主は大牧者 2020/11/1

朝位真士

「主は大牧者」2020・11・1説教要旨

今日は詩篇23編1~6節を通して聖書を学んで行きましょう。これは感謝と平安に満ちた詩篇であります。主は羊飼いとして私達を世話し、守り、導いて下さる。信仰者は神の家の客人としてだけでなく、家族の一員として、あつかわれるということであります。この詩篇は言わば、ダビデの生涯を通じての信仰の喜びを要約したものといえます。それでは具体的にはどのような状況が挙げられるだろうか。サムエル記下17・27~29p509という出来事を挙げる事が出来るでしょう。また詩篇27編はこの詩篇を理解する上で参考になります。この小さな詩篇はイエス・キリストにおいて大きく花開いたということができます。イエスは「良い牧者」として、羊に永遠の命を与えて下さった(ヨハネ10章、1ペテロ2・25)。内容区分1~3節主は羊を養い導いて下さる。4~6主は羊を守り喜ばせて下さる。

詩篇23編を1~6節まで見て下さい。ある注解者はわれらの良い牧者。その与える全ての恵み1~4牧者である神の恵みの讃美。5、敵前の饗宴の恵み。6、恵みと憐れみの継続の確信。ダビデは若い頃牧者であったので(サムエル上16・1)、牧羊者としての経験があり、ここに自分と神との関係を牧者と羊との関係たとえてその恵みを讃美(1)しています。旧約聖書では神と民との関係を、新約聖書では主と教会との関係をたびたび牧者と羊との関係をたびたび牧者と羊との関係にたとえています。(詩80・1イザヤ40・11、ヨハネ10・11,14、へブル13・20、1ペテロ2・25)。この牧者たる神こそ恵みの無尽蔵の財源であります。(1終、フィリピ4・19)、みどりの野とは食物は豊にあり、心気をさわやかにする所、憩いの汀とは渇く事を知らず、休息するによい所で、主はそこで我々を養い、休ませたもう(2)。彼はわたしたちを救って新生命を与えたもうのみではなく、その後の信仰生活においてもわたしたちを正しい道を歩ませ(3)、どんな試練困難にも、また実際死の瀕した時にも共にいまして力づけ(4始め)、懲らしめの中にも慰め(4終)、迫害の中でも恩恵を喜びと楽しみを満たしたもう(5、油も酒も聖霊の型(1ヨハネ2・27,エフェソ5・18,詩篇140・14)。こうして私達は現世では終生恩恵と憐れみを受け、天国では永遠に幸福を受けるのであります(6)。この詩篇は何回読んでも、味わえば味わうほど恵みを感じる詩篇であります。3000年の昔牧者であったダビデが感激をもって深い恵みの経験を歌ったこの詩によって、どんなに多くの人が慰められ励まされた事でありましょう。悲しむ者は慰められ、乏しい者は信仰が与えられ、死の岸辺に立った者は勝利の力を得た。これは詩篇中の詩篇であります。主は「良い羊飼い」で(ヨハネ10・11、14)、その羊であるわたしたちにすべての物を供給し(1)、安息と(2)、生命を与え(3)、叉私達が迷うことがないように先に立って導き(3)、試練の暗黒の中にも共にいまして守りたもう。それ故彼に従う者には恐怖がなく(4)、かえつて慰めと(4)喜びと楽しみがあり、幸福な交わりとあふれる恵みを受けます(5)、この世でも天国でも永遠の恵みと神の国の幸福とを受ける(6)。

結び

もう1度詩篇23編を見て下さい。主に信頼する者の人生が常に恵みで満たされ、溢れるほどであるという感謝の表現であります。羊の喜びは、敵からの守りを具体的に示されます。6節は、羊が安全な囲いの中に守られるように、主に従う信仰者は主の家の中に住む事が出来、休息を与えられるということであります。「いつくしみ」とは良いことという意味で、健康や必要が備えられという事と考えることができる。「恵み」とは神の愛と守りの実感であります。それがいつもわたしを追ってくる。「主に家」とは、ダビデにとってはエルサレムの主の家であり、私達にとってはイエスをかしらとする教会であります。主の羊は、繰り返し主の家に帰って来るし、叉主の羊の安息は主の家にこそある、という意味であります。

例話―1人の婦人伝道師105歳で召天されたかた御主人も牧師であられたが3人の子供を残して戦死されたけれども、その婦人伝道師は70年間教会に仕え、いつもこの詩篇23編を口ずさんでおられ、とくにご主人が戦争に行く時にイエス様に祈りなさいと言われていつも主に祈って3人の子供達を育てて、彼女がいつも言っていたことは「「わたしには何も欠けることがない」と言われていたそうであります。その教会の牧師がいっていました。その婦人伝道師の働きで多くの方々が救われ、悩みを解決されたそうです。