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「神との平和」2020・4・19説教要旨

朝位 真士

序 

今日はローマ5・1~11節を通して聖書を見ていきましょう。この5章は義認と平和。

3つの喜び。神の愛。罪と恵みの対照が語られている。米田豊先生の注解書によれば、1~11節は義認の結果。1神との和らぎー平和、2現在と未来の祝福―今立っている恵みと望みの喜び、3~5患難の中の喜びとその理由、6~8キリストの死にとよって示された神の愛、9~10確実な救い、11神を喜ぶ喜び。と分解しています。

ローマ5・1~11節を見て下さい。キリスト教は空想や理想の上に立つものではなく、事実の上に信仰の根拠を置く。キリストの死と復活の事実こそ、福音の基本的要素で、これに信仰の根拠を置いてこそ、救いが体験されるのである。その救いの第一歩は、過去のすべての罪がゆるされて義とされることで、その結果である平和も(1)、その恵みの持続である現在の恵みも、将来に対する望みも(2)、神の側からはキリストによって与えられ、人の側では信仰によって受けることが出来る恵みである。キリストがおられても信仰がなければ救われず、信仰があってもキリストなしには恵まれない。さて、ここに3つの喜びがある。第1に、信者は未来において神の栄光にあずかるから喜ぶ(2下、コロサイ3・4、第1ペテロ1・6)。第2に現在には患難があるが、その中にあっても喜ぶ(3上)。患難は喜ばしいものではないが、信仰の上からはむしろ有益なものである(ヤコブ1・2~4、第1ペテロ1・6)苦難は品性と信仰を訓練する。まず忍耐、次に練達を生じる(3~4)。練達の定義は試みて忠実なこと、忍耐は消極的であるが、練達は積局的である。こうした患難によって、訓練された者には希望が生じ、その(希望は失望に終わることはない(5)。なぜこうした患難の中にあって喜ぶことがきるのか。(なぜなら)私たちに賜っている聖霊は、神の愛を感じさせ、また神の愛を私たちの心に注ぎ込まれるからである(そして、神の愛とは何かが示される)。第3に、このような人は、未来における神の栄光を望んで喜ぶだけでなく、現在神御自身喜ぶのである(11)。恵みよりも恵み主御自身を喜び、主との愛の交わりにはいった者は、どんな患難に遭遇しても、「いつも喜んで」いることが出来る(第1テサ二ケ5・16)。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネへミヤ8・10)。6~8節では神の愛が十字架に表されたことを示す。神の恵みは、自然界にもその一端は表れているが、敵をも愛する神の愛は、御子の十字架において、初めて十分に現れたのである。「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。7節8節を見て下さい。これは義務や恩返しのためではなく、ただ愛の犠牲であり、私達を救うために罪の身代わりになられたのである。私たちは、この十字架によって、罪許され、(義)とされ、(神の怒りから救われる)(9)ばからではなく、(神との和解を受け9,更に進んで、主が復活して今生きておられることにより、(彼の命によって(罪の力から全く)救われることが出来る(10)(ヘブル7・25)。「主は敵を愛しなさい」と教えられただけでなく、自ら敵をも愛して、そのために命を捨て、身をもって模範を示された(第1ヨハネ3・16,4・9~10)。神の愛を示す者はキリストであり、(8)、神の愛を私たちの心の中に与えるものは聖霊である(5)。十字架を見上げて神の愛を知り、聖霊を受ければ、神の愛を受けることが出来る。

結び

もう一度ローマ5・1~11節を見て下さい。

1~5動的信仰が語られている。信仰は、悪魔の支配のもとにあったわたしたちを、神の支配のもとにおきかえる。以前には、神との間に平和はなかったが、信仰の中にある私たちは、主イエス・キリストによって、神との間に平和を与えられている。キリストによって与えられる「平和」は、信仰によって「義」とされることと表裏1体である。キリストが神のみ前で、我々のために「義」を獲得するためには、悪の力に対して勝利を得なければならなかった。しかし、その勝利は、罪の代価である死を、御自身に引き受けることによって、獲得されるものであつた。死によって死に勝った勝利であることこそ、神と人間との交わりの道を開く者であると共に人間の心にダイナミックな信仰を与えるものである。神との間の平和というのも、ダイナミックな平和であって、神のみ懐に生きている実感をもち続けることこそダイナミックな平和である。これを別の言い方で表現するならば、キリストにおいて神と出会う出会いの生活といえます。そしてキリスト者の生活は、神の愛に支えられた希望のうちに生き続けるのである。これがキリストにおける人生の現実であり、時の流れのなかにある天的な生き方、すなわち、終末論的な生き方である。

