榊原紀惠子 のすべての投稿

2018/6/17 週報メッセージ

   ホ群の特色教理Ⅱ                                                                 
                                                                                                               朝位 真士
  「特にウェスレアン・アルミニアンの神学的伝統を受け」                                               
 (1)規約三条は、四重の福音を掲げるホ群の信仰が、プロテスタント教会史の流れにおいては、体験的ホーリネスを重視するウェスレー、またアルミニウスの神学的伝統を受け継ぐものであることを明らかにする。
 (2)ウェスレーは神の恵みを、罪ある人間と神との関係の変化(信仰義認)をもたらすだけでなく、人間を造りかえるまでの恵み(新生・聖化)と捉え、これらキリスト者の完全の教理としてまとめた。ウェスレーはその際、極端なカルバン主義の予定論を批判し、神の恵みは全ての人に等しく及んでいること、また人は自由な意思を持って神の恵みに応えることができると主張したアルミニウスの理解に沿って神学的見解を表した。
 (3)四重の福音の特色教理を持つホ群が、以上のウェスレアン・アルミニアンの神学的伝統を受け継ぐのは、わたしたちが大切にする「体験的ホーリネス」を聖書的また教会的に健全で、しかも力強い聖霊の恵みのわざとして正しく理解し、これを継承するためである。               
  (4)体験的ホーリネスを生きるホ群。私たちの罪を赦して義とし、新たに生まれさせ、神の子とする聖霊のみ業は、わたしたちを潔め、神の子にふさわしく造りかえてくださる。この恵みの業に与ること、そして「体験的ホーリネス」を生きることが何より大切である。
 (5)体験的ホーリネスは実践へと押し出す。「我らを潔めて義の果を結ばしめる」(教団信仰告白)聖霊のみ業は、ここからキリスト者を福音の証し人として、福音伝道とキリストの体である教会を建てあげる働きへと向かわせる。また日々の歩みにおいて地の塩・世の光として生きることを自覚させる。                       

2018/6/10 週報メッセージ

   ホ群の特色教理
                                                                                                             朝位 真士
  日本キリスト教団ホーリネスの群規約第3条解説文によると、「ホ群は聖書的福音主義の信仰に立ち、新生・聖化・神癒・再臨の特色教理を強調し、……」とある。この四重の福音の教理は、聖霊なる神の恵みを、神と人との関係の変化(罪を赦して義と認め、神の子とする)をもたらすだけでなく、「体験的ホーリネス」として、人を新たに生まれさせ、神の子にふさわしいものに潔め、造り変えること、つまり人が体験して知ることのできる恵みの働きをするものとして示す。なお、「体験的ホーリネス」は人の努力によるのではなく、神の恵みとして与えられるものである。ホ群はこの信仰を強調して今日に至っている。
 (1)新生 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)キリストの十字架の死と復活を通して私たちに現された神の贖いの愛は、私たちを悔い改めへと導き、罪赦された神の子として新たに生まれさせる。また、このように私たちを新たに生まれさせる神の恵みは、決して変わることがなく、この恵みのうちに聖霊は私たちを聖なる者へと造り変えていく。
 (2)聖化 「聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。」(ヘブライ12:14)神は子である私たちの内に聖霊を住まわせ、罪の心を潔めて愛、喜び、平和、寛容等豊かな義の実を結ばせるように働く。聖霊の働きと導きの中で、「きよめの恵み」を日々生き続けることである。
 (3)神癒 「主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し」(詩103:3)「イエスは……病人を皆いやされた」(マタイ8:16)病の中にあっても神のみ業が現されるという信仰を大切にしたい。
 (4)再臨 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」(黙示
22:12)再臨の主への信仰は、罪と悪が満ちている今日の時代に、教会が希望と喜びを失わず立ち続け、福音を証しする大きな力となる。(つづく)

