榊原紀惠子 のすべての投稿

2020/10/4 週報メッセージ

今日まで守られて感謝

朝位 真士 

  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

  私は1961年12月24日クリスマスに受洗した。当時18歳の高校生であった。九州で友人のM君によって教会に導かれた。伝道者として献身する前は小さな会社に九年間勤務し、東京転勤と同時に淀橋教会の故小原十三司先生にご指導をいただき、1975年、神学校(東京聖書学校)を卒業と同時に母教会である北九州復興教会に赴任。清水会堂と曽根会堂(当初は農家の民家、後に新会堂)の二つの教会において、家族(フミ子牧師、憲義牧師(琴平教会)、真奈)4人で19年間御用させていただく。

 1994年、ホ群人事で西海静雄、満希子両師の後任として、当時マンション教会であった桜ヶ丘教会に赴任。フミ子師は東京聖書学校の音楽教師と牧師の二足のわらじ。その間、長男憲義は献身して東京神学大学に編入して四年間の神学の学びを終え、藤沢教会に伝道師として赴任。数年前より琴平教会に赴任して牧会にあたる。娘真奈は結婚して二人の子供のママとなり、子育てに専心。私は前立腺がんを発症し、治療しつつ牧会に励んでいる。2003年より、女子少年院の教誨師、篤志面接員を委嘱され、社会奉仕にあたらせていただいている。

 桜ヶ丘教会赴任26年目を過ぎて、創立100周年(1923年創立)記念を目指して、教会員一同と共に祈りと牧会、宣教に励んでいる。現在新型コロナウイルス流行の中、教会は工夫しながら礼拝を守っている。ユーチューブ配信も、役員の配慮によって継続されている。

 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)

2020/9/27 週報メッセージ

高齢者の生き方

朝位 真士 

  高齢者にとっての教会、教会の高齢者への対応について考えます。

高齢者にとっての教会 

  • 幸いな教会生活

高齢者にとって、教会の存在は何重もの意味で幸いであると言うことができます。教会に集い、その交わりの中に身を置くことは、肉体的にも精神的にも霊的にも良い結果につながるからです。歌う、聴く、人と交わり「祈り合う」ということをすることによって、心身に刺激が与えられ、霊性に祝福がもたらされるからです。教会出席は、すばらしい老化対策であると言えます。たとえ健康の理由で出席が許されないとしても、教会の祈りに覚えられていることは、それはそれで、いかに大きな祝福でありましょうか。

  • 高齢者は教会の宝

人生の先輩、信仰の先輩としての高齢者たちが礼拝に喜んで出席している姿は模範であり、励ましであり、慰めであるからです

 教会の対応

  • 教会が高齢者への敬愛の精神を高める必要

教会において、高齢者が尊ばれ大切にされることは神のみこころであり、聖書の教えにかなったことです。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」(レビ19・32)ということばが表している精神は、普段から教会の中で教えられ、養われ、実践される必要があります。これらのことについて、どのようなことが考えられるでしょうか。①教会が高齢者への敬愛の精神を高める必要。②教会が高齢者の奉仕できる場を提供する必要。③教会が高齢者に配慮し、高齢者が不自由しない設備を整える必要。何よりもあたたかい言葉をかけ、失礼のないようにしたいものです。(『クリスチャン生活百科』より)

「キリストの愛における行い」2020・9・27説教要旨

朝位真士

序 

 今日はローマ13章1~7節を学んで行きましょう。ローマ12章では教会の一員としてキリスト者の生活を語ったが、13章では社会の一員としてのキリスト者の生活をしるす。12章の主題は献身、及び愛であり、13章の主題は、服従、愛および正しい行いであります。私達は教会内において良き信徒であるだけでなく、教会外においても良き市民、国民でなければならない。神に献身して奉仕する信者は、市民として叉国民としては、権威者に服従し、愛と義の生涯を送る者であります。真の信者は、この両側面において模範的でなければならない。

