「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/7/2  週報メッセージ

「わたしだ。恐れることはない」 (ヨハネ 6:16-22) 

 

再び、ヨハネ書の「七つのしるし」を学んでいきます。今回は五つ目の「湖の上を歩くイエス」の話です。弟子たちを乗せた舟は逆風と高波のため進むことが出来ず、真っ暗な湖上で何時間も立ち往生していました。そこにイエスが湖の上を歩いてこられたという話です。

「こんな話はバカバカしい」「ありえない」と否定したり、軽視したり、飛ばしたりすることはないでしょうか。ついつい私たちは聖書の中の不可能、不可思議、不自然、疑問、神秘的と思われる出来事につまずきやすいのです。この「しるし」が,当時の人々に、そして現代の私たちに何を意味し、何を伝えようとしているかを読み取ることが大切です。

舟内には漁師の経験のある弟子たちも混じっていましたが、逆風と高波は彼らの経験、知恵、力をもってしても、なすすべがありません。コントロール不能の状態におちいっていました。不安でおびえ、助けを求める弟子たちに、主イエスは近づき、「わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださいました。それは主の懐かしい、力強い言葉でした。イエスを舟に迎え入れると、嵐はやみ、平安と安心が与えられたのです。

私たちの人生においても、おしよせる困難を前にして、一歩も前に進めない、先の見通しが立たない、不安や焦り、悲観が覆うことがあります。こんな時こそ、その信仰が試され、鍛えられるときです。また主を近く感じるとき、主の恵みと御心を発見できるとき、主とお会いできるときなのです。「わたしだ。恐れることはない」とのみ言葉を待ちましょう。このみ言葉が、つねに私たちの信仰の支えとなるように記憶しましょう。 (6/25  山本修一説教から

2023/6/25 週報メッセージ

「神の言葉はつながれていない」 (Ⅱテモテ 2:1-13) 

 

1942年の6月26日の早朝、全国のホーリネス系諸教会の教職が、治安維持法違反の嫌疑をかけられ一斉に検挙されました。81年前のホーリネスの弾圧という出来事が、現代に生きる私たちにどのようなことを教えているのかを、テモテへの手紙二の御言葉から学びたいと思います。

殉教の死が迫っているパウロは、息子に遺書を書き残すような思いをもって愛弟子のテモテに「わたしの子よ、あなたは、キリスト・イエスにおける恵みによって、強くなりなさい」と語り掛けています。私は今、獄につながれている。テモテよ、お前はそのことの故に気弱になっているかも知れない。そのことを恥じているかも知れない。しかし、どうか恥じたりしないでほしい。なぜなら私は主によって捕らえられているのだから。弾圧に遭ったホーリネスの牧師は、決して華やかな英雄ではありません。苦しみ、悩み、涙し、時には恥ずかしい思いを忍びながら、必死に生き抜かれたのです。キリスト者の生き方は、世間から見て要領の良い、いわゆる得な生き方ではありません。馬鹿正直で損な生き方。時には不器用な生き方と見られるかもしれません。しかし、そんな生き方を恥じることはないのです。弾圧に遭った牧師たちは、極限状態にあっても御言葉の恵みに支えられて耐えることが出来ました。獄中にあっても御言葉は先生方を守り続け支え続けたのです。まさに神の言葉はつながれていなかったのです。家族から隔離されても、教会を奪われても、拷問を受けても、命の危険に晒されても、御言葉が与えられていたから耐えられたのです。米田豊牧師は「獄中の感」としてこういう言葉を残しています。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。この短い言葉に、神の言葉に生きる者の幸いのすべてが込められています。                             

(6/18 柏 明史師 説教から)

2023/6/18  週報メッセージ

「まさにこの人こそ」(七つのしるし④

                       (ルカ 6:1-15)

 

7つのしるしの4番目は、「五つのパンと二匹の魚」の物語です。この物語は4つの福音書すべてに登場する重要な物語です。

五千人の給食のしるしはどこでなされたのでしょう。共感福音書(マタイ・マルコ、ルカ)によれば「人里離れた所」であり、ヨハネによれば「山」でありました。「人里離れた所」とは、原語では「荒野」(エレーモス)です。主イエスが洗礼後、サタンの誘惑を受けられたところです。聖書のいう「荒野」とは、単なる自然の荒れ地をいうのではなく、「人に頼ることのできない、神にしか頼ることのできない場所」を意味しています。現代の私たちも、人に依存しない、神にのみ依存せざるを得ない「荒野」に立っていることを自覚したいものです。これは信仰の第一歩です。