5・6~11節は神の愛の内容が語られています。パウロは、愛の生産過程を他の言葉で説明しています。9節は、キリストの血、義とされる、神の怒りからの解放という順序を示しているが、10節と11節では、和解いのちによる救い、神を喜ぶことという順序を示すのである。

「イエス・キリストの復活」2020・4・12説教要旨

朝位 真士

2020年のイースターおめでとうございます。今日はマタイ28・1~10を通して聖書を見ていきましょう。キリストの復活は、奇跡とよばれる「不思議なみわざ」とちがい、キリストの神性と人性に関する秘儀である。それゆえ、それは、人間の理性が討議する問題ではなく、人がそれを信仰する事柄である。復活についてはただ1つの説教がある。それは、「信ぜよ」ということである。復活について、パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり」(第1コリント15・17)と語っている。それ故、マルチン・ルターが語るように、「キリストの復活を否定する者は、同時に福音の全体と、キリストについて語られる全体を否定する」ということになる。キリストの復活は、キリスト者の信仰の中に、巨大な文字で書き込まれていなければならない。キリスト教教義学は、復活を単独の出来事としてではなく、キリスト教の全体にかかわる事柄として重視している。アルトハウスは、これについて、「復活の証言は、単に復活としてのみではなく、他の事柄とのかかわりにおいて力を持っている」と語っている。これは終末という者が、単に、おわりの事柄として考えられるのではなく、あらゆる「現在」にかかわるものとして受け取られるのと同様である。

マタイ28・1~10節を見て下さい。復活の並行記事はマルコ1~8、ルカ24・1~12,ヨハネ20・1~10に並行記事として記載されています。

復活への信仰と歓喜が、内村鑑三の詩の中に「天地も揺らぐラッパの一声に更生るらむ春の曙」この詩の中に溢れ出ている。復活は大きな驚きをともなう喜びへの爆発である。復活は決して「おわりの事柄ではない。ここから、新しい希望の芽が生まれ出るのである。べルナーエラートは、キリストの復活は新しいエオン(神によってつくり与えられる人間の状況とその時代の開始である)(キリスト教信仰)と述べているが復活を誠に良く表現した言葉である。

結び

もう一度マタイ28・1~10節を見て下さい。

ここでイエス・キリストの復活の重要性について3つのことを考えて見たいと思います。

1・イエスの復活は、イエスが神であったことを示しています。

  イエスは何度も、自分がよみがえることを予告していた。そして、その予告は事実となった。聖書は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大胆によって公に神の御子として示された方、わたしたちの主イエス・キリストです」(ローマ1・4)と述べています。

世の中の人々は、世界の4大聖人として、釈迦、孔子、ソクラテス、そしてイエスの名

をあげています。しかし、釈迦も、孔子もソクラテスも死んだが、復活しなかった。彼らは聖人と仰がれる偉大ナ人物であったかもしれないが、神ではなかった。唯イエスだけが、死人の中から復活し、神の子であることを公に宣言したのである。

2・イエスの復活は、私たちの救いが確実なものであることを保証している。イエスは復活によって、罪に対する刑罰であり、最後の敵である死にも打ち勝った(1コリ15・54,56)イエスは十字架において救いの約束を成就したが、復活によってその約束の成就が確実な者であることを保証した。復活によるイエスの圧倒的な勝利によって、罪も死も力を失ってしまったのである。それ故、私たちは、イエスを信じる時、義とされることが確実であるだけでなく(ローマ4・25)、罪の支配から解放されて、命のある新しい歩みを始めることが出来るようにされる(ローマ6・4-9)。そして、キリストが罪に対して勝利を得たように私たちも罪に対して勝利を得ることできるようにされたのである(1こり15・57)。

3・イエスの復活はわたし達に希望を与えてくれる。イエスは死者の初穂としてよみがえったのであり、イエスを信じる者は、死んでもよみがえらされる(1コリ15・20-22)。私たちはやがて死ななければならない。しかし、イエスを信じる者にとっては、死が最後ではない。やがてイエスが再臨する時によみがえらされ、イエスと共に永遠に生きることができる(1テサロ4・13~17)。多くのキリスト者は、この復活の希望が合ったからこそ、大胆に信仰をあかしし、殉教の死をとげることができたのである。 今日、多くの人々は、死を恐れている。しかし、キリストの復活を信じる者は死を恐れない。何故なら、キリストが死に打ち勝って復活したからである。キリスト者にとって、死は復活の栄光に到達するための、通るべき道にすぎない。復活こそ、私たちの真の希望なのである(1ペテロ1・3)皆さんはこの素晴らしいイエス・キリストの復活を信じてください。