2018/6/3 週報メッセージ

   創立九五周年記念礼拝を迎えて
                                                                                                                                    朝位 真士
  今年も岸義紘先生をお迎えすることができて感謝いたします。今年で一八回目になります。
 私共の教会は一九二三年(大正一二年)六月一日、初代牧師である板井康裕先生が世田谷区桜新町の自宅で開拓伝道を開始したことで始まりました。一九三〇年、渋谷区栄通りに移転して「祈りの家渋谷ホーリネス教会」と改称。一九四二年、日本基督教団設立とともに教団に加盟し、「桜ヶ丘教会」となりました。記念礼拝に岸義紘先生をお迎えできたことは、先生のご厚意はもちろんのこと、神様のお導きだと感謝しています。先生は日本全国、どんな小さな集会でも御用してくださる方です。今回は、ルカ七章三六~五〇節を通して「罪を多く赦された人は多く愛す」という題でメッセージを取り次いでいただきます。
 今回は三千枚のチラシを用意して、新聞に二千六百枚、残り四百枚を教会員に配布していただきました。私共は最近三〇名礼拝を祈り、五〇名が特別集会に集まるように祈ってまいりました。岸先生が来られたこの記念すべき時に、かつての渋谷ホーリネス教会時代の礼拝五〇名、祈祷会二〇名、伝道会三〇名に戻って百周年記念礼拝をもてるように、教会員の皆様方のお祈りを切に願うことです。
 聖書コリントの信徒への手紙一、一章一八~二一節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。……知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。……神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」(コヘレトの言葉一一章一節)神に期待しましょう。

2018/5/27 週報メッセージ

   クリスチャン生活の使命
                                                                                                            朝位 真士
  クリスチャンにとって、この地上の生涯の目的は、ただ神の栄光を現すために生きることです。そして、人生はもはや自分のものではなく、その目的を果たすために、ある一定の期間、神から託されたものであると考えています。また、その究極のクリスチャン生活の使命は、福音を全世界に伝えるためにキリストの証人となることです。
 (1)神の栄光を現すために生きる
 Ⅰコリント6・19~20には「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものでははいのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」とあります。クリスチャンの体は、聖霊の宮です。キリストの内住ともいいます。この体は、もはや自分のものではなく主のためにあるのです。人間的ないかなるものにも、体を支配させず、その体の働きをもって神の栄光を現すのです。
 (2)恵みのよき管理人として生きる
 人間の生命も、賜物も、金銭も、物質もすべては神から委託されているものです(Ⅰペテ4・10)。この管理者である生き方は、人生の価値基準が名誉や地位や金銭や物質にあるのではなく、神のご意志にこそあることを示しています。
 (3)キリストの証人として生きる(Ⅱテモ4・2、ローマ1・16)
 クリスチャンとは、この福音の力の証人として神に立てられた者です。神の栄光のために良き管理人として生きること。すべては、究極的なクリスチャン生活の目的に吸収されるのです。この時代は、キリストの再臨がいよいよ近づいている時です。今日求められているのは「キリストのみ名によって生きよ」と力強く宣言できる大胆な人物の生き方です。(日本教会新報社より引用)

創立95周年記念チャペルコンサート

イメージ 1写真:K/Kさん提供
2018年6月3日(日)礼拝について
○岸義紘先生をお招きしてチャペルコンサートがあります。
 サクソフォン演奏とメッセージ
メッセージは「罪を多く赦された人は多く愛す」というテーマでのお話です。
いつも、わかりやすく、神様のことをお語りくださいます。
桜が丘教会も創立95年を迎えますが、記念する礼拝でもあります。
どなたもご自由にご参加ください。
お待ちしています。
そして、心を静かにして、毎日曜日を迎えたいと思いますね。
日々の思い煩いを主にお委ねし、最善のことがなされることを祈り、信じます。
小さな変化で揺れ動いてしまう弱いわたしたちですが、命の道を歩いていくことができますように。

