「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/9/10  週報メッセージ

「善きサマリア人のたとえ」 (ルカ 10:25-37) 

        (神の愛④)

「善きサマリア人の物語」は、とても有名で、印象的で、感動的な聖書のお話です。

律法の専門家から「隣人とはだれか」と問われて、イエスはサマリア人のお話を展開します。

物語に登場する通行人が、祭司とレビ人、ユダヤ人の嫌うサマリア人の三人でした。強盗に襲われたユダヤ人の旅人が横たわっています。

祭司、レビ人は、瀕死の旅人の側に近づかず、向こう側を通って(避けて)過ぎ去りました。この「向こう側」との言葉に注目しましょう。「向こう側」とは、単に「道のあちら側のことではありません。それは「相手の立場に立つことなく、自分の立場に立つこと、すなわち自分の可能なことだけ、ただ自分のできる範囲だけで、人を愛するという立場に立つこと」です。彼らは旅人の痛み、苦しみを慮(おもんぱか)るのではなく、自分の立場ばかりを考えていました。やれ祭司服が汚れる、やれ仕事の帰りで疲れている。もし死んでいたら、一週間のきよめの儀式を行わなければならない、ぐずぐずしていたら別の強盗に襲われる可能性がある、などなどです。

このサマリア人の愛・親切は、国、宗教、敵・味方,親疎などすべての境界線・壁を超えるものでした。その愛の中心には、「憐れに思う心」(33)すなわち「はらわたを突き動かされる」「心を揺り動かされる」慈愛がありました。

愛とは、「だれが隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(37)というイエスの言葉に従うのが愛です。すなわち私たちが愛の行為をすれば、その人は隣人となり、なんの行為をしなければ隣人にならないのです。主イエスは宗教的指導者に対して、「あなたたちは何をすべきかを(律法で)知っているのに、実行しようとはしない」「自分の可能なことだけをし、自分のできる範囲のことをしているだけでは、隣人を愛したことにはならない」と語るのです。厳しいイエスのお言葉ですが、私たちに向けられたメッセージでもあります。

9/3 山本師説教)

2023/9/3 週報メッセージ

「あなたを罪に定めない」 (ヨハネ 8:1-11) 

      (神の愛③)山本修一

ファリサイ派の人たちは、現行犯で逮捕された姦淫の女を、イエスの前に連れてきました。イエスを試すためでした。

もしイエスが「この女を赦してあげなさい」と言われたら、イエスはモーセの律法にそむく者と非難したことでしょう。もしイエスが「この女を石で打ちなさい」と言われたら、日頃のイエスの愛の言動と矛盾すると非難したことでしょう。この女のいのちを救うにしても、女の処刑を肯定するにしても、いずれも窮地に立たされるところでしたが、主は威厳と知恵を持って勝利されました。『罪なき者が女を打て』。その言葉が宗教的指導者たちの心に突き刺さったとき、彼らは握りしめていた石を捨ててその場を去りました。

この印象的な物語は私たちに、罪と赦し、律法と裁き、愛と死など多くの真理を伝えるものですが、なお最後に、「自己吟味」を学びます。私たちは、他人の過ち、欠点、罪はよく見えても、自分自身のものはよく見えません。マタイ書でも人間の盲点(マタイ7:1-5)として取り上げられているところです。しかも自分の罪(欠点、弱点)は棚上げにして、他人の罪を責め、自分の義(正しさ)を押し通そうとする傾向があります。イエスの『罪なき者が打て』とのみ言葉が、彼らの良心を呼び覚まし、自分の罪と欠点に向き合うように強いたのです。

信仰の世界では聖書に照らしての自己吟味、自己点検、自己検査がとても大切です。私たち自身が罪人であること(ローマ3:23)、たえず神の恵みと憐れみが必要であることを自覚し、主の赦しを求めることに熱心でありたいものです(1ヨハネ1:9)。

         (8/27 代読 説教)

2023/8/20 週報メッセージ

「愛がなければ」(神の愛②) 

                    (Ⅰコリント書 12:31~13:13)

 Ⅰコリント13章は新約聖書全体を通して最もすばらしい「愛の章」「愛の賛歌」といわれるところです。コリント教会はそれほどすばらしい、理想的な教会だったのでしょうか。

パウロはコリントで長く滞在し、生活を共にしたのですが、伝道は困難を極めました。「神よりも悪魔が支配しているとさえ思われる」(カルヴァン)、欲望や自己中心が渦巻いているような教会でした。不一致、分裂、争い、訴訟、性的不品行、偶像への供え物、などの問題が絶えませんでした。日本の最悪といわれる教会よりひどかったかもしれません。信徒にはねたみがあり、高ぶりがあり、いらだちがあり、恨みもあるような状況だったのです。パウロは、愛の賛歌を格調高く歌い上げたものではなく、信徒を叱責し、戒め、勧告をしたものであります。

