「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2021/12/5 週報メッセージ

「信仰に生きる」説教準備に際して

朝位 真士 

 今日のⅡコリ4章1~18節を通して、聖書を学びました。米田師によれば、全体は福音に仕えるパウロの態度、1~2節、光の中の生涯、3~4節、福音の光の隠蔽、5節、彼の使命と宣言、6~7節、神の証明と奉仕の力、8~15節、迫害の中における確信と覚悟、16~18節、彼の望み、苦難と栄光の比較。

 竿代照夫先生は、1~6節、栄光を現す人と覆う人。5節の後半で「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と語り、三つの要素がバランス良く捕らえられていくことが伝道者にとって大切だとしました。①イエスのため――人間を喜ばせるのではなく、主の喜びを求めることが基本。②あなた方に仕える――自分を低くして、群のために仕える姿勢を示す。③僕――主人として支配せず、弟子の足を洗われたイエスに倣って仕える者となりきること。7~15節、土の器と宝物。16~18節、永遠の希望。人間の肉体は、土の器のように、もろく、弱く、はかない。しかし、活ける主との交わりを経験し、その方が永遠なるが故に、私達もそれにあやかって永遠的な存在とされた。私達は、やがて消えていくこの世の一時の感覚的な者ではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきである。

 ウイリアム・バークレーは、1~6節、くらませられた目で彼はまず自分自身について語る。大きな使命を意識している人は、驚くべきことをやりとげるものである。音楽的天才の創りだした偉大な作品の一つにヘンデルの「メサイヤ」がある。この楽曲はわずか22日間で書き上げられ、その間ヘンデルは食事も睡眠もほとんどとらなかったといわれている。偉大な仕事の持つ不思議な点は、それを遂行するには必要な力が同時に与えられるということである。7~15節、患難と勝利。16~18節、忍耐力の秘密。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。みえるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)

2021/11/28 週報メッセージ

救いとは何か                                                        

朝位 真士  

  今回は、ジョン・ウェスレーの説教集にある島隆三牧師(前東京聖書学校校長・東調布教会牧師)の論文をご紹介させていただきます。

 聖書においても、救いは広い意味で用いられる重要なことばですが、キリスト教において大切なことは、救いが何よりも神との関係において考えられているということです。「苦しい時の神頼み」式の信仰は、例えば病気が治ったら、問題が解決したら、もうそれでよい、「私は救われた」ということでしょう。しかし、聖書は、そういう人にも「あなたは本当に救われていますか」と問いかけるのです。つまり、救いが人間本位でなく、神本位に考えられているということです。人は誰でも、生まれつき自分本位、自己中心ですから、「自分が救われたと思ったら、それでいい」と開き直るような所がありますが、聖書はそういう自己中心の人間を「生まれながらの怒りの子」(エフェソ2:3)と呼んでいます。「怒りの子」というのは、神の怒り(審き)の対象となるという意味で、そのままでは神の審きによって滅んでしまうということです。私たちは何よりもこの神の怒りから救われねばなりません。

 結論を急ぎましょう。救いも、神が提供して下さっているということです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神は、自己中心でどうしようもない私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをお与え下さり、その十字架の死と復活により救いの道を備えて下さったのです。ここにキリスト教の救いの根源があり、私たちは、その神の救いをただ信じて、お受けするほかに救いはないのです。エフェソ2・8にある通り、私たちは、ただイエス・キリストを信ずることによって神の怒りから救われるのです。『キリスト教神学辞典』の「救い」の項の一節を引用すると「この救いの経験の特徴を要約すれば、人間がそれによってその罪深い自我から生命の新しさと充満へと解放される神の恵みの行為のことである。すなわち救いとは、神の意思とわざとによって、人間のうちにまた人間のためになされる何かである。」「生命の新しさと充満へと解放される」という点を強調したのがジョン・ウェスレーです。

2021/11/21週報メッセージ

 クリスチャン・リーダーシップ                                            朝位 真士 

 最近、クリスチャン・リーダーシップについて考えていた時、『新キリスト教ガイドブック』の中に、聖書が説くリーダーシップについて適切なヒントがありましたので、ここにご紹介いたします。

 魂について熟慮する――聖書に出てくるリーダーシップのギリシャ語に「ヘーゲオマイ」、これは「心を理解する」「魂について熟慮する」という意味があります。相手の心を十分に理解することが必要です。旧約聖書、「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、ご自分のひとみのように守られた。」(申命32:10)ヘブル語で「世話をする」という「ビーン」という言葉が、理解するという意味をもっています。神の教育も理解から始まるのです。リーダーシップをもつ人とは、相手と同じ立場に立ち、その心に触れることのできる人のことです。いいかえれば、心のスキンシップです。すべての人に求められる積極的人生の要素です。人々と関わって参りましょう。

