「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/12/3  週報メッセージ

 「慰めに満ちた天国の礼拝」 (ヨハネ黙7:9-17)

          

「礼拝」は、聖書全体のテーマの一つです。創造者であり、救い主であり、王である神さまに、礼拝を捧げることは、地上においても天上においても、私たちの最大の務めです。では正しい礼拝とは何か、正しい礼拝の姿勢・態度とは何かを、聖書に基づいて考えていくことは、とても大切なことです。

「ヨハネの黙示録」は新約聖書の中でも特異で難解な書物ですが、将来起こる最終の出来事を、そして天上ではどのような礼拝が行われているかを教えてくれる貴重な書物です。

1世紀末、初代教会の人々は皇帝礼拝が命じられ、圧政と迫害の中にあって「涙と苦しみの礼拝」を捧げていました。パトモス島に流刑となったヨハネは、「ある主の日」に聖霊に導かれ、天上での幻の出来事を経験します。ヨハネは黙示録に著し、殉教者たちが、天上ではどんなに慰められ、平和と歓喜に満ちた礼拝を捧げている様子を描いています。これを聞いた地上の教会の人々は、大いに励まされたようです

本日の聖書箇所には、天上での礼拝について三つのことが書かれています。第一に神と小羊を中心として、「救い」が高らかに賛美されていることと。第二に礼拝者は「白い衣」(義、きよめ)を着、「ナツメヤシの枝」(勝利と賛美)をもって礼拝を捧げていること。第三に子羊(キリスト)が牧者となって、礼拝者を「命の水の泉」(聖霊)に導かれること…です。

天上の礼拝は、地上の礼拝とはまるで異なっているようですが、あるべき礼拝、将来の希望を伝えるものです。

私たちは、天国の礼拝を目指すこの地上の聖日礼拝で、砕かれた悔いた心をささげて、神の小羊イエス・キリストを礼拝し、いのちの水に満たされようではありませんか。           (11/26  山本修一師説教

2023/11/26 週報メッセージ

「弱さの中の強さ」 (Ⅱコリント12:1-10)

             

ある時パウロは、想像を絶するような神秘的な聖霊体験をしました。それがあまりにも素晴らしかったので、そのことの故に思い上がらないようにと、一つのとげがパウロに与えられました。そのとげは彼の宣教活動を妨げるものでした。パウロはそのとげを取り去ってくださいと主に何度も祈りましたが、主はパウロに応えて言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」文語訳聖書では「我が恵み、汝に足れり」と訳されています。その「とげ」は、パウロにとってはまさに「弱さ」でした。しかし、その「弱さ」こそが、主の「恵み」を働かせる「場」であったのです。ですからパウロはその弱さを誇ると言っているのです。自分が強いと思っている時、私たちは自分の力に頼っています。その時キリストの恵みを見ていません。キリストの恵みに信頼していません。主の恵みは自分の弱さを知った時に、初めて本当に見えてくるのです。弱さの中で発揮されるのです。十字架の主イエスのお姿。それは弱さと無力さの極みのお姿です。しかし主の恵みは、その十字架において最も豊かに発揮されたのです。主はその十字架の上から「我が恵み、汝に足れり」と言っておられるのです。十字架の恵みとは「もうこれ以上、私はあなたに与えることができない」と言われる程の究極の恵みです。「我が恵み汝に足れり。」この点において、私たちには不足も不平もない筈です。これこそが、本当の強さです。「主よ、あなたの恵みは、今、私に十分です。」「主よ、あなたの赦し、あなたの愛、あなたの恵みは、今、私に十分です。」この言葉は、私たちが自分自身の弱さに立ったときに初めて言える言葉です。逆境の中でも、行き詰まりの中でも、主の十字架の恵みは私に十分なのです。私たちは、自らの弱さを自覚した時に、自分の強さではなく、主イエスの強さに依りすがる者とされます。それこそが本当の強さなのです。

11/19  柏明史師説教

2023/11/19 週報メッセージ

「招きとしての礼拝」(礼拝③)

    (ルカ14:15-24)

