暑い日がいよいよやってきた感じですね。自然界は、緑豊かな風景が勢いをましています。桜ヶ丘教会では、6月には特別集会があり、力強いメッセージに各自が励まされ、イエス様につながることについての恵みを理解することができました。この夏も、霊肉を強めていただき、それぞれが平安の内に歩むことができるようにとお祈り申し上げます。わたしたちそれぞれが生活している場所で、イエス様をおつたえできるようにと願っています。朝夕に、静かな祈りの時を心がけてすごしてまいましょう。
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2016/7/10 週報メッセージ
朝位 真士
「きよめは、私たちに対する神の御意であり、神の命令であり(Ⅰテサ4・7)、神が私たちに分与したく願っておられるものであり(ヘブル12・10)、神が私たちのためになそうとしておられるものであり(Ⅰテサ5・23)、それなしには主に見えることのできない不可欠のものである(ヘブル12・14)からです。」(F・アボット『聖化』、福音文書刊行会)
ホーリネスの特色の一つ「聖化」を説明した文章を引用しましたが、私はホーリネス系の教会(教団北九州復興教会)で18歳の時に救いにあずかり、箱根のケズィック・コンベンション(聖会)に出席して、ジョージ・ダンカン博士よりメッセージを聞き、一晩中徹夜で祈り、1975年神学校を卒業して41年目を迎えています。その時きよめ(聖化)の経験をしました。私のきよめの理解は、神が聖なる方であるから、私たちもきよくならなければならいということです。それは、自分の努力や修行でなされるものではなく、神の一方的な働き、聖霊の働き以外のなにものでもありません。どうしたらきよめを体験できるのでしょうか。私の場合、聖書と信仰と祈祷と聖霊の満たしによって体験させていただきました。
ホーリネス(聖化)は、神の全き愛であり、私共の全き明け渡しであり、聖霊に満たされた信仰による確信です。「私心無きように」というある恩師の言葉が心に残ります。きよめは他者と比較することではなく、神の言われるままに素直に従うことです。神に心を明け渡して信仰をもって従うことであり、神に栄光を帰することです。私共一人ひとりもホーリネス人として、きよめの体験をさせていただきたいものです。
2016/7/3 週報メッセージ
山本 潤
この企業人としても、多忙な日々を過ごしていた30年ほど前、当時も種々の奉仕をさせていただいてはありましたがサンディクリスチャンとしてしか生活していなかったことを振り返り、より聖書的な学びー聖書信仰を願い、信仰の根底を築きたいと祈り続けておりました。職場での大きな役割を終えることが近くなった5年程前、職場での経験を生かしながら神様からもらった多くの恵みを伝えることを祈り始めるための基礎を学ぶ場が与えられました。お茶の水にあるこの学びの中で、これまでのつまみ食いの学びや今までバラバラだった聖書の知識が一つにつながり、体系だった学びに基づいた信仰に変わっていきました。
調布教会で信仰の歩みの中で、この学びにより与えられた恵みを神様にお返しする場として、フルタイムでの奉仕者として、今後の社会を担う方々や企業の中で悩みながら生活している社会人にキリストの愛を伝えさせていただくことを祈り始めておりました。その中で、3年前に東京聖書学校での学びが赦されています。そして、一人でも多くの方々に、社会で生かされる恵みを伝えさせていただきたいと思っています。
2016/6/26 週報メッセージ
山本 潤
数年後、私と同じく仏教家庭で育ったクリスチャンの女性が伴侶として与えられ、夫婦で共に教会生活を過ごす喜びが与えられておりました。
職場では技術者として働いてきましたが、入社当時の神からの訓練が生かされました。拒絶していた「光」の分野を担当することにより、光に関するいろいろな特徴を学び、ヨハネによる福音書にある『わたしは、世の光です。』や、マタイによる福音書の『あなた方は、世の光である』の真の意味を知ることとなりました。また、拒絶していた分野の専門家と共に仕事をすることを通して、イエス様のように謙虚に耳を傾け、パウロのように異文化への挑戦力を与え、幅を大きく広げさせてくださいました。そして、顧客・会社・社内のメンバーに仕えることを学ばせて頂きました。厳しい判断が必要な時もありましたが、社会生活においてキリストを証させていただいたと感謝しています。
そして、教派の異なる幾つかの教会にて、私自身が育てられた教会学校関係や総務関係での奉仕が与えられておりましたが、社会の考え方を思い浮かべながら、教会全体のみならず私自身が信仰者として祈る機会を何度も与えられました。妻も超教派・福音派で学びをしてきた信仰者であり、超教派の働きについて無知であった私にとって学ぶべきことが多くありました。
自分自身も20年程前から、神から託された「社会での信仰者としての働き」を終える際には、社会での経験を生かし、それまで頂いた多くの恵みを神様にお返しする、神様の愛を伝えるための基礎となる学びの機会について祈り始めていました。
そうした生活の中で、一人娘が与えられ、3人での教会生活が始まりました。
2016/6/19 週報メッセージ
誕生から 受洗まで
山本 潤
私の所属教会は、京王線調布駅前にある調布教会です。
私は、父親の仕事の関係で、小学校を3校、中学校を2校、転校しました。私の両親は、キリスト者ではありませんが、それぞれの転校した学校で始めて友達になった友人が教会学校に集っており、すぐに教会学校に誘われて、いつも毎週教会学校に通っていました。高校時代も、同様に友人に誘われ、礼拝に出席していました。神様は私を離しては下さらなかったのです。今、中風の人が友人によって主の前に出されたように、多くの友人の祈りによって支えられていたことが思い起こされます。
しかし、大学生なると誘惑も多く、教会を離れる日々が続いていました。教会学校での奉仕も与えられていましたが、土曜の夜も夜遅くまで遊んで帰宅することが多くあり、日曜日の朝起きることはできません。教会学校が始まる時間にかかってくる教師から電話で起こされ、目を擦りながら徒歩5分の教会に駆けつける日々が続きました。神から離れてしまいそうな私の救いについて、教会学校教師や牧師も祈り続けて下さっていたのです。
ある電機メーカに就職した頃には、毎週礼拝に出席していましたが、始めに与えられた仕事は、自分の希望とは全く異なる「光」に関連する装置の開発でした。なぜ、これを自分が担当しなければならないのかと悶々とし、数ヶ月間上司にそれを何度も訴えました。今思うと、自分の技術に傲慢になっていました。そのようなことにも気がつかず、悶々とした数か月を過ごしていました。ある時、ふと聖書を開くとヘブル書12章「主の訓練」の御言葉が入ってきました。そこで、今の状態は、「神がこれまでも導き続け、今は私を訓練してくださっている」ことに気づかされ、「主」を受けいれました。神様は、私のような放蕩息子の帰りを待っておられたとことへの感謝から、仕事に懸命に取り組み始めました。そして、27歳のクリスマスに受洗に導かれました。
西海満希子先生をお迎えして