15の愛の定義(4)は、具体的な愛を提示するものです。「愛」を「神」に換えて読むと、改めて神の愛を理解できます。逆に「愛」を「私」に言い換えて読むことを勧めるのが作家の三浦綾子さんです。不思議にも自分の弱い、みじめな姿がよく見えてくるようになります。

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13)。コリント教会では信仰や希望の大切さの陰に隠れて、愛の問題がおろそかになっていました。現代の教会にも通じることです。

パウロは信仰と希望は愛の中に含まれている(7)というのです。私たちは主イエスの十字架を通して、愛を知りました。その神の愛に応えるのが信仰であり、この救いに希望を置くのがクリスチャンです。

私たちは神の愛をとことん知り、神を愛する者にとことん変えられて、始めて「生きる者」になるのです。私たちは この「愛がなければ」生きることは出来ないのです。

8/13 山本師 説教)

2023/8/13  週報メッセージ

「はかりしれない愛」 (エフェソ書 3:14-21) 

ひとまず「ヨハネ福音書の七つのしるし」を終了し、今月から「愛」について、何回かにわたるシリーズで考えていきます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。「ここにある」神の愛は聖書を通して、十字架を通して知る愛です。人間の罪を救うために、御子イエスは地上に来られ、十字架にお架かりになりました。これが「神の愛」です。

とはいうものの「神の愛」「十字架の愛」とは、何のことか理解に苦しむものですが、一面、救いを信じる私たちの心に、気高さといたわりをもって迫るものでもあります。現代の社会において、「愛」という言葉が氾濫していますが、私たちキリスト者は「神の愛」に焦点を合わせて学んでいきましょう。

エフェソ書では、パウロは獄中から、元気をなくしたエフェソの教会の人々に手紙を書き、今一度奮い立って「愛に根ざし、愛に立つ」ようにと励ましています。パウロは「キリストの愛」は「人知をはるかに超えた愛」 (19)であり、その愛を「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」の視点から表現しています。

パウロはエフェソの人たちのために祈ります。「内なる人が強められるように」「キリストが内住するように」「神の愛をもっと知るように」「霊にあって満たされるように(成熟するように)」。これは同時に私たちの祈りの目標です。

私たちは日々の忙しさ、この世の営みに心を奪われて「神の愛を知ること」がおろそかになっていないでしょうか。

8/6 山本師 説教)

2023/7/30 週報メッセージ

「有能な人より有益な人に」 (フィレモン 8-22) 

パウロは、コロサイ教会の有力な信徒であるフィレモンの家から逃亡した奴隷のオネシモを赦して、主にある兄弟として受け入れて欲しいと、フィレモンに依頼しています。今やオネシモは役に立つ人、有益な人になったといっています。新約聖書の中で役に立つ人、有益な人として紹介されているのは、オネシモとマルコの二人だけです。しかし、この二人はいずれも、過去において大失敗をした人でした。しかしパウロやバルナバの愛の導きによって、役立たずの者から、役に立つ者へと変えられていったのです。聖書は、有能な人ではなくても、周りの人を慰め、励まし、温かく覆い包むような人となることを勧めています。その人の周りには、いつも平和があり幸せな空気が流れている。有益な人とはそういう人のことです。有能な人は自分の内側にあるものによって仕事をします。しかし有益な人とは、自分を超えたもの、神様から与えられるものによって仕事をします。神様にしっかりと繋がれて、神様の恵みの中で喜んで生きているならば、その人がそこにいるだけで周囲に慰めと励ましの輪が広がるのです。逃亡奴隷であったオネシモは、後にエフェソの教会の優れた監督として、多くの教会員から尊敬される者へと変えられていきました。当時、エフェソの教会においてパウロの手紙が集められ、書簡集として編纂されることになりました。フィレモンへの手紙には、オネシモが盗みを働いて主人の家から逃亡した奴隷であったということが記されています。オネシモにとっては、覆い隠したいような暗い過去の出来事です。それにも拘らず、オネシモはこの短い手紙を書簡集に是非加えたいと強く願いました。自分に注がれた神様の恵みの大きさをすべての人に知ってもらいたいと強く願ったからです。 (7/23 柏師説教から)

2023/7/16 週報メッセージ

「神の業が現れるために(2)」(ヨハネ 9:13-41) 

