしては、まったく無能力であり、あらゆる悪に傾く傾向を持つほどに、腐敗してしまっているのでしょうか。
 答 そうです。わたしたちが、神の御霊によって、再び生まれるのではないならば。創六・五。八、二一。ヨブ一四・四、一五、一五、三五。イザ五三・六。ヨハ三・六。テト三・三。ヨハ三・五。Ⅰコリ一二・三。Ⅱコリ三・五。
 第九問  それでは、神は、律法において、人間が行うことのできないことを要求することによって、人間に不正を為し給うことにはならないでしょうか。
 答 いいえ、そうではありません。神は、それを行うことができるように人間を、創造されたからです。けれども、人間は、悪魔にそそのかされて、故意の不従順によって、自分自身と、すべての子孫とから、この賜物を奪ってしまったからです。創一・三一。エフェ四・二四。創三・四~六。ロマ五・一二。Ⅰテモ二・一三、一四。
 第一〇問 神は、このような不従順と背反を、罰しないで、見逃そうとなさるのでしょうか。
 答 いいえ、決して。神は、人間の生まれながらの罪にも現行罪にも、はげしく、怒っておられます。神は、これらの罪を、正しい裁きによって、この世においても、永遠にも、罰せずにはおかれません。

2018/4/22 週報メッセージ

   ハイデルベルク信仰問答より
                                                                朝位 真士
  問三 何によって、あなたは、自分の悲惨を認識するのですか。
 答   神の律法によってであります。(ローマ三・一〇)
 問四 それでは、神の律法は、わたしたちに、何を要求しているので
     しょうか。
  答   キリストは、マタイ福音書二二章において、律法を要約されま
     した。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あな
     たの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟で
     ある。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分の
     ように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基
     づいている。」(レビ一九・一八、申六・五、マコ一二・三〇
     ルカ一〇・二七)
 問五 あなたは、これらのすべてを、完全に守ることができますか。
 答   いいえ。私は、生来、神と隣人を憎む傾向を持っているからで
     す。(ロマ三・一〇、Ⅰヨハ一・八、創六・五、八・二、エレ
    一七・九、ロマ七・二三、八・七、エフ二・三、テト三・三)
 問六 それでは、神が人間をそんなに悪く、心の捻れたものに、創造
     されたのでしょうか。
 答   いいえ、そうではありません。神は、人間を、善く、また、ご自身
     の像に似せて、すなわち、真の義と聖とにおいて創造されました。
     それは、人間が、自分の創造主である神を正しく認識し、心から
     愛し、永遠の祝福の中に神と共に生き、神をほめたたえ、賛美
     するためであります。                     

2018/4/15 週報メッセージ

   二〇一八年ホ群年会に出席して
                                                                朝位 真士
 四月三日(火)~四日(水)、ホ群年会が越谷コミュニティセンター・ポ
ルティコホールで開催され、群の教職・信徒が全国から百数十名参加し
た。主題「賜物を生かそう」、副題「祈れよ、仕えよ、証しせよ」のも
とに行われた。開会礼拝、説教、久多良木師、司会、川村姉。聖会Ⅰ、
説教、島隆三師、立証、吉武真理師、司会、山本博之師。聖会Ⅱ・派遣
式、説教、村上義治師、司会、山田称子師、派遣式、新委員長横山基生
師。事務会・追悼式、司会、三枝育代師。レセプション。二日目、事務
会Ⅱ・Ⅲ、東京聖書学校後援会、信徒会、教師会。このような例年通り
のプログラムであったが、私が気づいたことを記載したい。
 六年間重責を担われた委員長村上義治先生が退任、副委員長久多良木
先生も退任され、東京聖書学校の校長代行になられた。副委員長、東京
聖書学校副校長に大友英樹先生が選任された。ホ群委員も改選されて、
新委員に佐藤泉先生、伊奈聡先生が選ばれた。群の執行部の若返りであ
る。私は一年間の期限で事務局をお手伝いするようになった。派遣式が
あり、東京聖書学校には宮崎清水町教会より原田彰久先生、のぞみ先生
が赴任された。十近くの教会で異動があった。西海満希子先生が教授を
引退され、フリーの立場で全教会をご指導されることになった。
 二〇一八年度、ホ群も教会も新しい出発である。皆様方のお祈りとご
支援を賜りたく思う。