召天者記念礼拝が終わり、再び、もう少し礼拝について学んでいきます。今回は招きとしての礼拝です。

もうすぐクリスマスの季節に入ります。思い返していただきたいのですが、幼子イエスの誕生に誰が招かれたでしょうか。近くから羊飼いたち、遠くの東方の国から幾人かの博士たち、…だけでした。彼らは幼子を礼拝するためだけに、地図もなく、闇夜に星に導かれて、招かれたのです。礼拝とはなによりも神さまに招かれることを示しています。

主イエスはファリサイ人らの前で「大宴会のたとえ」(15)を話されます。そのたとえでは、神の宴会の招待を受けた人々が順序通りに招待されることをあらわしています。しかし最初に招待されていた人たちは、些細でとるに足りない言い訳をしながら拒否します。彼らは神の律法を守ることに熱心で、真面目で、忠実でしたが、本心は「神の国」より「自分の地位、名誉、プライド」の方を優先しました。ですから「神の招き」(晩餐、宴会)よりも、「この世の生活」の方を大切にしたのです。

この物語は今日の私たちに向けられた言葉です。聖日ごとの礼拝は、じつは「神の国の食事」「神の晩餐会」のひな形であります。かつては、私たちは神さまから遠い「罪人」であり、選ばれていない「異邦人」でした。今や聖日ごとに、私たち一人一人は主の招きを受けています。その主の招きに対して、素直に、進んで、喜んで応答することが礼拝です。そのつもりでいるはずですが、いつのまにか些細な日常的なことで、私事都合で、家事都合で、自己都合で、神さまの招きをお断りしていることはないでしょうか。そして招待されるにふさわしい「礼服」(マタイ22:11)を着て参加しているでしょうか。

(11/12 山本修一師説教)

2023/11/5  週報メッセージ

「愛と真理をもって礼拝する」 (礼拝②)

   (ヨハネ4:16-24) 

主イエスは、サマリアの女に「まことの礼拝」について切々と語られました。イエスの言葉はこれまでの礼拝の概念をまったく変えるものでした。私たちの時代においては、さほど感じられないのですが、旧約時代に生きてきた人にとっては、礼拝の考え、あり方、姿勢を驚くばかりに転換するものでした。その後のキリスト教の礼拝は、①いつでも、どこでも「礼拝」できる。神殿でなくても礼拝できる。②聖霊によって、イエスを知り、父なる神をあがめる。③旧約のいけにえ、儀式をしなくても、ただイエスの贖いを通して、聖なる神に近づくことができる…ものとなりました。

主イエスはサマリアの女に「本物の礼拝」とは何か教えました。最初は心を閉ざしていたのですが、次第に心が開かれ、イエスさまが預言者(19)、続いて救い主であることに気づいたのです。「あなたと話しているこのわたしが、それ(キリスト)である」(26)。 この時、この女性は変わりました。

まず救い主(キリスト)との出会いが礼拝の原点です。私たちも礼拝のたびごとに、主イエス・キリストとの出会い、み言葉との出会い、み言葉の悟りと迫り、を求めていかなければなりません。

次に「霊と真理をもって」とは何かを学びましょう。「霊」とは、「聖霊」のことです。聖霊なくして、イエスを知り、従うことができないのです。ですから霊によって礼拝するには、「悔いて、開かれた、きよい心」が必要となるのです。「真理」とはイエスまたはイエスのみ言葉。イエスご自身、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。「父なる神さまに向って、聖霊が臨在する中で、イエス・キリストの御名によってささげる」…これが三位一体の神への礼拝となるのです。

(10/29 山本修一師説教)

2023/10/22 週報メッセージ

 「ああ、救われた!」(ヨハネ 8:1-11) 

                 

主イエスの敵対者たちは姦淫の現場で捕えた女性を連れて来て、「こういう女は、石で打ち殺せと律法は命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と主イエスを問い詰めました。主は「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。確かにこの女には罪がある。しかしあなた方はどうなのか?罪があるのは彼女だけなのか?この主イエスの一言によって、裁こうとしていた人たちが、逆に裁かれる立場に置かれました。全き聖であり全き義である主イエスの前では、人は、自分の罪に否応なく気付かされます。

やがて年長者から一人去り、二人去り、遂に全部の者が去って行きました。主イエスは女性に「あなたを罪に定める者はいなかったのか」と言われました。これは「全ての人は罪の中にある。だから誰も他人の罪を裁くことができない。しかし、また、誰も罪を赦すことも出来ない。だから、あなたの罪はまだ残っている」という、まことに厳格なお言葉なのです。私は今、本当に恐れなくてはならないお方の前に立っている。彼女はそのことを知らされました。