ローマ13章1~7節を見て下さい。この13章全体は社会人としてのキリスト者の義務を語っています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務。8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。となっています。さて12章の初めに神に対する献身を説いたが、13章の初めには世の権威者に対する服従を説いて(1~2)います。全ての権威の源は神であります。この世の権威者は(彼が神を信じると否とにかかわらず)神が摂理のうちに立てられた者で、神に代わって治める者でありますから、私達はこれに服従しなければなりません。(第1ペテロ2・17p430引用)これがキリスト教の基本的道徳であります。キリスト者は、社会の秩序を乱す闘争運動などは、キリスト者の参加すべき者ではありません。勿論神の御心に違反する為政者にたいしては毅然とした態度を表明すべきです。信仰を脅かす事柄にたいしてはノウといわねばなりません。私達ホーリネスの群れは政府の宗教弾圧に対しては毅然とした態度を表明しました。信者は皆、主にあって自由な者であります。しかし、聖書は、王や権威者に服従することを説いています。全ての権威は神によって立てられています。(ダニエル2・21,37)p1381,1383、それゆえ、神に献身する者は、信仰に矛盾しない限り人の権威に服従する。権威に背く者は神に背く者である(2)。全ての権威者は、未信者であっても、私達を保護し、安全におらせるための神の僕であり、神を代表して悪人を罰するのであり、いたずらに刑罰を施すことありません(4)。それゆえ、悪を行うなら刑罰を恐るべきでありますが、善を行うなら恐れるには及ばない。かえってほめられる(3)、それゆえ、ただ刑罰を恐れて従うのではなく、神に対する義務であることを思い、良心の命じるところに従って服従すべきであります。(5)よき市民、国民の資格は、隣人に対する愛と、自分の生活におけるきよめであります。来週の8節以下にこの2つのことを記しています。(愛は律法を完成する)十戒も、神を愛し人をあいすることに総括されます。(マタイ22・37~39)p44。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛の他、何人も負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(13・8~10)。

結び

もう1度13・1~7節を見て下さい。

この13章は、キリスト教的政治倫理、すなわち政治権力に対するキリスト者のありかたを教えたものとして有名な箇所であります。この場合ヨハネ黙示録13章が引用されました。p467参照ローマ13章が権力者を「神に仕える者」として社会の秩序を整える正義を実践する限りにおいて「権威に従うべき」であると教えるのに対して、ヨハネ黙示録が書かれた時代は、政治権力が皇帝礼拝を強要し、弾圧をもって絶対服従を迫り、ローマ帝国は悪魔から遣わされた獣の姿で描かれています。それゆえ、これに抵抗することはキリスト者の使命であります。(黙示13・10)「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」p467と書かれています。政治権力への抵抗として、現代で最も徹底した姿勢を示したのは、第2次世界大戦末期のディートリッヒ・ボンへッファーでした。彼は世界侵略とユダヤ民族撲滅を目指すナチスの政治が、人間の限界を超えた悪魔的支配であると判断し、それを阻止するために、緊急手段としてのヒットーラー暗殺計画を支持し、担いました。その計画は事前に発覚して、彼は死刑に処せられましたが、これは黙示録13章の1つの担い方であります。このような中で、教会は、人間のエゴイズムを直視し、十字架の福音がそれに打ち勝ち、神が十字架においてこの罪と戦い、罪人を裁くと共に新たに生まれ帰らせて、罪と戦う者とされる事実を宣べ伝えなければなりません。そして教会において福音を聞いてキリストと出会った者が、地の塩、世の光としてこの世に出て行くことによって、道徳的導きとなるのであります。

2020/9/20週報メッセージ

牧会雑感                                                                 

朝位 真士 

  聖書マタイ7章7節~11節、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・・・・・このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

 少し長い箇所を引用しました。私は社会人になってからも、4年間の神学生時代にも、早起きしてまず聖書を読み、祈りに30分から1時間かけて、デボーションの時間をもたせていただいています。テキストとしてアパルームや『信徒の友』の日課の聖書を拝読し、黙想し、具体的な祈祷課題について時間をかけて祈っています。多忙な現代人には、このような至福の時間をもつことは不可能でしょうが、私は幸い神様に仕える主の僕として、このような尊い時間をもたせていただいています。

 先日、ある方から祈祷課題が示されました。具体的には申し上げられませんが、その方の会社員が39度の高熱を出していて、もしコロナに感染したら会社も家族も大変だという緊急課題でした。日頃から良き交わりをしている兄弟の祈りの要請でした。その課題について何十回祈ったことでしょうか。神様の御心を示してくださいと、本当に真剣にお祈りさせていただきました。その翌日、兄弟から喜びの電話をいただきました。風邪であったということです。私がこの件で考えたことは、祈りは神様の御旨が優先するのだということです。必ずしも私共の願い通りには答えられないかもしれませんが、「ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)ハレルヤ!!                 

