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2021/4/25 週報メッセージ

聖書を読みましょう(マルコ)

朝位 真士 

  マルコ福音書について米田豊先生はこのように注解しておられます。

  記者マルコという信者の子で別名はヨハネと言い(使徒12・12)、バルナバのいとこである(コロサイ4・10)。パウロとバルナバに伴われて、その第1回伝道旅行に出たが、途中から帰ったため、第2回目にはパウロに見捨てられ、バルナバに伴われて、その伝道に出た(使徒15・36~39)。のちにパウロと和らぎ、彼の同労者となった(第2テモテ4・11、ピレモン24)。本福音書は、伝説によれば、紀元60年頃、ローマにおいてペテロがとらわれていた時、彼の指揮の下にマルコが記したものであるという。それは、彼がペテロに浮かれたことと、書中にペテロに関しては詳しく記され、また本書の書き様がいかにもペテロの性質を表わすところが多い(「たちまち」「直ちに」などの言葉多いのはその一例である)ことからもうかがわれる。

  マルコはローマ人および一般の異邦人のために記されたものであることは、ユダヤ人の風習や土地言語などに注意深く説明を加えたこと(5・41、7・34など)、またイエスの系図を省いたこと、旧約からの引用の少ないことなどから、知ることができる。マルコは、勝利者たるローマ人に適すように、勝利者たる神の子キリストの働きを簡単に記している。

  皆様、マルコによる福音書を前提なしで読んでみましょう。キリストの働きが直裁的に、単刀直入に書かれています。

「恵みによって救われた」2021・4・18説教要旨

朝位 真士

この6章は聖徒と訴訟。肉体の神聖。聖霊の宮。1~8聖徒間の訴訟を嘆く。9~10神の国を継ぐことの出来ない不義に対する非難。11恵みによって救われた身分。12寛容な原理13~18きよくあるべき勧め。19~20私達の身分と肉体の神聖。6章の前半は訴訟に関する譴責(悪い行いや過失などをいましめて責める事)(1~8)、後半は淫行に関する譴責(9~20)。聖徒たる者はやがてきたるべき時代において世を裁く(支配する)者であり、(2)マタイ19・28)、更にまた天使もさばくべきものである(3)。このような権利を持つ者同志が訴訟事件を引き起こして未信者の裁判を受けるとは、非常な心得違いである。キリスト者たる者は法律の前に争う問うことは、世の人々にキリスト教を嘲笑させることである。異教徒の裁判官の前にこの世のつまらない事柄を持ち出すのは、キリスト者としての真の威厳を忘れさせることである。教会内で解決することが出来ずに、不信者の前に持ち出すこと自体よくない。互いに訴え合うのは間違っている。むしろ、かえって不義を受け、だまされるほうがよい(7)。十字架の主に従う者は、忍んで不義を受けるべきで、権利放棄、無抵抗、忍従こそ、聖徒らしい麗しい態度である。キリスト者の美徳である(へブ10・34、マタイ5・39~41)。

