「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2024/12/22 週報メッセージ

クリスマスあれこれ

☆クリスマスプレゼント

よくよく考えてみると、他人の誕生日にプレゼントをもらうというのも変な話で。なぜクリスマスになると人々はプレゼントを贈り合うことになっているのでしょうか。

バレンタインチョコ同様「商業主義が生んだ在庫一掃キャンペーン」と思っている方が多いですが、実はわりと歴史のある風習で、古代ローマのサトゥルナリア祭の期間、親しい人同士でプレゼントを交換した、また、長い冬が折り返し地点を回る冬至のお祝いに、今までチビチビ食べつないでいた食糧をパーッと使って、各家庭の自慢料理を隣近所でごちそうし合ったのが発祥とも言われています。

子どもにプレゼントを贈る習慣はもう少し時代が下って、子どもの守護聖人・聖ニコラウスへの崇敬が広まった頃に生まれたものです。この風習はヨーロッパの親たちのしつけの一環として利用されており、お菓子などまともな贈り物をもらえるのは良い子だけで、逆に悪い子にはタマネギや消し炭や木の枝を束ねたムチなど、もらっても全然嬉しくない物品が用意されました。普段の行いにもかかわらず、良い子も悪い子も平等にプレゼントをもらえるようになったのは、アメリカで近代的なサンタクロースが生まれた19世紀以降のことです。

子どもへのプレゼントは、暖炉かベッドにぶら下げた靴下に入れるのがならわし。そのため中身は靴下に入る小さなものと相場が決まっていました。一方、クリスマスツリーのわきにプレゼントを置くという習慣も、宗教改革期のドイツから徐々に広まり、おかげで大型のオモチャもプレゼントできるようになりました。

☆クランツ(アドヴェントクランツ)

19、20世紀ごろドイツで始まったと言われる、これもわりと新しいクリスマスの習慣です。

リースの一種ですが、輪を机の上に置いて(もしくはリボンで天井から水平に吊るし)ロウソクを4本立てます。ロウソクには待降節第一主日から一本ずつ点灯していきます。第4主日(クリスマス礼拝の日)には丁度4本のロウソクが全部点灯していることになります。吊るす時はロウソクの火がリボンに燃え移らないように注意しましょう。

『クリスマスおもしろ事典』参照 (教団出版局p.74、83)

2024/12/15 週報メッセージ

永遠の安らぎ

川﨑 信二 

この時季、全国にクリスマスソングが響き渡り、幻想的な何とも言えない雰囲気が街中を覆います。中でも賛美歌はクリスマスに流れる曲ではロングヒットで、どこの国でも歌われています。

長いと言えば音楽バンド「THE ALFEE」(ジ・アルフィー)。1973年に結成。翌年のレコードデビューから50周年。メンバーも古希を迎えた。しかし実に若々しい。

フォークなのかロックなのか分からない曲想なのですが長続きをしているバンドです。三人のメンバーはそれぞれ個性的で、三人三様の声質によるパート分けと、それによる重厚なコーラスが特徴です。フォークメロディー、POPS系、ハードロックと、バラバラなのに非常に三人とも仲がいい。ソロでなくバンドで長続き・・・ 秘訣はメンバーが「平和」で居られること。他に「こだわりがない」、「方向性がない」、「しきる人がいない」。だから一緒にやれる。三人とも次男で、前に出る人がいないため、ヴォーカルを誰がするか話し合っても誰も手を挙げない。「お前やれよ」と互いに譲り合う。結局、三人が均等にリードヴォーカルをとり、曲毎にスイッチしているのです。

楽曲の方向性の違いが原因で直ぐに解散するグループサウンズが多い中で、目標も方向性もないからこそ上手く続けられる。彼らは結成当時から熱くもなく冷たくもない、「ぬるま湯」だと話しています。「ぜったいヤルゾ!」という熱がない。熱いと冷める不安と戦うし、冷めると焦りから無理して熱くなろうと力んで、疲れてしまう。

しいて言えば曲想はファンが決める。ニーズに合わせて臨機応変に変えてゆく柔軟さがある。私達も「信仰」という拘りは大切ですが、不自然になっていませんか。

賛美歌「きよしこの夜」。1818年のオーストリアの聖ニコラウス教会で初演された曲です。イヴの前日、オルガンが壊れたためヨゼフが書いた詞にギターで伴奏できる曲に変更し、この曲が出来ました。「教会でギターを?」という時代に作られた曲がロングヒットに!! 