 先に道を備える――リーダーシップを表す聖書の言葉に、もう一つ「プロイステーミ」があります。聖書のみことば、「指導する人は熱心に指導し(プロイスタメース)」(ローマ12:8)とは、熱心さにおいて先に道を備える。「あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し」(Ⅰテサ5・12)では、「主にあって」とありますように、敬虔さにおいて先んじることです。「この人は多くの人を助け」(ローマ16・2)とは、同情において先に道を備えることです。「それは神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです」(テトス3・8)では、善において人よりも先に道を備えることです。

 三つの特質――①明るくあること――明るさの源は、喜びにあります。この喜びは、信仰によって神から与えられる賜物です。②教えられやすさ――これは謙遜の現れです。③否定的精神をもたない――ネガティブ・スピリットをもたないことです。

 私たちはリーダーシップの精神をもって、積極的に人々と関わって参りましょう。                      

2021/11/14 週報メッセージ

某教会の特伝に招かれて

朝位 真士 

  10月31日、千葉の某教会の特伝に招かれました。牧師は神学校を三十余年前に卒業された先生で、開拓伝道をずっと続けておられます。超教派の働きの多い先生です。大変な博学で、大学では地質学を研究されたリケ男です。献身して、働きながら某神学校で4年間学び、卒業して現在の教会で開拓伝道をされて今日に至っています。外側から見ると大変困難な教会に思えるが、当人は喜々として御用に励んでおられ、事務もよくおできになり、超教派の働きに大変積極的です。

 いかに有能な先生でも、そこの教会に使命があったなら、外部からいろいろと言っても関係ないのかもしれないと、私も教師の一人として最近考えさせられます。大教会で多くの人々を救いに導き、大人数の人々を牧会し、有能な働きをして退任するのか、それとも某教会の先生の如く、一人の救いのために生涯をかけて牧会されるのが良いのか、私にはわかりません。神のみが知りたもうのです。とにかく献身して牧師として最後まで主の御用を全うすることが大切です。私もいろいろな牧師を知っていますが、ホーリネスの教師として、日本キリスト教団の教師として、四十数年御用させていただいています。いつも考えていることは、献身者として誘惑に負けないということです。異性と金銭の誘惑に負けて、牧会から退かなくてはならない先生方もおられます。もちろん主の前に悔い改めて再献身される先生もおられます。神様が何年主の御用をさせてくださるかわかりませんが、主が許してくださる間、主の御用に精進していきたいと思います。どうぞ皆様お祈りしてください。私共二人で一人前です。教会の皆様の愛の配慮を期待したいと思います。

 「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28、口語訳)

  「人の心には多くの計画がある。しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19:21、口語訳)

2021/11/7 週報メッセージ

私たちのグループの特色(Ⅰ)

朝位 真士 

 ホーリネスの教会は、その信仰の主題を「四重の福音」すなわち「新生」「聖化」「神癒」「再臨」と表現してきました。「四重の福音」という言葉を初めて用いたのは、アメリカの牧師、A・B・シンプソン(1843~1919)です。1892年、中田重治師は渡米して、当時米国で起こっていたリバイバル運動の中心となっていた「四重の福音」に触れ、自らも聖会において深く取り扱われ、自分のすべてを主に捧げて聖霊の満たしを体験して、「自分の求めてきたのはこれだ!」と確信を持って帰国しました。1901年、神田神保町十番に建物を得、宣教を開始しました。中田師は青山の神学部で学んだメソジストの伝道者でしたが、この四重の福音に触れて、これならよくわかる、キリスト教信仰は人生が「変化する」出来事であると強調しました。

 中田重治の率いるホーリネス教会は救済論に強調点があります。すなわち、聖書の教えは「魂の救い」が中心で、人間の救いは、まず「新生」から始まり、「聖化」の状況に進み、さらに魂の救いは魂に健康をもたらすと同時に、肉体も癒すのだという「神癒」の信仰に至り、やがて歴史の終わりには「キリストの再臨」をもって歴史の完成に至る。その時にわたしどもの姿はキリストと同じ姿に「栄化」されるという聖書の基本的メッセージをストレートに語ったのでした。