1コリント6章1~11節を見て下さい。彼はローマ13章に、世の中を統治する権威に、服従すべきであることを教えています。社会の公正(絶体的なものではないが)を保つ為に裁判も必要であろう。だからパウロは、全ての訴訟を否認していない。ただ彼が極力拒むのは、信者同志の訴訟である。この係争は兄弟愛によって解決し、それが出来ない時は、教会の指導者たちのあっせんで解決されるべきであります。より高い,より正しい道徳を教会は、持っているはずである、それに信者同志のごたごたを、この世のものにさばいてもらわなければならないとすれば、それは恥以外の何物でもない。教会員間の不和、不義、不実を天下に公表する結果となる。こうして、「訴え合うこと」自体が、教会員一同の「敗北」なのである。6・7~11節をもう1度見て下さい。ここでは10個の不義が数えられています。偶像礼拝と性的不道徳と経済上の不法である。その中でも、性の乱れに関するものが多いのは、特にコリントにそうした危険が多くあったからであろう。この十個の不法は、全てコリント教会の中に、あったとは考えられない。しかし。あるものはすでに教会の中に入り、他のものも侵入する恐れがあった。「神の国を継ぐ」のは、神の子とされた信者の最大の特権である。教会の道徳的郭清がいかに必要であるか。キリスト教が、真に成功するか失敗するかの分かれ目は、ここにあるとパウロは考えていたようであります。コリント人は知識を誇り、福音を理論として理解し、これを知的に表現することによって、一種の自己陶酔にかかっていた。これで神の国を継ぐことが出来ると思いこんでいた。それは間違いであります。福音はもつと具体的な事実であります。生活に具現する真理である。今日もコリント流の信者が多いことでしょう。「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなた方は、主イエス・キリストの名によつて、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義となれたのである」ルターの小教理問答書には、「洗礼は罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し」といい、また「わたしどものうちにある古いアダムが、日ごとの悔いとざんげによって、あらゆる罪と邪悪と共に溺れ死に、そして新しい人が日毎に現れ、またよみがえる、神の御前に永遠に義と純潔を持って生きるようになること」といっています。すなわち、洗礼は信者の生涯に一線をかくすることであります。この線に立って、過去の罪の生涯を清算し、将来を望んでは、神のよみされる新しい生涯に踏み出すことであります。コリントの人々も、このような洗礼をうけたのであります。そうだとすれば,旧態以前とした生活に、甘んじてはならないはずであります。(ローマ6・4、ガラ3・27,2・20)

結び

もう1度6・7~11節を見て下さい。2テモテ4・2節を見て下さい。キリスト者は寛容を尽くして、過ちを犯している者を責めると言う大切な使命を負っている。さらに8~9節更に彼は神の国を相続できなくなる罪を列挙して、警鐘をならしています。最後にパウロは、主イエス・キリストの御名と神の御霊に洗われ、聖なる者とされ、義と認められた兄弟達がいることを感謝している。

2021/4/18 週報メッセージ

聖書を読みましょう

朝位 真士

  「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3・16)

 イースターを迎え、マタイ伝より読むことを実行しています。注解書なしで、御言葉の力で1日の生活を始めたらいかがでしょう。

 米田豊先生の注解によると、福音書の記者であるマタイは12弟子の一人で、別名をレビと称し、収税を業としていたが、主の召命を受けて弟子となったものです(9章9節)。この書はユダヤ人のために書かれたもので、記者が目的としたところは、イエス・キリストが旧約聖書に預言されているメシヤすなわち救主であることを証明することです。したがって旧約の預言からの引用が多く、その数は65を下りません。紀元50~60年頃、パレスチナで書かれたもので、キリストの言行を分類的に記しています。簡単に分類すると、5章から7章までが説教、8章から9章が奇跡、10章が使徒に対する教訓、13章がたとえ、23章が律法学者やパリサイ人に対する譴責、24章から25章が再臨に関する警告および比喩集であります。

 マタイ福音書は28章ありますが、1日4章読んでいくと1週間で終了します。皆様もチャレンジしてはいかがでしょうか。もちろん、毎日15分間の御言葉と祈りの習慣を継続していくと、さらに御言葉の恵みに充足されるのではないでしょうか。