ヨハネ書9章の前半は、主イエスが生まれつき目の見えない人を癒やす話でしたが、後半では、もっと大切なこと、すなわち霊の目が開かれる話が展開されていきます。

その日は安息日でした。ファリサイ人たちは、盲人の目を癒やしたことはともかく、安息日を守らなかったことに腹を立て、怒ったのです。ファリサイ派の人たちは、形式的な律法解釈にこだわり、心がかたくなになり、神の業(神の栄光)が見えなくなっていました。ヨハネ書は「安息日にとらわれて、神の業を喜ばない」ファリサイ派の人たちのかたくなな罪を指摘しているのです(41)。

一方、盲人だった人は、執拗な、誘導的な尋問を通して、逆に目が開かれるように、イエスに対する認識が「人」から「神の子」へと変わっていったのです。

苛立ったファリサイ人たちは、癒された盲人を外に追い出します。彼を追放します。ユダヤ人社会から破門にします。もうシナゴーグで神を礼拝することはできません。正しいことを貫いたゆえに、このような辛い目にあうのです。しかしここから彼の新しい人生が始まるのです。

イエスは会堂から追放された盲人に会うために来られた。再会した盲人は、イエスを「主」と知り、ひざまずき、「主よ、信じます」と感謝を込めて信仰告白をしたのです。盲人だった人は肉体の目ではなく、霊の目も開かれ、主イエスに出会ったのです。

ヨハネ書は、七つのしるしの六番目のしるしを通して、霊の目が開かれることの大切さを強調しています。

私たちも霊的なことに対して無知で、鈍感で、盲目ではないでしょうか。いっそう謙遜になって目が開かれるよう祈っていきましょう。

(7/9  山本師説教から)

2023/7/9 週報メッセージ

「神の業が現れるために(1)」 (ヨハネ 9:1-12) 

七つのしるしの6番目を学びます。この6番目と7番目は「七つのしるし」の中で特に大切なものです。

この6番目の物語は、生まれつきの盲人の目がいやされるというお話しですが、このテーマは「目が開かれること」です。目の見えない盲人が、肉眼のみならず、霊の目が開かれていく様子が詳細に語られています。

「この人が生まれつき目が見えないのはどうしてですか」との疑問は、弟子たちだけでなく、当時の人々の共通するものでした。因果応報という考えが支配していました。目の障害(結果)は、本人の罪か両親の罪が原因していると考えました。私たちの中にも、障害・災い・不幸があると、原因を追及したり、だれかを批判したり、環境のせいにしたりする傾向がないでしょうか。

イエスさまは、「だれの罪のせいでもないんだよ」と因果応報をきっぱりと否定されました。そうではなく「神の業が現れるため」と宣言され、即座にみ業を行われたのです。「神の業」とは「神の恵み、憐れみ、信仰、救い、いのち」です。この盲人は、生まれたときから、本人や両親に罪があるからと決めつけられ、神に見捨てられた罪人として、いわれなき苦しみを背負ってきました。主イエスの言葉は、思いもかけない、驚くべき言葉でした。

生まれながらの障害については、だれにもその原因はわかりません。神の目から見て、なぜこのような障害があるのか、神のみ業がどのように表れているかを考えていくことが求められています。星野富弘さん、レーナ・マリアさん、水野源三さんらは、重い障害を負いながら、なんと驚くべき豊かな人生を送られたことでしょう。すべて「神の業が現れるため」です。

最後に冒頭で、この物語のテーマは「目が開かれること」とお話しました。聖書は私たちの目が盲目であることをたびたび強調しています。私たちは霊の目が開かれるように日々、求めているでしょうか。 

(7/2  山本師説教から)

2023/7/2  週報メッセージ

「わたしだ。恐れることはない」 (ヨハネ 6:16-22) 

 

再び、ヨハネ書の「七つのしるし」を学んでいきます。今回は五つ目の「湖の上を歩くイエス」の話です。弟子たちを乗せた舟は逆風と高波のため進むことが出来ず、真っ暗な湖上で何時間も立ち往生していました。そこにイエスが湖の上を歩いてこられたという話です。

「こんな話はバカバカしい」「ありえない」と否定したり、軽視したり、飛ばしたりすることはないでしょうか。ついつい私たちは聖書の中の不可能、不可思議、不自然、疑問、神秘的と思われる出来事につまずきやすいのです。この「しるし」が,当時の人々に、そして現代の私たちに何を意味し、何を伝えようとしているかを読み取ることが大切です。

