榊原紀惠子 のすべての投稿

2015/11/1 週報メッセージ

   召天者記念礼拝を迎えて
                                                                                                        朝位 真士
  日本キリスト教団では、11月の第1聖日が「聖徒の日」となっています。この日は、信仰の先輩たちのことを想起しながら、お互いが担っている使命を自覚することが必要です。この「召天者記念礼拝」に特別な基準はありませんが、キリスト教の歴史と伝統の中では、死後3日目、9日目、40日目など、主の復活の告知を表す3またはそれをさらに3倍した9、それに聖書的に象徴的な40に基づいた日数、年数などによる考え方があったようです。教会の暦に関連して死者を記念することがキリストにあって意味づけられ、関係者が集まってもつ記念会に「主にあって共に生き、共に主をあかしする」性格が明らかにされるからです。教団の教会としての公同の記念礼拝は、聖徒の日、復活節、あるいは地方によっては日本のお盆の頃に関係者を集めて行われます。
 仏教の僧侶から牧師になられた松岡先生が、ある文章で次のように書いていました。
 
  神様に対する信頼ー聖書は、神様が天地万物を創造し、私たち人間を造られたという記述で始まっていま
 す。すべてのことが神様によって動かされ、導かれているということが、聖書を貫くテーマであり、キリスト教の
 信仰の根本です。したがって、いつも主役は神様です。葬儀でも、主役は神様なのです。神様がその人を救
 い、天国に迎え入れてくださるのです。亡くなった人がこれから修行をして、仏になるために葬儀を行う仏式の
 葬儀は、亡くなった人に重点が置かれます。キリスト教の葬儀では、何か神様ばかりが注目され、亡くなった
 人はあまり重要視されていないような感じがするかもしれません。このことも、キリスト教の信仰における、神
 様に対する絶対的な信頼の表れといえるでしょう。
 
 信じる人がこの世の命を終えることは、最後まで信仰を保ち続けたということであり、間違いなく天国に迎え入れられるのだと信じるのです。

2015/10/25 週報メッセージ

   宗教改革記念を間近に控えて
                                                                                                        朝位 真士
  10月31日に近い聖日は、プロテスタント教会では「宗教改革記念日」として礼拝を用います。マルティン・ルター(1483~1546)はドイツ中部の農村に生まれ、1505年にエルフルト大学文学部を終え、法学部入学直後、雷雨の中で死の恐怖を経験して修道士になる決意をし、同年アウグスチヌス派修道院に入り、神学博士となり、ヴィッテンベルク大学神学部教授に就任。1517年に同大学の門扉に「95ヶ条の提題」を提示したのが
10月31日頃です。
 プロテスタントの三大原理は、①聖書のみ、②万人祭司、③信仰のみです。カトリックは聖書の他に伝統や神の召命を受けた聖職者を重んじています。プロテスタント教会では、聖職者だけでなくすべての信徒が神にとりなしの祈りをすることができ、直接的に神と交わることができるのです。そして端的にイエス・キリストを救い主として信仰する時に、すべての人が救われます。
 ローマ1章17節「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」「正しい者は信仰によって生きる」という言葉はハバクク書2章4節の引用ですが、義人は生き残ります。「生きる」とは「救われて生きる」という意味であり、「信仰によって」は、「信じるすべての人」に相対しています。「正しい人」「義人」は、神の義を与えられた人のことです。救いを受けるうえで、キリストにおいて与えられる神の義にのみより頼む信仰は、主にのみより頼む旧約の信仰と本質的に同一のものです。
 ルターの宗教改革を前にして、私たちの信仰をもう一度振り返る必要があるのではないでしょうか。

10月25日チャペルコンサート

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写真:K/Kさん提供
暖かい秋日和が続き、心も晴れやかに過ごすことができ、紅葉の時がそこまで来ていることを忘れてしまいそうです。
さて、桜ヶ丘教会では、2年前から10月のこの時期にチャペルコンサートを開催しています。
2015年度は、以下の日時です。
10月25日(日曜日)
午後1時から
ヴァイオリン:吉岡篤志氏
ピアノ:村岡紗由子氏
メッセージ:朝位真士牧師
どうぞ、どなた様もご自由においでいただき、芸術の秋にふさわしいひと時を教会でお過ごしいただければと思います。
 なお、10月18日の聖日礼拝の後に、M兄弟とT姉妹の召天を覚え、お二人をしのぶ会を開催することができました。
 婦人会とホープ会を合同で開催し、昼食を取りながら、思い出話などをさせていただき、お二人がまるで同席しているような気分になりました。
私たちは、桜ヶ丘教会が、今後とも主に用いられるように、忠実な主の僕として歩んでいきたいと思います。
桜ヶ丘教会が、十二分に教会としての働きができますように、主に一人ひとりを導いでいただきましょう。背伸びをしようとしても、主がすべてをご存知です。
日々、主に育てていただき、各自、目標を持たせていただき、進んでいきたいと思います。

