説教題 「勝利の神に感謝」
お話 朝位真士牧師
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一第15章50節~58節
讃美歌 338番
聖 歌 496番
説教題 「勝利の神に感謝」
お話 朝位真士牧師
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一第15章50節~58節
讃美歌 338番
聖 歌 496番
キリスト伝道会チャペルコンサート
朝位 真士
私は、さる9月26日(日)午後3時より新宿西教会で行われた、日本伝道幻を語る会主催のチャペルコンサートに行きました。講師は、私共の教会にも毎年来られている岸義紘先生です。先生は80歳とは思えない若々しい力強さで、何種類ものサックスを演奏してくださいました。聖歌、讃美歌、ゴスペル、クラシック等の曲目を演奏してくださいました。ただの演奏ではなく、信仰を持って演奏される曲想は、会衆の心に強く響いたと思います。約1時間半の時間、休みなしの演奏とメッセージでしたが、本当に若者に負けない力強さと確信のある演奏と説教に、私は感動が与えられました。現代のコロナ禍で、人々が悩み、苦しんでいる時に、お一人で1時間半の時間を、力一杯有効に使われた先生の姿に、私自身大いに励まされました。行く時は大変疲れていましたが、帰りは身も心も軽々となった感じがいたしました。コロナ禍で人数制限があったので、一般の方々にはお知らせできませんでしたが、来年のチャペルコンサートを楽しみにしてください。
先生は、はじめ独学で聖書を学び、のちに留学されました。サクソフォンの良き指導者に恵まれ、ご自身も大変努力されて、CDを何枚も出されました。最近、80歳記念アルバムとしてCDを出されました。私は全一八曲のこのCDをよく聞かせていただいています。またJTJ神学校の責任を持たれ、神学にも造詣が深く、多くの注解書を出されています。若い時から、救霊のためにはどんな犠牲もかまわずに働いてこられた先生のお姿に、使徒パウロの情熱を感じました。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40・31)岸先生の働きを神様に感謝いたします。
第36回関東ブロック大会に参加して
朝位 真士
さる9月20日(休)、お茶の水のキリスト教会館8階で、朝祷会関東ブロック大会が開催されました。約40名の方々が集いました。コロナ禍の中で、係の方々が細心の注意を払って、愛のこもった御準備をしてくださり、心から感謝しました。
開会礼拝は根津教会牧師の石丸泰樹先生がエフェソ3章14~20節を通して、「キリストによって実現する計画」と題して、綿密な説教要旨のもと力強く語ってくださいました。先生は海外で宣教師として御用され、またミッションスクールで聖書を教えられ、もちろん教会の牧師としてのお働きをされながら、御用されました。私とは対照的に学者的なメッセージでありました。当日はマイクを使用できないというハンディを負いながらのメッセージでしたが、会衆の心に深くとどまったと思います。
その後、1、朝祷会での奨励者のために、2、新型コロナウイルス感染者のために、自然災害の被災者のために、3、神様の愛の中で世界が平和になりますようにという祈祷が代表者によってなされました。総会の中で召天者を悼む一時を持ち、ブロックの集会報告、主な集会会計報告がありました。
最後に閉会礼拝があり、賛美の後、使徒言行録18:8~21を読んでいただき、私が「この町には私の民が大勢いる」というテーマのもとに、伝道者生涯を総括するメッセージをお伝えいたしました。1975年に神学校を卒業してから、北九州で19年間副牧師をして、曽根という場所で15年間開拓伝道をしました。その間、39名の方々が救われました。1994年、東京の桜ヶ丘教会に赴任してからの26~7年間の神の恵みを力強く語りました。レジメに拘泥しないで、マイクなしの大集会場で、やたらに声を大きくして、確信を持って語らせていただきました。皆様のお祈りとお支えに感謝しています。栄光を主に帰しつつ、ハレルヤ!!
