榊原紀惠子 のすべての投稿

2016/2/28 週報メッセージ

   『かみさまのゆめ』を読んで
                                                            朝位 真士
  私は月1回少年院で講話をしています。その時読んだ『かみさまのゆ
め』という本に感動したので、皆様に紹介します。作者はデズモンド・
ツツ大主教とダクラス・カールトン・アブラムスで、村松泰隆訳、ファ
ム・レ=ウィエン絵で、大変わかりやすい絵本です。
  かみさまのゆめはね たがいに よろこびをわかちあうこと。かみ
 さまのゆめは たがいに おもいやること。……みんなが たがいを
 たいせつに しあうとき かみさまの こころの かけらは あつま
 って、ひとつのものに なるんだ。かみさまの ゆめは わたしたち
 が みんな きょうだいしまいなんだって きづくこと。……かみさ
 まの ゆめは どうすれば かなうかしっているかい?  それは と
 っても  かんたんなこと。わけあったり たいせつにしたり おもい
 やったりするなら。……さあ かみさまの ゆめが かなうように
 てつだってくれないかい? きみに ひみつを おしえてあげよう。
 ……そう きみが てつだってくれるとね かみさまは あの にじ
 のような えがおに なるんだって。
 少し長い文を引用しましたが、私をこの本を子供達に読み聞かせなが
ら、少女達の目の輝きを感じました。教会の中でも、このようなことを
実行できたら、互いに仲良く楽しい仲間になると信じたいと思います。
主イエス・キリストの愛の交わりのある所に実現されると祈るものであ
ります。 

家庭的なホッとするところでありたいと思いながら

イメージ 1写真:K/Kさん提供
春がそこまで来ているのを感じます。梅の花が白く咲いて、新たな命の芽吹きの季節を、静かに教えてくれますね。
教会の礼拝堂に座っていると、イエス・キリストの十字架を見上げながら座っていると、自分の気ぜわしい思いが何故かスーっと落ち着くのを感じます。
「安かれ」とお声をかけてくださっているように思います。
昨日の礼拝の説教では、詩編139編からのお話でした。
主よ あなたは私を究め
私を知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
主はすべてをご存じであり、いつもそこにいてくださり、全能の力をもって、導いて下さるというお話でした。
どのような状況であっても、主はともにいてくださり、私たちの道をまっすぐにしてくださるということを、信じ、しっかりを歩みたいと思います。
桜ヶ丘教会は、家庭的なホッとする居心地で故郷に帰ってきたみたいと初めて来られる方々が言われます。
そのようなことを言っていただけると、嬉しくなります。
私たち信徒は、主にあって活かされることによって、教会のご奉仕もすることができます。主のために何かするということは、主とともに時間を共有できる恵みがあります。
年を取ってくると、私の人生の時間は、私だけのものではなく、神様からの贈り物と感じます。
この時間を、どのように使っていこうと考えます。お金は使ってしまえば無くなってしまいますが、みえない時間はどうでしょうか。時間も過ぎてしまえば消えてしまいますが、生きている限りは、今日も明日もいただけるのです。
小さな私達のひとりひとりを主はご存じでいてくださいます。感謝なことですね。
教会には、集まった人数分の個性が生きています。そして、それを見守り導いてくださるトップは神様です。
みんな正直に気負うこともなく集い、今日、明日と生きていく力を主からいただけるところです。
桜ヶ丘教会は今年の6月で、誕生から93年目になります。
2月28日には、2016年度にむけての計画等について話をする総会があります。
信徒みんなで、愛のあふれる教会となるように祈って歩みたいと考えています。
そして、主の栄光が現れますよう一丸となって進んでいきたいと思います。

