榊原紀惠子 のすべての投稿

福音宣教の喜び」2021・6・20説教要旨

朝位真士

今日は1コリント9章1~18節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの9章全体を伝道者の権利と克己。福音宣伝の責任。勝利者の節制と語って、1~3パウロの使徒たること。4~6使徒としての彼の権利と自由。7~15伝道者の生活に関する律法の与える権利と、パウロの自己放棄。16~18彼の福音宣伝の責任と報い。19~27真の奉仕と報い。

19~23人をキリストに導くための奴隷的態度。24~27勝利の冠を得るための彼の克己の生涯と分解しています。

1コリント9・1~18節を見て下さい。パウロには、使徒として教会からの供給を受けて生活し、また他の使徒のように妻を持つ権利と自由があるはずであり(4~5)、天幕造りをして働きながら自給伝道をする必要はないはずであった(6、使徒18・3)。福音を宣べ伝える者が福音によって生活することは当然の事であり(14)、伝道者が信者から物質上の供給を受けることは当然の権利であり、霊の恵みを与えて肉体に必要な物をもって報いられることは決して分に過ぎたことではない(7、11)。これは律法の示す権利であり、神の定められた道である(8-10、13,14)。けれどもパウロはこの当然の権利さえ放棄して、天幕造りの労働をしながら、伝道したのは、福音の宣教の業にいささかも妨げにならないようにとの心からであった(12,15)。パウロが福音宣教のためにこれほど大きな克己犠牲の生活を送った精神は、私達すべての伝道者が見習わなければならない。伝道者が当然の権利を用いずに、

克己犠牲の生活を送って奉仕に専念し、信者は聖書の命じるように伝道者を敬い尊び、その労をねぎらい、豊にそれを報いる心があってこそ、教会は進歩し、強固に発展するのであります。パウロは、福音宣教の大使命のために選ばれ、主に捉えられたものであります。好むと好まざるとにかかわらず、その責任を免れることはできない。熱心に宣べ伝えたからといって誇るべきことはなく、怠れば実に災いであるという(16,17)。彼はそのために使徒としての権利を用いないばかりか(12)、むしろすすんですべての人の奴隷となった。それはできるだけ多くの人を主に導くためであると言っています。この9章1~18節はパウロの誇りを語っています。16節を見て下さい。「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、わたしがどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」と言っています。つまり福音宣教は神によって課せられたパウロの義務であったのです。このように、パウロが使徒であることの証拠は、彼のあり方そのものに現れていますが、特にキリストの福音宣教を神から委託されていること(17)と、「私の働きに実」(1)であるコリント教会の存在であった。

結び

もう1度8・15~18節を見て下さい。

パウロは生活の料(しろ)を得るためでなく、ただ福音を伝えた。しかし、福音を伝えること自体を別に誇っていない。何故ならば、それはパウロにとってやむにやまれないことであったのである。彼は、神によって、福音宣教のために捕らえられていた(フィリピ3・1から11節p364)もしそれを怠るならば、神の御心に反し、自分の使命に不忠実となる。そうなれば実に災いである。こうして、狂える者のように、ひたむきに伝道の業に励んだのである。パウロは物質的報酬を受けずに伝道した。それでは、伝道には、何も報いはないかといえばそうではない。伝道それ自身が報いである。そして他人に経済的負担をかけずに働くことの中に、大いなる誇りがあり、喜びがある。彼が求めたものは、物質的援助ではなく、福音宣教からくる内なる喜びであり、高い誇りであったことがわかります。最後に付け加えておきたいことは9・4~9節を見て下さい。パウロはここに1つ1つ権利を挙げています。1・教会より経済的支持によって生活することをさしています。2・妻帯の権利をいっています。3・

第1のものを別の言葉でいっただけであります。パウロ自ら天幕造りをしながら伝道した(使徒18・3)働く伝道者に、権利のあることを裏書きしています。伝道者が教会より経済的援助をうけることは、むしろ当然ありますが、パウロはあえてその権利を使用しなかった。旧約聖書申命記25・4引用ですが、牛でさえ、働く時には、食を得ることが出来る。それが神の律法であるならば、神の為に働く人が、その報酬をえることは当然といわねばならない。

けれどもパウロは自給伝道したのであります。それは個人によって色々です。私の場合は九州では会堂建設のため妻フミ子牧師が音楽教室をしてその月謝を会堂献金に献げました。皆さんも会堂建築のため信者の皆さんが多額の献金を献げられたのです。そして今日このような立派な音響装置の完備した礼拝堂でチャペルコンサートーに岸先生やベアンテ先生や高田先生などの音楽関係のプロの方々をお呼びすることが出来て感謝です。

