榊原紀惠子 のすべての投稿
2016/7/31 週報メッセージ
朝位 真士
次に、人間をどう見るかということについて考えてみましょう。キリスト教の人間観は、いくら良いことを教えられても、それを行うことができないという人間観です。この罪というのは、いわゆる犯罪のことではありません。犯罪というのは法律に違反するということで、人間の作った法律を犯さなければ犯罪者とはなりません。しかし、聖書が人間を罪人という場合、それは神が制定された律法違反なのです。神が制定された律法とは、具体的にはモーセの十戒によって示されていますが、それをもっと別の言葉で言い替えると、全身全霊をあげて主である神を愛すること、自分を愛するように隣人を愛することに要約されます。私たちは、思いと言葉と行いにおいて神の律法に違反した罪人です。罪というものは、いつでも罪を犯した人に対して償いを要求する力を持っております。その力が効力を失うのは、二つの場合しかありません。償いがなされた場合と、罪を犯した人が死んだ場合です。ですから、キリストの十字架上での身代わりの死こそ、私たちの抱えている罪という問題を解決するという点において、ほかのいかなる宗教とも違うと言うができるでしょう。
まこと簡単明瞭に語っています。
人生の目標を目指して

2016/7/24 週報メッセージ
27回ホ群首都圏夏期聖会に出席して
朝位 真士
主題「起きよ、光を放て」(イザヤ60・1)
ホ群結成70周年記念の一環として始まった。7月19日~21日まで、ハートピア熱海で開催され、出席者69名。席上献金198、560円、予約献金536、000円、合計734、560円。開会聖会、司会澤田直子師、メッセージ柏明史師、「活き活きとした交わりに生きる喜び」(イザヤ60章1~2節、エフェソ2章4~10節)。聖会Ⅱ、司会森浩師、メッセージ朝位真士、「主のみこころ」(エレミヤ29章4~23節)。早天聖会Ⅲ、メッセージ坪内時雄師、「わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。聖化講演、司会小林則義師、講演大友英樹師、「ホーリネスの群は教団信仰告白の聖化信仰をどのように告白するか」。聖会Ⅳ、司会島隆三師、メッセージ深谷春男師、「贖い・愛・臨在」ー起きよ、光を放てー(イザヤ43章1~5節)。早天祷告会、A富山希望師、B野口佳男師、C佐々木千沙子師による指導。分団も2回開催。閉会聖会、司会森田聖子師、メッセージ横山基生師、「生き生きとした希望」(Ⅰペトロ1章1~12節)。以上のプログラム概要であった。
私は聖会委員の一人として、大変祈りを要した聖会であった。特に人数の減少である。昨年より約2割5分減であった。〆切の6月の時点では48名の申込であったが、皆様に祈っていただき、私も祈り、最終的に69名与えられた。献金も大変危ぶまれていたが、結果的には昨年より3割増額であった。私は祈祷の力の偉大さをあらためて教えられた。ホーリネスの特徴「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝せよ」(Ⅰテサ5章16~18節)の通り、今も昔も主イエスの御言葉の力は生きている。桜ヶ丘教会のため、ホーリネスの群のため、日本宣教のため、皆様のお祈りを切願する。
2016/7/17 週報メッセージ
朝位 真士
今、教会では祈りの必要性を強く感じています。1、礼拝出席が増し加わるように。2、救われる方が与えられるように。3、高齢者や病気の方々が祝福され、癒されるように。4、教会の将来の為、信仰継承がなされるように。5、地域に開かれた教会として、地域に宣伝されるようになど。その為に、皆様にお願いいたします。まず、教会の集会、礼拝、夕拝(8月は休会)、祈祷会、例会(ホープ・婦人・青年・エリム・ふれあい)に出席して下さい。8月1~2日、最寄教会研修会、8月8~9日、教会学校夏期学校、9月6~7日、全国教誨師大会、9月18~
私は、祈祷を大変大事にするホーリネス教会で若い頃から育てられました。最近、老練の牧師(90歳)の声かけで、有志の先生方によって月1回リバイバル祈祷会が開催されるようになり、若い私共や数人の牧師が参加しています。最初、1~2時間位だと思っていましたが、数時間にもおよびました。時の経過も忘れて、数人の牧師たちが祈りました。私は十代で救われた時にフィードバックした気持ちで、本当に年齢を感じさせないフレッシュな思いになりました。
皆様も多忙でしょうが、祈祷に時間を用いれば本当に感謝だと思います。
7月海の日が過ぎて
暑い日がいよいよやってきた感じですね。自然界は、緑豊かな風景が勢いをましています。桜ヶ丘教会では、6月には特別集会があり、力強いメッセージに各自が励まされ、イエス様につながることについての恵みを理解することができました。この夏も、霊肉を強めていただき、それぞれが平安の内に歩むことができるようにとお祈り申し上げます。わたしたちそれぞれが生活している場所で、イエス様をおつたえできるようにと願っています。朝夕に、静かな祈りの時を心がけてすごしてまいましょう。
2016/7/10 週報メッセージ
朝位 真士
「きよめは、私たちに対する神の御意であり、神の命令であり(Ⅰテサ4・7)、神が私たちに分与したく願っておられるものであり(ヘブル12・10)、神が私たちのためになそうとしておられるものであり(Ⅰテサ5・23)、それなしには主に見えることのできない不可欠のものである(ヘブル12・14)からです。」(F・アボット『聖化』、福音文書刊行会)
