「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2022/10/9 週報メッセージ

神の愛と赦しの眼差し

朝位 フミ子 

  福音書には、主イエスが徴税人のレビを弟子として選んだ召命物語があります。同時代のユダヤの人々から嫌われる仕事をしていた徴税人のレビを、主イエスが彼の過去や現在の姿を見たのではなく、レビの未来の姿を見て、将来弟子として頑張っている姿を期待して、弟子に選んでくださったのです。主イエスの「わたしに従いなさい」(マタイ9章9節)と言われた言葉に、レビは心の底から嬉しくなって、感動して、すぐに立ち上がってイエスに従っていくことができたのでした。

 10節には、その後のことが描かれています。ここには、罪人と一緒に食事をする主の姿が描かれています。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(10節)実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのです。驚くことに、他の徴税人や罪人たちも大勢、イエス様の所に集まってきたのです。ある説教者は、主イエスには権威があり、雰囲気がよかったから、人々が大勢ついてきたのだと言います。イエス様はいい人だったから、皆がついてきたのだという人もいます。しかし、イエス様の雰囲気がよかったから、いい人だったから、徴税人や罪人がついてきたわけではありません。

  主イエスは、神様と同じ眼差しをしっかりと受け継がれています。神の眼差しは、人間の人を見る眼差しとは違います。神の眼差しは、その人の過去を見ないで、未来だけを見てくれるから、罪人や蔑まれている人も皆、喜んでイエス様についていきたいと思ったということです。主イエスの所に行くと、過去を見ない、ダメ出しをしない、人を裁かない、罪を咎めない。イエス様の所には、優しさがあり、愛があり、そこに罪を赦す神がいたからこそ、皆喜んで主イエスについていくことができたのです。私たちも礼拝の中で、神の愛と赦しに触れたいと思います。

2022/10/2 週報メッセージ

御言葉を聞くと、心が明るくなる

朝位 フミ子 

  出エジプト記6章で、神様はモーセとイスラエルの人々に、私は必ずイスラエルの人たちをエジプトの奴隷の中から救い出し助けると、力強く約束をしてくださいました。モーセはここで、神の言葉を聞くことができました。モーセは暗い心から、明るい心になりました。

 しかしモーセとは違って、イスラエルの人々の心の中は暗いままでした。彼らはエジプトの奴隷の苦しい生活の中で、生きる元気を失い、心の中が暗かったのです。だから、どんなに力強い神の御言葉が語りかけられても、それを聞くことをしませんでした。神様の御言葉を聞くことができなかったので、イスラエルの人たちに神様の力が与えられることはありませんでした。たしかに辛い生活の中にいたのだけれども、神様が一緒にいてくださるから大丈夫だ。神様がきっと助けてくださるから私は生きる希望を失ったりはしない。どんな大変な時も、神様に助けていただいて、神様についていく、とはならなかったということです。

 このことは、私たちにも本当によくわかることなのではないかと思います。上手くいかなくなると、私たちは元気を失い、今私たちを励まし、救いへと導くために語りかけてくださるのに、神の御言葉を聞くことができなくなってしまうことがあります。ところがです。今日の物語で、イスラエルの人々は神様の御言葉、神様のお話を聞くことができなかったのに、それにも関わらず神様は、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」(13節)と言われました。どんなに今、お前たちが私の話を聞くことができなくても、私は必ずお前たちを苦しみの中から助けるよ。神様がそう約束してくださったのです。私は必ずやるよ。お前たちを苦しみの中から助けて救うと、はっきりと約束して語りかけてくださったのです。

2022/9/25 週報メッセージ

荒れ野を旅する神の民である教会

朝位 フミ子 

  モーセの時代に、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から神の導きによって救い出されます。イスラエルの民は、葦の海を渡り、エジプトから完全に逃げ切ることができました。しかし、神によって無事に海を渡り、救い出されたイスラエルの民がすぐに導かれた場所は、約束の地ではなく「荒れ野」でした。救われたイスラエルの民が奴隷の家から導き出された後、ただちに向かったのは40年間の荒れ野の旅でした。

 聖書の中では荒れ野には二重の意味があって、一つは死と滅びの世界の象徴です。荒れ野とは死の世界であり、苦しみの多い場所です。そこには乗り越えなければならない試練と誘惑のある世界です。特に、主イエスが試練に遭われるのは荒れ野です。それはサタンの世界だからです。荒れ野は、今私たちが現実に生活している場所です。相変わらず苦難があり、試練があり、サタンの誘惑の多い荒れ野です。今私たちは洗礼を受けて救われた神の民として、約束の地、神の国を目指している荒れ野を旅する神の民なのです。

