2025/4/13 週報メッセージ

主イエスの尊い受難をおぼえる

川﨑 信二

受難節の典礼色は紫色で節制や悔改めを表します。ちなみに待降節も紫色で「待つ」という準備期間となります。

復活日礼拝の前週の日曜日は「受難週」または「棕梠の聖日」(枝の主日)と呼ばれます。受難週の木曜日は十字架の前日で「洗足木曜日」と呼ばれ、最後の晩餐の夜です。桜ケ丘教会ではもより教会受難週礼拝に参加し、今年は千歳船橋教会で共に祈りを捧げます。

金曜日は主の受難日または受苦日、「聖金曜日」と呼ばれ、主イエスの受難に思いをはせる日になっています。

 土曜日は暗黒土曜日。「聖土曜日」と呼ばれ、「陰府にくだり」と告白されているごとく、主がどん底まで降りてくださったことを、この時に改めて覚えたいものです。

 主の十字架は聖餐式と深く関わっています。聖餐は、パンとぶどう液とをもって行う聖礼典です。主は十字架上でご自身の肉を裂き、血を流して私たちを罪から贖ってくださいました。パンは私たちのために裂かれたキリストの身体を現わし、ぶどう液は私たちのために流されたキリストの御血を現わすのです。その十字架の死を前に主は弟子たちと食事をともにし、ご自分の死を象徴してパンを裂き、ぶどう酒を分けられた。これが聖餐式の起源です(Ⅰコリント11:23-31)。

 また、復活された主が弟子たちの前でパンを裂かれた時、その様子から弟子たちは十字架の意味を悟ったのです(ルカ24:30、31)。

弟子たちは主が生前にくり返し十字架の死を予告されていたのにそれに気づくことができませんでした。

 その悔いから、くり返し聖餐を行うことで主の救いの恵みを記憶に留めることに努めてきました。

私たちも主の愛と、私たちの罪を忘れないよう、十字架の主を仰ぎつつ歩ませて頂きたいものです。

2025/4/6 週報メッセージ

教会規則(案)の学び③ 未陪餐会員

川﨑 信二 

第11条① 聖餐にあずかる資格のある信徒を陪餐会員、聖餐にあずかる資格のない信徒を未陪餐会員とする。

② 礼拝に出席し、献金そのほかの教会員としての責任を負う信徒を現住陪餐会員、それ以外の信徒を不在会員とする。

③ 不在会員であって、3年以上所在が不明である者、ならびに3年以上礼拝に出席せず、教会員としての責任を負わない者は、役員会の議を経て、別帳に移すことができる。

④別帳に移された後、相当の期間たってなお教会との関係が回復されない者は、役員会の議を経て、除籍する事ができる。

 

 未陪餐会員は前回述べたように、幼児洗礼を受けて信仰告白式を終えていない方のこと言います。未陪餐…すなわち、まだ聖餐式に与れない会員のことです。幼児が成長し、罪を自覚し、自ら信仰を言い表す可能性がある場合は末陪餐会員ですが、例えば知的障がいの重症度によって、また末期的な病状で自ら告白できない場合の洗礼においては、保護者や家族の信仰により教会役員会の議を経て、陪餐会員となり得るのです。個人が告白できない時、民の信仰が問われます。すなわち教会の信仰が問われるのです。

 聖書では、家族ごと救う記事、神の民の一員としての信仰が示されています。

 ヨシュアが「わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア24:15)と告白したように神の家族(教会)の信仰です。

 パウロとシラスが獄中にて看守の求めに「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と勧めた時(使徒16:31)、「…自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(同16:33)。この家族の中に乳児もいた、あるいは認知症を患う年長者もいたかもしれない、という解釈です。

 信仰は、個人と神との関係が基本ですが、世帯主や家族が告白する、代理の信仰があり得るのです。友人や周囲の人の信仰によって主の前に連れて来られる例が聖書に出てきます。

4人の男たちが中風の人を運んできて、屋上から天井を破って病人を主のもとにつり降ろした行為を主が「信仰」と見なし癒してくださいました。病人本人の信仰ではなく、友達の熱意です。「身代わりの信仰」です。

 危篤の病床で準備会をする時間がない時、教会の信仰によって洗礼を授けられることがあるのです。

2025/3/30 週報メッセージ

教会規則(案)の学び② 幼児洗礼

川﨑 信二

第7条① この教会の信徒を父母とする幼児は、父母の申し出により、役員会が承認した上で、父母の信仰にもとづいてバプテスマをおこなう。

 ② この場合、本人が信仰を告白できるようになった時、信仰告白式をおこなう。

③ 信仰告白式をおこなう場合の手続きは、バプテスマの場合に準じる。

第8条① 聖餐にはバプテスマを受けた信徒があずかるものとする。

 ② 幼児バプテスマを受けた者は、信仰告白式をおえるまでは聖餐にあずかることができない。

 

 本教会の伝統では馴染みのない「幼児洗礼」について、です。

幼児洗礼は、信仰者の保護の下にある幼児が、神の恵みの契約によって教会に招かれている、という信仰に基づいて行われます。教会役員会は、親あるいは保護者の信仰による願いにより、親あるいは保護者を試問し、幼児洗礼の執行を決定します。教会と保護者は、幼児を、聖霊とみ言葉の働きの中で養育する責任を負い、幼児が信仰告白に導かれ、陪餐会員として教会に連なることができるように祈り続けます。