「信仰によって実現される」2020・4・5説教要旨

朝位 真士

今日はローマ4・13~25節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ4章は信仰による義認。割礼と義認。アブラハムの信仰を学んでいます。今日は4・13~17節は約束は律法によらないで信仰による。4・18~22アブラハムの模範的信仰。4・23~25私たちも信仰によって義とされる。(世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫に対してなされた)(13)とは、アブラハムおよびその信仰にならう霊的子孫によって、世界の諸民族が祝福を受けることである(創12・2~3)。この約束が与えられたのは律法の制定以前のことであって、律法を守った為に与えられたのではなく、単純に信じて従う者に与えられる約束である。もしこの特権が律法の行いの報いとして与えられるものであるなら、信仰も必要でなくなり、約束も無効になる(14)。律法は人に罪を犯したことを自覚させ、罪を定め、神の怒りを招くが、祝福を下すものではない(15)。恵みにあずかる唯一の道は信仰で、これによって、アブラハムの血統上の子孫(ユダヤ人)にも、信仰上の子孫(キリスト者)のも、約束が保証されるのである。(16)。祝福が律法によるのであれば、それを受けるのは行いによるが、約束によるのであるゆえ、ただ信仰によって与えられるものである。

約束を信じて恵みを受けた最も適切な例として、また信仰の良き模範として、ここにアブラハムの信仰が引用される。彼の妻は不妊であったが、子を与えられるとの約束を受けてから、十数年間も忍耐をもって信じ通した。100歳の老齢に達し、妻サラも妊娠期を過ぎて、普通から言えば全く絶望の時にも、神の約束の上に堅く立って、(望み得ないのに、なおも望みつつ信じ(18)、現在の状態から不可能であることを(認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった(19)。(神の約束を不信仰のゆえに疑うことはしないで、かえって信仰によって強められて)て、神をあがめ(20)(神はその約束されたことを、(必ず)また成就することが出来ると確信した)(21)。この信仰の根拠は神の言葉であり、信仰の対象は複活と創造の力ある全能の神である(17)。私たちが義と認められるのも、(主イエスを死人の中からよみがえらされたかた)すなわちこの神を信ずるからである(24)。(主はわたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである(25)。

ローマ4・13~25節を見て下さい。パウロは4章の後半に、宣教の基本原理をといています。この関連事項はローマ10章に関連記事がでています。もう一度アブラハムに戻りますが4・17節を見て下さい。口語訳4・17後半「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。とあります。この一句は重要である。「アブラハムは神を信じた」というだけでなく、アブラハムが信じた神に、いくつかのただし書きがついている。「死人を生かし」「無から有を呼び出される」神というのである。まず我々の神は三位一体の神であられること、そして、この神が、アブラハムに約束を与えたことを思い起こさなければならない。この神は、約束に対して忠実であられ、人間の目から見た悪条件をも

乗り越えてその約束を履行なさるのである。このことは、キリストにおいて完全に実証されたのである。パウロは、キリストの光に照らして、確信を持って、このことを述べているのである。ヨハネ11・1以下のラザロの物語死人を生かす御方「死人を生かし」「無から有を呼び出される」神である。これがアブラハムが示した信仰の持ち方の原型である。このようなことが、起こるのは、アブラハムだけに限ったことではない。全人類に平等に機会が与えられている。4・24~25節をもう一度見て下さい。ヨハネ5・21節を見て下さい。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」といってイエスが、保証しておいでになる。

結び

もう一度4・13~25節を見てください。特に4・16~25節は神に喜ばれる信仰でアブラハムの信仰を語っています。4・18~18望みのない時に望む信仰創世記22章のあのイサクを献げる信仰。ヘブル11・19を見て下さい。それこそ生きた信仰です。4・19見えるところによって歩まない信仰4・20神の約束に立つ信仰。4・20後半~25節は神に栄光帰す信仰 わたしたちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活された主イエスキリストを信じましょう。望みの無い時に望む信仰、見える現実に左右されない信仰、神の約束されたことに立つ信仰、そして全ての栄光を神に帰える信仰。これらの信仰は神にどれほどに喜ばれることでしょうか、私たちも神に受け入れられ、神に喜ばれる信仰者とさせて頂きましょう。