 そして、荒れ野の二つ目の意味は、神の民が神様の救いを経験した場所だということです。エジプトから救い出されたイスラエルの民は、この荒れ野の40年の旅をして、約束の地カナン、乳と蜜の流れる地に入ります。荒れ野の40年こそ、死と滅びの世界でしたけれども、神様が共におられて、神様にしがみついて旅をして、神様との交わりを深めて、神との結びつきを強くすることができました。だから、荒れ野で信仰を飛躍させて、成長させることができました。荒れ野が、神様から離れたら生きてはいけない所だったからこそ、神様に必死にしがみついて、イスラエルの民は荒れ野で神と共に生きる経験をすることができたのでした。私たちも、この世の荒れ野を旅する神の民です。祈りと礼拝を大切にして、神との交わりを深めていきましょう。

2022/9/18  週報メッセージ

 出会い 2                                                       

 朝位 フミ子 

  私たちの人生は、主イエスとの出会いによって、大きな力によって、変えられることになるのです。そして、主イエスは、皆さんの人生のある時、ある所で、あなたを待っていてくださる。待ち構えて、その愛の御手で捉えてくださる。そういう出会いが皆さん一人ひとりにもあると思います。

 モーリアックというフランスのカトリック作家に、『イエスの生涯』という小説があるのですが、その小説の終わりのシーンは、あの使徒言行録の、ダマスコに行く途中で主イエスがパウロを待ち構えているというものです。本当に予想もしなかった仕方で、角を曲がった所で、ばったりと出会うように、主イエスと出会うのです。私たちも、出会ってくださった主イエスからの問いかけをしっかりと受け止めていきたいと思います。

 洗礼を受けて、信仰が与えられる者は、神との出会い、主イエスとの出会いが、本当に自分の人生を変えた出会いであったと、そのことがよく分かるのではないかと思います。主イエスと出会い、イエス様の恵みと愛をしっかりと受け止めて歩んでいく人には、主イエスの恵みと愛の力が、私たちの生きる力となって、豊かな人生を導くものになるはずなのです。つまり、主イエスとの出会いが、神の愛の力が、私たちの隅々まで行き渡り、私たちの考え方と行動を深く捉えて、私たちをキリストに従う者に造り変える力を持っているのです。

 洗礼によって主イエスと結ばれて、信仰が与えられているクリスチャン。私たちは、主イエスの恵みと愛の力の大きさを、本当にしっかりと受け止めきれているか? 人生を導くものとなっているか? 私たちを愛の業へと動かす力に至っているかということを、よく振り返ってみると、何とも不徹底であり、中途半端ではないかと思うのであります。そういう意味でも、私たちは、再び礼拝を通して主イエスと出会い直さなければならないのではないかと思わされます。

2022/9/11 週報メッセージ

求めなさい

朝位 憲義 

  私たちは、ただ何でも自分の心のままに「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」という祈りではなく、最も私たちに良いものを与えてくださる神様に信頼して、この祈りを祈ることを、主イエスは教えてくださいました。

 主は、私たちが何を祈り、何を求めて、何を願うのか、こういう風に祈りなさいと、具体的な祈りの姿勢を教えてくださいました。神様が私たちに与えてくださる最も良いもの、それは神様が私たちを愛してくださっているということです。良いものとは、神様の愛のことです。ここで、私たちが神様に「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」と祈り求めるものは、唯一、神様の愛を求めることです。神様は人間の親以上に、私たちに良いものである愛を確実に与えてくださっています。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節)という通り、私たちが天の神に愛を求めたら、神様は必ず私たちを愛してくださっているのだから、私たちも隣人を愛することを積極的に求めなさいと、教えられている訳です。隣人を自分のように愛することができるように、神様に愛を求めて祈りなさい。隣人を愛することができるように、神様に積極的に愛を求めて祈りなさいということなのです。

 神様が与えてくださる良いものは、聖霊であり、神様の力のことです。これこそが、神様の与えてくださる人を愛する力です。隣人を愛することです。あなたが求めるなら、神様は必ず隣人を愛する力を与えてくださる。それは、金持ちになるとか、有名になるとか、頭が良くなるとか、そういうことではなくて、人を愛するということです。あなたが隣人を愛する愛を求めるなら、神様は必ず神様の愛の力で聖霊を送り、あなたの心を燃やして、あなたが人を愛することができるようにしてくださいます。隣人のために祈り、愛し続ける者でありたいと思います。

2022/9/4 週報メッセージ

人からしてもらいたいことを、する!