  • 新生――罪を悔い改めてキリストを救い主として信じた時になされる経験です。    (ローマ3:21~26、ヨハネ三・三~七、五・二四)
  • 聖化――ガラテヤ2:19には、パウロの深い体験が記されています。
  • 神癒――出15、「われは主にして汝を癒すものなり。」
  • 再臨――世界の終わりに、主イエス・キリストが王として権威を持って臨まれる

      という信仰です。

(『東京聖書学校論集No.2「四重の福音」』より)

2021/10/31 週報メッセージ

詩編黙想

朝位 真士 

  私は毎朝、詩編を素読している。詩編1編1~3節を新共同訳聖書より引用する。

  いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。/その人は流れのほとりに植えられた木。/ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。/その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 米田豊先生の詩編解説によると、宗教的な人民であるイスラエルの昔の多くの詩人の作を、神を礼拝する時に音楽に合わせて歌わせる目的で、後代のエズラが編集した聖歌集であるという。最も古い作者は、紀元前千五百年代のモーセであり、編集者エズラに至るまで千年間にわたる作の内、ダビデのものが最も多く73編ある。全体を通じて敬神愛国の情緒にあふれ、感謝賛美、ざんげ祈祷で調子づけられている。その題目は多種多様で、義人の繁栄、悪人の災禍、人生の無常などを歌った教訓的なもの、神の義、神の愛、神の恵み、神の力、神の栄光などの、神の属性や神の律法、神の摂理などを歌った信仰的なもの、罪の悶えの中よりのざんげ、患難の中よりの哀訴、個人及び国民の上に下されたあわれみに対する感謝などの祈祷に関するもの、イスラエルの過去を記した歴史的なもの、及び救主来臨の希望、ならびにイスラエルの将来の幸福を歌った預言的なものがある。詩編を理解するにはまず著者の歴史的事情と背景を知り、その立場より教訓を学ぶのを至当とするが、歴史的事情の不明なものも多い。

 私は毎朝、詩編を通読させていただいているが、注解書なしに神の言葉を黙想するのは1日の始め、また終わりに大切なことではないだろうか。私の友人のF牧師はこの詩編の専門家であり、いつも彼にいろいろアドヴァイスをいただきながら、詩編を楽しく読んでいる。

2021/10/24 週報メッセージ

 最近考えている事

朝位 真士 

  「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリ13・13)

  キリスト教信仰の三要素は、信仰、希望、この三つである。この中で最も大切なものは、愛である。ヘブル11章には、信仰についての事が記載されている。この場合の「信仰」は、神の約束に一途にまた一貫的に顔を向けて離さないことである。すなわち神の約束をまこととして、その中に生き抜くことが信仰なのである。この神の約束はキリストにおいて示され実現されたのであるから、キリストへの信仰と神への信仰とは当然一つのものである。

 また新約において、「希望」が決して人間の欲求や願望からくる心理的期待のようなものではなく、神に源を発し、イエス・キリストの生と死と復活とに根拠や保証をもつ待望であることが明らかにされている(ヘブル6・17~20)。新約聖書では「希望」または「のぞみ」という名詞は約60回あげられている。よみがえりの望みをあらわすもの9回、神の栄光にあずかる希望6回、永遠の命の望み2回、その他信仰によって義とされる望み、救いの望み、前におかれている望み、生ける望み等があって、希望の内容が終末的であることがわかる。この新約的希望の理解において最も重大なかぎはⅠコリ13・13のパウロの言葉であるが、少なくとも二つのことが明らかにされている。第一は「希望」が信仰や愛とともに永遠的意義のある信仰経験であるということ、第二はこの希望が単なる地上的希望ではなくて終末的意義のある永遠的希望であるということである。(教団『聖書辞典』参照)

 私は改めて、信仰・希望・愛というキリスト教信仰の三要素について考えている今日この頃である。この三つの内容を心に留めて人々に接してまいりたいと思う次第である。

2021/10/17 週報メッセージ

後期高齢者のつぶやき                                                    朝位 真士 

  私は10月6日に誕生日を迎えた。いつも語っているが、十代でクリスチャンになり、9年間会社勤務し、1975年に神学校を卒業した。北九州で19年間、担任教師として3人の主任牧師に仕え、その中で15年間、曽根での開拓伝道で土地・建物を取得し、39名の方々が洗礼を受けた。

 1994年、桜ヶ丘教会に赴任し、土地・建物(教会堂)が与えられた。今日まで、小さな働きながら、フミ子牧師と夫婦で桜ヶ丘教会の御用をさせていただいた。ホ群委員を6年間務め、キリスト伝道会実行委員として超教派の働きをさせていただいた。また教誨師として、女子少年院で毎月1回、女子達に約1時間、聖書を中心として教養講話をさせていただき、人生訓を語っている。あまり目立った成果はないが、最近一人の少女が私と面接して、キリスト教についての求道心を持ち、決心されたことは大きな出来事であった。その施設で洗礼式を行うことはできなかったが、その少女は涙を流して悔い改めの態度を示された。まさしく聖書の神様の導きであった。出院(退院)して教会生活を送っていただきたいと願っている。