「主イエスの力をもって」2021年4月11日説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント5章1~13節から聖書を学んで行きましょう。米田豊先生は5章全体を教会の腐敗。過越の子羊の救い。パン種を除くことと語っています。1~5節姦淫者とそれに対する使徒の位置。6~8節パン種を除くこと。9~13節教会郭清の命令。と分解しています。当時の道徳がいかに腐敗していたかを知るべきであります。教会の中に姦淫その他信者として成すべきでない事をして罪を犯す者があるなら、その人を破門にし、絶交すべきである。(11,13)。この点に寛大であることは、教会腐敗の原因であります。キリスト者の自由を機会として肉欲(ガラ5・13)、神の恵みを放縦な生活に変える者達は、恐るべきパン種である。周囲に悪い感化を及ぼし、(少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませる(6)、教会の神聖を保つために、異性間の交際に罪や汚れが入らないように、特に注意しなければならない。教会は選ばれた者の集会で、キリストの花嫁たるべき者であります。十字架の血によってきよめられ、きよく保たれるべきであります。(エペソ5・25~26)。縁民イスラエルが堕落したのも、異邦人とおn姦淫のためであつた(民25・1)。初代教会においても、悪魔のねらったのはこの点であった。

1コリント5章1~13節を見て下さい。p304パウロはここで、昔の過越祭のことを例に引き、信者がきよくあるべきことを説き勧める。パン種は少しでもあれば直ちに膨れる者である。(マタイ13・35)。罪もそのように、少しの罪でも伝染し蔓延して、全体を腐敗させる。教会には罪と腐敗があってはならない。過越の祭の間は種入れぬパンを食べたが、過越の子羊が予表するキリストの血によって、救われた私達は、私達の心、生涯、家庭、また教会に、少しのパン種が残らないように、全く清められなくてはならない。7節をみてください。すなわち信者は皆、資格としては「キリストにあって清められた」者であるから、(1,2)肉の力すなわち罪の性質を全くきよめられて(古いパン種を取り除いて)教会が新しい群れ(かたまり)とならなければならない。(7)。昔、過越の子羊の血によって民が救われたように、私達は屠られたキリストの血によって救われた者であるから、罪からきよめられてきよい生涯を送らなければならない。それは主イエスの力をもって、させて頂きます。つまり聖霊の力であります。この5章ではコリント教会では不信者の間にもないような不道徳が行われていたのであります。この5章1~13節は不品行の問題が語られています。1~5節事件とその処置が述べられています。そして6~8節で教会に対する勧めがパン種のたとえを用いて語っています。そして9~13節では教会の内と外でパウロが語りたかったのは11節ということであります。教会外の人は神が裁かれるのであります。

結び

ここに3種類の罪が挙げられています。第1は不品行で、性的な罪である。第2は、貪欲や略奪で、経済上の罪である。生き馬の目を抜くような、コリントのような商業都市では、こうした経済上の犯罪も多かったと思われます。第3は偶像礼拝で、宗教上の罪である。第1は肉欲からくるものであります。第2は所有欲から来るものであります。第3は、迷妄から来るものであります。信仰に入っても、こうした民族的習性はすぐに抜けず、時には信者同志の間に、問題が起こるものでありました。そのような時に、どういう態度を取るべきか、それを明らかにするのがこの5章であります。以上3つの根本的罪は、人間が犯す3つの方向をしめしています。第1は不品行の罪は自分自身に対する罪であります。第2は貪欲的、略奪的罪は、私達隣人及び同胞に対する罪であります。それは人間を、助け合う兄弟とみないで、あくまでも利用すべき相手と見る。それは、私達が神を愛している唯一の証拠は、自分を愛するように隣人を愛することであります。そのことを忘れています。

第3は、偶像崇拝の罪は神に対する罪であります。それは事物として神の地位を略奪する罪であります。そしてパウロは13節で申命紀17・7節及び24章7節から引用しています。生まれたばかりの教会を、これをおびやかすこの世の汚染から守りたいという牧者パウロの願いであります。