朝位 憲義 

  「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章12節)この御言葉が、主イエスが山上の説教全体を通して、私たちに何よりも教えたかったことです。使徒パウロも言いました。律法を完成させるのは愛であると。

 私たちが、人からしてもらったら嬉しいことを、あなた方も、それをするんだぞ! と、主イエスから呼びかけられている私たち一人ひとりが、それにお応えしていく、それが私たちキリスト教会の大切な使命であると思います。私たちも、少しでも人に喜んでもらえるように、人からしてもらったら嬉しい事を、建設的な励ましの言葉を語る、心が明るくなる事を、私たちも人に幸せを届ける、小さな良い事を少しずつでもしていきたいと思います。

  そして何よりも、神様がイエス様によって、私たちの最もして欲しいことをしてくださいました。本当に困った時に助けてくださる、愛の業をしてくださいました! 神から離れている者を教会に招いてくださり、洗礼の恵みに与らせ、十字架と復活の恵みに与らせて、罪の中から救い出してくださいました。洗礼によってイエス様と一つに結ばれ、生きていても死んでいても、これからも永遠に変わることのない、神の愛の交わりの中に加えてくださいました。神と共に生き、良い実を結ぶ人生へと、人を愛する人生へと私たちを導いてくださいました。そして、これからも導いてくださいます。

 私たちが人生に躓き、悩み、本当に困っている時には、神に祈り礼拝する時に、手を差しのべて、神の愛の中でしっかりと捉えていてくださり、助けてくださいます。それが父なる神の、イエス様を通して私たちにしてくださる救いの恵みです。それは、私たち一人ひとりに対する神の深い慈しみと憐れみの故に、なされたことでした。私たちも、少しでも恵みに応えて、他の人に愛の業をしていきたいと思います。

2022/8/28 週報メッセージ

朝位真士牧師 召天・葬送告別式

朝位 憲義 

  桜ヶ丘教会の主任牧師、朝位真士牧師は、2022年8月22日午前3時、悪性リンパ腫のために78歳10ケ月で召天しました。

 朝位真士牧師は、北九州復興教会曽根教会で19年間、桜ヶ丘教会で28年間、47年間の伝道者の生涯の中で、大切にしていたことは、毎日の祈りによって神との交わりを大切にする、祈りの人でした。また、朝位真士牧師は、今、目の前にいる、一人の人を、ただ一途に愛することに力を注ぎました。病床の中で、朝位真士牧師は「一人の魂のために、永遠の命に導く、そして、一人の魂が、イエス様の所に行くように、祈り、愛し関わることが、伝道者として本当に大切なことである。」と熱く語っていました。

 朝位フミ子牧師は、朝位真士牧師を一言で言うと「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ一・5章16~18節)その御言葉通り、本当にそのままを生きた人であると証言しています。朝位真士牧師は、人が好きな人で、絶対に人の悪口を言わない人、飾らない人、怒らない人、傲らない人、表と裏のない、正直な人、ありのままの人でした。

 朝位真士牧師が、生涯、祈りの人、愛の人に生きる生涯に導かれたのは、間違いなく、神様が、朝位真士という人を豊かに用いてくださったからでした。朝位真士牧師は、神様から特に愛されて、多くの人々に、愛されて、最後まで、本当に幸せなキリスト者の生涯を歩むことができました。

 朝位真士牧師の厳しい闘病生活の最期は、苦しみながらも、天に召される時には、聖書の詩編23編の御言葉を聞き、お祈りをしている時に、朝位真士牧師の顔を見ると、今までの苦しみが嘘のように、顔が穏やかになり、笑顔になり、安らかで、平安な顔で、すーと、天に召されて行きました。神の国で神と共に生きる人の喜びの顔、平安の顔、安らかな顔でした。天にあって朝位真士牧師の上に、神と共にある平安があるように、お祈りいたしましょう。

2022/8/21 週報メッセージ

 病と信仰                                                                 

朝位 フミ子 

 人間は、誰でも病を経験すると思います。生まれつき元気な人でも、病気がちの人でも、老いと病と死を経験します。病になると、誰でも、神に早く病が癒されることを必死で祈り、求めるのではないでしょうか?