「キリスト教的愛の生活」2020・9・20説教要旨

朝位真士

今日はローマ12・9~21節を通して聖書を学びましょう。この12章は1~2献身と、聖別された生活。3~8信者各人の賜物と奉仕。9~16教会内の兄弟に対する愛の行為と奉仕。17~21教会外の敵人に対する愛の態度と善行。

ローマ12・9~21節を見て下さい。

9節以下は、信者相互に対する態度として、愛と一致を、また、反対する者に対する態度として、祝福し、忍耐をもって愛の行いをなすべきことを説いています。12章前半においては神に対する献身と奉仕を勧めたが、この後半において同志と敵に対する愛を力説しているのは、大いに考える事であります。キリスト者の生涯は、神に対しては奉仕、人に対しては愛の生涯でなければなりません。上に向かう関係だけでなく、横に広がってゆく関係があります。神に対する奉仕においていかに熱心であっても、人に対する行為において深い愛がなければ、そのキリスト者生活は完全なものとは言えない。表面における熱心な奉仕のうらに、こうした愛の生涯がなければならない。神に対して忠実であるだけでなく、人に対しても親切でなければならない。コリントⅠ・12章に奉仕のための種々の賜物をしるしたのち、13章で愛を詳しく説いているのもそのためである。ただ教会内の兄弟姉妹に対してだけでなく、反対者や迫害者に対しても愛をもって接すべきことを説いています。これは山上の垂訓にある教えで、私達は主に仕えるには熱心で、霊に燃え、主に仕え、人々とは、出来る限りすべての人と平和に過ごし、敵に対しては、善をもって悪に勝つべきであります。ある人はこの一段を次のように分解しています。この一段は愛の生涯であります。1・この愛の実質―内部的面(12・9~13)。偽りのない愛(9上)、純潔な愛(9下)、兄弟愛(10・上)謙遜愛(10下)、熱烈な愛(11上)、忠実な愛(11中)、奉仕する愛(11下)、望みある愛(12上)、忍耐深い愛(12中)、祈り深い愛(12下)、2・この愛の行為―外面的愛(13-21)。聖徒に対して(13)、迫害者に対して(14)、幸福な人に対して(15上)、悲しむ人に対して(15下)、争いやすい人に対して(16)、弱い者に対して(16中)、悪人に対して(17上)、すべての人に対して(17下、18)、怒りやすい人に対して(19)敵に対して(20,21)。

コリントⅠ13章は、愛の内容分析をして、愛の本質をあきらかににした愛の賛歌として有名であります。そこでは愛の広さ、真実さ、情け深さ、さらに、その永遠性が記されています。ここではその愛を外に向かって用いる事が、勧められています。ルターは、キリスト者は、ひとりのキリストであるといったが、この言葉は深い意味をもっています。キリストは、愛なるものでありますから、ひとりのキリストになることは、外に対して、愛となることにほかならない。信仰によって神の御前に立つ資格が与えられる時、信仰のほかにも、神と「わたし」のあいだに入り込む事は出来ない。というのは、神はすべてをもち、「わたし」は何も持たないからであります。ルターは、「私」は、乞食だといいました。だから愛をもっていると考えてはならない。信仰があると言っても、これは、神と「わたし」とのつながりを神が与えて下さる賜物なのだから、「信仰」という孤立した品物を「わたし」が持っているわけではありません。「私」だけでは「信仰」はなりたたない。「神」と「わたし」とがあって「信仰」という状態が出来るのであります。愛があっても、そのなかに顔を出すことは出来ない。ところが、愛の活動は、「わたし」が、神との交わりを許されるにいたって、俄然、活発になるのであります。キリストが、ご自身を「わたし」のために与えたうたことは、愛を与え尽くされたことに他ならない。そのことを真として、受け入れる信仰者は、また友のために命を捨てるのであります。愛は、キリスト者を通して、活動します。だからパウロは愛には偽りがあってはならないというのであります。12章19~21節を見て下さい。箴言25・21~22p1024を見て下さい。これこそキリストにおいて完全に具体化された真理であります。キリスト者の行為には、神の力が加っています。行為自体が、神にもちいられて、キリストのあかしとなるのであります。キリスト者の生活は、このような意味において勝利の生活であります。