2021/4/11 週報メッセージ

フィリピの信徒への手紙を読んで

朝位 真士 

  フィリピの教会は、パウロの第2回伝道旅行の結果生まれたヨーロッパにおける最初の教会です。紀元51~53年の頃と思われます。その設立事情は、使徒16章6~15節に記録されています。創立会員は、テアテラ市の紫布の商人ルデヤという婦人と、占いの霊につかれていた女奴隷、それからフィリピの獄舎の看守とその家族でした。これらのキリスト者が教会形成の礎石となったわけです。フィリピの教会には、その後アジア人、ギリシャ人、ローマ人などのいろいろな民族、またいろいろな国籍をもった人々、上流階級、中流・下層階級からの人々が加わって、教会が形成され成長していったと考えられます。パウロの宣教によって教会の関係者は愛と信頼に固く結ばれました。彼の生んだ教会には、深く親しい交わりが見られています。4章10節、15節、16節から、フィリピの教会の信徒のパウロに対する愛の心と愛の贈り物が読み取れます。

 私の好きな聖句は、フィリピ4章11~13節「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」短い四章の中に、「喜ぶ」「喜びなさい」等が十数回記録されています。喜びの少ない不安と恐怖のこの時代に、キリストの御言に耳を傾けましょう。

「イースター(復活節)の喜び」2021・4・4説教要旨

朝位真士

2021度のイースター(復活節)礼拝を迎えることが出来て感謝です。キリストの復活は、奇跡と呼ばれる『不思議な御業』とちがい、キリストの神性と人性に関する秘儀である。それゆえ、それは、人間の理性が討議をする問題ではなく、人がそれを信仰する事柄である。復活についてはただ1つの説教がある。それは、『信ぜよ』ということである。復活について、パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり」第1コリ15・17)と語っている。それゆえ、ルターが語るように、「キリストの復活を否定する者は、同時に福音の全体と、キリストについて語られる全体を否定する」ということになる。キリストの復活は、キリスト者の信仰の中に、巨大な文字で書き込まれていなければならない。キリスト教義学は、復活を単独の出来事としてではなく、キリスト教の全体にかかわる事柄として重視している。アルトハウスは、これについて、「復活の証言は、単に復活としてのみではなく、他の事柄とのかかわりにおいて力をもっている」と語っている。これは終末という者が、単に、終わりの事柄として孤立して考えられるのではなく、あらゆる(現在)にかかわるものとしてうけとめられるのと同様である。

今日のマタイ28・1~10節を見て下さい。平行記事マコ16・1~8、ルカ24・1~12、ヨハネ20・1~10に記されています。ここでは復活された主イエス様が記されています。復活への信仰と歓喜が内村鑑三の詩「天地を揺らぐラッパの声に更生るらむ春の曙」中に溢れでている。復活は大きな驚きをともなう喜びへの爆発である。復活は決して『終わり』の事柄ではない。ここから、新しい希望の芽が生まれるのである。ヴェルナー・エラートは、「キリストの復活は新しいエオン(神によってつくり与えられる人間の情況とその時代)の開始である」と述べているが復活をまことによく表現した言葉である。今日のところでは安息日が終わってマグダラのマリヤとほかのマリヤが最初に復活の福音を耳にし、最初に復活の福音の主を拝することの出来た者は、主の十字架を目撃し、主の墓に向かって絶望してすわっていた女たちである。2~3節を見て下さい。この有様をみた見張りのローマ兵たちは恐怖の余り震えあがった。5節『恐れることはない』この言葉は4節、5節、8節、10節に語られています。この言葉はなんと慈愛に満ちた深い言葉であろうか。この言葉は、主の使いは、主の御誕生日に野辺の羊飼いたちにも語っている。(ルカ2・8~10節)もう1度マタイ28・5~7節を見て下さい。この単純な言葉は、全世界の人間の情況を変えることが出来るほどの巨大な出来事を意味している。イエス様の3日目の黄泉がえりについては、ペテロのキリスト告白以来(マタイ16・21)、何回も弟子たちに語られている。もう1度8節を見て下さい。主イエスの墓の前に座った時の心の暗さと、今の喜びは何と違うことであろう。マリヤたちは、主の使いの言葉を、いわば「見ないで信じた」のである。9節~10節を見て下さい。イエスは彼女たちに出会って、この信仰ある婦人たちは、主イエスの復活を初めて聞いたばかりか、目を持って復活の主イエスを拝する最初の人となった。み足を抱いて拝したことの中には、当時のラビに対する尊敬の心を持つ以上の愛の感動があった。