梅雨の晴れ間

2016/6/12 週報メッセージ
朝位 真士
「神癒」「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し……」(詩103・3)「イエスは病人を皆いやされた。」(マタイ8・16~17)「霊の初穂をいただいているわたしたちも……体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8・23)神は罪をきよめてくださるだけでなく、からだと心の病にも恵みを注ぎ癒してくださる方である。この恵みを信じるものである。しかし聖書は体に関わる究極の問題(死)の解決は、「将来」の希望として約束している。癒しの信仰を強調する余り、医療を否定するに至ってはならない。また我らの罪を赦し癒す主は、十字架において私たちの罪と病を負われたのであり、病の中にあっても神のみ業が現されるという信仰を大切にしたい。これも勝利の信仰である。
「再臨」 復活の主のみ霊は、罪の世の贖い救いを成就するために教会を通して働き続ける。しかしその業が完成するのは、キリストが再び来られることによってである。再臨の主への信仰は、罪と悪が満ちている今の時代に、教会が希望と喜びを失わず立ち続け、福音を証しする大きな力となる。しかし再臨信仰が何時、何処で、どのようにという現象面に捕らわれて行く時、健全性を失い逸脱していくことに注意したい。やがて花婿として来られる「主を待ち望みつつ愛の業に励む」こと、ここに勝利がある。「み国の福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る。」(マタイ24・14)「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」(ヨハネ黙示録22・12)
岸義紘先生のチャペルコンサートに思う

写真:K/Kさん提供
2016/6/5 週報メッセージ
朝位 真士
私共の教会は1923年(大正12年)6月1日、初代教師である板井康裕が世田谷区桜新町の自宅で伝道を開始したことで始まりました。1930年、渋谷区栄通りに移転して「祈りの家 渋谷ホーリネス教会」と改称。1942年、日本基督教団設立と共に教団に加盟し、「桜ヶ丘教会」となりました。
この度、岸先生をお迎えできたことは、先生のご厚意は勿論のこと、神様のお導きだと感謝しています。先生は日本全国、どんな小さな集会でも御用してくださる方です。今回の聖書箇所はローマ8章28節~30節です。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」という聖書より「逆転は人生にこそ、何度でも」という題でお話をしてくださいます。
ローマ8章28節の御言葉については、小原十三司先生の『流れの小石』という著書を購入した時に、記念としてこの御言葉を筆で書いていただき、卒業以来41年間、この御言葉に励まされて今も奉仕をさせていただいています。岸先生が今日どのようなメッセージを語ってくださるのか、大いに期待しています。