説教題 復活の体
お 話 朝位 真士 牧師
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一 第15章35節~50節
讃美歌 148番
聖歌 540番
お話 朝位真士牧師
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一第15章12節~34節
説教題「復活と救い」
讃美歌 213番
聖 歌 630番
敬老の日を迎えて
朝位 真士
先週の19日(日)は、敬老感謝の祝福を礼拝の中でお祈りさせていただきました。祈りの中で次の聖句を引用いたしました。「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」(詩編71・9)「わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。/御腕の業を、力強い御業を/来たるべき世代に語り伝えさせてください。」(詩編71・18)「神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。/主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。/白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし/述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。」(詩編92・13~16)
パウロは教会の人々に対して、「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」(Ⅰテモテ5・1~2)と語っています。
フミ子師と私も後期高齢者になりました。桜ヶ丘教会に赴任させていただいた時は、私が50代、フミ子師は40代後半で、すでに27年が経過しました。私共の祈りは、桜ヶ丘教会の若い人々が教会の責任を担って活動していただきたいということです。勿論、高齢者の先輩方の良い伝統と証しを、若い方々に継承していただきたいと思います。また将来、桜ヶ丘教会にふさわしい後任牧師が与えられるようにと祈っています。皆様方にも、毎日密室でのデボーションの時にお祈りしていただきたいと、最近特に考えるようになりました。
※本日は事情により、YouTubeによるメッセージ配信、メッセージ要旨の掲載ができませんが、ご了承ください。
説教 朝位真士師
聖書箇所 コリントの信徒への手紙 第15章1節~11節
讃美歌 7番 355番 頌栄541番
聖歌 461番
礼拝開始時刻 10:30~
朝位真士
序
今日は1コリント14・20節から40節を通して聖書を学んで行きましょう。この20~25節異言や預言を語る目的と結果。26~33公会の秩序。34~35公会における婦人の心得。26~40結論的勧め。となっています。そして26節以下に、2つの要点があります。この2つはまた、14章の2つの中心点でもあります。その1つは(すべては徳を高めるためにすべきであります)(26)徳を高めるとは、家を建て上げるように、教会また信者個人の恵みを増進させつことで、14章にはこの言葉が多く用いられています(3、4、5、12、17,26)。
もう1つは40節「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」とあります。異言を語るものがしばしば熱狂的に興奮し、公会の秩序を乱すことがあり、また婦人が集会中におしゃべりしたので、特にその事を戒めたのであります。(34)。ここで今日の主題である「神は無秩序の神ではなく、平和の神である(33)。秩序を重んじなければならない。(34節)は婦人の伝道を禁じたのではありません。旧約にも、新約にも婦人の預言者がいました。
本
1コリント14・20~40節を見て下さい。「兄弟たちよ」もう1度改めて呼びかける。ものの考え方では、何が教会を益することに役立つかを、充分よく考えてことを運んでもらいたいとパウロは語っています。21節はイザヤ28・11~12からである。旧約のそのままでないのは、多分パウロがギリシャ語訳を用い、しかも記憶によって自由に引用したからでありましょう。このように、異言は信者のためではなく、未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためでなく、信者のためのしるしである。パウロは、預言が異言にまさることを述べた後で、そのことに関して礼拝全体はどうあるべきかを語っています26~33節を見て下さい。コリントの教会は、聖霊に導かれて、各自が思い思いに「讃美したり、教えたり、黙示を話たり、異言を話たり、解き明かしたり」(26)するものであった。預言する者は、感情のおもむくままに長い話をして、人に迷惑をかけ、それを意にかえさなくなりがちであります。それはキリスト者として不健全な状態であります。預言する者は、自分の霊を自分の知力と意思で統制しなければなりません。預言はいわゆる神がかりとは違い。節度を失った熱狂ではありません。預言は正常な精神によってなされるべきであります。「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」(33)。私達の信じる神は「平和の神」であり、秩序を愛する神であります。その神の子である私達は、神の嫌われることをすべきではありません。33~40節を見て下さい。ここでは女性にふさわしくということが語られています。