この物語では主の弟子たちの不信仰が問われました。フィリポは、五千人以上のパンをまかなう店も、それを買う金もない(7)…、アンデレもたった五つのパンと二匹の魚ぐらいでは、焼け石に水だ…と思いました(10)。これは私たちの「見える世界」の合理的(常識的)な判断です。見える世界に支配されている人々は、その解決を見える方法の中に見出そうとします。しかしイエスのとられた方法は、「ことば」でした。ベトザタの池で38年間病気だった人を、王の役人の子どもを、癒やされたのは主のおことばによるものでした。

人々は、この大きなしるしを見て、イエスを何者ととらえたかがこの物語のテーマなのです。 人々はイエスを預言者だ(14)といい、政治的な王、民を満腹させてくれるメシヤに立てようとしました。人々はポイントがずれ、イエスを正しくとらえることはできませんでした。ヨハネは力説します。まさにこの人こそ、メシヤ、救い主である…と。

(6/11 山本修一師説教から) 

2023/6/11 週報メッセージ

「事実・真実・メッセージ」(ルカ 6:1-15) 

(多く赦された人は多く愛する

毎年、6月第一聖日の記念日礼拝に桜ヶ丘教会に招かれています。もう20数年にもなります。昨年も朝位真士先生は駐車場まで見送って下さり、「来年もお願いします」との申し出を受けました。それがどうしてこのようになった(朝位師の召天)のでしょうか。

この「罪深い女が涙でイエスの足を洗ったという物語」は、絵画史上では、美しい聖画として、イエスを愛する献身的女性の姿として描かれています。しかし理解に苦しみ、奇妙で、受け入れがたい事実でありました。決してそんなに美しい絵のごとき現実ではなかったのです。

この女性は多くの人々の突き刺すような視線と軽蔑を感じながら、イエスの足下に座りました。イエスはファリサイ派の人たちから歓迎されて家に入ったわけではなく、大きな陰謀の中で食卓に着いたのです。

私たちは信仰の心でこの話を受け止める必要があります。罪の女は、イエスによって罪が赦されることを知っており、イエスの前で涙を流しました。自分が犯した深い罪を赦していただくためにイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐったのです。聖書は言います。「多くを赦された人は多く愛する」と。 私たちは事実の中に真実を見出し、真実の中から神さまのメッセージを聞くのです。

「私は高校受験に失敗し、やむなく失敗した生徒の集まる高校に入学しました。しかし理科と数学がさっぱり分からず、一学期と一日で退学しました。絶望的で、みっともない、情けない思いを引きずりつつ、必死に祈りました。あるとき主から恵みの雨が降り注ぎ、一週間続きました。後にも先にもない大きな恵みの経験でありました。このとき牧師になる決心がつきました。以来66年間、一度も後ろを振り返ることなく、主に仕えてきました。私は他のことは何も知らない人間ですが、そのつど教会の優秀な人々に支えられて来ました」

(6/4 岸義紘師説教  代筆山本)

2023/6/4 週報メッセージ

「霊的な救い」 (マルコ 5:1-:20) 

悪霊に取り憑かれ、正気を失っていた人を、主は救われました。主は悪霊を、この人から2000匹の豚の中に移したことで、悪霊から解放されました。悪霊はレギオンという名。大勢いた。たくさんの悪霊が一人の人を苦しめていたのです。

ここでいう「大勢」とは、豚2000匹の飼主、養豚で利益を得ている人、その税収入で支えられていた町全体を指します。また大勢とは国家のことであり、社会であり、この世の営みのことでしょう。彼らが生きるために、彼らの罪を一人の男に背負わせて世の隅っこに閉じ込めていました。

大勢の社会に馴染めない人がいます。また無理をして社会に合わせようとするために、自分らしさを失って病んでいる人がいます。「正気に戻る」とは、たとえ大勢の人とうまくやれなくても自分らしく生きられるようになった人のことではないでしょうか。99匹と迷子の1匹の羊のように主イエスは1匹の救いのために命を犠牲にされました。主イエスは大勢の人に捕らえられ十字架で死なれました。一緒に十字架にかけられて悔改めた罪人に対して「今日、あなたはわたしと共にパラダイスにいる」と語られました。神は個の救いをまず大事されます。

大勢の99匹だけでは欠けています。1匹のピースが嵌ってこそ100%(完全な救い)となります。自分らしさを失ったあなたが救われることを神は願っておられます。

その1匹を教会は迎え入れるのです。社会に馴染めない人も、教会に溶け込めない人もゆるく受け容れるのです。その1匹に大勢の罪を担わせ、追い出してはいけないのです。なぜなら、主イエスが全ての人を十字架で担い、全ての人の罪を赦して下さったからです。あなたの魂が、わたしの魂が主によって霊的に救われることが人生で最も大切なことではないでしょうか。