ともすると、こだわりが、教会から若者を遠ざけているのかもしれません。こだわるとすれば、神からの「救い」の出来事、これだけです。

♪ 救いのみ子は 馬ぶねの中に 眠りたもう いと安く ♪

このこだわりにこそ、永遠の安らぎが秘められています。

2024/12/8 週報メッセージ

チャペルコンサート

川﨑 信二 

角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。

太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。(詩編150;3、4)

今年もベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生をお迎えできまして、心より感謝申し上げます。先生方は、1999年12月よりクリスマス・チャベルコンサートを続けてくださり、今年で26回目になります。桜ケ丘教会前牧師の時代から毎年途切れることなく開催されています。

先生方の紹介を朝位牧師が次のように記しています。

ベアンテ先生は1951年スウェーデンのファルン市で誕生。12歳からチェロを始められ、1971年ストックホルム王立音楽大学で最優秀賞を受賞して卒業。1971年から72年、ゴテンブルグ市の国立歌劇場の首席チェロ奏者を務められ、最終的にはフィンランド政府給費留学生として1979年シベリウス・アカデミー大学院を首席で修了。

1980年から2011年までの31年間、東京交響発団の首席チェロ奏者を務め、現在チェロ奏者として室内楽等の演奏活動の他にチャペルコンサートをはじめとする宣教の働きに携わっておられます。また、インターアクトの協力宣教師でもあられます。

ルリ子先生は武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツ国立フォルンバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれ、ベアンテ先生と共に各地で良い奉仕を続けておられます。(2021年クリスマス掲載)

 私は先生方の演奏を初めて聴きます。楽しんで聴き入りたいと思いますし、先生方がチェロとピアノを通して主に賛美をささげるお姿に心を合わせ、私自身も主を仰ぎたいと願っています。主に賛美を捧げることは、讃美歌を歌う、つまり言葉で賛美するだけでなく、楽器を用いて主をほめたたえることも主への賛美なのです。

馬小屋の出来事を見た羊飼が喜び歌い、賛美しながら帰って行ったように、私たちも礼拝堂だけでなく、野原でも、歩きながらでも、いつでもどこでも、どんな物を用いてでも、救い主イエス様を心から喜ぶ私たちとさせて頂きたいものです。(ルカ2;20)

2024/12/1 週報メッセージ

救い主を待ち望む

川﨑 理子 

「アドヴェント」とはラテン語で「来臨」、「来る」という意味です。「救い主の到来」、「神が人となられた」という神の出来事です。

日本語では「待降節」と訳され、日本キリスト教団の教会暦となっていて、降誕日の前の4週間に当たります。この期間は救い主イエスを心に迎える準備と悔い改め、そして主が再び来てくださること(再臨)を待ち望む時として備えられています。

つまり「待降節」は信仰の用語です。私達がこの時期をいかに歩むのか。信じて待ちつつ(待降節)過ごすのです。喜びの前に緊張感があります。神の出来事を信仰によって心から待つという緊張感です。

一般化した今は「クリスマス」を知らない人達はいないでしょう。しかし、本当には何の日か分からず、教会でお祝いをするのはなぜかと思っている方も多いでしょう。

救い主を切に祈り求めるからこそ得られる喜びは大きいのです。主イエスのお誕生がどのようなものであったかを、まずこの「私」が体感できるように、心を砕きながら、救い主を喜び、楽しく過ごせたらとねがいます。

先週礼拝堂、ホール、外とクリスマスの飾り付けをしました。若い姉妹がリードしてくださいました。お喋りしながら、2つの言葉を思い浮かべておりました。

天使が語った神の言葉。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

その言葉を受け入れたマリアの信仰の言葉。「お言葉どおり、この身に成りますように」。

今年もわくわくドキドキのアドヴェントになりますように!