2016/2/21 週報メッセージ

   教会が強くなるために
                                                                      朝位 真士
 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」
                         詩一二六編五節
  わたしは、祈祷会は教会の柱だと考える。素朴は祈りを心の中でかみ
しめ、終わりに一緒にアーメンと言うとき、教会で支えられていると思
う。弟子たちが祈っているところに聖霊はくだった(使徒1,2章)。
聖霊の働きをつくった。我々の教会もつくられていっている。
 長い間教会生活をしていても、み言葉を学ぶ本当の喜びや、共に祈る
ことの歓喜を知らないで過ごしていってしまう人がある。先日の役員会
(2月14日)の中で将来の桜ヶ丘教会の危機的な状況を感じた。役員
会では全員が具体的な課題について心を合わせて祈った。わたしはすが
すがしい気分であった。かつて会堂建設の計画が具体的に持ち上がった
とき、専門家の説明では無理であった。金銭的・人数的には実行が不可
能と見えた。常識的には真に無理であった。しかし当時の役員を始め、
会員の方々が心を合わせて祈った。機会あるごとに祈った。各家庭にお
いても密室の中で祈った。わたしも微力ながら真剣に祈った。また超教
派の集まりの際にも祈っていただいた。会堂建設は完了し、ローンも数
年間短縮して完済できた。
 今度は教会の将来のため、人的・金銭的・霊的に強くなるために祈る
時である。今こそ必要なのは、初心に帰り主の前に心を注いで祈ること
である。皆様も1日1回、教会の強化のためにお祈りしてください。神
の栄光を目指して!!

2016/2/14 週報メッセージ

   受難節(レント)を迎えて
                                                              朝位 真士
  聖灰水曜日という名の起こりは、中世の教会において信心深い人々の
額に灰で十字架の印をつけた習慣にある。この儀式用に焼かれて保存さ
れた灰で、司祭は信徒一人ひとりの額に印をつけた。その時「あなたは
ちりであるから、ちりに帰ることをおぼえよ」という言葉を添えた。灰
は地にあるもののはかなさを象徴するものである。この世の美しさも誇
りもしばしの栄華にすぎず、やがてそれらは夢のように消えていく。ど
んな人であっても、死んだときに残るのはただ一握りの灰だけである。
それはまことに厳粛な死の事実にわたしたちの思いを誘う。人とはつま
るところ「死への存在」である。死は万人にとって必然の運命である。
そしてわたしたちの全生涯は、どのように死ぬかを学ぶことによって、
真実に生かされねばならない。
 受難節はもっと深い意味をもっている。それはキリスト信者がイエス
の苦難と死の意義について深く考えるために、特別に設けられた期間で
ある。灰は死の象徴であると同時に、罪に対する悔い改めを表すもので
ある。主をあれほど苦しめたのは何のわざか。みなわたしたち人間の罪
のせいではなかったか。わたしたちは十字架を見上げて、己が罪の深さ
を悲しむとともに、それをも赦して救われる神の恵みの高さを、主のご
受難の中に味得せねばならない。ただ、このことをなすことによっての
み、この季節を正しくすごすことができるのである。

2月第一日曜日の礼拝

イメージ 1写真K/Kさん提供
2月第一の礼拝では、「主を賛美せよ」というテーマで、朝位真士牧師のお話でした。
ハレルヤ
賛美せよ、 主の御名を
賛美せよ、 主の僕らよ
詩編135編1節
詩編135編は、ハレルヤに始まりハレルヤで閉じられており、主への賛美が促されているというお話でした。
主をたたえる、褒めたたえる、どのような境遇にあっても、主にあって生きる喜びを私たちは知っています。
私たちの生涯を、主を賛美しながら閉じることができるように、日々過ごしていきましょう。

