「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2022/1/1 週報メッセージ

今年与えられた聖句とその導き

朝位 真士 

  今年はⅠペトロ1章1~12節の御言葉が与えられました。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Ⅰペトロ1・3)

 桜ヶ丘教会が宣教開始九九年目を迎える新しい年に、困難な地である東京都杉並区で、神様は私たちにペトロのように宣教のヴィジョンと信仰を与えられたと信じるものです。もちろんこの業は神様の業ですが、私共一人ひとりが主の手足となって働きたいと思います。2020年からのコロナウイルス・パンデミックの状況で、世相が大変不安な状況にあります。政治、経済、教育の問題、また自然災害が各地で起こり、失業者が多く出て、人間が互いに不安の中にあります。しかし、昔も今も神様の恵みは変わりません。コンピュータやAI等で生活が豊かになった反面、精神的な病気を抱えておられる方々が多くなりました。暗くて不安な時代であればこそ、イエス・キリストの福音が必要だと思います。便利になった反面、人間同士の不信感が強く、親子、夫婦、兄弟同士でも、お互いに信頼し合って、祈りあい助け合わねばならない時だと思います。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリ1・1~18)今こそ神様の御言葉に信頼して祈り、神様から愛されているお互いが助け合って、キリスト者としての証しをするべき時が来たと思います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4・6)

2021/12/26 週報メッセージ

2021年をふり返って

朝位 真士 

  「すべての国よ、主を賛美せよ。/すべての民よ、主をほめたたえよ。/主の慈しみとまことはとこしえに/

わたしたちを超えて力強い。/ハレルヤ。」(詩117編1~2節)

 この2021年は、いろいろな事がありました。日本に目を向けると、地震や暴風雨やコロナ・パンデミックのため、私共の生活様式が変化しました。オンラインでの仕事、産業界や観光業の減少、失業者の続出、病気や自殺者の増加、犯罪の多発。

 そういう中で、私共の教会は少数の礼拝ではありますが、ユーチューブ配信も昨年から継続しています。週報を1週間前に印刷して、教会を休んでいる方々に郵送しています。近くの十数軒の方々には、牧師が訪問して安否を尋ね、お会いできる時には門前にて祝福のお祈りをささげさせていただきます。

 私は超教派の朝祷会に出席して、桜ヶ丘教会のため、また2019年に前立腺癌を発症した自分のために、真剣にお祈りしていただきました。お陰様で今日まで数値は安定しており、主の御用が継続されています。2003年より始めた教誨師・篤志面接員としての少年院の奉仕も毎月継続しています。若い十代の女性に福音をストレートに語っています。私が十代(18歳)でクリスチャンになったお陰で、十代の悩み多い若い女性にキリスト教の牧師として堂々と、国の施設で福音を語ることができています。12月には職員も在院生も出席して、施設全体にクリスマス・メッセージを語ることができて、本当に感謝の一言に尽きません。これも桜ヶ丘教会の皆様の御支援の賜物だと、深く感謝しています。

 主が天国でお迎えくださるまで、イエス・キリストの福音を語っていきたいと思います。迎える年も、神の祝福を切に祈るものであります。

2021/12/19 週報メッセージ

61年目のクリスマスを迎えて

朝位 真士  

  私は、1961年12月24日(日)九州の北九州復興協会で山中日出刃牧師より受洗いたしました。当時、高校3年生で、友人の持田倫生君により教会に導かれました。高校生の特別集会があり、そのまま継続して教会に導かれて、受洗いたしました。キリスト教のことは、あまり深く勉強していませんでした。しかし、御言葉が深く心にとどまりました。ヨハネ3章16節(口語訳)「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉です。当時は人生に悩み、人を信じられない状態でしたが、友人の優しい誘いによってキリスト教会に導かれて、毎週のように通うようになりました。今考えてみると大変純粋な青年であったと思います。教会での青年達の交わりが大変温かく、彼らは真面目な人々であり、教会の方々も信仰的で温かくて優しく、本当に心の底からの居場所でした。教会の青年会の活動や、清掃、夕拝、祈祷会等も積極的に参加して、日曜日の教会生活が大変充実していました。その後、商社に就職し、北九州、福岡(博多)、東京と転勤になりましたが、東京では淀橋教会で小原十三司先生、峯野龍弘先生の御指導を受けて、キリスト教の聖会等にも出席して、1971年、東京聖書学校に入学しました。