2024/11/24 週報メッセージ

収穫を神に感謝すること

川﨑 信二 

収穫感謝の日は勤労感謝の日に近い聖日に行われている教会があります(日本キリスト教団)。

米国とカナダでは感謝祭(サンクスギヴィングデイThanks giving Day)として、米国では11月の第4木曜日、カナダでは10月の第2月曜日に行われます。ドイツも10月です。

米国での感謝祭の始まりには諸説ありますが、そのひとつとして開拓期の出来事があげられます。1620年9月6日、メイフラワー号に乗った清教徒たちがマサチューセッツの海岸にたどり着きました。しかし厳しい冬に直面し、生活に困難を極めましたが先住民に助けられ、半数が生き延びることができました。逆に言えば半数が命を落としたわけです。

翌年には無事収穫を上げることができ、先住民を招待し、神の守りに心よりの感謝を捧げたのが始まりとも言われています。苛酷な開拓で、餓死や病で亡くなられた方々を忘れずに偲びつつ、主の御名をたたえたことを、現代の私たちも心に留めましょう。

教会によっては野菜やくだものを持ち寄り、主を賛美しています。礼拝後に愛餐会を行って神に感謝し、また農家の方々や働く方々にも感謝し、作ってくださる方の健康が守られるよう、神に祈ります。食事を共にして恵みを分かち合うひとときを持つことが愛餐会の主旨です。

なお、日本キリスト教団では謝恩日として隠退教職者に感謝するため、献金をささげる日ともなっております。先輩たちが困難な時代に、食べることを後回しにして、霊の食べ物を配ってくださり、走り尽くしてくださったことを覚えたいものです。

2024/11/17 週報メッセージ

共に居てくださるイエス様

川﨑 理子 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

マタイによる福音書28章20節

降誕節前の聖日を歩む中でこの御言葉に出会いました。復活されたイエス様が弟子達を世に遣される時に語られた言葉です。この言葉にイエス様の愛がつまっています。

イエス様はまた居なくなります。昇天されるからです。

イエス様の姿、形は消え失せますが聖霊となって私達と共に歩んで下さる、というお約束の言葉です。

私達の人生は様々な問題や痛みにより傷つく事があります。そんな時必死に神様を探し求めます。しかし、私達が自分の問題に集中すればするほど神様を見失っているということがあります。探し求めているはずなのに見つからないのです。それでもイエス様は私達の傍に居て下さいます。「いつもあなたがたと共にいる」と。

すなわち必死に探している私達と共にイエス様はいる。なんと感謝なことでしょう。「いつも」とは「どんな時でも」「苦しい時こそ」と言い換えることができます。

娘からLINEで写真が送られてきました。すっかり冬支度仕様に模様替えした部屋と、大好きなディズニーのアドヴェントカレンダーが映っていて「今から開けるのが楽しみ!」とコメントが添えられていました。私もそれを見て初めて自分の為に(今までは子供の為に)アドヴェントカレンダーを購入しました。可愛いらしくて一目惚れでした。(作れたら良かったのですがなにせ不器用なので)。

イエス様が全ての人を救う為にお生まれになったことをワクワクしながら毎日朝開けて、待ち望みたいと思います。

主は今日も私達と共にいて下さいます。聖霊により揺るがないイエス様の臨在を示して下さいます。

2024/11/10 週報メッセージ

礼拝と教育

川﨑 信二 

ある日曜日、CS礼拝の説教をする前に初めてきた子どもに少し聖書の説明をしました。その際に「後でテストするから覚えておいてね」と言うと「なんか嫌だな、腹立つ…」という正直な答えが返ってきました。私はハッとさせられ気をつけなければと、思わされたことです。

教会学校は学校と名がつくように教育面も担っています。昔、日曜学校と呼ばれた時代にはしつけや生活面のマナーまで教えていました。現代の教会学校でも分級では聖書教育を実施している教会が多数あり、教育も教務の1つではあります。

しかし、教会学校はCS礼拝と分級からなるのです。礼拝は教育の範疇を越えます。子どもも大人も同じく神の僕として主の前で額づくのです。上から教えるのではなく、共に御言葉に聴く姿勢が大切です。