舟内には漁師の経験のある弟子たちも混じっていましたが、逆風と高波は彼らの経験、知恵、力をもってしても、なすすべがありません。コントロール不能の状態におちいっていました。不安でおびえ、助けを求める弟子たちに、主イエスは近づき、「わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださいました。それは主の懐かしい、力強い言葉でした。イエスを舟に迎え入れると、嵐はやみ、平安と安心が与えられたのです。

私たちの人生においても、おしよせる困難を前にして、一歩も前に進めない、先の見通しが立たない、不安や焦り、悲観が覆うことがあります。こんな時こそ、その信仰が試され、鍛えられるときです。また主を近く感じるとき、主の恵みと御心を発見できるとき、主とお会いできるときなのです。「わたしだ。恐れることはない」とのみ言葉を待ちましょう。このみ言葉が、つねに私たちの信仰の支えとなるように記憶しましょう。 (6/25  山本修一説教から

2023/6/25 週報メッセージ

「神の言葉はつながれていない」 (Ⅱテモテ 2:1-13) 

 

1942年の6月26日の早朝、全国のホーリネス系諸教会の教職が、治安維持法違反の嫌疑をかけられ一斉に検挙されました。81年前のホーリネスの弾圧という出来事が、現代に生きる私たちにどのようなことを教えているのかを、テモテへの手紙二の御言葉から学びたいと思います。

殉教の死が迫っているパウロは、息子に遺書を書き残すような思いをもって愛弟子のテモテに「わたしの子よ、あなたは、キリスト・イエスにおける恵みによって、強くなりなさい」と語り掛けています。私は今、獄につながれている。テモテよ、お前はそのことの故に気弱になっているかも知れない。そのことを恥じているかも知れない。しかし、どうか恥じたりしないでほしい。なぜなら私は主によって捕らえられているのだから。弾圧に遭ったホーリネスの牧師は、決して華やかな英雄ではありません。苦しみ、悩み、涙し、時には恥ずかしい思いを忍びながら、必死に生き抜かれたのです。キリスト者の生き方は、世間から見て要領の良い、いわゆる得な生き方ではありません。馬鹿正直で損な生き方。時には不器用な生き方と見られるかもしれません。しかし、そんな生き方を恥じることはないのです。弾圧に遭った牧師たちは、極限状態にあっても御言葉の恵みに支えられて耐えることが出来ました。獄中にあっても御言葉は先生方を守り続け支え続けたのです。まさに神の言葉はつながれていなかったのです。家族から隔離されても、教会を奪われても、拷問を受けても、命の危険に晒されても、御言葉が与えられていたから耐えられたのです。米田豊牧師は「獄中の感」としてこういう言葉を残しています。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。この短い言葉に、神の言葉に生きる者の幸いのすべてが込められています。                             

(6/18 柏 明史師 説教から)

2023/6/18  週報メッセージ

「まさにこの人こそ」(七つのしるし④

                       (ルカ 6:1-15)

 

7つのしるしの4番目は、「五つのパンと二匹の魚」の物語です。この物語は4つの福音書すべてに登場する重要な物語です。

五千人の給食のしるしはどこでなされたのでしょう。共感福音書(マタイ・マルコ、ルカ)によれば「人里離れた所」であり、ヨハネによれば「山」でありました。「人里離れた所」とは、原語では「荒野」(エレーモス)です。主イエスが洗礼後、サタンの誘惑を受けられたところです。聖書のいう「荒野」とは、単なる自然の荒れ地をいうのではなく、「人に頼ることのできない、神にしか頼ることのできない場所」を意味しています。現代の私たちも、人に依存しない、神にのみ依存せざるを得ない「荒野」に立っていることを自覚したいものです。これは信仰の第一歩です。

この物語では主の弟子たちの不信仰が問われました。フィリポは、五千人以上のパンをまかなう店も、それを買う金もない(7)…、アンデレもたった五つのパンと二匹の魚ぐらいでは、焼け石に水だ…と思いました(10)。これは私たちの「見える世界」の合理的(常識的)な判断です。見える世界に支配されている人々は、その解決を見える方法の中に見出そうとします。しかしイエスのとられた方法は、「ことば」でした。ベトザタの池で38年間病気だった人を、王の役人の子どもを、癒やされたのは主のおことばによるものでした。

人々は、この大きなしるしを見て、イエスを何者ととらえたかがこの物語のテーマなのです。 人々はイエスを預言者だ(14)といい、政治的な王、民を満腹させてくれるメシヤに立てようとしました。人々はポイントがずれ、イエスを正しくとらえることはできませんでした。ヨハネは力説します。まさにこの人こそ、メシヤ、救い主である…と。

(6/11 山本修一師説教から)