結び

 もう1度12・9~21節を見て下さい。

パウロは12章から「キリスト者」はいかに生きるかという倫理を教えて前回12・3~8節においてキリスト者は教会において、丁度体に手足があるように、1人一人が結び合い連帯して、1つの共同体を築いていくように教えています。今日のところは、体の中を血が流れているように、わたしたちの共同体を生かすものが、「愛」であることを教えています。キリスト者はキリストの愛に動かされて、愛に生きるように促されています。しかしわれわれが純粋な愛を変わりなく貫く事は、決して生易しいことではありません。私達の愛はすぐ枯れてしまいます。我々の愛の泉であるイエス・キリストにつながり、キリストの愛を注がれることによって、真実の愛を燃やし続ける事が出来るのであります。12・11節「霊に燃えて」と言う言葉で思い起こされるのは、ルターが「キリスト者の自由」の中で、神と人との関係を、火と鉄とに譬えているところがあります。鉄はそれ自身では黒く冷たいのですが、火の中に入れられると、焼けて真っ赤になり、それ自体が火のようになります。わたし人間は罪に蝕まれ、心は冷えて、鉄のように重く冷たいのですが、主イエスの恵みの炎に燃やされると、鉄が火に焼かれて真っ赤になるように、私達も喜びと愛に赤く燃えるのであります。

2020年秋10月18日(日)午後2時から4時 ジャズコンサートの中止について  「高田光比古バンド」

 コロナ禍にあって、大変残念なことですが、ジャズコンサートは中止とさせていただきます。楽しみにしていらっしゃった方々、来年、コロナの感染状況がおさまった際には開催を計画しておりますので、お待ちくださいませ。

2017年11月発行の桜ヶ丘教会(ニュースレター)「さくらんぼ通信」に投稿いただいた高田光比古氏のジャスの関する思いを掲載させていただきます。

               高田 光比古(たかた てるひこ)氏

ジャズが生まれて今年で百年です。

「教会でジャズなんて⁉︎」と言われて悲しい思いをしたことがあります。かつてニューヨークのハーレムの教会で体感した讃美歌は、あまりにも素晴らしく鳥肌が立ちました。伴奏はドラムとハモンドオルガンでした。

私は牧師の家庭に生まれ、母の胎内から讃美歌を聴いて育ち、中学高校時代、聖歌隊とブラバンドにあけくれ、大学卒業後には本格的にジャズドラマーの道に入りました。 ライブハウス等々いろいろな所で演奏させて頂いています。教会での演奏は、ことさら味わい深いものがあります。

2020/09/13週報メッセージ

牧会雑感

朝位 真士 

  9月1日付のアパルームの日課はⅡコリ12・1~10節でした。特に、「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」とパウロは語っています。

 9月1日のデボーションが終わり、外の掃除をしていました時に、大切なヴィザカードとパスモ他大切な物を紛失していることに気付きました。私は全身蒼白になり、理性を失い、信仰も失いかけていました。何度も紛失した場所に行き、また主イエスに会堂で悔い改めの祈りをしました。日頃の信仰が試されました。他者には「信仰は大切です。神様は何事も最善にしてくださいます」と語りつつ、自分の場合には、全く信仰の薄い者と化してしまいました。私は何度も会堂に入り、聖書を読み、お祈りをしました。そしてまた心当たりの場所に行きましたが、見当たりません。しかし、思わぬ所にその大事な物が落ちていました。本当に感謝でした。皆様のお祈りのお陰だと感謝しています。