結び

 もう1度マタイ28・1~10節を見て下さい。聖書ほど「驚き」について語っている書物は、他にありません。その「驚き」には、いつも「喜び」が伴っていました。聖書の語る「驚き」の中で「最大の驚き」は何でしょうか。それはイースターの出来事です。わたしたちの人生において『恐れる要素』は多くありますが、今日の復活の記事を通して『恐れることはない』といわれた。これは2021年度最初のメツセージにふさわしい説教ではないでしょうか。この年教会においても個々人においても社会においても恐れる出来事を経験されると思いますが『恐れることはない』と主イエスはいつも共にいてくださり語つてくださいます。ハレルヤ!

       

2021/4/4 週報メッセージ

 イースター礼拝を迎えるにあたって

朝位 真士 

  2月17日(水)より4月4日(日)までの四旬節(レント、受難節)にキリストの受難と復活を学ぶ時期を過ごせたことを感謝します。主の復活を祝うキリスト教最大のお祭りがイースターですが、春分の後の最初の満月の次に来る日曜日ということになっています。当時のユダヤの暦が太陰暦に基づいていたからです。このため私たちの使用しているグレゴリオ暦では、毎年日付が変わってしまいます。教会では主の復活を記念して早天野外礼拝を行うところが多くあります。また、死んだような殻を破って新しい生命が出てくることの連想から、彩色された卵が配られます。キリストの新しい命を象徴しています。

 今はコロナ禍の時代です。3密を避け、手指の消毒をし、マスクをして生活しなくてはなりません。ある牧師が「3密(密集、密閉、密接)を避けなければならないが、イエス・キリストには3満があります」と言いました。クリスマスによく読まれるヨハネ1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。①栄光、②恵み、③真理の3つの満があります。つまり、イエス・キリストは栄光、恵み、真理に満ちておられました。このコロナ禍の時、3満に充足していただきましょう。イースターの時、大いにキリストの3満に充たしていただきましょう。

「キリストに結ばれた生き方」2021・3・28説教要旨

「キリストに結ばれた生き方」2021・3・28説教要旨

 今日は1コリント4・14~21節を通して聖書学んでいきましょう。この4章は主に忠実であるべきこと。真のさばき。言葉よりも力が語られています。1~2神の奥義である管理者であるパウロ。3~5主からだけ裁かれる身分。6御言葉を超えて人を評価すべきではない。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して使徒の謙遜と忍耐の模範。14~17彼らの父としての訓戒。18~21彼らの使徒としての予告。が語られています。

1コリント4・14~21節を見て下さい。ここでの結論は20節に語られています。神の国の特徴は(言葉ではなく、力である)口で偉そうな事を言って人をけなしても、その生活と奉仕にどれ程の力があるかが問題であります。真に力ある生活を送り、パウロのようにいかなる苦難屈辱をも主イエス・キリストのために喜んで受ける人こそ、真に勇者であります。

