「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2020/9/6 週報メッセージ 

聖霊の祝福を得る手段

朝位 真士 

  クリスチャンが日々の実生活の中で神の恵みを知るための手段として、神は三つのもの、すなわち祈りと聖書および教会を与えてくださいました。キリスト教指導者の一人、J・R・モットーは「敬虔な聖書研究と祈りとをもって1日を始めることは、自己と罪とサタンとのその日の戦いのために人を整えることである」と語っています。神は、勝利あるクリスチャン生活のために祈りと聖書と教会によってしか得られない神の恵みを用意しておられます。そして、この恵みこそクリスチャンとしての人生をより豊かなものとするものです。

 (1)祈りーちょうど人間の呼吸のようなものです。汚い空気を吐き出すことによって清い新鮮な空気を胸いっぱい吸うことができるように、みずからの罪を告白し、悔い改め、神の赦しを求めるのです。この意味では、祈りは神との対話であるといえるでしょう。次に、祈りには四つの要素が含まれています。①賛美ー神のみわざを賛える。②告白ー知れるかぎりの罪を告白し神の赦しを求める。③感謝ーどんなに苦しくとも神の恵みを数える。④祈願ー他の人々や国家のためのとりなしと自分の願いを率直に神に語る。祈りに対する神の答えは次の四点を挙げることができます。物質的な必要を満たしてくださる(フィリピ4・19)。主のみこころを知る(箴言3・5~6、詩編32・8)。実行する力を与えてくださる(フィリピ4・13)。支え守ってくださる(イザヤ41・10)。

 (2)聖書は文字通り心の糧であり、生活の唯一の規範です。永遠に変わらない神の約束の記されたみことばは、すなわち聖書こそ新しい人生観を構築し、優れた生活の知識を得るのです。

 (3)教会ー神が地上に与えてくださっている信仰者の群れのことをいいます。目的は、人が聖書を深く学び、信仰が深められ、訓練されて成長し、全世界にキリストの福音を伝える生きたキリストの証人となることにあります。(『新キリスト教ガイドブック』より)

2020/8/30 週報メッセージ

前任牧師西海静雄師語録よりⅣ

朝位 真士 

  西海静雄先生は2004年6月29日、享年62歳で召天されました。生前、3冊の御本、『教会に喝』『人生のスパイス』『み言葉アンサンブル』を発刊されましたが、今回は『み言葉アンサンブル』の「教会の聖性と俗性」より引用いたします。

 教会とはどんな存在でしょうか。一面ではキリストの体としての聖なるものであり、反面、人間の集団としての俗なるものでもあります。この両面を、まず聖性から見ましょう。

 教会は「天から」(使徒2・1)の聖霊降臨によって創設されました。それはこの世に存在するいかなる組織や集団ともまったく異なったことです。・・・・・・「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストいおいてお選びになりました」(エフェソ1・4)。ここで言う「わたしたち」とは教会のことです。つまり教会は天地が存在する以前に、すでにキリストのうちに存在していた、というのです。ですから教会の起源はキリストにあります。地上のいかなる要素も教会創設には参与していません。ですから教会は「聖なる者」(Ⅰコリント1・2)です。人間の集団としての教会が退廃しても、この根源的な面を見失ってはなりません。この教会はキリストの体であり(エフェソ1・23)、「御子はその体である教会の頭です」(コロサイ1・18)。

 ・・・・・・地上の教会は世的な動機で動く、俗性を持っていることを示しています。教会の方針決定や問題解決の手段として、聖霊の導きより、会議で決めるようになったのも俗性の現れです(使徒15章)。満場一致(同25)でパウロとシラスをアンティオキア、シリア州、キリキア州などに派遣することを決めたのですが、アンティオキアまで同行した二人も、「意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動を」(同22~41)とってしまいました。人間的な思いが働くほどに、俗習ぷんぷんたるものが教会に漂います。

 ・・・・・・このように、キリストの体としての「聖性」と、人間の集団としての「俗性」を併せ持っているのが教会です。地上の教会は聖なるものとされていることを、もっと深く信じるべきですし、一方で「俗性」をも深く認識し、努力や反省、悔い改めと服従をもっと徹底すべきです。

2020/8/23週報メッセージ

前任牧師西海静雄師語録よりⅢ

朝位 真士 

  西海先生は2004年6月29日、享年62歳で召天されました。満希子先生と共に桜ヶ丘教会を26年間牧会された、素晴らしい牧会者でした。生前、3冊の御本、『教会に喝』『人生のスパイス』『み言葉アンサンブル』を発刊されました。今回は『人生のスパイス』の「神中心」より紹介します。

