「旧週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2016/4/3 週報メッセージ

   ある少年院での卒業式
                                                               朝位 真士
  私の奉仕しているA女子少年院での中学生の卒業式に出席した。出身校
の中学校校長先生が一人の卒業式のため出席され、出身中学校の卒業
証書を授与された。その後、少年院の院長先生の祝辞、校長の祝辞、卒業
生の言葉があった。少年の少年院での生活の一場面が写し出され、非行
当時の心理状況と現在の心理的変化がうかがわれた。式が終わって一人
のキリスト教教誨師の先生のお話を伺う時が与えられ、大変感動したので
皆様にお伝えしたい。
 先生は長く教誨師・篤志面接委員をしておられる、80歳を超えた温厚な
先生である。少年院の授業でキリスト教的教養講話をしていた時、ある少年
がその話に感動して、少年院を出た後、母親にキリスト教の話をされた。
その少年の母親は感動して、キリスト教を求道して信者となり、教会生活を
送られるようになった。ある時、神様から牧師・伝道者になるように召命を受
けて献身し、某神学校に行かれ、現在は都内のある教会の牧師として御用
されているということである。今もその少年と母親との交流が継続していると
いうことを伺った。
 「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを
見いだすだろう。」(コヘレト11・1)
 「朝、種を蒔け。夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか。」
                                  (コヘレト11・6)

2016/3/27 週報メッセージ

   最近の恵まれた出来事
                                                                                                         朝位 真士
 最近90歳を過ぎた一人の姉妹が召天された。その姉が私に1冊の本をプレゼントしてくださった。『世界最大のもの』(ヘンリー・ドラモンド著、新屋徳治・順子共訳)である。
 
  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシ
 ンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動か
 すほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽く
 そうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求め
 ず、いらだたず、不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
                                                  (コリントⅠ 13章、口語訳)
 
 宗教の世界で最大のものは「信仰」であると言われてきたが、コリントの信徒への手紙1の13章はキリスト教の根源について述べている。そこに「その中で最も大いなるものは、愛である」と結論付けられている。90歳を超えた姉は、教会でも家庭でもいつもニコニコして笑顔で若い者たちに接して、前向きな生き方、愛を実践された。
 もう一人、桜ヶ丘教会の会堂建築の時、献金をしてくださった元歯科医の女性がいる。彼女は90歳を超えておられるが、横浜のホームから毎週タクシーで礼拝に出席されている。お金を神様第一に使用されている。
 私はこの二人の婦人たちの熱心な信仰とキリストに対する愛の行為に大変恵まれ、まず神を第一とした晩年を送り、天国へ帰りたいと祈りながら、二人の姉妹たちと別れた。

2016/3/20 週報メッセージ

   十字架上の7つのおことば                                                              
                                                                                                        朝位 真士
  十字架上の6時間にイエスがお語りになった「7つのおことば」を四福音書から見よう。まず十字架上でヘブル時刻第3時(午前9時)からヘブル時刻第6時(正午)までの3時間に語られた3つのおことば。
 (1)「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」(ルカ23・34、口語訳)
 (2)「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた。」(ヨハネ19・26~27、口語訳)                                                               
  (3)「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23・43、口語訳)
 次に、十字架上でヘブル時刻第6時(正午)からヘブル時刻第9時(午後3時)までの3時間は暗黒と沈黙の時間。主の御苦しみがクライマックスを迎えた最後の瞬間、午後3時に語られた最も重要な4つのおことば。
 (4)「三時に、イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15・34、口語訳)
 (5)「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」(ヨハネ19・28、口語訳)
 (6)「イエスは酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。」(ヨハネ19・30、口語訳)
 (7)「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(ルカ23・46、口語訳)
 3時間の暗黒の締めくくりには、エルサレムの神殿の幕を上から2つに裂く、偉大な最期の祈りがあった。ヨハネには「完了した」と言われた直後に「頭をたれて、霊をお渡しになった」(19・30)とある。
           