その彼女に、主イエスが言われました。「私もあなたを罪に定めない。」主イエスは、ご自身が身代わりになって罰を受けるということによって、彼女の罪を赦すと言われたのです。この時、主イエスは既に、十字架での苦しみを味わっておられたのです。主イエスは、彼女に「行きなさい」と言われました。しかし、大罪を犯した彼女の行くところなど何処にもありません。主イエスは、具体的な場所ではなく、「私の愛のうちを行きなさい」と言われたのです。主イエスの愛には、「これからはもう罪を犯してはならない」という切なる願いが込められています。

主イエスは今日も言われています。「行きなさい、私の愛のうちを。これからはもう罪を犯してはならない。いや、私の愛の内に留まっているならば、もう罪を犯そうとはしない筈だ。」

(10/15 柏明史師説教)

2023/10/15 週報メッセージ

「十字架の愛」(神の愛⑧)(Ⅰヨハネ 3:11-18) 

                 

説教者にとって、十字架を語ることは、普段以上に厳粛な気持ちに立たされるものです。それでも心の中は喜びに満ち、光栄に感じています。

十字架はキリスト教信仰にとってはなくてはならないものです。十字架のない教会もありません。では十字架信仰とは何でしょう。十字架信仰とは、人の罪を救済するために、御子イエスが十字架にかけられ、復活されたと信じる信仰です。

十字架は、ローマ帝国のおそるべき極刑でしたが、それ以上に主イエスの使命と目的に驚かされます。御子イエスのご降誕は、「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)ためであり、主の十字架はわたしたちの罪を赦すためでありました。これが十字架の意味です。

私たちは教会歴が長くなると、この驚くべき真理が、驚きを通過して何も感じなくなってしまう傾向があります。わたしたちの十字架信仰は、十字架についての知識を積むこと、学ぶことではありません。キリストの十字架は「我が罪のためなり」との一事を知ることであり、信じることであり、生涯を通して究めていくことであります。

十字架の愛のすばらしさは、たとえようがありません。十字架の愛は、第一に「与える愛」でした。それは犠牲の愛であり、徹底的に与える愛でありいのちをささげる愛でした。第二は「赦しの愛」でした。私たちは人を赦すことができませんが、主イエスがいのちをささげて多くの罪を赦してくださったのですから、私たちも人の罪を赦すことができるのです。第三は、「最も崇高な愛」でした。十字架の愛は 言葉では表現できないほどの純粋で、高潔で、崇高であります。

この十字架の愛を慕い求める者には、その愛は注がれるのです。

最後に十字架の力です。それは物理的な力ではなく愛の力です。弟子たちは弱さから強さへ、恐れから勇気へ、疑うものから確信するものへ、大きく変えられました。十字架は人の人生を変える力があるのです。

(10/8 山本修一師説教)

2023/10/1 週報メッセージ

「神の選びと愛」(神の愛⑦)(ローマ9:6-18) 

私たちは、生まれてからこの方、数え切れない選択をしてきました。 「人は、毎日、小さなことから、大きなことまで1000個以上の決断をしている」「現在の私たちは過去の選択の結晶である」といわれているのです。

聖書の中には「選び」の言葉が多くあります。その「選び」が静かに、ときには激しく強調されています。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(15)。 これは創造主である神の被造物である人間に対する絶対的な主権を表現しています。

いくつかの「選び」を振り返ってみましょう。なぜ神は、弱小のイスラエル民族を神の民として選ばれたのか、なぜ最初の子イシュマエルではなく、二番目の子イサクが神の子として選ばれたのか。なぜ長男エサウがしりぞけられ、不正の手段をつくした次男ヤコブが選ばれることになったのか。なぜ神は敵対者・迫害者であるパウロを選ばれたのでしょうか。

では私たちはどうでしょうか。なぜ私たちは、洗礼を受け、この教会の会員になり、教会に奉仕をしているのでしょう。私たちが真面目で、従順で、優しく、優秀だから選ばれたのでしょうか。これが『神の選び』の問題です。 