 同時に、教師の信仰で礼拝が守られます。あるいはそこに集った信仰者による礼拝と言えます。

幼い子どものほとんどが洗礼を受けていません。その意味で教師が先ず喜び勇んで主の前に出るのです。

子どもを見守るとか、子どもを悟らせるとか、礼拝ではそんな姿勢ではなく、一緒に主に従う心構えが必要です。

子どもに〇〇させる、ではなく、自ら神の子どもとして謙虚になり、初心に返って主イエスを仰がせて頂きたいものです。

2024/11/3 週報メッセージ

キリスト教的供養

川﨑 信二 

イエスが彼らの中にお立ちになった。そして“やすかれ”と言われた。

 (ルカ24:36口語訳)

「供養」を辞書でみると「死者の霊に供え物などをして、その冥福を祈ること」とあります。冥福・・・つまり死者の「あの世での幸せ」を願い供えることです。その思い、その気持ちはとても尊いことです。その気持ちを具体的な供え物という形に表すことが供養なのだと思います。

キリスト教では「供養」や「冥福」という考え方がなく、死者への対応も違います。死者は神の領域に移されたので人の力ではどうにもならない。人間の行為(祈りや献げもの等)を死者に届けることは出来ないと考えます。

もう一つは、死者は既に幸福を得ているので、供養や冥福を祈る必要がないほどに満たされているという教えです。聖書の教えは死後の「復活」や「永遠の命」を説きます。

主イエスご自身が死から復活され、私たちもその復活に与ることができる、という希望です。「永眠」ではなく「復活」(Ⅰコリント15:50-55)です。目覚めて、起きて、そして生きるのです。感謝なことです。

ですから、死者は平安であり祝福されている故に、私たちは神を賛美するのです。

けれども、遺族の悲しみに配慮する必要があります。冒頭の御言葉は悲しんでいる弟子達に、復活された主が語られたものです。「やすかれ!」「あなたに平安があるように」。この主の言葉をもって遺族の悲しみに寄り添い、共に神を仰ぐのです。生かされている私たちが出来ることは神に祈ること、そして遺族の方々に復活の希望を伝えることです。死者に対しては、出来れば生前に心を尽くし、後悔することがないよう愛することが大切です。けれども死は突然訪れます。準備がないまま、悔いを残したまま天に送ってしまうことがあります。

キリスト教における「供養」とは(私の勝手な考えですが)、死者に対して生前に出来なかったことを神に委ね、キリストを通して愛する人に届けることではないでしょうか。

むしろ、死者が幸せであることを信じ、遺された家族が平安を得ることが大切です。「やすかれ!」との主の言葉にすがりつつ、残された日々を希望のうちに歩みたいものです。

2024/10/27 週報メッセージ

ハロウィンの扱いについて

川﨑 信二

 キリスト教の聖書信仰とハロウィンの思想とは全く相容れないもので、取り扱いにはある程度の注意が必要です。

 それでもパウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(ローマ14;1-3)と述べています。

 ハロウィンを悪魔的なものとして祝うべきではないという教派がある一方で、何も問題はないという教会もあります。私は個人的には「単なる遊び」と考えていますが注意は必要だと思っています。一般の人はキリスト教の祭りだと勘違いしている方が意外と多く、それ故に気をつけたいと思うのです。

キリスト教国と言われているアメリカで民間行事として定着しているために誤解されやすいのです。更に毎年10月31日に行われるのがカトリックの死者を覚えるミサ(11月1日)の前夜祭に位置付けられているためです。これを宗教的な意味合いはないと考えるならば何の問題もありませんが、やはり「魔女狩り」「悪霊」「ゾンビ」など死後の捉え方は聖書とは違います。

元々は古代ケルト人の祭りが起源だとされ、収穫祭でしたが、カトリックの地方の土着の民族宗教と混ざって、生きている者と死んでいる者との交流期間として死者の今を覗き見る、いわば仏教のお盆に似ている思想から来ています。真剣に信じている人がいる限り、「遊び感覚」は失礼になりますが、これを宗教と捉えるか、の問題です。

遊び…但し、死は人生の最大の課題ですから、死を恐れ、悩み苦しむ人々への配慮が必要です。全て自由ですが、遊びで行うとしても互いに節度と常識をもって、プラス楽しくやれたら良いのではないでしょうか。