2018/5/20 週報メッセージ

   聖霊降臨日(ペンテコステ)とは何か                                                                                                                                                                                        朝位 真士
  使徒言行録二章にある、聖霊が弟子たちに降ったことを記念する祝日です。復活日の七週間後。復活日を一日目として数えて五〇日目。必ず日曜日です。キリストが昇天するのを見送った弟子たちは一箇所に集まって祈っていました。そこに聖霊が降りました。それ以降、聖霊は信徒の群れに留まり続けていますので、「教会の誕生日」などと説明されます。ただし、ペンテコステという言葉は、単に「第五〇」を意味します。「五旬祭」(使徒二・一)別名「七週祭」とも言います。
 ユダヤ教では、神殿があった時代はこの祭りの日に各地から神殿にお参りする義務がありましたが、神殿がなくなってからは(紀元七〇年)、各地に散ったユダヤ人がシナゴーグと呼ばれる会堂に集まってルツ記が読まれるようになりました。ルツ記はそのような異なるクニ、違う言葉、別の文化を持つ人たちが一つの家族となった物語です。使徒言行録二章によると、聖霊に満たされた人々が他の国々の言葉を話し始めたとあります。まさに、福音が異なるクニ、違う言葉、別の文化を持つ者に伝わっていく姿を思わせ、ルツ記とつながる出来事です。
 今日の使徒言行録二章一~一三節において、聖霊の降臨の記事が記載されています。この瞬間から聖霊は初代教会を支配する実在の原動力となりました。三つのことが語られています。①聖霊は神の指導力の源泉でした。初代教会は聖霊の導きを受けずに大切な決定をしたことは一度もなかったし、重要な段階に踏み出したこともありませんでした。②教会の指導者たちは、聖霊に満たされた人たちでした。初代教会の会員は皆、空気を呼吸して生きているように、聖霊のうちに生きていました。③聖霊は、その日その日の勇気と力の源でした。キリスト者が危険に遭遇したときの勇気、十二分に人生を処理する力、雄弁が要求されるときの雄弁、状況に左右されることのない喜びーこれらすべてが聖霊の働きです。

2018/5/13 週報メッセージ

   母の日に当たって
                                                                                                              朝位 真士
  今日は「母の日」です。母への感謝を表す日です。昨年も記載したと思いますが、母の日の起源について記します。
 アメリカ・ヴァージニア州のウェブスターにあるメソジスト教会に、アンナ・M・ジャーヴィスという教会学校の教師として二六年間奉仕した夫人がいました。ジャービス夫人が亡くなり、教会での追悼会の時、娘のアンナは以前お母さんから聞いた「あなたの父と母とを敬え」の箇所を思い出し、多くのカーネーションの花をささげ、お母さんを偲びました。このことが列席者一同に大きな感動を与え、やがて有名な百貨店王と言われ、後に大臣になっても教会学校の校長を続けたジョン・ワナメーカーの賛同を得、同氏の店頭で五月第二日曜日に盛大な記念会が催されました。これが母の日の始まりで、一九〇八年(明治四一年)のことでした。一九一四年にアメリカ議会は五月第二日曜日を母の日と定め、国旗を掲げてお母さんに敬意を表すことになり、やがて母の日は全世界に広まったのです。 
 個人的に恐縮ですが、私の母は一九六五年六月二五日午前〇時四五分頃、五〇歳の若さで召天しました。母は大変世話好きで、私共には優しく、従業員の方々にも親切であって、皆から慕われていました。当時私は、九州の博多で就職をしていまして、日曜日は教会に出席していました。汽車で百キロ位ある小倉から博多の私の寮へ来て、留守の時は置き手紙と弁当を置いて帰りました。私がもう少し熱心に信仰を勧めていたら、きっと信者になったと思います。父は晩年、本田弘慈先生によって導かれ、キリスト教徒となり、私が司式をしてキリスト教式で葬儀をいたしました。
 私の母教会は北九州復興教会です。一九六一年一二月二四日に受洗しました。一九九四年に牧師として桜ヶ丘教会に赴任して今日迄ありますが、今迄支えられているのは母教会のお祈りのおかげと神に感謝をしています。