2018/4/8 週報メッセージ

   ハイデルベルク信仰問答より
                                                                 朝位 真士
  唯一の慰めについて、問一、生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰
めは、何ですか。答、わたしの唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、わ
たしの体も魂も、わたしのものではなく、わたしの真実の救い主イエス
・キリストの所有(もの)であるということです。
 主は尊い血をもって、わたしのすべての罪の代価を完全に支払ってく
ださり、わたしを悪魔のすべての支配から贖い出してくださいました。
主は、今も、天にいますわたしの父のみこころでなければ、私の頭の髪
の毛一本も落ちることのないように、いな、すべてのことがわたしの救
いに役立つように、わたしを護っていてくださいます。それゆえ、主
は、ご自身の聖霊によって、わたしに、永遠の生命(いのち)を保証し、今からの
ちは、主のために生きることを、心から喜び、進んでそうすることがで
きるようにしてくださるのです。
  問二、この唯一の慰めの中で、あなたが喜んで、生き、また死ぬこと
ができるために、あなたはいくつのことを知らなければなりませんか。
答、三つのことであります。第一に、わたしの罪と悲惨がどんなに大き
なものであるかということ。第二に、わたしは、どのようにして、わた
しのすべての罪と悲惨から救い出されるかということ。第三に、わたし
は、どのように、この救いを神に感謝すべきかということです。
 私は、あらためて、ハイデルベルク信仰問答の適確な問と答に感謝い
たしました。

2018/4/1 週報メッセージ

   復活祭(イースター)を迎えて
                                                               朝位 真士
  今日はイースター礼拝です。私は五七回目のイースターを迎えます。
イースターは毎年日付が変化します。この日はキリストの復活を記念す
る日であり、紀元(AD)三二五年のニカヤ会議にて、春分の日の後の
第一の満月後の日曜日と定められました。今年は四月一日です。二〇一
八年度の最初の聖日礼拝が、キリストの復活されたイースター礼拝であ
るということは、神様の深い御摂理であると感じます。昨年は、教会に
おいても、個々人にとっても、世界においても、いろいろなことがあっ
たと思います。私自身も大変ショックな出来事に遭遇しました。具体的
には申し上げられませんが、ホーリネス信仰の基本をもう一度反省させ
られています。
 イエス・キリストは十字架の死後三日目、週の初めの日(マタイ二八
章・マルコ一六章・ルカ二四章・ヨハネ二〇章)、すなわち日曜日に復
活されました。キリストの復活によって、罪の結果であり人間の最大の
敵である死に勝利がもたらされたこの日を記念し、教会では特別礼拝、
聖餐式などが行われます。
 今年度、桜ヶ丘教会は創立九五周年を迎えます。いろいろな行事が予
定されていますが、もう一度ホーリネス信仰の原点、「神の御心は、あ
なたがたが聖なる者となることです」(Ⅰテサロニケ四・三)を思い出
したいと思います。きよめの原点は神の御心に帰ることだと思います。
神の御旨、御心を優先して信仰生活を送っていきたいと思います。