2015/10/18 週報メッセージ

   JHA30周年記念大会に出席して 
                                                                                                          朝位 真士
 
  10月12日から13日迄、日本聖化協力会(JHA)の30周年記念大会に出席した。講師はジョン・N・オズワルト博士である。オハイオ州出身で、テイラー大学、アズベリー神学校を卒業後、プランダイス大学で哲学博士号を取得。学びの分野は旧約学、特に古代中東の宗教との対比におけるヘブル宗教の成立である。アズベリー神学校、トリニティ神学校、ウェスレー・ビブリカル神学校で旧約学を教え、一時アズベリー大学の学長も務められた。現在はアズベリー神学校の客員教授を務めておられる。
 聖会Ⅰでは、ローマ12章1~2節「変貌される生涯」と題して、明け渡すということについて4つの点を語られた。①自分の意志を明け渡す。②自分の達成感を明け渡す。③自分を引き上げようとすることを明け渡す。④自己満足を明け渡す。結論は、この世と調子を合わせず、自分の体を神に献げることである。
 聖会Ⅱは、Ⅰヨハネ4章7~21節「全き愛」。クリスチャンの信仰を証明するものは、①従順②愛③信仰である。愛は一般的に、①ストルゲー(幼な子に対する母親の愛)、②フィレオ(友達の親愛の情)、③エロス(一般的に性的愛と言われるが、自分が満たされるために必要な愛)の3つと言われる。しかし聖書の語る愛はアガパオー、アガペー、神の愛であり、自分を否定し誰かのために与えていく犠牲的愛である。旧約ではヘセドといい、慈愛ともいう。無償の恵み、ホセア書に出てくる不変不滅の愛である。
 聖化とは、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」(Ⅰテサ4章3節)にある。私たちが聖く生きることは主の御心にかなったことであり、その生涯は喜びと幸いに満ちている。この聖会は私の人生にとっても新たな決意の時となり、誕生月に2つの誕生を迎えた。                                     

2015/10/11週報メッセージ

   誕生日を迎えて
                                                                                                          朝位 真士
 
  10月6日、私は誕生日を迎えました。詩編139編13~14節「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。」
 18歳で教会に導かれ、受洗し、会社に勤務し、献身し、神学校を卒業して、40年経過。その間、2つの教会を牧会させていただき、東京へ転任して21年目。新会堂建設の恵みにもあずかりました。しかし、現住陪餐の半数以上を天国へ送りました。私は最近、開拓伝道と教会形成のため、密室の祈りを欠かせません。教会の諸集会は勿論ですが、他の奉仕として、キリスト伝道会のエヴァンジェリスト、教誨師、篤志面接委員として、小さな奉仕をさせていただいています。近所では、ボランティアと町内の清掃隊のメンバーとして奉仕させていただいています。最近嬉しいことは、携帯用の聖餐式セットを教会で購入していただいたので、ホームに入っておられる方や、御自宅におられる方で高齢のために教会に来られなくなった方の所へ、信者の有志の方々と訪問させていただくことです。また礼拝に来られなくなった方々を訪問したり、印刷物を送付させていただいたり、メールで連絡を取り安否確認をさせていただき、毎日教会員をはじめ、教会に関係しておられる方々のお祈りをさせていただきます。
 祈るときには自分も恵まれ、信仰が生き生きとしてくるものです。クリスチャンの実業家の方々のためにも、キリスト教関係の事業のため、キリスト教団体のため、世界の平和、政治・経済、教育のためにもお祈りしています。祈りは時間が足りません。本当に祈りは楽しいものです。皆様方も、毎日少しずつでも祈りの世界に御一緒できればと祈っています。教会の将来のために、特にお祈りください。