2021/6/20 週報メッセージ

聖書を読もう                                                       朝位 真士 

  私は毎日、詩編と箴言とコヘレトの言葉を拝読して、大変恵まれています。リビングバイブルの解説(緒論)には次のようにあります。人はどのような思いも神の前にさらけ出すことができ、神はそれを祝福されます。本書には、悲しみと喜び、怒りと平安、疑いと信仰、悔い改めと賛美などが表されています。また過去の回想、現在生きていることの苦しみ、輝かしい未来の幻もあります。多くの箇所で、神から遣わされる救い主イエス・キリストの受難や栄光の姿が示唆されています。

 「詩編」と日本語に訳されているヘブル語は「テヒリーム」で、その本来の意義は「賛歌」です。英語のPsalm は、ギリシャ語訳(七十人訳)からきたもので、新約聖書にはこの名称が使用されています。ルカ20・42「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで』と。」ヘブルの正典においては、詩編は「諸書」(ケスービーム)と呼ばれる第三区分の最初に位置しています。

 次に箴言は、充実した人生を送るための教訓集です。人々を悔い改めに導く働きをする預言者の教えや、人々の礼拝を導く祭司たちの教えを補うものとして、神から与えられたものです。箴言には、神の知恵とともに、もともと人間に備わっている知恵や常識などもあり、それぞれ日常生活に役立つものです。何世紀にもわたって言い伝えられてきた格言も集められていて、子どもの訓育、社会正義、道徳、行儀作法などについて種々語られています。                                                               

  コヘレトの言葉は、神から離れて平安を見つけようとした人が、そこにはむなしさしかないことを悟るという光のない人生論を展開しながら、人生の疑問に対する唯一の解答を結論づけています。それは「神を恐れ、その命令に従いなさい。これこそ人間の本分です」(12・13)というものでした。この積極的な考えが導き出されるために、神のない生活がいかに不毛かを語っています。

 さあ皆さん、詩編、箴言、コヘレトの言葉に挑戦してみてください。あなたの生活が変化すると思います。 

2021/6/13 週報メッセージ

『日々のキリスト』霊想書を読んで

朝位 真士 

  本田弘慈先生は大変バイタリティーある福音宣教者でした。私は若い頃、本田クルセードで全国を巡回しておられた先生と出会いました。私の父は、北九州のクルセードで信仰の決心をして、山中日出刃先生より洗礼を受けました。また先生は桜ヶ丘教会の献堂式のために色紙を送ってくださいました。「霊に燃え、主に仕えよ。」(ローマ12:1)私は本田先生の力強くわかりやすい福音メッセージをいつも心に留めつつも、なかなか単純明快に福音を説き明かすことができずに申し訳なく思います。

 先生の著書『日々のキリスト』の1月11日付に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と、ローマ10:17が引用されています。また、次のように述べられています。「信仰生活というと、一般の人々は感情的なものだと考えています。また、教会に出席することは教会の雰囲気を楽しむことだと考えています。しかし、信仰生活とは感情ではなく、実は聖書――神のことばである――を信じることです。また、教会に出席する目的は、『みことばを聞く』ところにあります。ですから、私たちの信仰生活は聖書を中心として生活することをいうのです。私たちは毎日からだを養うために食物をとりますが、私たちの精神生活、霊的生活にも霊の食物が必要です。聖書はそれを与えてくれるものです。聖書はまた私たちにとって人生の最良の案内書であり、正確な地図です。私たちはどこに行くのか、何が危険であるのか、どうすれば一番無駄のない人生を送ることができるのか、平和で安全な道は何か等を教えてくれるのです。」

 信じる者は救われる。義とされる。神の子とされる。永遠のいのちが与えられる。審判をのがれる。心がきよめられる。キリストの内住を得る。主のみわざを行う。主が働きたもう。世に勝つことができる。十の恵みがクリスチャンに与えられている幸いを神に感謝しましょう。

「キリスト者の自由」2021・6・13説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント8章全体を通して聖書を見ていきましょう。私の尊敬する米田豊先生はこの8章全体を2つにまとめています。1つはキリスト者の自由。2つは知識より愛。分解(偶像にささげた肉を食べることへの可否について)そして尚4つに分解しています。