 4年の学びを経て、北九州復興教会で19年間、清水会堂と曽根会堂に仕え、1994年4月、家族4人で桜ヶ丘教会に赴任いたしました。その原点は、あの十代の青年の時、教会に導かれ、受洗したことです。受洗したクリスマスの想い出が、まるで昨日の如く感じます。伝道者となって四六年経過していますが、ますます主の僕として、生ける限りお仕えしたいと、毎日早天密室(デボーション)で神にお祈りしています。

 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に。」(伝道の書12:1、口語訳)

2021/12/12 週報メッセージ

「信仰に生きる」説教準備に際して

朝位 真士 

 今日のⅡコリ4章1~18節を通して、聖書を学びました。米田師によれば、全体は福音に仕えるパウロの態度、1~2節、光の中の生涯、3~4節、福音の光の隠蔽、5節、彼の使命と宣言、6~7節、神の証明と奉仕の力、8~15節、迫害の中における確信と覚悟、16~18節、彼の望み、苦難と栄光の比較。

 竿代照夫先生は、1~6節、栄光を現す人と覆う人。5節の後半で「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と語り、三つの要素がバランス良く捕らえられていくことが伝道者にとって大切だとしました。①イエスのため――人間を喜ばせるのではなく、主の喜びを求めることが基本。②あなた方に仕える――自分を低くして、群のために仕える姿勢を示す。③僕――主人として支配せず、弟子の足を洗われたイエスに倣って仕える者となりきること。7~15節、土の器と宝物。16~18節、永遠の希望。人間の肉体は、土の器のように、もろく、弱く、はかない。しかし、活ける主との交わりを経験し、その方が永遠なるが故に、私達もそれにあやかって永遠的な存在とされた。私達は、やがて消えていくこの世の一時の感覚的な者ではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきである。

 ウイリアム・バークレーは、1~6節、くらませられた目で彼はまず自分自身について語る。大きな使命を意識している人は、驚くべきことをやりとげるものである。音楽的天才の創りだした偉大な作品の一つにヘンデルの「メサイヤ」がある。この楽曲はわずか22日間で書き上げられ、その間ヘンデルは食事も睡眠もほとんどとらなかったといわれている。偉大な仕事の持つ不思議な点は、それを遂行するには必要な力が同時に与えられるということである。7~15節、患難と勝利。16~18節、忍耐力の秘密。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。みえるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)

2021/12/5 週報メッセージ

「信仰に生きる」説教準備に際して

朝位 真士 

 今日のⅡコリ4章1~18節を通して、聖書を学びました。米田師によれば、全体は福音に仕えるパウロの態度、1~2節、光の中の生涯、3~4節、福音の光の隠蔽、5節、彼の使命と宣言、6~7節、神の証明と奉仕の力、8~15節、迫害の中における確信と覚悟、16~18節、彼の望み、苦難と栄光の比較。

 竿代照夫先生は、1~6節、栄光を現す人と覆う人。5節の後半で「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と語り、三つの要素がバランス良く捕らえられていくことが伝道者にとって大切だとしました。①イエスのため――人間を喜ばせるのではなく、主の喜びを求めることが基本。②あなた方に仕える――自分を低くして、群のために仕える姿勢を示す。③僕――主人として支配せず、弟子の足を洗われたイエスに倣って仕える者となりきること。7~15節、土の器と宝物。16~18節、永遠の希望。人間の肉体は、土の器のように、もろく、弱く、はかない。しかし、活ける主との交わりを経験し、その方が永遠なるが故に、私達もそれにあやかって永遠的な存在とされた。私達は、やがて消えていくこの世の一時の感覚的な者ではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきである。

 ウイリアム・バークレーは、1~6節、くらませられた目で彼はまず自分自身について語る。大きな使命を意識している人は、驚くべきことをやりとげるものである。音楽的天才の創りだした偉大な作品の一つにヘンデルの「メサイヤ」がある。この楽曲はわずか22日間で書き上げられ、その間ヘンデルは食事も睡眠もほとんどとらなかったといわれている。偉大な仕事の持つ不思議な点は、それを遂行するには必要な力が同時に与えられるということである。7~15節、患難と勝利。16~18節、忍耐力の秘密。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。みえるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)