(5/28 川崎信二師 説教)

2023/5/28 週報メッセージ

「注がれる愛」 (エレミヤ 31:20、ホセア11:8) 

義なる神様は、ご自分に背き、異教の神々を礼拝するイスラエルの民を、裁かざるを得ません。そのことを怒り、そして深く嘆かれます。エレミヤ書は、1章からずっと、神様の怒りと裁きについて語っています。しかし31章に入りますと、今までの裁きの言葉が消えて、慰めに満ちた愛のメッセージが語られています。神様は、罪を犯し続けるイスラエルを、裁かなければならない。しかし、裁けば裁くほど、イスラエルに対する神様の思いは、更に深まるというのです。「彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられない」(31章20節)。この「胸は高鳴り」という言葉を、ある英語の聖書は「my heart is broken」 と訳しています。裁かれる者ではなく、裁く神様の方が、胸が張り裂けるばかりに苦しまれているのです。神様は、罪を犯して裁きを受けなければならない弱い私たちを、どうしても見捨てておくことが出来ないお方なのです。

ホセアという預言者も、イスラエルを裁かなくてはいけない神様の愛と苦しみを預言しました。ホセア書11章8節は、裁きの神が愛の神と戦われ、苦しまれているお姿を語っています。「憐れみに胸を焼かれる」という言葉を、ある英語の聖書は、「my love for you is too strong」と訳しています。「あなたに対する私の愛は、強すぎる」というのです。強すぎる愛の故に、神様は苦しまれるのです。心の向きを強引に変えて、裁きを愛に替えてくださったのです。この神様の愛と苦しみは、主イエスの十字架において、その頂点に達しています。主イエスの十字架は、神様が愛と裁きのジレンマの中で苦しまれた、その究極のお姿を示しています。十字架は、神様の怒りに神様の愛が勝利した場所なのです。十字架の苦しみ。それは、私たちのことを見捨てることができない、神様の激しいばかりの痛みなのです。

(5/21 柏明史師 説教)

2023/5/21 週報メッセージ

「母さん、ありがとう」 (エフェソ 6:2-3)

 

  本日は、ご一緒に母の日礼拝をささげましょう。皆様は「お母さん」に対して、どんな思い出を持っておられることでしょうか。

 父にではなく、母にしか流せない涙があります。子を思う母の涙です。家族の救いのために母にしか出来ない愛の姿があります。私たちは母の祈りによって、涙によって育てられました。教会もこの母たちの涙の祈りに支えられているのです。

  この時代が急激に変化し、ものの見方・考え方・価値観が大きく変わってきています。家族観、夫婦観、母性観も揺らいでいます。

ところで聖書の教えるものは古い、時代とマッチしない…と考える人がいます。そうでしょうか。聖書はいつの時代であれ、変わらないもの、変えてはならないものがあることを伝えているのです。

 パウロは「父と母を敬うこと」は、すべての人間関係において、基本中の基本として「最初の掟」と考えたのでしょう。「父と母を敬う」こと、母の愛に感謝することは、いつの時代であれ、どこの国であれ不変な真実です。

 聖書の中には、わが子のために、涙ながらに祈る母が、何人も登場します。モーセの母ヨケベド、サムエルの母ハンナ、イエスの母マリア…これらの母親たちの信仰と祈りが、生きざまが、子どもに大きな良き影響を与えたと考えられるのです。

  歴史的に有名な母といえば、古代の神学者アウグスティヌスの母モニカでしょうか。手塩をかけて育てた息子が、キリスト教信仰に反発し、母の元を去り、放蕩生活をし、肉欲におぼれ、異端のマニ教に走ったのです。モニカはひたすら祈りました。日々涙の祈りをささげました。「現代のモニカ」にとって「涙の祈りはきかれる」(イザヤ38:5)という信仰、「涙の子は滅びない」という祈りを深く教えられるのです。       (5/14山本師 説教)

2023/5/14 週報メッセージ

「起き上がりなさい」 (ヨハネ書  5:1-18) 

  今週から、ふたたびヨハネ福音書から「七つのしるし」を学んでいきます。今回は三番目のしるしです38年間も病気で苦しんできた人が、イエスの命令によって起き上がったというしるしです。

  38年間病気だった人は、ベトザタ池の言い伝え(伝説)は信じていましたが、イエスを信じていたわけではありません。イエスに近づき、癒やしを求めたわけでもありません、癒やされたときも、祭の時であったとはいえ、イエスへの感謝の一言もありません。安息日の律法違反の罪を問われるとイエスに押しつけました。…どうみても自分のことしか見えない、非常識な人です。