 「すべては神への奉仕」の項目で、先生のお兄さんとの会話を記しています。一時は兄弟間でトラブルがありましたが、信仰を持って感謝して、神への奉仕として行動されたので、お兄さんとの関係もスムーズにいったとのことです。先生が献身された時、お兄さんが真っ先に賛成され、2003年夏、西海先生が重病になられた時、ドナーとして骨髄の造血幹細胞を快く提供されたそうです。「今でも兄とは仲良く、何のトラブルもありません。信仰の勝利、十字架の主の勝利です」と記載されています。

  「人の良い点を見て感謝する」では、友人の牧師の司式で結婚した若い夫婦の話が出てきます。牧師の所を訪ねてきて、「先生、もうだめです。分かれます」と言うのです。理由を聞くと、それぞれ相手の欠点を非難しました。牧師は、「あなた方も良くて結婚したのだから、今度はお互いに相手の良い点、嬉しかったこと、有り難かったことを言い合ってみなさい」と言って、別室に退きました。二人は「あなたのこういう所が好きだ」「あなたがこうしてくれたことが嬉しかった」「こう言われて慰められた」などと良い点を言い合いました。やがて牧師が呼ばれたので行ってみると、二人はにこやかに、「先生、もう一度やり直します」と言いました。「悔い改めと感謝と労りは世界を一新するのです。」

 「ハピネスホルモン」はある医師から聞いた話です。「人間には、『僕は幸せだなあ』と幸福を感じた時、ハピネスホルモンが分泌して、免疫力を高めたり、諸機能を活性する大変大きな力があります。怒りや不満は逆の働きをします。神と人とに感謝して、ハピネスホルモンに満たされ続けたい。」(つづく)

2020/8/16 週報メッセージ

前任牧師西海静雄語録よりⅡ                                             朝位 真士 

 前号でも西海先生の御本『教会に喝』より引用させていただきましたが、2004年6月29日、全力疾走の末、享年62歳で召天された先生のことを偲んで、今回も『教会に喝』より引用させていただきます。

 パニック時の心理学の権威、安倍北夫氏はある講演で次のように語られました。「どんな不安な状況にあっても、アンカーリング・ポイント(精神的な錨を下ろす場所)があれば、パニックを起こさずに済みます。信者にとってはイエス・キリストがそれであり、(突風を受けた船が沈みそうになり、パニック状態になった弟子たちがイエスによって平静を得たように)教会においては牧師がアンカーリング・ポイントなのです。」牧師が信徒にとってアンカーリング・ポイントでなければなりません。信徒が牧師のことを思ったり、牧師に会ったりすると、気持ちが落ち着き、ほっとするというようでありたいのです。何か困ったことが起こっても「教会の先生が祈っていてくれる」と思っただけで平常心を保てる、安らぐ、それが牧師の「値打ち」です。十字架と復活のスピリットが牧師の内に働いているなら、牧師が持つ人間的な弱さにもかかわらず、それは可能です。教会の存在が心の拠り所となるなら、傷が癒されます。そして、健全な霊肉を取り戻すほどに、活力が湧いてきます。ほっとすれば必ずホットになります。ほっとさせずに「熱心になれ」と言ってみても難しいのです。  私は右の文章を読んで、牧師として本当に未熟な者であることを、深く神の前に反省して祈りました。桜ヶ丘教会の皆様、牧師のためにお祈りしてください。私も微力ですが、毎日皆様方のためにお祈りさせていただいています。(ヨハネ15・9)     

2020/8/9 週報メッセージ

前任牧師西海静雄語録より

朝位 真士 

  先生は2004年6月29日、享年62歳で召天された。桜ヶ丘教会の前任牧師である。開拓同然の桜ヶ丘教会で、26年間満希子先生と共に牧会された。桜ヶ丘教会辞任後、東京聖書学校舎監、吉川教会開拓者、ホ群事務局責任者、東京聖書学校教授、ホ群委員を歴任された。とてもユニークな、牧師としては珍しい希有な存在であった。その先生が生前3冊の御本を発刊された。『教会に喝ーあなたに活ー』(1997年)、『み言葉アンサンブル』(2003年)、『人生のスパイス(教会生活)』(2004年)である。

 『教会に喝~』の「信徒」の項目で、「人間は短絡的で感情的ですが、永遠の支配者である聖霊にすべてを委ねるなら、真理の御霊はこれを受け止め、悔いのない、実り豊かな一生を送らせてくださいます。」「朝のデボーションを励行しましょう。全教会員が朝の祈りを始めたら教会は活性化します。教会は弱い者が寄り掛かり合う所ではなく、主によって強められた独りでも立ち得る者が集まって、賜物を生かし合い、主の体として結ばれ、成長していくところです。個人で生きるのではなく教会人として生きるところに、個人の存在意義もあるのです。」「教会が必要以上に信徒の時間を奪わないように、信徒は礼拝を死守し、諸集会に励み、そこから生涯的な光を受けて、持ち場立場で証しを立てるのです。奉仕のために疲れ切った表情で礼拝に出るより、土曜日はゆっくり休んで、恵みを慕ってホクホクした表情で礼拝に出たほうが伝道に役立ちます。私は会堂建設のためにバザーをしましたが、信徒の方々が余りにも夢中になるのを見て止めました。寿命を縮めては・・・・・・と思ったからです。今、高齢の方々が元気でおられるのを見て、感謝しています。」(次号に続く)