 先日、95歳の元牧師先生とお話をすることができました。先生は地方で教会を成長させ、教区の責任を持たれた方です。その時、私共若い牧師のことを心配し、また群や教団のこと、現代のホーリネス信仰の継承を憂えておられました。私も若輩として襟を正される思いがいたしました。ホーリネス信仰、新生、聖化、神癒、再臨の四重の福音を改めて確認させていただき、ホーリネス人として、キリストの証人として生活させていただきましょう。

「主にある新しい生活」2020.9・13説教要旨(敬老感謝礼拝)

朝位 真士

今日は75歳以上の高齢者の方々に対して祝福の祈りを捧げさせて頂きます。

今日からローマ12章に入ります、まず今日は12・1~8節を通して聖書を学んでいきましょう。ローマ1章から11章は教理的部分で、12~16までは実践的部分が記載されています。米田豊先生は12章全体を献身と奉仕。愛の実質と愛の行為。

分解(教会人としてのキリスト者の義務)1~2献身と聖別された生活。3~8信者各人の賜物と奉仕。9~16教会内の信者に対する愛の奉仕と奉仕。17~21教会外の敵人に対する愛の態度と奉仕。と分解しています。パウロはどの手紙においても、まず初めに教理を説き、次に実行上の勧めを述べる。8章の高い経験を握った者は、12章以下のきよい生涯をおくるべきであります。「恵みの原理が救いの基礎として確立された(1~8)ので、聖霊はこの部分において、恵みの王国に生まれた者の品性と行為とを記しています。ここに、キリスト者の行為がその関係において7つに表されています。1・神に対してー献身(1~2)、2・教会に対してー奉仕、3・信者同志に対してー愛と一致(3~8)、4・敵に対してー祝福(9以下)、5・国家に対してー服従(13・1―7)、6・社会に対してー愛と謹慎(13・8~14)、7・弱い信者に対してー同情と寛容(14・1~15・7)。と分解されています。

ローマ12・1~8節をみてください。この処ではパウロが霊的礼拝を語っています。これは私達すべての礼拝者に対するメツセージです。特に1~2節は聖なる供え物に対して語っています。「あなたたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい(口語訳)」パウロが「供え物」のうえに、「神に喜ばれる」、「生きた」、「聖なる」という3つの言葉をつけているのは、これらのことが、キリストにおいてのみ考えられることを、いま一度、思い出させようとしたためであります。キリストに抱かれているときだけ、神を喜ばせることができるし、そのときだけ、生きているのであります。またそのときだけ「聖」すなわち、神のものとして、この世から区別されるのであります。パウロは「あなたがたのからだ」をそのようなものにしなさいといっているのであります。この世に住み、この世に接蝕するのは、わたしたちが五体を持つてであります。涙と汗と、だまし騙され、愛し、憎む、悪魔的この世に身を置いているのであります。この世の行為は、からだがもとでになる。このからだが、自然のままに行動したらどうなるでしょうか。その結果は、どれほど恐ろしいものであることをパウロは学んだのであります。キリスト者は、この体をキリストの中に包みこまれ、キリストの中で溶かされるのであります。「生きた、供え物」という表現は、逆説であります。「殺されながらも生かされる供え物」と解釈されるのであります。キリストにおいて殺され、また生かされることは、いうまでもないことであります。このような供え物となること自体が、霊的な礼拝だというのであります。次のすすめは、この世と妥協してはならないということと心を新たにすることによって、造りかえられるというのでありま

す。12・3~8節を見て下さい。ここでは霊の賜物についての事が述べられています。この箇所ではパウロは使徒的な権威に基づいて、教会員すべてに語っています。信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。4~5節は馴染み深い比喩が用いられています。キリストの教会における一致と多様性を見事に語っています。霊の賜物がどれほど個々のキリスト者において多様にあらわれようと、それが働く場所は1つのキリストのからだ以外にないことが言われています。1人1人は全体の益のために存在しています。だから賜物は教会の徳を建てるように用いられなければならない。かしらであるキリストに属している者は、キリストにつながっていることと同時に、体に属している者との互いのつながりをも自覚して慎まなければなりません。6節後半から8節にかけて7つの賜物が記されています。

