2021/8/8 週報メッセージ

新約聖書の執筆次第

朝位 真士 

  日本基督教団発行の聖書事典によると、新約聖書には27の文書が含まれている。ヘブル2・3~4には「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」とあり、ルカ1・1~2には「わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって御言に仕えた人々が伝えた」とある。これらの「はじめに聞いた人々」「最初から親しく見た人々」は、それらの見聞や経験を直ちに書きあらわそうとはしなかったようである。それにはいくつかの理由が考えられる。当時においては、第一にイエスの霊が彼らの間に生きて導いてくださっているとの信仰があり、第二に彼らはイエスの目撃者であり、イエスの記憶が新たであったし、第三には、この世は間もなく「過ぎ行く」であろうし、キリストの再臨は迫っているとの信仰があったからであり、第四に、すでに当時存在しており、また読み慣れていた旧約聖書が初代信徒にとって神の言であって、その中にイエスの預言と事実を発見していたのであるから、それ以外に別な文書を書きあらわす必要を感じなかったわけである。もっぱら口伝えに「証し」をし、福音を「宣べ」つたえていた。

 この点については、ドッド(C・H・Dodd)が、使徒行伝のはじめに記してあるペテロたちの説教やⅠコリ15章のはじめなどから総合して、当初の「証し」はイスラエルに対する神の約束が今や成就した、ダビデのすえから待望のメシヤ、ナザレのイエスが到来したのだと語る。彼はよき業をなし、力ある奇跡を行ったが、神のみむねにより十字架につけられた。しかし、死人の中からよみがえらされ、神の右に座するに至り、やがて栄光のうちにあらわれて世を審きたもう。ゆえに人々は悔い改めて、罪のゆるしのために洗礼を受けるべきである。これがケリグマの内容であった。