2020/8/2 週報メッセージ

東京聖書学校ユーチューブ夏期聖会

朝位 真士 

  7月21日(火)10時~11時半、聖会Ⅰ。説教「何を献げていますか」(創世記22章1~14節)、説教者は大友英樹師(赤羽教会)。先生は開口一番「何を献げていますか」というチャレンジ的語り口であった。神はアブラハムを試された。神はアブラハムの信仰を試された。創世記22章1~14節、アブラハムがイサクを神に献げたという記事を通して3つの点から神に献げる具体例を語った。①これから先の将来のことを献げる。②過去を献げる。③現在を献げる。アブラハムは長年祈って与えられた最も大事な息子イサクを献げた。ここに、きよめられたみ業の具体性を示された。アブラハムが75歳の時、祝福の基となるという神の召命を受けた。その第一の試練は、長く祈って与えられた約束の子イサクを献げよとの命令であった。彼は悩みながら実践した。

 聖会Ⅱ、13時半~15時。説教「神に近づこう」(ヘブライ10章19~25節)、説教者は島隆三師(元東京聖書学校校長、東調布教会牧師)。先生は3つのポイント、①イエスの血潮によって聖所に入る、②イエス・キリストの体によって開かれた新しい道、③大祭司イエス・キリストの中から、いろいろな具体例を挙げて語られた。牧師50年のベテランで、神学教師としてのメッセージは私の心に深くとどまった。また、キム・ウォンチ師の3つの言葉が印象的であった。①私たちは毎日、旧約・新約のクスリを飲む。②私たちは毎週、教会病院に通う。③時折、聖会病院に入院する。そうすると、かろうじて健康を保つことができる。榎本保郎先生は、「学生は勉強が忙しくて、聖書を読む時間がない。主婦は子育てが忙しくて、聖書を読む時間がない。壮年は仕事が忙しくて、聖書を読む時間がない。老人は目が悪くて、聖書を読むことができない」と言われた。聖書を読むことのない現代人を批判した言葉である。私たちはきよめられるために聖書を読み、実践していこうではないか。

2020/7/26週報メッセージ

ホ群常任便り2号

朝位 真士 

  ホ群委員長の横山基生先生より送られた「常任便り2号」を抜粋して記載します。

 1.弾圧記念聖会-6月26日で78年目となる。特別の礼拝を守ってほしい。

 2.アンケートの結果-5月15日付の「ホ群常任便りⅠ」での新型コロナウイルス感染の影響に係わるアンケートは37教会から回答あり。①ほとんどの教会において4月から5月末まで礼拝や祈祷会が自粛された。②自粛中にオンラインによるライブ中継ができたところと、設備等の不足でできなかったところに分かれた。オンラインでできても、スマートフォン等を持っていない方へは、文章での説教送付等がなされている。③経済的には、今後どうなるか不安を覚えている。礼拝が通常になっても献金収入が例年と同じ程度に回復するかは未知数と感じているところが多い。ホ群としても支援方法が決まり次第、別途連絡させていただく。④ホ群への要望として挙げられた項目の多くは、IT関係に対する支援であった。ホ群の全ての教会がしっかりとオンラインで繋がる必要性を覚えた。人的・財的支援を秋のセミナーに向けて具体的に行っていきたいと願っている。

 3.オンラインホ群員会-オンラインでホ群員会を会議ソフトZoomを用いて開催した。

 4.秋のセミナー開催形式の変更-10月6日(火)のみオンライン形式。10月5日(月)・6日(火)に予定していたホーリネスの群信徒・教職共同セミナーは、開催形式を大幅に変更。そのため日程は10月6日(火)だけとし、地域毎に集まれる教会の方々は集まっていただく等をして、できるだけ多くの方々をオンラインで結びたいと願っている。現在ITの設備が不十分な教会には、10月までにホ群からの支援のもとオンラインで繋がることに尽力したいと願っている。

 5.2020年度ホ群年会の開催形式の変更と各種献金のお願い。①弾圧記念献金(予約78万円)。②東京聖書学校予約献金(予算400万円)。

2020/7/19週報メッセージ

終末の徴

朝位 真士 

  マタイ24章7~14節に「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起きる。しかし、これらすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のためにあなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と記載されている。