10月を迎えて

イメージ 1写真:K/Kさん提供
10月の朝は、秋が深まって来ていることを私たちに知らせてくれています。
さて、10月第一聖日の桜ヶ丘教会では、この夏に2人の信徒の方が天に召されて寂しさを隠せませんが、新たに桜ヶ丘教会の礼拝に御出席になる方も与えられて、少し嬉しく思っております。
また、10月1日の昼の祈祷会にも、新たな方がおいでくださいました。
日曜日礼拝では、高価なナルドの香油をイエスさまの頭に注がれた女の話を通して、最も大切なものを献げることの意味を教えていただきました。
女の注いだ香油は、お金に換えれば貧しい多くの人に施すことも出来ました。
そのことでそこにいた何人かは、女に憤慨して厳しくとがめたとあります。
しかし、イエスは、女のイエスに対する信頼を理解され、女が一生を通じて1回しかないイエスに対する配慮の機会をとらえ、女が十分な愛をしめしたことに、重要な意味があることを諭されたのです。神に対する信頼の行為は、たとい人の目に愚かに見えなんの意味もない無駄なものと思われても、キリストによって意味が与えられるというのです。永遠性を持った行為となると教えていただきました。
ウイリアムバークレーが、この語全体を愛の行為として4つ上げているとのことでした。
1つは、女のしたことは美しい事であった。
2つは、もし愛が真の愛であれば、常にそこにはある種の浪費があるに違いない。
3つは、愛はそれを行う機会がただ1回限りしかないことがあるということを知っている。
4つは、もう一度我々はイエスに破りがたい確信をみるのである。
神様に献げるときに、余っているものを献げるというような事ではなく、大切なものを献げることが重要であるということを、この女の香油注ぎの話から理解できます。
どうぞ、与えていただいている命や時間、財的なものなど・・・・恵みを感謝し、主にささげることを考えたいものです。

2015/10/4 週報メッセージ

   洗礼を受けるにあたって
                                                                                                        朝位 真士
  9月20日の礼拝で、O姉が受洗されました。姉は昨年12月21日のクリスマス礼拝より求道生活をされ、洗礼を受けるように導かれました。本人の許可を得て、次の文章を転記します。
 
  仕事をしていて人の口より神様より他に知らない事が聞こえて来たり、テレビ等で教えてもらった事など、
 神様に生かされている自分を感じました。イエス・キリスト様だとは、気づかない私が神社にお願い事を沢山
 していました。ある時、姉と私が電話していて、クリスチャンである姉が私に「御利益信仰ばかりではだめ
 よ」と言われたので、私もそうかもしれないと思い、「キリスト教は人格の神様なのよ」と言われ、どんな神
 様なのかしらと思っていたら、姉より「教会に行ってみなさい。調べてあげるから」と言われ、電話番号を教
 えてあげるからと言われ、電話番号を教えてもらい桜ヶ丘教会に問い合わせたら、午前十時半から礼拝をや
 っていますから、どうぞという答えがありましたので、二〇一四年十二月二十一日に行きました。私も最初は
 何かわからなかったが皆様に教えて頂き無事過ぎました。こちらの神様に信仰しなかったら、お恵みを沢山い
 ただけるのに申し訳がないので、こちらの教会に通う事が良いのではと思いました。生きた神様だと思いまし
 た。
  これがきっかけでした。今は神様がいつもいらして下さるのを感じ、未熟な私でも神様に教えていただきな
 がら、成長するのが楽しみです。こんな私でも神様は愛し救って下さったのだと感謝しています。皆様には今
 後とも御指導、お導き下さる様よろしくお願い申し上げます。最後に御言葉を引用します。「わたしは植え、
 アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(Ⅰコリ3・6)
 