  この第三のしるしでは、その人に信仰があったかどうかではなく、癒やし主がどのようなお方であったかに力点が置かれています。最初から最後まで、イエスが主導権を持って、この人に憐れみをそそがれました。ベトザタの池に行かれたのも、その男に近づき、声をかけられたのも、癒やされたのもすべてイエスの一方的な「憐れみ」によるものでした。この池が「ベトザト」(あわれみの家)という名前であったのもそのためでしょうか。

  私たちはしるしを求めることによって神を信じることができると思いやすいのですが、そうではなく、神の言葉を信じることによって、神のしるしを見ることができるのです。

  最後に、イエスから私たちに「良くなりたいか」「変えられたいか」と問うておられます。私たちの信仰生活がずっとかたちだけで、とどまっていることはないでしょうか。私たちは今一度、信仰生活が良くない状態にあるという自覚があるか、良くなりたいという願望があるか、本気で良くなりたいという意欲があるかを点検して見ましょう。

(5/7山本師説教)

2023/5/7  週報メッセージ

「あなたはわたしを愛するか」 (ヨハネ書 21:15-19

山本修一

  今週もヨハネ書21章から学びます。21章は、不思議な章です。ヨハネ書は20章の終わりの結びの言葉で完結し、21章でまた新しく始まっているようです。この謎は後世の人が編集加筆したものと考えられています。それにしても21章は、20章と並んで、ヨハネ書の中でもっとも重要な章といわれています。21章は、主イエスの復活は幻影・幻想ではなく、現実であったことを決定的に示すものとして付け加えられたと考えられているのです。

 主イエスの「あなたはわたしを愛するか」という質問が、なぜ三度もくり返されたのでしょうか。

ペトロは十字架前に、臆病で不信仰であったために、イエスを否認して、その場から逃亡しました。しかし彼の心は深く傷つき、痛みを味わっていました。主イエスは、ペトロが立ち上がり、羊の群れを牧するように、ペトロの悪夢のような記憶を癒やし、愛の呼びかけをなされたのです。ペトロは三度主を否定したのですが、主はペトロに三度も愛の応答をさせたのです。この神さまに対する愛の確認によって、ペトロの心は癒やされ、霊的に回復したのです。

ペトロは、その後、初代教会の指導者として、立派にその役割を果たしていくことになります。教会も、そこから大きく成長していくのです。(使徒2~5、10~12章)。

  私たちは、「目に見えない神さまを全力を尽くして愛する(マル12:30)ことなど、どうしてできるのか」と、初めから諦めてしまっていることはないでしょうか。将来のことではなく、過去のことでもなく、主イエスは「今」、私たちの気持ちはどうなのかと呼びかけておられるのです。(4/30 山本修一師 説教から)

2023/4/30  週報メッセージ

山本修一

「新しい時代に生きる」 (ヨハネ書 21:1-15)

  主イエスの復活によって、世界は、新しいキリスト教の時代に入りました。新しい時代に生きるとは、古い生き方、肉の生活、律法的な生き方にしばられることなく、イエス・キリストに結ばれて、日々、新しく創造されること(ガラ 6:15)なのです。ヨハネ21章を通して、復活の主との出会いから、弟子たちの信仰がどのように大きく変えられていったかを学びましょう。

第1は、七人の弟子たちは、「主がおられない現実」をひしひしと味わったことです。自らの経験と力で、夜通し、懸命に網を打ち続けたのですが、結局 一匹もとれませんでした。これは主イエスが「不在」だったことをあらわしています。イエス様と離れて生きることのむなしさ、無力さを徹底的に味わう時でした。

第2は、「何もとれなかった現実」です。私たちの信仰や伝道において、一 生懸命、努力したものの、何も結果が出ず、信仰のむなしさ、宣教の愚かさを感じる時があります。イエスさまのお言葉を聞き「舟の右の方に網を下ろす」と大漁でした。み言葉に従うときに、私たちの思いを超えて、「できない者」 が「できる者」とされていくのです。

第3は、「主の食卓に招かれる」体験です。復活の主は湖畔で、食事を用意し、招いて下さいました。寒く、むなしく、惨めだったのが、本当の主と共にある喜びを味わったのです。信仰とは、私たちが努力して主を食卓にお招きすることではなく、主が招いて下さる招きに応じることです。

最後に、私たちはだれも「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じ、……すばらしい喜びに満ちあふれている」(Ⅰペトロ 1:8-9)。私たちも復活の主との体験を重ねていきましょう。(4/23山本修一師説教から)