2021/11/28 週報メッセージ

救いとは何か                                                        

朝位 真士  

  今回は、ジョン・ウェスレーの説教集にある島隆三牧師(前東京聖書学校校長・東調布教会牧師)の論文をご紹介させていただきます。

 聖書においても、救いは広い意味で用いられる重要なことばですが、キリスト教において大切なことは、救いが何よりも神との関係において考えられているということです。「苦しい時の神頼み」式の信仰は、例えば病気が治ったら、問題が解決したら、もうそれでよい、「私は救われた」ということでしょう。しかし、聖書は、そういう人にも「あなたは本当に救われていますか」と問いかけるのです。つまり、救いが人間本位でなく、神本位に考えられているということです。人は誰でも、生まれつき自分本位、自己中心ですから、「自分が救われたと思ったら、それでいい」と開き直るような所がありますが、聖書はそういう自己中心の人間を「生まれながらの怒りの子」(エフェソ2:3)と呼んでいます。「怒りの子」というのは、神の怒り(審き)の対象となるという意味で、そのままでは神の審きによって滅んでしまうということです。私たちは何よりもこの神の怒りから救われねばなりません。

 結論を急ぎましょう。救いも、神が提供して下さっているということです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神は、自己中心でどうしようもない私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをお与え下さり、その十字架の死と復活により救いの道を備えて下さったのです。ここにキリスト教の救いの根源があり、私たちは、その神の救いをただ信じて、お受けするほかに救いはないのです。エフェソ2・8にある通り、私たちは、ただイエス・キリストを信ずることによって神の怒りから救われるのです。『キリスト教神学辞典』の「救い」の項の一節を引用すると「この救いの経験の特徴を要約すれば、人間がそれによってその罪深い自我から生命の新しさと充満へと解放される神の恵みの行為のことである。すなわち救いとは、神の意思とわざとによって、人間のうちにまた人間のためになされる何かである。」「生命の新しさと充満へと解放される」という点を強調したのがジョン・ウェスレーです。

2021/11/21週報メッセージ

 クリスチャン・リーダーシップ                                            朝位 真士 

 最近、クリスチャン・リーダーシップについて考えていた時、『新キリスト教ガイドブック』の中に、聖書が説くリーダーシップについて適切なヒントがありましたので、ここにご紹介いたします。

 魂について熟慮する――聖書に出てくるリーダーシップのギリシャ語に「ヘーゲオマイ」、これは「心を理解する」「魂について熟慮する」という意味があります。相手の心を十分に理解することが必要です。旧約聖書、「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、ご自分のひとみのように守られた。」(申命32:10)ヘブル語で「世話をする」という「ビーン」という言葉が、理解するという意味をもっています。神の教育も理解から始まるのです。リーダーシップをもつ人とは、相手と同じ立場に立ち、その心に触れることのできる人のことです。いいかえれば、心のスキンシップです。すべての人に求められる積極的人生の要素です。人々と関わって参りましょう。

 先に道を備える――リーダーシップを表す聖書の言葉に、もう一つ「プロイステーミ」があります。聖書のみことば、「指導する人は熱心に指導し(プロイスタメース)」(ローマ12:8)とは、熱心さにおいて先に道を備える。「あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し」(Ⅰテサ5・12)では、「主にあって」とありますように、敬虔さにおいて先んじることです。「この人は多くの人を助け」(ローマ16・2)とは、同情において先に道を備えることです。「それは神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです」(テトス3・8)では、善において人よりも先に道を備えることです。

 三つの特質――①明るくあること――明るさの源は、喜びにあります。この喜びは、信仰によって神から与えられる賜物です。②教えられやすさ――これは謙遜の現れです。③否定的精神をもたない――ネガティブ・スピリットをもたないことです。

 私たちはリーダーシップの精神をもって、積極的に人々と関わって参りましょう。                      

2021/11/14 週報メッセージ

某教会の特伝に招かれて

朝位 真士 

  10月31日、千葉の某教会の特伝に招かれました。牧師は神学校を三十余年前に卒業された先生で、開拓伝道をずっと続けておられます。超教派の働きの多い先生です。大変な博学で、大学では地質学を研究されたリケ男です。献身して、働きながら某神学校で4年間学び、卒業して現在の教会で開拓伝道をされて今日に至っています。外側から見ると大変困難な教会に思えるが、当人は喜々として御用に励んでおられ、事務もよくおできになり、超教派の働きに大変積極的です。