3月13日週報メッセージ

ある老牧師の手紙を受け取って
                                                                                                       朝位 真士

  「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4・2)
 最近、私は退任をされる高齢の先生の手紙に大変感動いたしました。先生はいくつかの御言葉を記しておられました。
 「福音を恥としない。……福音は……信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1・16)
  「この方以外に救いはない。」(使徒4・12)
 「十字架の言葉は滅びる者には愚かなれど、救われる我らには神の力なり。」(Ⅰコリ1・18)
  「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。……キリストがわたしを通して働かれたこと……わたしの言葉と行いを通して、また……神の霊の力によって働かれました。」(ローマ15・17)
 先生は御年85歳になられます。「伝道を最優先する教会」を願って伝道してこられました、教団能代教会で
16歳の時に洗礼を受けられ、19歳で献身され、昭和25年(1950年)4月、日本ホーリネス教団東京聖書学院第一期生として入学され、65年間伝道者として生きてこられたことを感謝しておられる先生です。私も九州時代に先生にお会いして、いつも前向きで積極的な姿勢に頭が下がっています。隠退前には母教会の能代教会で大変良い牧会をされて、後任に委ねることになったと文面から読み取ることができました。4月から千葉県習志野市の超教派「祈りの家」の牧師として御用されることになったと、手紙に記しておられた。最後まで伝道者、牧師としての生涯を全うされる御覚悟であることを感じました。先生は一言で表現するならば祈りの人であり、世界宣教にヴィジョンに燃えておられ、海外宣教も実践され、教会の牧者として模範的な先生だと思います。
私もそういう終わり方をしたいと願っています。

2016/3/6 週報メッセージ

   からし種の信仰
                                                                                                           朝位 真士
  「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13章31~32節)
 からし種は聖書で神の国の早い成長と信仰の偉大な力にたとえられている。これは学名クロカラシという植物の種である。パレスチナに野生する1年草で4~6月ごろ黄色の十字花が咲き、やがて黒色の種子をつける。
 その種はケシ粒ほどの「どんな種よりも小さな」(マタイ13・32)ものであるが、一旦蒔くと芽生えて1年もたたないうちに、野生のものは馬の上に乗った人ぐらいの高さになり、栽培種は4メートルぐらいの高さに達し、太さはいずれも人の腕ぐらいになる。実にめざましい成長である。実がなると、鳥がその種をついばむためと休息に、よく集まってくる。種はしぼって油をとり、茎や殻は家畜の飼料となる。(『キリスト教逸話例話集』より引用)
 私は、神学生時代の1971年に故小原順子先生よりこのからし種をいただいた。今も大事に持っている。御父君の小原十三司師は淀橋教会の主任牧師で、当時の校長先生であった方だが、淀橋教会の講壇の左右に「からし種1粒ほどの信仰があるなら」「神には、なんでも出来ない事はない」という御言葉を掲げておられた。
 先日の桜ヶ丘教会の総会は人数が少なかったが、たとえ目に見えるかたちはからし種のように小さくても、そこに主イエス・キリストを救い主と純粋に信じる群れがあるとしたら、「小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という御言葉の通りである。桜ヶ丘教会の将来は決っして悲観すべきではなく、希望と信仰をもって前進したいものである。種に栄光あれ!!