 O姉の信仰が成長される事を神に祈るものであります。

2015/9/27 週報メッセージ

   この頃の出来事
                                                                                                       朝位 真士
  今年の夏から秋にかけて私自身経験したことは、天国へ召される方が例年になく多かったことです。最初の方はS先生です。7月8日に82歳で召天されました。6月24日に先生のお宅を訪問し、病床の先生にお会いしました。入信・献身・結婚・牧会等についてハッキリとした口調で約1時間半語ってくださり、その後2週間余で天国へ旅立たれました。
 次は私共の教会の役員を長くされたM長老です。8月17日午前2時過ぎに天国へ旅立たれた。88歳9ヶ月の生涯でした。7月31日にM夫人と娘さんと3人にお会いし、聖書を引用してお祈りをし、家を出ました。彼は90周年誌に次のような文章を記載しています。「教会役員として、また会堂建設の会計担当者として私も会堂建設に関わらせていただきました。……これからは、与えられたこの立派な会堂に溢れるほどの会衆と共に礼拝を守ることを目標として頑張っていけたらと思っています。」私共はM長老の遺志を思い、天にいるM長老をはじめ桜ヶ丘教会の方々の祈りを実践したいと思います。
 次はT姉です。9月3日に74歳6ヶ月で召天されました。私は8月28日午後訪問させていただきました。T姉とT兄、娘さんの3人とお会いし、本人の前で葬儀で賛美する曲目や聖書の言葉、詩23編について話をしました。まだ意識がハッキリして話もできるT姉を交えての準備でした。そのお顔は平安と確信に満ちておられました。
 私は「天に一人を増しぬ」という詩を思い出しました。「天に一人を増しぬ/家には一人を減じたり」私は桜ヶ丘教会に来て、数十人の方々が天国へ旅立つお手伝いをさせていただきました。天国でこれらの方々と主イエスを中心にお交わりができることを楽しみにしています。

敬老感謝の礼拝

イメージ 1写真:K/Kさん提供
 2015年9月は、敬老の日を迎え、シルバーウイークと称される連続した祝日を迎え、はや最終日が過ぎようとしています。新緑の5月ゴールデンウイークとは異なり、どことなく実りの秋の落ち着きがありますね。
 9月20日(日曜日)の礼拝では、75歳以上の方々に感謝の思いをお伝えいたしました。
 高齢者になると、「1弱ってくる、2退かなくてはならない、3終わりに近づく」という3つのことに直面することについてお話がありました。また、「1整理する、2準備する、3チャレンジする」ということについてもお話をうかがい、高齢期の豊かな人生のあり方とはについて、考えさせられました。
 また、20日の礼拝では、O姉妹の洗礼式が執り行われました。とても静かで、感動的な主のお導きを感じるものでした。O姉妹の穏やかですが、明確に主に委ねて生きようとされている心を感じる洗礼式でした。これまで歩まれてきた人生の中で、泉のほとりにたどり着いた安堵感が満ち溢れていました。
 神様が新たにお仲間を加えてくださり、教会員一同本当に嬉しく思っております。主に感謝するとともに、O姉妹に心からお祝い申し上げ下ます。
 礼拝のお話は、「目を覚ましていなさい」というテーマでした。(マルコによる福音書第13章32~37節) 主の恵みは誰にでも注がれています。恵みを受けて聖霊の実を実らせて行く必要があります。愛の実を身にまとい、平和の主に仕えていくことができるように、絶えず目を覚ましていたいと思います。主は実をつけない木にも、栄養を与え、実をつけることができるように忍耐をもって憐れんでくださいます。
しかし、その日はいつ来るか誰も知らないのですから、私たちは、目を覚まして過ごすことがどのような事なのか、しっかり心に受け止めて、過ごしてまいりましょう。
 

2015/9/20 週報メッセージ

   私の洗礼式の思い出                                                                 
                                                                                                          朝位 真士
 
  私は1961年12月24日に、教団ホーリネスの群北九州復興教会の故山中日出刃先生によって受洗いたしました。18歳の高校生でした。高卒後商社に9年勤務し、1975年に東京聖書学校を卒業して、19年間、母教会の北九州復興教会で副牧師として山中先生にお仕えしました。
 何故受洗したかといいますと、人生に悩み、将来に不安をもっていた高校生の時、友人の持田倫生君から教会に誘われ、高校生の夏の特別集会に導かれて御言葉が妙に心に残りました。当時の話の内容は忘れましたが、ヨハネ福音書3章16節「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉を通して、単純に、主イエス・キリストの父なる神は、イエス・キリストを通して、この世(私自身)を愛して下さり、私の罪の為に十字架にかかり、3日目に復活されて、目には見えませんが、信じる私達といつも共にいてすべての事を最善にして下さる愛なる神であるという事を信じました。単純ですが、その年のクリスマス礼拝の中で、山中先生に洗礼を授けて頂きました。先生が私の頭に洗礼式の水を注いで下さった時の感動は今でも忘れません。あれから54年の年月が経過しましたが、私の心は18歳の少年の如く、教会に一人でも多くの方々が来られて、洗礼を受けてクリスチャンとしての生活をしていただきたいと願うものです。
 今日一人の姉妹が受洗されます。本当に感謝なことです。聖書に「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2章4節、口語訳)とあります。教会に出席されるすべての人々がクリスチャンになられて、共に天国の民として、また神の子としての生き方をして頂きたいと思います。