2018/3/25 週報メッセージ

   最近恵まれた聖句と感想
                                                                                                            朝位 真士
  「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴一九・二一)
 「あなたの業を主にゆだねれば計らうことは固く立つ。」(箴一六・三)
 「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」(コヘレト一一・一)
  最初の二つの箴言聖句は、会堂建設の時、一九九六年に与えられたものである。いろんな困難な状況であった。工事契約を結んだ直後に周囲の猛反対により一年間工事が延期され、返済計画も数年で資金がショートするとの専門家の意見を受け、私共は唯ひたすら祈りに祈った。毎週の祈祷会は役員をはじめ信徒の方々と一心に神に祈り続けた。主は祈りに答えてくださり、一年延期の工事が開始され、一九九七年一二月一七日新会堂に引越し、一九九八年二月に献堂式が行われた。二〇年のローンも一五年余で完済された。ハレルヤ!!
  三つ目の聖句のコヘレト一一・一は、元来慈善行為を勧めたものだとの説もあるが、伝道に関してもこの言葉がよく引用される。故榎本保郎先生は、『旧約聖書一日一章』の中で讃美歌五三六番を引用している。
 一、むくいをのぞまで、ひとにあたえよ/こは主のかしこき、みむねならずや
   水の上に落ちて、ながれしたねも/いずこのきしにか、生いたつものを
 二、あさきこころもて、ことをはからず/みむねのまにまに、ひたすらはげめ
   かぜに折られしと、見えし若木の/おもわぬ木陰に、ひともや宿さん
  ある牧師は二十年間毎週教会の印刷物をポスティングして、学校の教師家族が全員救われたという。現在その教会の中心的な証し人として、教会のために全家族を挙げて御用しているということを伺った。主の御名はほむべきかな。ハレルヤ!!

2018/3/18 週報メッセージ

   最近感じる事                                                                 
                                                                                                            朝位 真士
  Ⅰテモテ二章一~二節に、「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」とあります。私は神学生時代(一九七一年~七五年)に、淀橋教会の小原十三司先生の御指導によって毎朝五時半の早天祈祷会に出席していました。一通りの祈りが終わる頃、いつも右記の御言葉を皆で読み、とりなしの祈りを全員でさせていただいたことを、今も昨日のことのように思い出すのであります。
 現代社会は大変複雑困難です。政治、経済、教育等のリーダーのために、特にとりなしの祈りが必要であると痛切に感じています。あの神学生時代のごとく、熱心な祈りをしているだろうかと、反省しています。今はレント(受難節)の時期であり、四月一日(日)はイースター(復活節)礼拝です。私共は今一度、イエス様がよく祈られたごとく、信仰の原点である祈りを熱くする必要があります。
 教会の成長は、人が増えていく、あるいは財政的に強くなっていく、またいろいろな活動ができるようになることもそうですが、それ以上に教会を形成している一人ひとりがキリスト者として成長することだとパウロは考えていたのです。教会の役員の組織を決めたり、伝道の作戦を立てるだけでなく、祈りが教会と個人とを健全に成長させていく力であり、その拠り所であるとパウロは語っています。
 現代は異端が横行しています。ものみの塔や統一教会、幕屋(原始福音)、クリスチャントゥデイ等、キリスト教まがいの宗教やインターネット通信が横行しています。なお一層祈りの手を挙げて、神に祈りましょう。 

2018/3/11 週報メッセージ

   私の霊的原動力
                                                                                                               朝位 真士
  二月一四日から三月三一日まで、四旬節(受難節、レント)に入っています。私は主の御苦難を忍びつつ時を過ごしています。最近与えられた聖句は、ヨハネの手紙三、二節「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています」です。最近、病気の方々からメールや電話をいただくことが多くあります。二〇一七年度第二回教会総会のために大変な祈りを要し、私の出席している朝祷会(九段、代々木、青山、早稲田、池袋、イグナチオ、武蔵野)等で、皆様方にお祈りしていただきました。おかげで二月二五日、無事に終えることができ、感謝しています。
 個人的には、早朝に起床してデボーションに一時間を用いています。もちろん毎週の祈祷会の準備と礼拝メッセージの準備にも時を用いています。また多くの方々からとりなしの祈りをささげていただいています。祈って祈られているという仲間がいるというのは、なんと幸いなことでしょう。礼拝に出席してお会いする方々によって本当に祈られている幸いを神様に感謝しています。礼拝に出席する方々が常に考えなくてはならないことは、まず礼拝のために祈ることです。礼拝は前奏から後奏まで、すべてが祈りのうちに導かれなくてはならないこと、それは出席者全員が祈りつつ時間を過ごさなくてはならないということです。もし私たちが礼拝に出席して、少しも恵まれなかったとすれば、それは御用する者はもちろん、出席者の霊的責任が問われることです。
 来週の礼拝から、ぞうぞ御用する方々のためにお祈りして支援してください。あなた方もきっと霊的祝福をいただけると信じます。