1・1~3知識と愛。2・4~6偶像のむなしいこと。3・7~11良心の問題。4・12~13まことの愛。と分解しています。コリント教会に起こった問題は、偶像に供えた食べ物キリスト者は食べてもよいかどうかという問題である。これは単に食べる食べないというだけのことではなく、偶像に対する信仰の問題であって、特に偶像礼拝に直面して生きていかなければならない私達日本人キリスト者にとって実に身近な重大な問題である。当時、偶像に供えられた犠牲の肉はその一部を祭司が食べ、残りは供えた者が自宅へ持ち帰って食べるか、市場へ放出されていた。それゆえ市場ではいつも偶像にささげられた食糧品が売られていた。そのため何らかの形で偶像と接蝕しない肉はほとんど手にはいらないのが実情であった

 さて聖書8・1~13節を見て下さい。ユダヤ人は、偶像に供えられた肉を食べれば偶像に汚されるとして決して食べなかった。この考えはキリスト教にも入り、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者のために定めた4つの禁止事項の中にも「偶像に供えた物」を避けるべきことが教えられている(使徒15・29)p244参照。コリント教会には、偶像に汚されることを恐れ、供え物の肉を食べまいとする人と、偶像の神など実在しないのだから偶像に供えられた食べ物を食べても何の害もないと言って、大胆に食べる人がいた。1~2節を見て下さい。このような知識はやたらに自己中心的で高慢な態度を取らせる結果になりやすい。

パウロは、愛のない知識は建設的ではなく、破壊的であるから、これに愛を加える必要を説いています。4~6節を見て下さい。異教徒が信じているような性質を持つ偶像は実在しない。それらは神ではなく、ただの木片、石片にすぎない。天地万物の創造主であられる

唯一の神以外に神はないのであります。唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私達もこの主によって存在するのです。悪霊や偶像は神でも主でもない。父なる唯一の神と唯一の主なるイエス・キリストだけが創造者なる神であります。7~13節を見て下さい。ここに信仰の弱い者に対する配慮が述べられています。

そこでパウロは教会の信仰の弱い人に対する愛から来る自由の制限を勧めています。13節に兄弟をつまづかせないために、「わたしは今後決して肉を口にしません」というパウロの決意は、弱い兄弟たちに対する実に尊い愛であります。弱い兄弟をいたわるパウロの姿がここに見られます。それはあくまでも、キリストの愛による配慮であります。

結び

私達が何を知っているかというよりも、私達が神に知られているということが大切であり、神を愛する者すなわち兄弟を愛する者(1ヨハネ4・21「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」p446私たちは互いに愛し合い、互いに徳を建てるために助け合い、互いに信仰の進歩を図るために力を尽くさなければなりません。そのためには信仰の弱い信者を躓かせないために、キリスト者自由をも制限しなければならない場合があります。キリストの真理を知っているからといってむやみに人を裁いたり、あるいは議論を戦わせてかえつて人を躓かせるようなことは、神様の御旨を悲しませることであります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げます」私達教会に古く長いお互いはわたしを含めて反省しなければならないことは、新しい方々に対してもっと気を遣わなければならないと思います。

マルチンルターが「キリスト者の自由」とは1言でいえば「キリスト者という者は、すべてのものから自由である、そしてすべてのものに奉仕する」という、たつた2つのことを克明に語っています。そして教会を離れては私共の信仰は無い。これは宗教改革者が徹底的に言った言葉であります。そしてルターは9つのことを信仰と教会について語っています。

1・御言葉によって神を信じない信仰は長続きしない。

2・信仰は心と思いと意志とを1つにする聖霊の一途さを意味する。

3・自らを人間として認める謙遜。

4・自由な隣人への愛。

5・信仰は心に受けてものについて語り、聞いた言葉を言葉に表す。

6・真のキリスト者は言葉は少なく、多く行う、行わない者はキリスト者ではない。

7・恐れなく大胆に信仰を告白し、御言葉を人々に宣べ伝える事はキリスト者の生活について最高のものである。

8・キリスト者のすべての業は、神の賜物であり、恵みである。

9・教会はすべての神の言葉を聖書に照らして検討する。

大変含蓄のある言葉であります。

2021/6/6 創立98周年記念特別礼拝 岸義紘先生「ろばの子に乗る奇跡」

聖書箇所 マタイによる福音書第21章1節~11節 

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

イエスはエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」と言った。

2021/6/6 週報メッセージ

 創立98周年記念礼拝を迎えて

                      朝位 真士 

  今年も岸義紘先生をお迎えすることができて感謝いたします。今年で20回目になります。

 私共の教会は1923年(大正12年)6月1日、初代牧師である板井康裕先生が世田谷区桜新町の自宅で開拓伝道を開始したことで始まりました。1930年、渋谷区栄通りに移転して「祈りの家渋谷ホーリネス教会」と改称。1942年、日本基督教団設立とともに教団に加盟し、「桜ヶ丘教会」となりました。この創立記念礼拝に岸義紘先生をお迎えできたことは、先生のご厚意はもちろんのこと、神様のお導きだと感謝しています。

