94周年記念礼拝を終えて

イメージ 1写真:K/Kさん提供
<6月4日(日)の礼拝について>
主の御名を賛美いたします。
岸義紘先生を講師にお招きして、17回目のチャペルコンサートと記念礼拝をすることができました。
「油断大敵!!予備の油はありますか?」というテーマでのお話でした。
 聖書箇所:
マタイによる福音書25章1節~13節
花婿を迎える乙女たち、賢い乙女と愚かな乙女の箇所です。
岸先生は、マタイによる福音書におけるたとえ話は、福音書全体を見て考えることの重要性をお話されました。
最初のたとえ話には、岩の上に家を建てる賢い人、砂の上に家を建てる愚かな人の話が、マタイによる福音書には書かれているということ。
そして、最後のたとえ話が、賢い乙女たちと、愚かな乙女たちということ。
これは、何を示しているか。
この聖書の箇所には、様々な矛盾ともいえる要素があるとのこと。何故か。そこを分かりやすく解説いただきました。
「天国は次のようにたとえられる。」といお話で、花婿を迎えるための油は、結婚を執り行う家が用意するものであるが、天国では、乙女がそれぞれ用意しなければならないとあります。自分が用意しなければならない予備の油とは何か。賢い乙女と愚かな乙女は、どういうことを意味しているのか。
予備の油を持った賢い乙女たちが花婿と一緒に婚宴の席に入ることができる。
愚かな人とは、知識はあるが本質が見えていない人。宗教指導者たちは欲に溺れて金と権力をもって本質を追及していない。この状況下で、宗教改革はイエス様によって初めてなされているということ。ルターの宗教改革500周年の年でありますが、2000年前に、イエス様がなされたということ。イエス様は、十字架につけられることを知りながら、「お願いですから、指導者たちよ、目を覚まして、聞く耳を持ってください」というような思いで訴えておられたということ。
予備の油は、キリストを信じるということ、イエス様から恵みと信仰によっていただくものだということ。
主イエスキリストによって、聖霊をいただくことが私たちには可能です。主の恵みと信仰で賢い者になることができる。誰か他の人から分けてもらうものではなく、自分が用意しなければならない予備の油。
運命を分けるもの。予備の油を持つか持たないか。予備の油は、恵みと信仰によって、主から、誰でも、ただで、いただけるもの。良い行いが必要なのではなく、恵みと信仰によって、主から、ただで、いただき、賢い者いなることができる。
最も貧しい地域から、知識人には重要な地域ではなかったガリラヤから、イエス様は、主の働きを開始されたということ。この意味についても、改めて考えさせていただきました。
        真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい。」と叫ぶ声がした。
        乙女たちは皆起きてそれぞれのともし火を整えた。
                         主の恵み深いことを、心から味わい知る1週間でありますように。
                         本質が見えますように。