パウロは、これらの事を主イエス・キリストの使徒として、主かえあの命令によってなしたことを、それもことごとく正しい判断を下したことを述べています。最後にパウロは繰り返して、「預言することを熱心に求めなさい」と勧め(37)、また異言を話すことも禁じてはいけません」(39)と教えています。異言も聖霊の賜物である以上、それを排斥すべきではない。ただし、礼拝の秩序を乱さないように40節「すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」という一文を各自肝に銘じなければならない。それが集会におけるほかならない愛の原則なのです。
結び
今日の主題テーマ「神は平和の神である」神は無秩序の神ではなく、平和の神である。
秩序をなくして喧騒を極めるような集会であるならば、どんなにそれが熱心に行われても、決して教会の徳を高めない。だから一切の集会は秩序を維持しなければならない。その根本理由は、実に私達の信じる神こそ「平和の神」であり、秩序を愛される方であります。神は乱れの神ではない。その造られた世界にも、乱れない法則があり、」整然とした秩序があります。それを御自分の意思と目的に従って正しく導かれます。こうして神は混乱と喧騒を何より嫌われる方であります。もう1度40節を見て下さい。この句は、教会の実際問題について、今までいろいろと教えてきた言葉の結びの言葉であります。預言を求め、異言も認める、しかし、すべてのことが極端に流れず、常軌を逸せず、秩序正しく行われなければならないという。教会秩序の維持こそ。パウロが、強く望むところであります。私達が、現在行っている公同礼拝も、「適宜にかつ秩序ただして」行われているかどうか、常に省みなければなりません。霊的であると思われている礼拝は、ややもすると、熱狂と無秩序がみられる。
他方秩序と静粛をもって行われる礼拝には、はつらつとした聖霊の力が欠けて、ただ機械的に千変一律に行われているような感じがする。霊の賜物が十分生かされて、活気に溢れ、しかも厳粛にして順序正しい礼拝がすべての教会で持たれたいものであります。
共に歩んで
朝位 真士
また私が外部の御用で行く時はフミ子師に説教をしていただきます。フミ子師は小さい頃より音楽を通して主の御用をしたいと祈っていました。その通りに、賜物を通して福音を証ししていることは、主の御名を賛美したいと思います。いつも明るく、謙遜で、前向きで、いつもコツコツ努力している姿は見習わなければならないと思っていますが、実行できないのが申し訳ないと思います。
話は前後しますが、最初結婚のため九州に赴任した1976年4月、結婚式の前後だったと記憶していますが、原登牧師がこういう話をされたことを思い出します。「油井(旧姓)さん、あなたが辛くなったら、いつでも小松川教会へ戻っていらっしゃい。いつでもあなたの場所を空けていますからね。」小松川時代(神学生と伝道師の時代)に、フミ子師がいかによく働き、特に音楽の方で活躍したのかが理解されます。今でも、小松川時代の信徒にお会いすると、「油井先生には、音楽を始めいろいろなことでお世話になりました」という話を聞きます。フミ子師が小松川教会で、献身者として神様と人々の前で御用したことを伺い知ることができます。
19年間(フミ子師は18年間)の北九州復興教会・曽根集会所の御用を終え、ホ群人事で1994年4月、東京都杉並区下高井戸のパールハイツ桜上水のマンション教会である教団桜ヶ丘教会へ、息子憲義(高3)、娘真奈(中2)と4人で赴任いたしました。それまでの地方のノンビリした九州の教会から、東京のマンション教会に引越しました。子ども達は慣れない都会の生活で大変だったと思いますが、フミ子師はもっと大変だったと思います。そこにおいての第一の使命は、新会堂建設という大事業です。私は50歳の再出発です。少し冷静に考えると、大変大きなチャレンジでした。私共にとっては、大変な決断です。
朝位真士
序
今日は1コリント14章1~19節を通して聖書を学んで行きましょう。この14章全体は奉仕のための賜物。徳を高め、秩序を保つこと。分解1~5預言の賜物を慕うべきこと。6~19異言を語る者の心得。20~25異言や預言を語る目的と結果。26~33公会の秩序。