2018/5/6 週報メッセージ

   唯一神信仰の宗教
                                                                                                             朝位 真士
  キリスト教は唯一の神を信じ礼拝する宗教です。多くの神々を拝む多神教ではなく、その多神教から進化発展してきた宗教の一つでもありません。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。……わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主。これらのことをするものである。」(イザヤ四五・五~七)ここで神は、唯一の存在であると主張しています。真理が唯一絶対であるように、真の神も唯一です。また神は、ご自身を万物の創造者であり、さらに繁栄やわざわいなど人間の運命を、ご自分の意のままに決定する主権者であるとも語っています。
 キリスト教は、この真の神を神として信じ、従い、すべての栄光をこの神に帰する宗教です。したがって、真の神は、偶像礼拝というものを、大いなる罪として厳しく禁じています。モーセの十戒にこう記されています。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神。わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト二〇・三~六)
  ここでは、偶像を造ることや拝むことが固く禁じられています。反面、真の神を信じ、愛し、そのご意志に従って生きるところには、その祝福が親から子へ、子から孫へと引き継がれ、「千代」にまで及ぶという、驚くべき約束が記されています。

2018/4/29 週報メッセージ

   ハイデルベルク信仰問答より
                                                                                                              朝位 真士
  第七問 それでは、そのような、人間の腐敗した性質は、どこから来たのですか。
 答 楽園における、わたしたちの最初の祖先、アダムとエバの堕落と不従順からであります。そこで、わたしたちの本性は、毒されてしまったので、わたしたちは、すべて、罪の中で孕まれ、生まれるのであります。創三。ロマ五・一二、一八、一九。詩五一・五、七。ヨハ三・六。
 第八問 しかし、わたしたちは、善にたいしては、まったく無能力であり、あらゆる悪に傾く傾向を持つほどに、腐敗してしまっているのでしょうか。
 答 そうです。わたしたちが、神の御霊によって、再び生まれるのではないならば。創六・五。八、二一。ヨブ一四・四、一五、一五、三五。イザ五三・六。ヨハ三・六。テト三・三。ヨハ三・五。Ⅰコリ一二・三。Ⅱコリ三・五。
 第九問  それでは、神は、律法において、人間が行うことのできないことを要求することによって、人間に不正を為し給うことにはならないでしょうか。
 答 いいえ、そうではありません。神は、それを行うことができるように人間を、創造されたからです。けれども、人間は、悪魔にそそのかされて、故意の不従順によって、自分自身と、すべての子孫とから、この賜物を奪ってしまったからです。創一・三一。エフェ四・二四。創三・四~六。ロマ五・一二。Ⅰテモ二・一三、一四。
 第一〇問 神は、このような不従順と背反を、罰しないで、見逃そうとなさるのでしょうか。
 答 いいえ、決して。神は、人間の生まれながらの罪にも現行罪にも、はげしく、怒っておられます。神は、これらの罪を、正しい裁きによって、この世においても、永遠にも、罰せずにはおかれません。

2018/4/22 週報メッセージ

   ハイデルベルク信仰問答より
                                                                朝位 真士
  問三 何によって、あなたは、自分の悲惨を認識するのですか。
 答   神の律法によってであります。(ローマ三・一〇)
 問四 それでは、神の律法は、わたしたちに、何を要求しているので
     しょうか。
  答   キリストは、マタイ福音書二二章において、律法を要約されま
     した。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あな
     たの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟で
     ある。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分の
     ように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基
     づいている。」(レビ一九・一八、申六・五、マコ一二・三〇
     ルカ一〇・二七)
 問五 あなたは、これらのすべてを、完全に守ることができますか。
 答   いいえ。私は、生来、神と隣人を憎む傾向を持っているからで
     す。(ロマ三・一〇、Ⅰヨハ一・八、創六・五、八・二、エレ
    一七・九、ロマ七・二三、八・七、エフ二・三、テト三・三)
 問六 それでは、神が人間をそんなに悪く、心の捻れたものに、創造
     されたのでしょうか。
 答   いいえ、そうではありません。神は、人間を、善く、また、ご自身
     の像に似せて、すなわち、真の義と聖とにおいて創造されました。
     それは、人間が、自分の創造主である神を正しく認識し、心から
     愛し、永遠の祝福の中に神と共に生き、神をほめたたえ、賛美
     するためであります。