2016/2/7 週報メッセージ

   「西東京教区研修会」に出席して
                                                                         朝位 真士
  2月1日~2日まで小金井聖霊修道院マリア館にて、旧約学会会長の
並木浩一先生を迎えて1泊教師研修会があった。テーマは未信者の心に
届く福音ー旧約聖書と現代ーであった。旧約聖書が「人間の尊厳」につ
いてどう語りかけるのかというテーマで、並木先生の講義に期待をもっ
て参加した。
 Ⅰ「未信者の心に届く福音」を見据えて現代の課題を考える。(1)現代人
の関心はどこに向けられているか。(2)現代日本はどこへ行く。(3)認識を
適切に導くために神学的な考察を。(4)思想・信条・信教の自由が危機に
晒されている。(5)戦争責任は回避してよいか。(6)国体の護持と国家と宗
教の二元論の排除……
 Ⅱ日本的な心性との対比で読む創造物語。(1)神は世界を創造する。
(2)創造行為は日々に区切りを与える。(3)神の似像としての人間の尊厳。
(4)創造は歴史を外ら見通す。
 Ⅲ終末から現在を見据えた預言者の言葉。(1)終局から現在を見据えた
預言者の言葉。(2)審判の確信の下で変貌する世界。(3)神は人々の意表
を突く。(4)神は諸国民の悪にも真剣に向き合う。(5)イスラエルの罪は人間
感覚の喪失にある。
 最後に先生は「現代にもアモスの時代と同様の非人間的状況が見られる。
日本の経済優先主義は資本主義的な仕方で社会の格差を広げており弱者
に過酷な労働を強要する。支配機構は個々人の良心と尊厳を軽視し儀式に
おいて国家権力の象徴への服従を国民に求めている。……内村鑑三の2つ
のJに向かう課題はますます重くなっている。その覚醒が自ずからなされる
ように福音を語る。それを探索し続ける必要をともに確認したい」と結んだ。

2月を迎えて

イメージ 1
写真:1月31日(日)礼拝お花
1月は第5の日曜日がありましたが、あっという間に過ぎてしまいました。新年という言葉を意識した日々でもありました。
さて、2月は、29日ありますので、2016年が特別な年であること、オリンピックのある年であること等を思いながら、過ごしていきましょう。
昨日1月31日(日)は、「本当の幸福とは」というテーマで、朝位フミ子牧師による説教でした。
<聖書個所>
心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は幸いである
その人たちは慰められる。
柔和な人々は幸いである
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は幸いである
その人たちは満たされる。
憐み深い人々は幸いである
その人たちは憐みを受ける。
心の清い人々は幸いである
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は幸いである
天の国はその人たちのものである。
幸せでありたいと、誰もが思います。そして、本当の幸せということになると、どうなるのでしょう。それは様々な幸福があると思います。
お金があるところにも、お金がないところにも、幸福は探せばあるということを教えていただきました。自分は何をやっても駄目だ、失敗ばかりの人生だと、心が貧しくなっている者に、神様は、そういう人の隣にいてくださり、幸せが見出せることを教えてくださっている。
悲しむところにも、主が側にいて慰めてくださるという幸せがあるということ。
柔和であるとはどういうことか考えさせられました。しっかりとした信仰をもっていて、揺らぐことがなく、そして寛大でいられる心の持ち主であること。イエス様の柔和さを想像しましょう。愛のあるところに、憐みと清さがあると思わされました。
神とともに歩むことによって、憐みを教えていただき、心に清さを保っていくことができるのだと感じました。
山上で説教であるイエス様のこの教えを心に留めて、2月を過ごしていきましょう。

2016/1/31 週報メッセージ

   喜びによる前進
                                                                                                          朝位 真士
  「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126編5節)
 二〇一六年の標語です。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミア8章10節)
 山北先生の『それゆけ伝道ー元気の出るエッセイ100』に出ている「喜びによる前進」という項目に、私は非常に感動したので、著者の許可を得て転記したいと思います。
 
  人間の罪にも拘わらず与えられる神の赦し、破壊にも拘わらず創造、絶望にも拘わらず希望、このことが告
 げられる時、深い感謝とともに喜びが力となってあらわれるのでしょう。
  この喜び、つまり主を喜ぶことなくして、難しい状況に立ち向かう力は出てきませんし、前進はありません。
 伝道にしても人間が頑張ることではなく、主を喜ぶことによってこそ私が新しくされ、力を与えられて前進で
 きるのです。「喜びは祈り、喜びは力、喜びは愛」と言ったマザー・テレサはさらにこうも言葉を続けました。
 「どんなことがあっても、復活されたキリストの喜びを忘れてしまうことの決してないように。喜びの喪失、
 とりわけキリストの十字架と復活の恵みによって私たちが今日あるを得ているとの感謝と喜びに満たされてい
 ない時、私たちの暗さは救いようもなくなること請け合いです。」暗い雰囲気の教会、額にたてジワを刻んだ
 ままのクリスチャン、これが常態ならば、伝道以前の問題でしょう。
 