 最近、コロナウイルス感染症流行のため、世界的に多くの感染者、死者が出ている記事が、テレビ、インターネット、SNS等で報道されている。また全国で地震や洪水の被害があり、特に私の故郷、九州では大被害を受けている。私自身、伝道者として四十数年、キリスト者として六十年近くなるが、このような被害を見たことはあまりない。

 毎日報道されるニュースは暗いものばかりである。まさしく終末の徴を予想しているかの如くである。私たちクリスチャンは霊の目を醒ましていなければならない。科学文明は進歩して、子供から大人まで便利な時代になり、インターネット、スマホ、メール等、私の幼い頃には想像もつかないほど便利になった。しかし、人間の心は本当に平安と喜びと感謝に溢れているだろうか。この終末の時代、私は神の御声を聖書から聞く。「悔い改めて、福音を信ぜよ。」私はますます伝道者として、キリスト者として、救われる魂のために時間をかけて祈り、労さなくてはならない。主の再臨が迫ってきていると感じる今日今頃である。皆様は如何お感じだろうか。キリスト者の皆様も、神の御声を聖書より聞いてほしい。

2020/7/12 週報メッセージ

朝祷会の恵み 

朝位 真士 

  私は牧会の助けの一つとして朝祷会(超教派の祈り会)に出席しています。信徒(1961年12月、北九州復興教会の山中日出刃牧師より受洗)の時も、9年間サラリーマンとして仕事に支障のない限り、北九州と東京で早朝七時過ぎからの祈祷会に出ていました。牧師になってからも朝祷会によく出席しています。これが超教派の方々との交わりの原点となっています。

 最近出席した青山朝祷会で、浜田耕司郎牧師の『祈りの道』という御本に出会って、いくつかの感銘を受けました。その中の「神との時間」という項目の中で、「祈」という八木重吉の詩が記載されていました。「ゆきなれた路のなつかしくて耐えられぬように、わたしの祈りのみちをつくりたい」とありました。浜田先生は「私たちが歩んでいるキリスト者の道は、地図にもない未踏の小道ではありません。使徒・聖徒・先輩兄姉らによって踏み固められた大道なのです。それと同じく、祈りの道は主イエスによって切り拓かれた父神に至る道、イエス御自身がそのものでもあります。そして、その道を進む原動力は聖霊である祈りの霊です。」と述べておられます。

 他の箇所では「優先順位」として、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)が紹介され、祈りの習慣をつくることや、神との時間をつくることの大切さを訴えておられます。例話としてアサヒビールの樋口廣太郎兄が出てきます。会社の危機を救うために社長として派遣された時のこと。彼は「主よ、何とかしてください」とは祈らず、「主よ、感謝します。シェアが拡大し、社員とその家族全員が喜んでいます。お客様にも喜ばれています。ありがとうございました」と、既にそうなったこととして祈り続けました。領収書の祈りに徹し、請求書の祈りは一切しませんでした。結果はと言えば、彼の祈りと熱意によって新商品が生み出され、会社の危機は救われ、感謝した通りになったということです。私たちも領収書の祈りに徹しましょう。

2020/7/5 週報メッセージ

あらゆる境遇に処する秘訣を心得ている

朝位 真士 

  パウロのフィリピ四・一三に「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」とあります。この箇所について、尾山先生は次のように注解されていました。

これは、生活問題に関する信仰の奥義を体得したということでしょう。富んでいる時には信仰が順調であるけれども、貧しくなると信仰まで貧しくなってしまうという人があります。また、これとはちょうど逆で、貧しい間は信仰が生き生きとしていたのに、富むようになると信仰がなまってくるという人もあります。順境の時には信仰を持っていたのに、逆境になるとへこたれてしまうという人もありますし、逆境の時にはその大波小波を乗りきっていたのに、順境になったら信仰がなくてもやっていけるとでも思っているように、信仰のことなど忘れてしまっているという人がおります。このように、人間というものはどこかに弱点を持っているものです。人生というものは、いろいろな試練の嵐が次から次へと襲ってくるものです。そういう時、貧であれ富であれ、逆境であれ順境であれ、ありとあらゆる境遇に置かれても、これに処する秘訣を身につけるというのが、信仰者の生活なのです。つまり、信仰生活というものは、テクニックで解決していくものではなく、全生活でぶつかっていくものなのです。

 私たち信仰者も様々な問題課題を解決するために、あらゆる方法を見つけようと努力します。確かに人間的な方法で考え、努力することは大切ですが、最終的には凡てのことは神の御手に委ねて、神の最善、万事を益としてくださることを信じて従っていく時に、やがて最善の結果が与えられます。パウロのあらゆる境遇に処する秘訣を得たという信仰、私たちもそういう生き方をしたいものであります。