2016/2/28 週報メッセージ

   『かみさまのゆめ』を読んで
                                                            朝位 真士
  私は月1回少年院で講話をしています。その時読んだ『かみさまのゆ
め』という本に感動したので、皆様に紹介します。作者はデズモンド・
ツツ大主教とダクラス・カールトン・アブラムスで、村松泰隆訳、ファ
ム・レ=ウィエン絵で、大変わかりやすい絵本です。
  かみさまのゆめはね たがいに よろこびをわかちあうこと。かみ
 さまのゆめは たがいに おもいやること。……みんなが たがいを
 たいせつに しあうとき かみさまの こころの かけらは あつま
 って、ひとつのものに なるんだ。かみさまの ゆめは わたしたち
 が みんな きょうだいしまいなんだって きづくこと。……かみさ
 まの ゆめは どうすれば かなうかしっているかい?  それは と
 っても  かんたんなこと。わけあったり たいせつにしたり おもい
 やったりするなら。……さあ かみさまの ゆめが かなうように
 てつだってくれないかい? きみに ひみつを おしえてあげよう。
 ……そう きみが てつだってくれるとね かみさまは あの にじ
 のような えがおに なるんだって。
 少し長い文を引用しましたが、私をこの本を子供達に読み聞かせなが
ら、少女達の目の輝きを感じました。教会の中でも、このようなことを
実行できたら、互いに仲良く楽しい仲間になると信じたいと思います。
主イエス・キリストの愛の交わりのある所に実現されると祈るものであ
ります。 

2016/2/21 週報メッセージ

   教会が強くなるために
                                                                      朝位 真士
 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」
                         詩一二六編五節
  わたしは、祈祷会は教会の柱だと考える。素朴は祈りを心の中でかみ
しめ、終わりに一緒にアーメンと言うとき、教会で支えられていると思
う。弟子たちが祈っているところに聖霊はくだった(使徒1,2章)。
聖霊の働きをつくった。我々の教会もつくられていっている。
 長い間教会生活をしていても、み言葉を学ぶ本当の喜びや、共に祈る
ことの歓喜を知らないで過ごしていってしまう人がある。先日の役員会
(2月14日)の中で将来の桜ヶ丘教会の危機的な状況を感じた。役員
会では全員が具体的な課題について心を合わせて祈った。わたしはすが
すがしい気分であった。かつて会堂建設の計画が具体的に持ち上がった
とき、専門家の説明では無理であった。金銭的・人数的には実行が不可
能と見えた。常識的には真に無理であった。しかし当時の役員を始め、
会員の方々が心を合わせて祈った。機会あるごとに祈った。各家庭にお
いても密室の中で祈った。わたしも微力ながら真剣に祈った。また超教
派の集まりの際にも祈っていただいた。会堂建設は完了し、ローンも数
年間短縮して完済できた。
 今度は教会の将来のため、人的・金銭的・霊的に強くなるために祈る
時である。今こそ必要なのは、初心に帰り主の前に心を注いで祈ること
である。皆様も1日1回、教会の強化のためにお祈りしてください。神
の栄光を目指して!!

2016/2/14 週報メッセージ

   受難節(レント)を迎えて
                                                              朝位 真士
  聖灰水曜日という名の起こりは、中世の教会において信心深い人々の
額に灰で十字架の印をつけた習慣にある。この儀式用に焼かれて保存さ
れた灰で、司祭は信徒一人ひとりの額に印をつけた。その時「あなたは
ちりであるから、ちりに帰ることをおぼえよ」という言葉を添えた。灰
は地にあるもののはかなさを象徴するものである。この世の美しさも誇
りもしばしの栄華にすぎず、やがてそれらは夢のように消えていく。ど
んな人であっても、死んだときに残るのはただ一握りの灰だけである。
それはまことに厳粛な死の事実にわたしたちの思いを誘う。人とはつま
るところ「死への存在」である。死は万人にとって必然の運命である。
そしてわたしたちの全生涯は、どのように死ぬかを学ぶことによって、
真実に生かされねばならない。
 受難節はもっと深い意味をもっている。それはキリスト信者がイエス
の苦難と死の意義について深く考えるために、特別に設けられた期間で
ある。灰は死の象徴であると同時に、罪に対する悔い改めを表すもので
ある。主をあれほど苦しめたのは何のわざか。みなわたしたち人間の罪
のせいではなかったか。わたしたちは十字架を見上げて、己が罪の深さ
を悲しむとともに、それをも赦して救われる神の恵みの高さを、主のご
受難の中に味得せねばならない。ただ、このことをなすことによっての
み、この季節を正しくすごすことができるのである。