 先生は東京で誕生し、岡山で生活され、1953年3月キリスト教系高等学校を卒業されました。1959年4月、早稲田大学第二文学部西洋哲学専修科入学。同大学卒業後、聖絜神学校入学・卒業。米国フラー神学大学院世界宣教学部修士課程修了後、Doctor of Ministry で学ばれました。米国ゴードンウェル神学大学より名誉神学博士を授与されました。また先生は国体の水泳選手に選ばれました。そして素晴らしいことに、サックスの名手で、CDを何枚も出されています。今日も新譜のCDをお持ちになると思います。80歳記念アルバムだと聞いております。私は個人的に岸先生を尊敬させていただいております。先生は大変博学、努力家であられますが、本当に自分を全く無にして、キリストの僕として主の御用があればどんな小さな集会でも出かけられます。また大きな教会でも御用され、本当に超教派の集会で活躍しておられます。JTJ神学校の前校長でもあられ、今も責任をお持ちで、信徒献身者のための講義をされ、多くの注解書も出されています。真に現代のキリスト教会でマルチに活躍される先生です。この先生を私共の教会にお迎えできたことについて、先生と神様に大いに感謝を捧げます。ハレルヤ!!

2021年5月30日礼拝メッセージ

朝位フミ子牧師

讃美歌294番 1みめぐみゆたけき 主の手にひかれて この世に旅路を 歩むぞうれしき たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ 4世の旅はてなば 死のかわなみをも 恐れず越えゆかん みたすけたのみて たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ

主題「キリストによる一致」2021・5・30説教要旨

                      朝位フミ子

エフェソ人への手紙について、主イエスの使徒パウロからという

書き出しで始まっています。さて、本書はフィリポ、コロサイ、フィレモンへの手紙

と共に「獄中書簡」と呼ばれてきましたが、この手紙はこの2年の間に、ローマにおいて

書かれたものです。多くの入獄経験をして、福音のために大使の役を果たすことが出来

たのは、ローマでカイザリヤの裁判を待っていた期間であった。といいます。

本論

本日は、エフェソ人への手紙2章11~22節を「キリストによる一致」と題して、主イエス・キリストが異邦人をどのように救いに導き、ユダヤ人と一致させたかを学びましょう。

これを3つに分けてお話をしたいと思います。

Ⅰは2・11~12 かつてのユダヤ人と異邦人との関係

Ⅱは2・13~18 キリストによる和解

Ⅲは2・19~22 神の家族と住まい

Ⅰはかってのユダヤ人と異邦人との関係 2・11~12、11節からいよいよエフェソへの手紙の大テーマの1つ、ユダヤ人と異邦人との問題が展開されています。

  1. 異邦人は無割礼の者と呼ばれていた。
  2. 異邦人はメシヤの希望を持っていなかった。
  3. 異邦人はイスラエル人の社会から除け者にされていた。
  4. 異邦人は約束されたいろいろな契約には縁がなかった。
  5. 異邦人はこの世の中で希望もなく神もない者であった。

確かに、異邦人は神なき者であったために、キリストが来られるまで、絶望を味わっていた。

 Ⅱキリストによる和解2・13~18

13節から、異邦人は「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となりました。一挙に「霊的な神の国」に近づけられ、救い主の祝福の中に入れられたのです。キリストという一人格の出現によって異邦人もユダヤ人も手を取り合うことができたのです。14節に「キリストは私達の平和であります。」