 いかに有能な先生でも、そこの教会に使命があったなら、外部からいろいろと言っても関係ないのかもしれないと、私も教師の一人として最近考えさせられます。大教会で多くの人々を救いに導き、大人数の人々を牧会し、有能な働きをして退任するのか、それとも某教会の先生の如く、一人の救いのために生涯をかけて牧会されるのが良いのか、私にはわかりません。神のみが知りたもうのです。とにかく献身して牧師として最後まで主の御用を全うすることが大切です。私もいろいろな牧師を知っていますが、ホーリネスの教師として、日本キリスト教団の教師として、四十数年御用させていただいています。いつも考えていることは、献身者として誘惑に負けないということです。異性と金銭の誘惑に負けて、牧会から退かなくてはならない先生方もおられます。もちろん主の前に悔い改めて再献身される先生もおられます。神様が何年主の御用をさせてくださるかわかりませんが、主が許してくださる間、主の御用に精進していきたいと思います。どうぞ皆様お祈りしてください。私共二人で一人前です。教会の皆様の愛の配慮を期待したいと思います。

 「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28、口語訳)

  「人の心には多くの計画がある。しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19:21、口語訳)

2021/11/7 週報メッセージ

私たちのグループの特色(Ⅰ)

朝位 真士 

 ホーリネスの教会は、その信仰の主題を「四重の福音」すなわち「新生」「聖化」「神癒」「再臨」と表現してきました。「四重の福音」という言葉を初めて用いたのは、アメリカの牧師、A・B・シンプソン(1843~1919)です。1892年、中田重治師は渡米して、当時米国で起こっていたリバイバル運動の中心となっていた「四重の福音」に触れ、自らも聖会において深く取り扱われ、自分のすべてを主に捧げて聖霊の満たしを体験して、「自分の求めてきたのはこれだ!」と確信を持って帰国しました。1901年、神田神保町十番に建物を得、宣教を開始しました。中田師は青山の神学部で学んだメソジストの伝道者でしたが、この四重の福音に触れて、これならよくわかる、キリスト教信仰は人生が「変化する」出来事であると強調しました。

 中田重治の率いるホーリネス教会は救済論に強調点があります。すなわち、聖書の教えは「魂の救い」が中心で、人間の救いは、まず「新生」から始まり、「聖化」の状況に進み、さらに魂の救いは魂に健康をもたらすと同時に、肉体も癒すのだという「神癒」の信仰に至り、やがて歴史の終わりには「キリストの再臨」をもって歴史の完成に至る。その時にわたしどもの姿はキリストと同じ姿に「栄化」されるという聖書の基本的メッセージをストレートに語ったのでした。

  • 新生――罪を悔い改めてキリストを救い主として信じた時になされる経験です。    (ローマ3:21~26、ヨハネ三・三~七、五・二四)
  • 聖化――ガラテヤ2:19には、パウロの深い体験が記されています。
  • 神癒――出15、「われは主にして汝を癒すものなり。」
  • 再臨――世界の終わりに、主イエス・キリストが王として権威を持って臨まれる

      という信仰です。

(『東京聖書学校論集No.2「四重の福音」』より)

2021/10/31 週報メッセージ

詩編黙想

朝位 真士 

  私は毎朝、詩編を素読している。詩編1編1~3節を新共同訳聖書より引用する。

  いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。/その人は流れのほとりに植えられた木。/ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。/その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 米田豊先生の詩編解説によると、宗教的な人民であるイスラエルの昔の多くの詩人の作を、神を礼拝する時に音楽に合わせて歌わせる目的で、後代のエズラが編集した聖歌集であるという。最も古い作者は、紀元前千五百年代のモーセであり、編集者エズラに至るまで千年間にわたる作の内、ダビデのものが最も多く73編ある。全体を通じて敬神愛国の情緒にあふれ、感謝賛美、ざんげ祈祷で調子づけられている。その題目は多種多様で、義人の繁栄、悪人の災禍、人生の無常などを歌った教訓的なもの、神の義、神の愛、神の恵み、神の力、神の栄光などの、神の属性や神の律法、神の摂理などを歌った信仰的なもの、罪の悶えの中よりのざんげ、患難の中よりの哀訴、個人及び国民の上に下されたあわれみに対する感謝などの祈祷に関するもの、イスラエルの過去を記した歴史的なもの、及び救主来臨の希望、ならびにイスラエルの将来の幸福を歌った預言的なものがある。詩編を理解するにはまず著者の歴史的事情と背景を知り、その立場より教訓を学ぶのを至当とするが、歴史的事情の不明なものも多い。

 私は毎朝、詩編を通読させていただいているが、注解書なしに神の言葉を黙想するのは1日の始め、また終わりに大切なことではないだろうか。私の友人のF牧師はこの詩編の専門家であり、いつも彼にいろいろアドヴァイスをいただきながら、詩編を楽しく読んでいる。