 幼児といっても物心のつく前ですから生まれて間もない頃に受洗するのがふつうです。教会として小児会員(未陪餐会員)として受け入れます。

私は1歳7ヶ月の時に弟と共に福岡県の羽犬塚教会で幼児洗礼を受けています(司式・酒匂春美牧師)。覚えていませんが…兄も妹も、父や叔父・叔母たちも、祖父も、従兄妹たちも幼児洗礼を受け、その後、全員信仰告白に至っております。

 主イエスは最後の晩餐にて弟子たちの足を洗われました(ヨハネ13章)。主は「わたしのしていることは、今は分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。自覚のない受洗です。やがて、分かった時に罪の自覚(裏切りを悔改めて)と共に、信仰を告白し、主に従う者とさせて頂くのです。

 幼児洗礼は祝福式とは違って、父・子・聖霊の名による水のバプテスマです。後に公に信仰を告白して現住陪餐会員となります。その際に再度受洗はしません。告白のみです。洗礼は1度きりの恵みだからです。

 親の信仰とは、親が連なる教会の信仰のことです。それは民の信仰であり、神の家族としての信仰であり、教会が担う、祈りの責任のことです。

2025/3/23 週報メッセージ

教会規則(案)の学び① 教会の信徒

川﨑 信二 

教会役員会にて教会規則案が決議され、4月27日の教会総会に議案として提出されます。内容は教会員に配布されていますので事前にご確認ください。この規則は日本基督教団教規(準則)に基づくもので、いわば教会に必要な最低限のものが定められています。

既に宗教法人規則(世俗法)をもっていますが、教会規則は教会法といって信仰の事柄を扱っています。これは国家権力でさえも介入できない教会のアイデンティティなのです。今回はその中で重要なものを取り上げます。

第2章 信徒

第5条 この教会の信徒は、バプテスマを受けてこの教会に入れられた者、および転入会を承認された者をいう。

第6条 バプテスマを受けることを志願する者は、役員会が信仰の試問をおこなって、承認した上で、礼拝においてバプテスマをおこなう。

 バプテスマは洗礼のことです。復活の主イエスは使徒たちに「あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」(マタイ28:19)と命じられました。

最後の晩餐で、弟子の裏切りに対する十字架の死による赦しと救いを主ご自身が示されました。ですから、罪を悔い改めて信仰を告白するのです。受洗は主の弟子となることを意味します。罪を自覚することが受洗の前提となります。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ローマ10:9-10)

 まず、心で主イエスを神であると信じること。そして神と人との前で公に信仰を言い表すこと。洗礼は神の業ですが、人の意志を神が用いて下さいます。

洗礼はイエスの受難と復活と関わっていて(ローマ6:3-5)、

主イエスが流された水と血によって罪が赦されるという理解になります(ヨハネ19:34)。教会員は復活された主の体(教会)に繋がる者となるのです。

2025/3/16 週報メッセージ

受 難 節

川﨑 信二   

 教会暦では受難節を過ごしています。日本基督教団では受難節または四旬節といい、カトリックでは大斎節と称し、主イエスの十字架の苦しみを覚える期間を指します。

今年は3月5日(灰の水曜日)から4月19日(主の復活日の前日)までの46日間となります。これは日曜日を除く40日間であり、ゆえに四旬節ともいう訳です。日曜日は主の復活を記念する祝祭日ですので「受難」から外されています。この期間を少しでも主の苦しみに倣い、断食をしたり、酒を我慢したり、各々の自由な信仰的判断で節制して過ごします。中世の頃は義務的な節制でしたが近代以降は自らの選びにより自粛する教会が増えました。教派によってはこの時期は結婚式を控える教会もあります。

「40」は特別な準備期間を示す数字です。モーセは出エジプトのあと、民と共に40年荒野を彷徨っています。約束の地に入る準備期間という意味付けです。

主イエスは公生涯の前に40日間荒野で断食されました。教会は歴史において、復活日の前の40日間を準備期間としてイースター当日に受洗する伝統が生まれました。洗礼を直ぐに受けさせるのではなく、準備期間を経て、晴れて喜びの日を迎える。それは主イエスに倣う、という背景があるのです。

 私は、日本語の「受難節」という言葉がその意味をよく表していると思います。主イエスが十字架で苦しまれたことがはっきり示されていて、そのことで私の罪の赦しと救いのためであることが分かるからです。

英語では「レント」(Lent)という語が用いられますが、この言葉は元々ゲルマン語で「春」を表します。「受難」と「春」とではだいぶニュアンスが違ってきます。

以前のこどもさんびかにこんな歌詞があります。

「小さい命が土の中。外の寒さに負けないで、虫も蛙も待っている。春が来るのを待っている」(詞/佐伯幸雄/1979)

 忍びつつ待つ期間、という意味ではレントよりも受難節が適しています。響きは横文字のほうがカッコ良いのでしょうが、意味が伝わりません。言葉の使い方はともかく、主がこの私の罪のために十字架で磔にされ、肉を裂き、血を流され、惨めな死を遂げられたことを忘れないように、この時を過ごさせて頂きたいと願わされています。

1923年6月1日創立