結び

もう1度1~8節を見て下さい。1・聖なる供え物(1~2)。2・1つのからだ(3~5)。3・キリスト教共同体の活動(6~8)。キリストのからだなる教会は、活動する団体である。信仰は、怠惰なものではなく、生き生きとしたもので、神のみここに叶うあらゆる活動をその中にふくんでいます。キリストのからだなる教会は、援助を必要とするものたちに奉仕をする。奉仕は無秩序になされるのではなく、組織され訓練されたやり方で有効な奉仕が実行されるのであります。その基本になるのがアガペーの愛である。1コリント13章に具体的愛の内容が語られています。p317

2020/9/6 週報メッセージ 

聖霊の祝福を得る手段

朝位 真士 

  クリスチャンが日々の実生活の中で神の恵みを知るための手段として、神は三つのもの、すなわち祈りと聖書および教会を与えてくださいました。キリスト教指導者の一人、J・R・モットーは「敬虔な聖書研究と祈りとをもって1日を始めることは、自己と罪とサタンとのその日の戦いのために人を整えることである」と語っています。神は、勝利あるクリスチャン生活のために祈りと聖書と教会によってしか得られない神の恵みを用意しておられます。そして、この恵みこそクリスチャンとしての人生をより豊かなものとするものです。

 (1)祈りーちょうど人間の呼吸のようなものです。汚い空気を吐き出すことによって清い新鮮な空気を胸いっぱい吸うことができるように、みずからの罪を告白し、悔い改め、神の赦しを求めるのです。この意味では、祈りは神との対話であるといえるでしょう。次に、祈りには四つの要素が含まれています。①賛美ー神のみわざを賛える。②告白ー知れるかぎりの罪を告白し神の赦しを求める。③感謝ーどんなに苦しくとも神の恵みを数える。④祈願ー他の人々や国家のためのとりなしと自分の願いを率直に神に語る。祈りに対する神の答えは次の四点を挙げることができます。物質的な必要を満たしてくださる(フィリピ4・19)。主のみこころを知る(箴言3・5~6、詩編32・8)。実行する力を与えてくださる(フィリピ4・13)。支え守ってくださる(イザヤ41・10)。

 (2)聖書は文字通り心の糧であり、生活の唯一の規範です。永遠に変わらない神の約束の記されたみことばは、すなわち聖書こそ新しい人生観を構築し、優れた生活の知識を得るのです。

 (3)教会ー神が地上に与えてくださっている信仰者の群れのことをいいます。目的は、人が聖書を深く学び、信仰が深められ、訓練されて成長し、全世界にキリストの福音を伝える生きたキリストの証人となることにあります。(『新キリスト教ガイドブック』より)

「神の富・知恵・知識」2020・9・6説教要旨

朝位真士

今日はローマ11・25~36節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの11・25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章(ローマ9~11章)の讃美的結論。と分解しています。パウロは今結論にたどり着く。25節にある「奥義」とは、隠されているやがて啓示されるべき救いの出来事を指しています。イスラエルの1部は、「かたくなに」なって神の民としての実を失ったが、それはいつまでもそうなのではなく、「異邦人に完成のなる時」までと言う期限付きであります。福音が全世界に宣べ伝えるまで再臨はないと言うことはこれと関係している(マルコ13・10)。異邦人の中から選ばれた者がことごとく召されて神の民となる時が到来すると、イスラエルのかたくなさも終わりをつげるのである。