2016/2/7 週報メッセージ

   「西東京教区研修会」に出席して
                                                                         朝位 真士
  2月1日~2日まで小金井聖霊修道院マリア館にて、旧約学会会長の
並木浩一先生を迎えて1泊教師研修会があった。テーマは未信者の心に
届く福音ー旧約聖書と現代ーであった。旧約聖書が「人間の尊厳」につ
いてどう語りかけるのかというテーマで、並木先生の講義に期待をもっ
て参加した。
 Ⅰ「未信者の心に届く福音」を見据えて現代の課題を考える。(1)現代人
の関心はどこに向けられているか。(2)現代日本はどこへ行く。(3)認識を
適切に導くために神学的な考察を。(4)思想・信条・信教の自由が危機に
晒されている。(5)戦争責任は回避してよいか。(6)国体の護持と国家と宗
教の二元論の排除……
 Ⅱ日本的な心性との対比で読む創造物語。(1)神は世界を創造する。
(2)創造行為は日々に区切りを与える。(3)神の似像としての人間の尊厳。
(4)創造は歴史を外ら見通す。
 Ⅲ終末から現在を見据えた預言者の言葉。(1)終局から現在を見据えた
預言者の言葉。(2)審判の確信の下で変貌する世界。(3)神は人々の意表
を突く。(4)神は諸国民の悪にも真剣に向き合う。(5)イスラエルの罪は人間
感覚の喪失にある。
 最後に先生は「現代にもアモスの時代と同様の非人間的状況が見られる。
日本の経済優先主義は資本主義的な仕方で社会の格差を広げており弱者
に過酷な労働を強要する。支配機構は個々人の良心と尊厳を軽視し儀式に
おいて国家権力の象徴への服従を国民に求めている。……内村鑑三の2つ
のJに向かう課題はますます重くなっている。その覚醒が自ずからなされる
ように福音を語る。それを探索し続ける必要をともに確認したい」と結んだ。

2016/1/31 週報メッセージ

   喜びによる前進
                                                                                                          朝位 真士
  「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126編5節)
 二〇一六年の標語です。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミア8章10節)
 山北先生の『それゆけ伝道ー元気の出るエッセイ100』に出ている「喜びによる前進」という項目に、私は非常に感動したので、著者の許可を得て転記したいと思います。
 
  人間の罪にも拘わらず与えられる神の赦し、破壊にも拘わらず創造、絶望にも拘わらず希望、このことが告
 げられる時、深い感謝とともに喜びが力となってあらわれるのでしょう。
  この喜び、つまり主を喜ぶことなくして、難しい状況に立ち向かう力は出てきませんし、前進はありません。
 伝道にしても人間が頑張ることではなく、主を喜ぶことによってこそ私が新しくされ、力を与えられて前進で
 きるのです。「喜びは祈り、喜びは力、喜びは愛」と言ったマザー・テレサはさらにこうも言葉を続けました。
 「どんなことがあっても、復活されたキリストの喜びを忘れてしまうことの決してないように。喜びの喪失、
 とりわけキリストの十字架と復活の恵みによって私たちが今日あるを得ているとの感謝と喜びに満たされてい
 ない時、私たちの暗さは救いようもなくなること請け合いです。」暗い雰囲気の教会、額にたてジワを刻んだ
 ままのクリスチャン、これが常態ならば、伝道以前の問題でしょう。
 
 私は何か額をハンマーでガーンと打たれた感じがしました。伝道(キリストを伝えること)は、キリストを信じた私たちが、存在を通してキリストを証ししていくのだということです。私たちは身近な人をキリストに導くように祈っていかなくてはならない。今年一人の魂の救いのため「喜びの前進」をしようではありませんか。