「主に結ばれた者達」2020・11・29説教要旨

朝位 真士

序  

今日はローマ16・1~16節を通して聖書をみて行きましょう。この16章は模範的信者。忠実な牧者の心。分裂の霊に働きと征服。1~2女執事フェベの推薦。3~16諸聖徒によろしくとの個人的挨拶。17~18厳粛な警告。19~20推賞と祝祷。21~24伝言と祝祷。25~27頌栄。となっています。プリスカとアキラの夫婦(3)は、天幕造りを職業とする信徒であるが、御言葉に通じ、恵みの経験に深い人たちであります。(使徒18・2,26)。パウロも天幕を製造しながら、自給伝道をしたことがあるので、彼らと同業であるため一緒にいたことがあります。そして、いつ頃わからないが、2人はかって身命を落としてパウロをかばったことがあります。それ故パウロはここで、(わたしの命を救うために、自分の命を救うために、自分の命を救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである)と言って感謝し、なおこの異邦人への使徒を救ったために(異邦人のすべての教会も感謝している)と言う(4)。2人は実に文字通り「兄弟にためにいのちを捨てる」愛の人であった(第1ヨハネ3・16)。更にこの夫婦は、至る所で家庭を開放して家庭集会を開いたらしく、恵まれた彼らの家庭が中心となって、信者が集められ集会所すなわち教会となった。(彼らの家の教会)とはそれを言う(5)。彼らは御言葉には詳しく、深い経験に進んでいたので、聖書に精通し、雄弁で熱心な伝道者アポロを自分の家に「招き入れ、更に詳しく神の道を解き聞かせ」て、更に深い経験に導いたことがあり(使徒18・24~26)、また命がけで兄弟を愛し、伝道者を守り、伝道心に燃えていた。まことに模範的な信者であります。

ローマ16・1~16節を見て下さい。ここに一人一人への懇切な挨拶には、大いに教えられる。ヨーロッパ大陸をまたにかけての巡回伝道者パウロが。1地方の信者個人個人の名をあげ、勲功や自分に対する親切などを1つ1つ記して、安否を問う。なんという愛の心であろう。パウロでさえ一人一人を覚え、それぞれの奉仕を忘れなかったのであれば、まして主がお忘れになるようなことはないと言うことを教えられる(へブル6・10)。パウロは、信者個人個人をつねにその心に刻んでいたことがわかる。これが忠実な牧者の心である。ここにひとりびとりのいろいろな勲功があげられている。共に働く(同労者)(3)、(自分の首をさえ差し出し)生命をも提供して捨て身になって尽くす援助者(4)伝道者のために(一方ならず労苦した)世話人(6)獄まで伴い(一緒に投獄された)忠実な同族の者(7)、(キリストにあって練達)な者(10)、(主にあって労苦している)女達(12)など私達もこのような奉仕と生涯において、主に推賞されるものになりたいです。ローマ16章は、初代教会における信徒相互の交わりが、いかに深く広いものであったかを、生き生きと示すものであります。パウロは未知のローマ教会宛に、キリスト教信仰の核心を記した長い手紙を書き送りましたが、その終わりに、自分の知人の1人1人の名を挙げて、心からの挨拶を書いたのであります。

結び

このパウロの挨拶から、初代教会の特徴をいくつか示されています第1・当時の教会には、差別と並んで女性や奴隷の名が多くみられることであります。「フェベ」(16・1)、「プリスカ」(16・3)、「マリヤ」(16・6)など、女性名が多く出てくることは、女性を男性と等しく考えるのが、キリスト教の大きな特徴であったことがうかがえます。また「フェベ」(16・1)、「アンプリアト」(16・8)、「ペルシス」(16・12)などは奴隷に多い名前でありました。さらに「アリストプロ家の人々」(16・10)、「ナルキソ家・・・人々」というのは、その家に属する奴隷のことでありました。これらの女性や奴隷は、当時社会においては男性より低い地位に甘んじなければなりませんでした。場合によっては人権も認められませんでした。しかしキリスト者は神の前ですべての人間が同一であることが知らされ、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて1つだからです」(ガラ3・28)と言う確信を持っていました。キリスト教は人間ひとり1人に対する神の愛を知ることによって、差別を廃止、人間を解放したのであります。

第2パウロはこれらの主にある兄弟姉妹たちの名を記すに当たって、「愛する」という言葉を何度も用いており、またその人達が人々のために「非常に苦労した」(16・8)ことを教会全体が特に覚えるように促していることが注目されます。「わたしの愛するエパイネト」(16・5)、「主に結ばれている愛するアンプリアト」(16・8)、「わたしの愛するスタキス」(16・9)「主のために非常に苦労した愛するペルシス」(16・12)、キリスト者は自分の使命を果たす時に、誰もみてくれ図、理解してくれなくても「神知りたもう」、「神は御心に留めて下さる」ことを信じて、自分の道を進みます。1コリ15・58節を見て下さい。p323です。第3に注目されるのは16・13節の「ルフォス、およびその母」であります。マルコ15・21節p95ルフォスはキレネ人のシモンの子であった。シモンは、キリストの十字架を負わされた、それがきっかけとなって、自分の家族がキリスト者となり、

ルフォスの母、すなわちキレネ人のシモンの妻は、使徒パウロから「彼の母は私にとっても母なのです」と感謝されています。このようにパウロはローマ16章において、美しい信徒の交わりを思っています。