コリント人の不遜な態度に対して、憤慨したパウロは、鋭い言葉でコリント人を責めた。しかし、パウロの真の目的は、彼らを責めて辱める為ではありませんでした。むしろ、コリント教会の生みの親であるパウロは、父として、愛する子供らを諭したのであります。第1テサロ二ケ2・11~12p375「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた1人1人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」といっていますが、同じ気持ちでありましょう。ここでパウロは、急にやさしい口調になっています。15節に「養育係」とありますが、子供の学習を助けたり、学校への往復を守ったりするガラテヤ3・24~25に出て来ます。年配の信頼できる奴隷で、行儀を教えたり、する役目をもっています。1人の子供に多くの養育係がいても父親は1人だけであります。パウロはコリント人にとってたった1人の父親なのであります。福音を説き聞かせ、イエス・キリストにおいて彼らを産んだのはパウロであった。これは養育係では代行出来ない者でありました。ここでパウロは実に驚くべきことを言っています。16節をみてください。キリストに倣って忠実に生きているパウロを見習うのが最も手っ取り早く妥当な方法だったわけです。パウロは自分がキリストに倣っているという自信を持っていました。大変素晴らしい事です。私達は如何でしょうか。フィリップ2・19節以下p363第一テサ3・2p376を見て下さい。テモテは、パウロの信任の最も厚かった弟子であり、職務に忠実な青年伝道者でありました。彼は「キリストにおけるわたしの生活の仕方」つまりパウロが実践しているありのままの生活を思い起こさせてくれるであろうという。パウロの生活は、キリストの福音からにじみ出たものでありました。パウロが、テモテを通して、思いださせようとした生活は、キリストにある者すべてに実践されなければならない生活であります。

結び

もう1度1コリント4・14-21節を見て下さい。ここで大事な事は4・17節「すべての教会がわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」と4・20節「神の国は言葉ではなく、力にあるのですから」最後の「神の国は言葉ではなく、力である」これは偉大な金言であります。神の国は、それがどんなに巧みであり、美しいものであっても、単なる言葉ではできません。ただ福音が持っている聖霊の力によってのみ建てられます。この力のみが、人の心に信仰を起こし、人を慰め、人を励ますことが出来ます。この力を抜きにした言葉は空しい言葉であります。そしてコリント人が語っていた言葉はまさにそれに類するものでしたそしてこのパウロは、彼らに「むち」を持って行くか、「愛と優しい心」でいくか彼ら自身に選択させています。(21)このことばの奥には、彼らの反省を促すパウロの深い愛が込められています。

2020/3/28週報メッセージ

2020年度最後の礼拝にあたって

朝位 真士 

 教会の年度は4月から翌年3月までとなっている。昨年3月の役員会で感染症対策について話し合った。礼拝は休まず粛々と行う。法令に基づいての規制には従い、牧師は礼拝堂にて、各々は家庭など自らの場で礼拝を行う。新型コロナウイルス感染症流行が続いている中で、手洗い、マスク、手指の消毒をして礼拝を守り、しばらくは例会(婦人会、ホープ会、青年会、エリム会、ふれあい会、夕拝、昼食)は中止する。その時、私に御言葉が与えられた。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)神様は最善以下のことはなさらない御方である。

 教会の礼拝形式として、U姉にユーチューブ配信をしていただくようになり、礼拝に出席できない方も自宅で礼拝を守ることができるようになった。コロナ禍における神様のお導きだと感謝している。U姉のためにお祈りしてほしい。そのような中で、3人の方々が受洗された。神様は試練を通してこのようなお恵みを与えてくださった。O夫妻は5月31日のペンテコステ礼拝に受洗された。高齢の方々だが、若い頃からキリスト教について大変多くの知識をお持ちの方である。コロナウイルス感染防止策を考えながら洗礼を授けさせていただいた。健康が許される限り毎回礼拝にご夫妻で出席されておられる。Y姉は12月20日のクリスマス礼拝で洗礼式をさせていただいた。ベアンテ・ボーマン先生御夫妻の御用の日であった。Y姉は女優さんで、2月に結婚されて他教会へ転出された。このように困難の1年の中にも神様の祝福が与えられた。ハレルヤ!!