私たちは、自らの意思と選択で自由に振舞っているように見えますが、実は、神さまの大きな、一方的なご計画の中で生かされているに過ぎないのです。「神の選び」は、信じる者にとっては、「愛」であり、「恵み」なのです。

私たちは、神さまのご計画、御心は知ることはできません。なぜあの人は選ばれ、この人は選ばれなかったのか、なぜ救われる者と救われない者とが分けられるのか。なぜ世の初めに神さまは救いにあずかる者を選ばれていたのか。選びの問題は、人間の理解、見識を、そして民族や国や時代の壁を越えているのです。

私たちは、なぜを追求することより、神さまから「選ばれた事実」「選ばれた恵み」「選びの愛」を感謝して歩みましょう。

(10/1 山本修一師説教)

2023/10/1 週報メッセージ

「愛と罪の赦し」(神の愛⑥)(コロサイ1:14,2:13) 

                 

私たちは人を赦すことは、ほんとうに難しいことを知っています。心の中で死んでも赦せない人をかかえている方もいらっしゃるかもしれません。

ペトロは、「兄弟が罪を犯した場合、何回赦すべきか」とイエスに尋ねました。イエスは「7回を70倍するまで」といわれました(マタイ18:21-22)。それは無限に赦すことを意味するものでした。

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」 (マタイ6:14) ここでイエスは人を赦すことを、しかも無条件で赦すことを教えられます。私たちが天の父からどれほど多くの罪を赦されたか、何度も何度も赦されたかを知っているなら、人を赦すことができる、という意味なのです。

私たちは神さまから何を赦されるのでしょう。私たちの罪です。幼子イエスのご降臨の目的は「自分の民を罪から救うため」(マタイ1:21)といわれています。

改めて「罪とは何か」考えます。第一に、的外れです。的外れとは創造主から外れていること。創造主を忘れ、創造主から離れていることです。第二は、罪とは神の律法に反すること。第三は、生まれながらの罪、原罪です。原罪とは、あらゆる人間のうちに潜む、悪を選ぶ傾向のこと。原罪(心の性質)は、赦される問題ではなく、潔められるべき問題です

聖書が提供する「罪」の解決法は、キリストの十字架による赦ししかないのです。私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じる者は、罪を赦されるのです。そしてキリスト者は、十字架の血潮によって「赦された」ものとして、互いに赦し合わなければならないのです。 

キリストの福音の中心的メッセージがここにあります。キリスト教の救いとは「罪の赦し」でもあります。

(9/24 山本修一師説教)

2023/9/17  週報メッセージ

「放蕩息子を待つ父の愛」 (ルカ 15:11-32) 

     (神の愛⑤)

放蕩息子の物語は、だれもが一度は感動したことと思います。このお話は、「たとえ話の中の真珠」「福音の中の福音」とも呼ばれる有名な箇所です。

このたとえ話は、何を私たちに伝えているのでしょうか。第一に放蕩息子の帰還・悔い改め、第二に父の愛と赦し、第三に、義に生きる兄の不平と不満などのテーマが考えられます。

ところでルカ15章には三つのたとえ話があります。①「見失った羊」のたとえ、②「無くした銀貨」のたとえ、③「放蕩息子」のたとえです。この三つに共通する主題は「失われたもの」「回心」「喜び」です。そして迷った羊が見つかり、失った銀貨が戻り、放蕩息子が帰ったときの大きな喜びで結んでいます。

③では父親は財産を与えたばかりか、それを遊びで使い果たして帰ってきた弟息子を喜び、温かく迎え入れたのです。しかし③の兄は、弟の帰還を喜べず、家に入ることを拒んだのです。ここに兄の深刻な問題がありました。

兄は、父に多年忠実に仕え、言いつけに背くこともなかったのですが、その心は不平、不満がたまっていました。弟を赦せず、弟を無条件に赦す父をも受け入れられませんでした。兄は、父と一緒に住んでいても、弟以上に父の愛から遠かったのです。

私たちの中にも、神と共に歩むことをあかししながら、喜びも感謝も知らず、キリストの愛から離れている人はいないでしょうか。私たちは、今一度、十字架のイエスの元に帰り、罪の告白、人(家族、友人)との和解、ねたみと憎悪の除去、主と共にあることの恵みと豊かさの再発見を求めていきましょう。それが私たちのなすべき悔い改めのわざに他なりません。

(9/10 山本師説教)