34~35公会における婦人の心得。36~40結論的勧め。となつて、この14章は、12章から続いて、霊の賜物の問題に関して述べたもので、(13章は最上の賜物とも言うべき愛について述べている)、主に異言の事について述べています。異言と預言の賜物を比較し、むしろ預言の賜物を慕うべきであること(1~5)、異言を解く者がなければ教会の徳を高めないこと(6~19)、異言は未信者のためのもので、解く者がなければかえって人をつまずかせるが、預言は未信者に罪の自覚を与えること(20~25)、集会においておのおの自分に与えられた賜物によって奉仕する時秩序を乱さず、異言を語る者は、それを解く者がいない時は黙っているべきこと、預言を語る者も、他の者が啓示を受けた場合には初めは黙るべきこと(26~33)を告げ、ついでに、婦人は公会の席では黙っていなければならないことを命じる(34,35)。
本
聖書1コリント14章1~19節を見て下さい。まず初めに(愛を追い求める)べきことを語っています(1)。これは賜物というよりも、むしろ恵みそのもので、賜物というならば、第一かつ最上のものであります。私達は働きよりもまず品性を、奉仕のことよりもまず霊性のことを考え、そのためにまず愛を追い求めるべきであるが、次には、進んで教会の徳を高め、奉仕に成功するために、種々の賜物を熱心に求めるべきであります。賜物は神のみこころのままに与えられるものでありますが(12・11)、またむさぼるように熱心に祈り求めるべきであります。しかしそれは自分の成功、自分の名誉のためではなく、(教会の徳を高め)(12)、主の御栄光を更に現わすためであります。この意味においてパウロは、異言を語るよりも預言することを求めるように、特に勧めています。異言を語って、いかにもすぐれた賜物を持っているように人には見えても、それを解く賜物がなければ、信者の徳を高めることはありません。預言とは、ここでは未来のことを言うこととは限らず、神の霊感によって
福音を語ることで、あるいは勧め、それによって人の徳を高める(3)。言い換えれば、
これは伝道すること、説教することであります。(教会の徳を高めるために)、この賜物を求め、また豊かであることを願うべきであります(12)。異言は最初その時代に神の力のわざを表すために特別に与えられたものでありますが、当時コリントの教会には、異言の賜物を持つ者がいましたが、その異言なる者は、ペンテコステの日に弟子たちが聖霊を受けた時に語った異言とは異なったもののようであります。それは会衆に理解されず、そのために集会が混乱する傾向がありました。それゆえパウロは、異言を全く禁ずるのではありませんが、むしろ預言すべきことを勧め、集会の秩序を乱さないように警告しています(39,40)。様々な賜物は、(教会の徳を高める)ためのものであります(12,26)。パウロがここで預言を勧めるのも、教会の徳を高めるためで(3,4)異言を解くことができなければ人の徳を高めないので、やめたほうがよいと言うのであります(5,6,23)パウロは異言の賜物を持っていながら、それを用い無かった(18,19)。私達の奉仕は、ただ教会の徳や、人の徳を高めるためのもので、そのためにこそ賜物を用いるべきであります。自分の特別の力を人に知らせるためであってはなりません。かえって人に譲る謙遜な態度が必要であります。
結び
もう1度1~19節を見て下さい。賜物としての愛について語ったパウロは、もう1度霊の賜物について語り、14章では主に預言と異言を取り上げ、これに関連して教会内における秩序について注意を促しています。愛の賛歌の13章と復活の喜びを歌う15章とが2つの天にそびえる巨峰であるといえば、この14章は峰と峰との間につつましく伏している谷のようなものであります。もう1度14章の1節を見て下さい。「愛を追い求めなさい」13章の結論をここにもつてきています。霊の賜物を生かすものは実に愛であります。だからこれを追い求めなければなりません。そして、預言する者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰める。異言を語る者は自分だけの徳を高める、預言をする者は教会の徳を高める。そして霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊にいただくように励みなさい。教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちを教えるために、むしろ5つの知性によって人によくわかる言葉を5つ述べて人を教えるほうが、はるかに尊いことであります。ここでまとめますと14・1~6預言は異言にまさる。預言も異言愛を規準として、すべての問題の結論を出そうとしています。14・7~11異言の欠陥。14・12~19教会の徳を高めるパウロは賜物により頼まず、教会の徳を高める事が第一として行動したのであります。結論は13章の愛によって全てのことをなすのであります、そして
すべてが神の栄光のためにすべきであり事を結論づけています。