「キリストの福音を語る」2021・3・21説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント4・6~13節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの4章全体を主の忠実であるべき事。真の裁き、言葉よりも力と語っています。そして、今日の6節は聖言を超えて人を評価すべきでないこと。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して述べた使徒の謙遜と忍耐の模範を語っています。

 1コリント4・6~13節を見て下さい。この4章の1~21節までは神の管理人としてパウロは、自分のことをさきに建築士として、コリント教会の関係を説明しました。ここで、さらに、自分を神の管理人としてコリントの人々に語っています。コリントの人たちは、自らの知恵や知識を誇って、傲慢不遜であります。人の才能も能力も、全て神から与えられたものにほかならないのであります。もし誇るならば、神こそ誇るべきであります。私達は、そうした賜物にゆえに、いよいよ謙遜となって、感謝するべきであります。彼らは自分で、自分たちは、富み栄えていると思って、誇りの座に安住している。そして、伝道者を見下してかれこれと詮議だてています。10節から13節を見て下さい。伝道者もまた衆人環視の中で、悪戦苦闘しています。そしてまさに死に瀕しています。それなのに、信徒はいっこうにこれを助け、これを救い出そうとはしない。コリント教会の現状はそうであったのであります。パウロは、元々博学多識の人でありました(使徒6・24)。しかし、愚かに見える福音のために(12・23)、あえて愚かになった。単純卒直にキリストの十字架の福音を語るためであった。しかしコリント人は、福音を哲学と雄弁によらせようとした。彼らは、キリストにあっても、なお賢い者であった。この「賢い者」という字には、利口者、ぬかりのない知恵者(この世とうまく手を握る)という意味であります。彼らは自信家で、自負心に強く、この世に対しても自己心が強く自分の地位を誇示していた。パウロは、この世にあって何らの名誉もなかった。いや、かえって侮られ、罵られることが常であった。11節をもう1度見て下さい。第2コリント11章には詳細に記されています。ここに第1に生活の苦しさである。衣に窮し、食に困り、しかも定まった住居もなかった。第2に、自分の手でもってする働きの苦労であった。彼はテントをつくる職を身につけていた。第3に種々の迫害である。しかも、その迫害の中で、彼は迫害する者を祝福した。すなわち、はずかしめられても祝福し、迫害されても耐え忍び、ののしられても優しい言葉をかけた。こうして忍従の生活は、排斥を受ける1つの原因となった、この世においてはちりのように、人間のくずのようにあしらわれてきたというのである。こうした鋭くまた哀調を帯びたパウロの文字に接すると、私達は、自分の胸をえぐられる思がします。誠に教会における問題は深刻であります。

結び

もう1度1コリント4・6~13節を見て下さい。

元来信仰は人を謙虚にするはずであります。しかし現実はなかなか厳しく、特に信仰に燃えている時ほど高慢になる危険があります。信仰が自分の自信と化し、自己確信になり、やがて自尊心となって高ぶりに変わるのであります。それは多くの場合他人への裁きとなって現れます。特に多いのは牧師や役員に対する非難であります。牧師や役員は理想的な人物であるべきだというだという期待も手伝って、牧師、役員の1挙1動および一言一句が教会員の裁きに対象にされてしまします。

今日のテーマは「キリストの福音を語る」です。福音のメッセージを語るには2つの方法があると思います。1つは聖書を通してイエス・キリストの十字架と復活、この聖書のメツセージは教会に来られた方は誰でも語れると思います。もう1つはその方の生き様を通して福音を語る。これがある意味で難しい事だと思います。俗にいう教会の顔と、教会を出てからの顔。これが一番難しい事です。何故クリスチャンが少ないかは、勿論いろいろな原因があると思いますが、教会顔と世間顔の極端な区別です。わたしは信仰生活60年になりますがいろいろなクリスチャンの方々や牧師・信徒の方々を見てきました。私は決して模範的牧師、クリスチャンではありません。欠けのあるものですが、もし感謝出来ることがあればそれは毎日聖書を読み、祈り、黙想し、誰かにキリストの福音をなるべくかたるようにしています。この2021年使徒181~11節が与えられて特に「この町には私の民が大勢いる」という御言葉を信じて家族友人知己の方々にイエス・キリストの福音を証しようではありませんか。特にコロナウイルス流行のこの時多くの人々が不安、恐れに悩んでいる方にはチャンスだと思います。