榊原紀惠子 のすべての投稿

2023/12/24  週報メッセージ

「限りなく尊い愚かさ」 (マタイ書2:1-12)

         

アドベント(到来)という言葉は、ラテン語の「アドヴェントゥス」という言葉から派生しています。アドベンチャー(冒険)という英語も同じ言葉から派生しています。神の御子の到来アドベントは、また神の冒険アドベンチャーでもあるのです。主イエスは、どれだけの人が主に立ち帰るか何の確証もないままに、ただ私たちを愛するが故に、命懸けの冒険を冒して来て下さいました。占星術の学者たちは、ただ救い主を礼拝するだけのために、遥々やって来て最上の物を献げ、それだけでもう十分に満たされ帰っていきました。これこそがクリスマスの祝い方です。私たちを救うために、命懸けの冒険を冒して来てくださった神様に対して、私たち人間にできることは、ただその神様を礼拝することだけなのです。学者たちの贈り物は彼らの商売道具であったという説があります。それを献げたのであれば、彼らは仕事を変えたのです。自分のためにする仕事から、キリストのためにする仕事へと変えたのです。しかし彼らの目の前には、粗末な布に包まって貧しい若夫婦に抱かれている赤子がいるだけです。貧しさと弱さと無力さの象徴のような赤子に、大切な商売道具を献げて自分の生き方さえも変えようとする。そんなことは愚かです。しかしその愚かとも見える行為こそが、実はクリスマスに最も相応しいのです。なぜならクリスマスとは、父なる神様が最も大切な独り子を、十字架の死という最も愚かな方法で、私たちのために献げて下さった出来事だからです。ご自身に背き、御心を悲しませてばかりいる私たちのために、最も大切な独り子を犠牲にして下さった。それによって人間が神様に立ち帰るという保証は何もないにもかかわらず。これは愚かです。賢くありません。しかし私たちは、この限りなく尊い愚かさによって救われたのです。私たちも、愚かと思えるようなひたむきな思いを持って主を愛していきたいと思います。それが主の冒険に応える私たちの冒険なのです。

(12/17  柏 明史師説教)

2023/12/17 週報メッセージ

「闇に輝くキリストの光」 (ヨハネ書1:1-5)

          

待降節第二主日に入りました。この時期にはキリストご降誕の記事(マタイ書、ルカ書など)を熟読し、思いを深めていきましょう。

クリスマスの二つの特徴を聖書からあげますと、第一は、クリスマスは不思議で、神秘的で、驚きに満ちた出来事であり、第二は、クリスマスは喜びと賛美に溢れる出来事であったことです。私たちが聖書の、真のクリスマスに近づけば近づくほど、不思議と神秘を発見し、喜びと賛美に満たされるでしょう。

今朝の聖書箇所は「暗闇」が強調されています。創世前も、旧約の時代も、イエスの時代もそして現代も「暗闇」の中にあるのです。では「聖書のいう暗闇」とは何でしょうか。聖書の暗闇とは、私たちを造られた神さまに背を向けている、神さまとの関係が断絶している、自分中心に生きている。…その結果、この世は罪と汚れに満ちている。これが闇だというのです。 この暗闇に、『光』として主イエス・キリストが来られたのです。

この「光」は二つの目的を持っていました。一つは「愛の光」です。自己中心の、冷たい私たちの心を、人を愛することができる心に変える「光」でした。もう一つは「いのちの光。永遠の命の光」です。イエスは「わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)といわれました。イエスキリストの言葉を聞き、イエスキリストの十字架と復活を信じるものは、「死から命に移っている」のです。

さらに聖書は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(5)という喜びの知らせを告げているのです。喜びと賛美にあふれたクリスマスを迎えましょう。

12/10  山本修一師説教

2023/12/24 クリスマス特別礼拝

当教会では、12月24日にクリスマス特別礼拝をおささげし、その後に創立100周年記念コンサートを開催しますので、どなたさまも、お気軽に集会にご参加ください。

(当教会は2023年6月で創立100周年を迎えました)

●9:30~10:00 こどもクリスマス会             こどもクリスマス礼拝 おはなし「ひつじかいへのお知らせ」」

●10:30~12:00 クリスマス礼拝              メッセージ:ベアンテ・ボーマン先生「神が人となられた」      聖書箇所 フィリピ2:6~11

●13:30~14:30 創立100周年記念クリスマスコンサート     チェロ:ベアンテ・ボーマン先生  ピアノ:ルリ子・ボーマン先生         

          

2023/12/10 週報メッセージ

「お言葉どおり、この身に」 (ルカ書1:26-38)

          

アドベント第一主日を迎えました。本日は「マリアの信仰」を学んでいきましょう。

イエスの誕生物語には、三つの奇跡があったといわれています。①神が人となられたこと、②処女が妊娠したこと、③これをマリアが信じたこと。この中で最も偉大なのは、三番目であると、いわれています。マリアの信仰とは、「聖霊によってイエスの母になる」という召命に、素直に,純粋に応答したものです。