 私は何か額をハンマーでガーンと打たれた感じがしました。伝道(キリストを伝えること)は、キリストを信じた私たちが、存在を通してキリストを証ししていくのだということです。私たちは身近な人をキリストに導くように祈っていかなくてはならない。今年一人の魂の救いのため「喜びの前進」をしようではありませんか。

教会の交わりについて思う事

イメージ 1写真:藤城清治美術館
チャペルステンドグラス
本日の礼拝説教は、「キリスト者の交わり」というテーマでした。
「詩編133編」(聖書個所)
都に上る歌。ダビデの歌。
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り
衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように
シオンの山に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された
祝福と、とこしえの命を。
教会に集い、話し、一緒に過ごすことは、とても素晴らしい神様からのお恵みです。
油は、聖霊を指していて、聖霊が露が落ちるように静かに私達に注がれるという恵みをえることができる神の家族について、お話を聞きました。
共に座るということのお恵みは、桜ヶ丘教会において、私達信徒一人一人が感じています。
私たちは、皆個性をもって、生活環境も違う中で、教会に集います。それぞれが皆違っていますが、神の家族として、イエス・キリストを頭として主の教えに歩むという一致した家族です。
人が集まるところですから、何らかのルールが必要ですが、主を愛し、自分を愛するように隣人を愛するというルールを忘れて、他のルールを先にすることはできません。
このことは、ただ普通に過ごしていて達成できることではないと思います。
私たちが、優しさと麗しさを持たせていただくためには、愛の実践を通して、兄弟姉妹とともに座るということを形成するという目的に立ち返ることが必要と思います。
どなたかと共に座るという恵み、喜びは、誰にでも与えられています。人は一人では生きていけない。
そのような中に、露のように静かに降る主の恵み、主の祝福、そして永遠の命への約束。
主にあって、兄弟姉妹とともに座ることが許されていることに、ただ側にいることができることに、心から感謝します。

2016/1/24 週報メッセージ

   「断食祈祷聖会二〇一六」に出席してⅡ
                                                             朝位 真士
 
 先週に引き続き、深谷春男師が「ヒュぺル・ニコメン(輝かしい勝利)」と題し、ローマ八・三四~三九を通して語られたことを記します。
 
  この題の言葉は、新共同訳で「輝かしい勝利」と訳されています。「ニコメン」が「勝利する」で、「ヒュペル」は
 「超」というような意味で使用される接頭辞です。「超勝利者となる」「輝かしい勝利」「勝利者以上」「ゆうゆうと
 勝つ」というような「圧倒的勝利者」になるのは「わたしたちを愛してくださる方による」とパウロは言います。これ
 はまさに、わたしたちの罪のために十字架にかかって罪を滅ぼし、復活して死を打ち砕かれた主イエスと父な
 る神の愛によるのであります。パウロの念頭には「個人の救い」の項目の内容を閉じるに当たり、三章二一節
 以降この八章まで語り続けた救いの内容が駆け巡っているように思います。すなわち「十字架の贖罪」(ロー
 マ八・二)を中心とした「永遠の命」「肉体の復活」「万物の復興」「神の最善の摂理の御手」「神の予定」「再臨
 のキリストと共なる栄光」等々の神の恩寵が語られてきたのです。二〇一七年に「宗教改革五〇〇周年記念
 の年」を迎えます。わたしたちプロテスタント教会にとって実に意義深い年になることと思います。神の臨在と
 神の御言葉にサンドイッチされた圧倒的に勝利的な人生、神の愛へと変容された信仰の高嶺を共に歩みたい
 ものです。ハレルヤ!!
 
  他に、「伝道者・牧師の人材育成」(西岡義行師)、「日本宣教の特殊性と活用法」(清野勝男師)、「アジアとイスラム圏宣教」(奥山実師)、「キッズ・ミニストリー」(西村希望師)、「高齢者宣教」(中島真樹師)が語られました。私はこの断食聖会に部分的参加が許され、人数は少数でしたが日本宣教のため、リバイバルのために真剣に断食して祈られている教職・信徒の方々の姿に強いインパクトを感じ、二〇一六年も開拓精神をもって宣教・牧会に励んでいきたいと神の前に祈らされ、感謝でした。