 私は毎日、早朝(4時半~5時頃)に起床して聖書を読み、祈り、近所を清掃して会社や学校に行く人々に挨拶している。初めての方々にも、失礼かもしれないが声をかけて、コミュニケーションをとっている。

 2021年の聖句、使徒18章9~11節、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」私はこの御言葉に励まされながら、積極的に福音を語るチャンスを祈っている。教会員の方々も、勇気をもって身近な人にキリストの福音を語っていただきたい。創立百周年記念を前にして、一人でも救われる方が与えられるように祈りたい。

2021/10/10 週報メッセージ

キリスト伝道会チャペルコンサート

朝位 真士 

  私は、さる9月26日(日)午後3時より新宿西教会で行われた、日本伝道幻を語る会主催のチャペルコンサートに行きました。講師は、私共の教会にも毎年来られている岸義紘先生です。先生は80歳とは思えない若々しい力強さで、何種類ものサックスを演奏してくださいました。聖歌、讃美歌、ゴスペル、クラシック等の曲目を演奏してくださいました。ただの演奏ではなく、信仰を持って演奏される曲想は、会衆の心に強く響いたと思います。約1時間半の時間、休みなしの演奏とメッセージでしたが、本当に若者に負けない力強さと確信のある演奏と説教に、私は感動が与えられました。現代のコロナ禍で、人々が悩み、苦しんでいる時に、お一人で1時間半の時間を、力一杯有効に使われた先生の姿に、私自身大いに励まされました。行く時は大変疲れていましたが、帰りは身も心も軽々となった感じがいたしました。コロナ禍で人数制限があったので、一般の方々にはお知らせできませんでしたが、来年のチャペルコンサートを楽しみにしてください。

  先生は、はじめ独学で聖書を学び、のちに留学されました。サクソフォンの良き指導者に恵まれ、ご自身も大変努力されて、CDを何枚も出されました。最近、80歳記念アルバムとしてCDを出されました。私は全一八曲のこのCDをよく聞かせていただいています。またJTJ神学校の責任を持たれ、神学にも造詣が深く、多くの注解書を出されています。若い時から、救霊のためにはどんな犠牲もかまわずに働いてこられた先生のお姿に、使徒パウロの情熱を感じました。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40・31)岸先生の働きを神様に感謝いたします。

2021/10/3 週報メッセージ

第36回関東ブロック大会に参加して

朝位 真士 

  さる9月20日(休)、お茶の水のキリスト教会館8階で、朝祷会関東ブロック大会が開催されました。約40名の方々が集いました。コロナ禍の中で、係の方々が細心の注意を払って、愛のこもった御準備をしてくださり、心から感謝しました。

 開会礼拝は根津教会牧師の石丸泰樹先生がエフェソ3章14~20節を通して、「キリストによって実現する計画」と題して、綿密な説教要旨のもと力強く語ってくださいました。先生は海外で宣教師として御用され、またミッションスクールで聖書を教えられ、もちろん教会の牧師としてのお働きをされながら、御用されました。私とは対照的に学者的なメッセージでありました。当日はマイクを使用できないというハンディを負いながらのメッセージでしたが、会衆の心に深くとどまったと思います。

 その後、1、朝祷会での奨励者のために、2、新型コロナウイルス感染者のために、自然災害の被災者のために、3、神様の愛の中で世界が平和になりますようにという祈祷が代表者によってなされました。総会の中で召天者を悼む一時を持ち、ブロックの集会報告、主な集会会計報告がありました。

 最後に閉会礼拝があり、賛美の後、使徒言行録18:8~21を読んでいただき、私が「この町には私の民が大勢いる」というテーマのもとに、伝道者生涯を総括するメッセージをお伝えいたしました。1975年に神学校を卒業してから、北九州で19年間副牧師をして、曽根という場所で15年間開拓伝道をしました。その間、39名の方々が救われました。1994年、東京の桜ヶ丘教会に赴任してからの26~7年間の神の恵みを力強く語りました。レジメに拘泥しないで、マイクなしの大集会場で、やたらに声を大きくして、確信を持って語らせていただきました。皆様のお祈りとお支えに感謝しています。栄光を主に帰しつつ、ハレルヤ!!