いったいマリアとはどんな人だったのでしょう。聖画などでは、母として完成された、包容力のある「聖母マリア」として描かれていますが、天使の知らせを受けたときのマリアは、いまだあどけなさも残る10代前半の少女でした。平凡で普通の結婚を夢見る人でした。しかし彼女は、主イエスを受け入れるにふさわしい、純心で、思慮深く、信仰の篤い人であったと想像されます。

マリアにとっては、この受胎告知は、前代未聞で、耳を疑うような知らせでした。当初は、「どうしてそのようなことが…」と疑ったのです。喜びはなく、不安と戸惑いでいっぱいでした。そもそも天使に出会うということさえ驚きの出来事でした。

その後、マリアは天使の知らせを思慮深く聞きました。天使の最後の「神にできないことは何一つない」との宣言を聞いて、マリアの信仰は目覚め、大きく変えられました。神の言葉を信じれば、「神にできないことは何一つない」ことに気づいたのです。マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と信仰告白をもって応え、やがて神の子を身ごもることに伴って起こる命の危険、労苦、困難をも乗り越えていくことをも受け入れたのです。

12/3  山本修一師説教

2023/12/3  週報メッセージ

 「慰めに満ちた天国の礼拝」 (ヨハネ黙7:9-17)

          

「礼拝」は、聖書全体のテーマの一つです。創造者であり、救い主であり、王である神さまに、礼拝を捧げることは、地上においても天上においても、私たちの最大の務めです。では正しい礼拝とは何か、正しい礼拝の姿勢・態度とは何かを、聖書に基づいて考えていくことは、とても大切なことです。

「ヨハネの黙示録」は新約聖書の中でも特異で難解な書物ですが、将来起こる最終の出来事を、そして天上ではどのような礼拝が行われているかを教えてくれる貴重な書物です。

1世紀末、初代教会の人々は皇帝礼拝が命じられ、圧政と迫害の中にあって「涙と苦しみの礼拝」を捧げていました。パトモス島に流刑となったヨハネは、「ある主の日」に聖霊に導かれ、天上での幻の出来事を経験します。ヨハネは黙示録に著し、殉教者たちが、天上ではどんなに慰められ、平和と歓喜に満ちた礼拝を捧げている様子を描いています。これを聞いた地上の教会の人々は、大いに励まされたようです

本日の聖書箇所には、天上での礼拝について三つのことが書かれています。第一に神と小羊を中心として、「救い」が高らかに賛美されていることと。第二に礼拝者は「白い衣」(義、きよめ)を着、「ナツメヤシの枝」(勝利と賛美)をもって礼拝を捧げていること。第三に子羊(キリスト)が牧者となって、礼拝者を「命の水の泉」(聖霊)に導かれること…です。

天上の礼拝は、地上の礼拝とはまるで異なっているようですが、あるべき礼拝、将来の希望を伝えるものです。

私たちは、天国の礼拝を目指すこの地上の聖日礼拝で、砕かれた悔いた心をささげて、神の小羊イエス・キリストを礼拝し、いのちの水に満たされようではありませんか。           (11/26  山本修一師説教

2023/11/26 週報メッセージ

「弱さの中の強さ」 (Ⅱコリント12:1-10)

             

ある時パウロは、想像を絶するような神秘的な聖霊体験をしました。それがあまりにも素晴らしかったので、そのことの故に思い上がらないようにと、一つのとげがパウロに与えられました。そのとげは彼の宣教活動を妨げるものでした。パウロはそのとげを取り去ってくださいと主に何度も祈りましたが、主はパウロに応えて言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」文語訳聖書では「我が恵み、汝に足れり」と訳されています。その「とげ」は、パウロにとってはまさに「弱さ」でした。しかし、その「弱さ」こそが、主の「恵み」を働かせる「場」であったのです。ですからパウロはその弱さを誇ると言っているのです。自分が強いと思っている時、私たちは自分の力に頼っています。その時キリストの恵みを見ていません。キリストの恵みに信頼していません。主の恵みは自分の弱さを知った時に、初めて本当に見えてくるのです。弱さの中で発揮されるのです。十字架の主イエスのお姿。それは弱さと無力さの極みのお姿です。しかし主の恵みは、その十字架において最も豊かに発揮されたのです。主はその十字架の上から「我が恵み、汝に足れり」と言っておられるのです。十字架の恵みとは「もうこれ以上、私はあなたに与えることができない」と言われる程の究極の恵みです。「我が恵み汝に足れり。」この点において、私たちには不足も不平もない筈です。これこそが、本当の強さです。「主よ、あなたの恵みは、今、私に十分です。」「主よ、あなたの赦し、あなたの愛、あなたの恵みは、今、私に十分です。」この言葉は、私たちが自分自身の弱さに立ったときに初めて言える言葉です。逆境の中でも、行き詰まりの中でも、主の十字架の恵みは私に十分なのです。私たちは、自らの弱さを自覚した時に、自分の強さではなく、主イエスの強さに依りすがる者とされます。それこそが本当の強さなのです。

11/19  柏明史師説教