ホーリネスの特色の一つ「聖化」を説明した文章を引用しましたが、私はホーリネス系の教会(教団北九州復興教会)で18歳の時に救いにあずかり、箱根のケズィック・コンベンション(聖会)に出席して、ジョージ・ダンカン博士よりメッセージを聞き、一晩中徹夜で祈り、1975年神学校を卒業して41年目を迎えています。その時きよめ(聖化)の経験をしました。私のきよめの理解は、神が聖なる方であるから、私たちもきよくならなければならいということです。それは、自分の努力や修行でなされるものではなく、神の一方的な働き、聖霊の働き以外のなにものでもありません。どうしたらきよめを体験できるのでしょうか。私の場合、聖書と信仰と祈祷と聖霊の満たしによって体験させていただきました。
ホーリネス(聖化)は、神の全き愛であり、私共の全き明け渡しであり、聖霊に満たされた信仰による確信です。「私心無きように」というある恩師の言葉が心に残ります。きよめは他者と比較することではなく、神の言われるままに素直に従うことです。神に心を明け渡して信仰をもって従うことであり、神に栄光を帰することです。私共一人ひとりもホーリネス人として、きよめの体験をさせていただきたいものです。
2016/7/3 週報メッセージ
山本 潤
この企業人としても、多忙な日々を過ごしていた30年ほど前、当時も種々の奉仕をさせていただいてはありましたがサンディクリスチャンとしてしか生活していなかったことを振り返り、より聖書的な学びー聖書信仰を願い、信仰の根底を築きたいと祈り続けておりました。職場での大きな役割を終えることが近くなった5年程前、職場での経験を生かしながら神様からもらった多くの恵みを伝えることを祈り始めるための基礎を学ぶ場が与えられました。お茶の水にあるこの学びの中で、これまでのつまみ食いの学びや今までバラバラだった聖書の知識が一つにつながり、体系だった学びに基づいた信仰に変わっていきました。
調布教会で信仰の歩みの中で、この学びにより与えられた恵みを神様にお返しする場として、フルタイムでの奉仕者として、今後の社会を担う方々や企業の中で悩みながら生活している社会人にキリストの愛を伝えさせていただくことを祈り始めておりました。その中で、3年前に東京聖書学校での学びが赦されています。そして、一人でも多くの方々に、社会で生かされる恵みを伝えさせていただきたいと思っています。
2016/6/26 週報メッセージ
山本 潤
数年後、私と同じく仏教家庭で育ったクリスチャンの女性が伴侶として与えられ、夫婦で共に教会生活を過ごす喜びが与えられておりました。
職場では技術者として働いてきましたが、入社当時の神からの訓練が生かされました。拒絶していた「光」の分野を担当することにより、光に関するいろいろな特徴を学び、ヨハネによる福音書にある『わたしは、世の光です。』や、マタイによる福音書の『あなた方は、世の光である』の真の意味を知ることとなりました。また、拒絶していた分野の専門家と共に仕事をすることを通して、イエス様のように謙虚に耳を傾け、パウロのように異文化への挑戦力を与え、幅を大きく広げさせてくださいました。そして、顧客・会社・社内のメンバーに仕えることを学ばせて頂きました。厳しい判断が必要な時もありましたが、社会生活においてキリストを証させていただいたと感謝しています。
そして、教派の異なる幾つかの教会にて、私自身が育てられた教会学校関係や総務関係での奉仕が与えられておりましたが、社会の考え方を思い浮かべながら、教会全体のみならず私自身が信仰者として祈る機会を何度も与えられました。妻も超教派・福音派で学びをしてきた信仰者であり、超教派の働きについて無知であった私にとって学ぶべきことが多くありました。
自分自身も20年程前から、神から託された「社会での信仰者としての働き」を終える際には、社会での経験を生かし、それまで頂いた多くの恵みを神様にお返しする、神様の愛を伝えるための基礎となる学びの機会について祈り始めていました。
そうした生活の中で、一人娘が与えられ、3人での教会生活が始まりました。
2016/6/19 週報メッセージ
誕生から 受洗まで
山本 潤
私の所属教会は、京王線調布駅前にある調布教会です。
私は、父親の仕事の関係で、小学校を3校、中学校を2校、転校しました。私の両親は、キリスト者ではありませんが、それぞれの転校した学校で始めて友達になった友人が教会学校に集っており、すぐに教会学校に誘われて、いつも毎週教会学校に通っていました。高校時代も、同様に友人に誘われ、礼拝に出席していました。神様は私を離しては下さらなかったのです。今、中風の人が友人によって主の前に出されたように、多くの友人の祈りによって支えられていたことが思い起こされます。
しかし、大学生なると誘惑も多く、教会を離れる日々が続いていました。教会学校での奉仕も与えられていましたが、土曜の夜も夜遅くまで遊んで帰宅することが多くあり、日曜日の朝起きることはできません。教会学校が始まる時間にかかってくる教師から電話で起こされ、目を擦りながら徒歩5分の教会に駆けつける日々が続きました。神から離れてしまいそうな私の救いについて、教会学校教師や牧師も祈り続けて下さっていたのです。
ある電機メーカに就職した頃には、毎週礼拝に出席していましたが、始めに与えられた仕事は、自分の希望とは全く異なる「光」に関連する装置の開発でした。なぜ、これを自分が担当しなければならないのかと悶々とし、数ヶ月間上司にそれを何度も訴えました。今思うと、自分の技術に傲慢になっていました。そのようなことにも気がつかず、悶々とした数か月を過ごしていました。ある時、ふと聖書を開くとヘブル書12章「主の訓練」の御言葉が入ってきました。そこで、今の状態は、「神がこれまでも導き続け、今は私を訓練してくださっている」ことに気づかされ、「主」を受けいれました。神様は、私のような放蕩息子の帰りを待っておられたとことへの感謝から、仕事に懸命に取り組み始めました。そして、27歳のクリスマスに受洗に導かれました。