11・25~36節を見て下さい。25~26異邦人全体が救いに達するまであり、こういて全イスラエルが救われると言うことです。しかしふさわしくない者はその群れから除かれ、選ばれた者からなる総体として救われるイスラエルという意味であります。26節27節で語られるイザヤ書の引用は、パウロがここで語る奥義が彼に初めて啓示された内容でないことを明らかであります。(イザヤ59・20-21,27・9)この11・25-27は神の救いの奥義が述べられています。神の奥義は聖書にしるされています。しかしそれを問われるには、聖霊によるほかはない。異邦人がすくわれるのは、キリストを信じる信仰によるのであり、イスラエルがすくわれるのも同じであります。キリストを受け入れるか、受け入れないかによって、救われるかすくわれないかがきまるのである。これは、全人類に対して平等である。この点においてイスラエル人と異邦人との間の差はなくなる。キリストにおいて、民族と民族との間にあったあらゆる差は消え去る。キリストにおいて新しい契約が成立し、万人はその契約の中で救いを約束されるのであります。これこそ、イスラエルの希望がおかれる場所であります。11・28~36節をもう1度見て下さい。パウロは、イスラエル人と異邦人との問題について、いささかの疑念を残さないようにしたいと考えた。だから、11節の結論の中で、更に、突き込んで問題を明らかにしようとしました。イスラエル人と異邦人との差がどこで生じるのか、それは福音を巡って生じるとパウロは語る。この問題は、律法という乗り物に便乗したイスラエルは、福音を理解することが出来なく神の敵となった。しかしこのことは、異邦人のためになることになった。ところが、神の選びは、不変であるから、どれほど、イスラエルが、神にそむいても、その選びは無効にされることはありません。人間の側に不誠実があっても、神においては、誠実があるばかりであります。ただし、人間の不誠実は、そのまま、神に受け入れられるのではなく、不誠実が、誠実にたちかえるには、それだけの道筋があることは、すでに見てきた通りであります。異邦人が神との交わりに入れられたのは、従順だったからではなく、彼らが不従順であったにもかかわらず憐れみを受けたからにほかならない。そうだとすれば、イスラエルも、不従順の状態にあるにもかかわらず、憐れみを受ける望みは、十分、残されているのであります。すなわち異邦人も、不従順だったし、イスラエル人も不従順でありました。しかも、神は、この不従順な者に向かって憐れみを与えられたのでした。だからパウロは、このことについて大胆に次のように言った32節を見て下さい。この言葉は、単なる楽観的発言ではありません。神の深い知恵が、背景をなしています。知恵の輪が解き明かされたのであります。わたしたちには、あまりにも、不可思議であります。独断とも聞こえます。気まぐれな非現実的な、また気休め的な楽観論とも聞こえます。しかし、これはその様なものではありません。だからパウロは、神のこのような活動に対して、33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」と言って「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解尽くせよう」と言っています。これは、宇宙の創造主、またこれを支えるおかたとの接蝕によって、与えられた知恵を背景として発せられる言葉であります。つまり、信仰から出る言葉であります。万物は、神より出でて、神に帰る。そのような循環運動の一局部に歯車のしきりがあったり、断絶があったりしても、神は、これを克服して、あらゆる故障に勝をえるのであります。悪との戦いにおいて、キリストは勝利者であるということは、三位一体の神の勝利ということにほかなりません。キリストの受けたもう栄光は、三位一体の神の栄光であります。神の救いの奥義を示されたパウロは、栄光がとこしえに神にあるようにといって、人間の神格化を戒め、信仰こそ、神と人間との間をつなぐ唯一のものであることを、新しく私達に思い起こさせるのであります。

結び

もう1度33~36節を見て下さい。ここは頌栄であります。イスラエルの歴史を、異邦人の救いという大問題と共に述べた後、パウロは心からの讃美をささげずにはおられなかった。神の知恵と知識は底知れず深く、その裁きは知り尽くしがたく、その道は測り知りがたい(11・33)。これは私達に、全能なる神はイスラエルの歴史を通し、また異邦人伝道を通して啓示してくださった救いの内容があまりにも偉大で私達の理解を超えていると言うことを言っているのであります。神のみ業を前にして心から讃美を献げているのであります。34,35節はイザヤ40・13~14節、ヨブ41・11節の引用であります。特に35節の「主に与えてその報いを受ける」は、律法の業による義認を暗示する表現であります。ここには、神が人類の創造主であり、保持者であり、完成者であることが示されています。パウロは1コリント15・24-28節を見て下さい。p321を見て下さい。世界の救いである神に讃美の声をあげているのであります。