 主イエスの癒しの御手と聖書の御言葉を考え、信仰的に神様と繋がるということを考えていく時に、よい助けになるのは、ヨハネ福音書15章です。主イエスと私たちが一つに繋がって生きていくことをとても分かりやすく書いています。主イエスがお話しになった、有名なブドウの木の譬えです。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

 主イエスに繋がっていく人生は、そこに主イエスとの命の交わりが生まれます。主イエスの愛を直接私たちの心と体の中に注ぎ込んでもらい、力をいただくことができるようになります。主イエスの体の中に流れている愛は、天の父なる神様の愛と同じ神の愛です。洗礼を受けた人は、これからも主イエスと一つに繋がって生きていくことができるので、神の愛を主イエスの体を通していっぱい自分の心と体の中にいただいて、神の力で癒していただきながら、良い実を結んで生きることができるのです。  主イエスと信仰の繋がりのある人は、たとえ今厳しい病の中、試練のどん底の中にいて、心が暗く、深く落ち込んでいたとしても、病との厳しい闘いの中にいても、人間関係の難しい状況の中にいても、神との生きた繋がり、生きた交わりがあるので、主イエスの光がそこに射してきて、神の力によって癒されて元気にされて生きることができるのです。神様との繋がりを固くすることができる場所は、毎週の礼拝と祈祷会ですから、これからも神と繋がる礼拝と祈りを大切にしていきたいと思います。            

2022/8/7 週報メッセージ

人が死んだらどうなるのか?

朝位 憲義 

  聖書の教えでは、キリスト御自身が、人が死んだら復活すると言っています。キリストはその言葉通りに実際に、イースターの祝いの時に、神の力によって、死人の中から本当に復活しました。復活は、キリスト教の信仰の中心なのです。

 人が死んだらどうなるのか、来世はあるのか、ということについては、色々な見方や考え方があります。死んだら無に帰ると考える人もあり、来世はあると考える人もあります。

 聖書は、死んだらどうなるのか、来世はあるのかということについては、あまり積極的には語っていないように思います。その理由は、来世があるかどうかはっきりしない、あいまいだからということではなくて、来世があるかないかということよりも、その根拠として、私たちに向けられている神の愛が、どれほど深く、確かなものなのか、ということを語ろうとするからであると思います。

 新約聖書のローマの信徒への手紙を書いた、使徒パウロも、その手紙の中で、私たちが死んだ後どうなるのか、ということについては、わずかに触れているに過ぎないように思います。それは、死んだらどうなるのかということが、よく分からないということではなくて、今、お話したように、何よりも、私たちをしっかりと捉えておられる神の愛を語る事に集中しているからです。使徒パウロの手紙を読んでいくと、死んだらどうなるのかということについて、使徒パウロに、心配や恐れ、疑いがあったとは思えません。

 私たちを創造された神は、私たちを救われる方、死の力に打ち勝って、主イエスを復活させた神の愛に、安心して、死の後のことはお任せすることができると考えていたのだと思います。それが、使徒パウロが、死後のことについて、多くを語らなかった一番の大きな理由であると思います。このことは、聖書全体に言えることであると思います。

2022/7/31 週報メッセージ

この世にはなくて、教会にあるもの

朝位 憲義 

  聖書の御言葉にこんな言葉があります。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。」(イザヤ書8:22~23)これはイザヤ書の言葉です。この地上には人々の苦悩と暗闇が広がっていると告げています。暗闇は、世の中のあり方、人々の心の中の深い暗闇、深い罪がある事を表しています。イザヤの時代から、現代にいたるまで、世の中のあり様、人々の心の中に、自分よりも弱い者に対して、苦しみを与えていくような、心の闇、罪が広がっているのです。この世の闇、人々の心の罪の問題から、とても逃げ出す術がないように思います。私たち、キリスト者もこの時代、この世に住んでいます。私たちの心の中にも、この時代の精神に影響を受けて、この世のものが多く入ってきます。この世の様々な問題や課題が私たちの心の中にも入ってきます。私たちがこの世に生きているから仕方ないことです。しかし、同時に、私たちは教会で洗礼によって、イエス・キリストを通して、神と一つに結ばれ、神のものにされています。私たちは、神様のものとされてこの世に生きています。だから、私たちは、教会にはあるけれども、この世にないものがあることを知り、この世にないもので教会にあるものが与えられた人として生きなければなりません。それは、神のものとされた神様との深い繋がり、神様との命の繋がり、聖書の御言葉を聞き、祈り、賛美する生活、聖書の教え、福音の価値観によって、私たちが、神様によって救い出されて、神様のいる世界を知り、イエス様の福音の良い知らせによって、心を明るくされて、元気をいただいて、人生を明るく生きることができることを知り、世の中で、あるいは、今、自分が置かれている所に、色々な大変なことがあっても、望みを捨てないで、前向きに生きていくことができるという、この生き方こそが、この世にないものであり、教会には確かにあるものではないでしょうか。