パウロはユダヤ人と異邦人が1つとなり、敵意が平和になったと主張しています。

それはキリスト御自身が十字架上で身代わりとして献げて下さったからです。

「隔ての壁」とは、神殿の境内地の中で、ユダヤ人と異邦人とを分け隔てたシンボルだったのです。キリストによって打ち壊されたのです。

 Ⅲ神の家族と住まい。2・19~22

19節(1)今や異邦人は、ユダヤ人と同じように神の聖なる民の中に含まれた。

(2)異邦人は、部外者であったけれども、今や「同じ信仰」によって神の家

    族に加わったのです。      

 (3)建物です。パウロは、建物の土台は「使徒」と「預言者」である。

教会とは建物の1部分で、キリストは教会を建築する石です。全教会の隅のかしら石はキリストです。

建物は、大きく成長し、建物の中には、神がお住まいになることが出来るように。

結論

 教会の一致は、キリストから来るのです。神と和解した私達は、恐れなく神に近づいて行くことが出来るのです。

私達は色々な所から集まって、教会を形成しています。

神の家族ですからお互いに愛をもってキリストにある一致を基礎として、努めようではありませんか。

2021/5/30 週報メッセージ

教会の働き

朝位 真士 

  先週5月23日はペンテコステ礼拝で、教会の誕生について学びました。教会には、これだけは絶対に欠かせないという三つの働きがあります。それらは神から託されている教会独自の使命です。

 ①世界宣教――「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。』」(マルコ16・15~16)教会はキリストの福音の証人です。神はこの教会に世界伝道を命じられました。キリストを信じ、その救いを体験した人々は、その心の内から溢れでる大きな喜びをもっています。伝道は、その喜びを人々に分かつものであります。福音は喜びのおとずれです。教会はいろいろな事業、運動をします。しかし、その根幹にあるものは、あくまでも福音の宣教です(Ⅱテモテ4・2)。

 ②信仰教育――教会の教育もまた、大きな使命です。神への信仰と聖書の真理を、この世のあらゆる反神的な思想、生活、習慣から守り、また神の恵みを代々に伝えるために、この教育はなされます。そのため教会には教会学校があり、礼拝堂のほかに教育館を建てるところもあります。また、クリスチャン・スクールといわれるキリスト教主義学校(幼稚園・小中高・大学・専門学校など)を建て、宣教と教育を推進しています。キリスト教教育の根本にあるものは「魂の教育」というものです。人間の魂がキリストの愛に触れ感動する教育が、教育の原点であります。

 ③社会福祉――教会はこの地上に置かれています。キリストの愛のうちにこの世との深いかかわりをもち、与えられた神の祝福を共に分かち合うためです。具体的には地域の生活相談をはじめ、恵まれない人々や社会的にハンディを負っている人たちのために、積極的な福祉活動を展開しています(ヤコブ1・27)。(『新キリスト教ガイドブック』より)

初代教会の誕生 2021/5/23 礼拝メッセージ

聖歌539 1見ゆるところによらずして 信仰によりて歩むべし 何をも見ずまた聞かずとも 神のみ約束にたち 歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで 歩めよ信仰により 見ゆるとこにはよらで 3おのが清きを持てちこう エホバの神はまことなり そのみことばを信ずるものに なしあたわぬことあらじ 歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで 歩めよ信仰により 見ゆるとこにはよらで

説教 朝位真士

2021/5/23 週報メッセージ

「人間万事塞翁が馬」の話を聞いて

                 朝位 真士 

  「人間万事塞翁が馬」は中国の故事に基づきます。単に「塞翁が馬」ともいいます。中国北境の塞(とりで)近くにいた老人(塞翁)の馬が胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言いました。やがてその馬は、胡の駿馬を連れて戻ってきました。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言いました。すると胡の馬に乗った老人の息子が落馬して足の骨を折ってしまいました。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言いました。1年後、胡軍が攻め込んできて戦争になり若者達はほとんど戦死しました。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため戦死しなくて済みました。人間は「じんかん」とも読み、「人類」ではなく「世間」を意味します。

 この故事は中国の古い書物『淮南子(えなんじ)』に書かれているようです。この話をユーチューブで山中伸弥博士より聞き、大変感動しました。彼自身の医者として、生物学者としての経験について、ユーモアを交えて赤裸々に語られました。ノーベル賞受賞までの年月を正直に語られたことに、大変共感を覚えました。私達の長い人生で楽しいことや嬉しいこともあれば、不幸なことや悲しいこともあるけれども、何が幸福で何が不幸かは、直ぐに決まるものではありません。嬉しい時には自己を律して、悲しい時には将来必ず幸せが訪れるものと信じて、毎日を明るく元気に過ごしてくださいというような講演内容だったと思います。

  私はこの話を聞きながら、コヘレト3章1~11節を思い出しました。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。……神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」私達はこの世の事柄と同時に永遠の世界を垣間見ることが許されているとは、なんと素晴らしいことではないでしょうか。