「皆様へのメッセージ」カテゴリーアーカイブ

召天者記念礼拝も過ぎて

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写真:K/Kさん提供
2015年11月1日、「召天者記念礼拝」を終えて、12月のクリスマスシーズン到来を感じる日々となりました。
11月8日には第2週の聖日礼拝を守り、いつもの日常的な日曜日を過ごし、月日の過行く様を考えるところです。
戸外では、秋も深くなり、木々の葉っぱが日増しに色付いて、道行くときには、落ち葉を気にするような時節となりました。
過日、日本聖書神学校講演会会報を読んでいましたら、小石川白山教会竹島敏牧師の「献身者の喜び」という記事が心にとまりました。
竹島牧師を存じ上げていないのですが、何か、桜ヶ丘教会の皆様においても、心に少し留めてめていただけると嬉しいなと思い、一部を掲載させていただきます。
「絆とは、無理に結び合おうとすることではなくて、互いの弱さをさらけ出していくなかで、イエスが、時間をかけて結びつけてくださるものなのではないでしょうか。だとすれば、教会においても、互いの弱さをもっと素直に出せるような交わりが生み出せるように、と私は願っています。そのためには、牧師がもっと素直に自らの弱さを出せるようになった方がいいのではないか、と思っています。・・・・私達は、互いに理解しあっているから教会に一緒にいるわけではないと思います。逆に理解できていないから、教会に集まっているのではないかと思います。そして、お互いのことを少しずつでもわかりあいたいと。そのためには、普段の強がりから少し解放されて、少しずつでも本当に弱いままの自分をさらけ出してみよう、と、そういう気持ちになって、教会に集まってきているのではないでしょうか。きっと私達一人一人の弱さを祝福し、互いの絆にしてくださるイエス様の御導きを信じて、私も教会で養われながら、歩ませていただきたいと、それが、私の、一献身者の喜びなのだと思っています。・・・・」
桜ヶ丘教会の朝位牧師、フミ子牧師、両先生は、いつも、「私たちも、失敗してきたの、そして、人間だから失敗もあるのよ」と言われ、私たちの力を抜いてくれます。
教会には、様々な方が来られます。一般組織の理屈や理論ではなく、神様の家族としての理論に基づいて絆を結びつけていただくことが、教会にとって大切なことであると、改めて思う次第です。

10月25日チャペルコンサート

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写真:K/Kさん提供
暖かい秋日和が続き、心も晴れやかに過ごすことができ、紅葉の時がそこまで来ていることを忘れてしまいそうです。
さて、桜ヶ丘教会では、2年前から10月のこの時期にチャペルコンサートを開催しています。
2015年度は、以下の日時です。
10月25日(日曜日)
午後1時から
ヴァイオリン:吉岡篤志氏
ピアノ:村岡紗由子氏
メッセージ:朝位真士牧師
どうぞ、どなた様もご自由においでいただき、芸術の秋にふさわしいひと時を教会でお過ごしいただければと思います。
 なお、10月18日の聖日礼拝の後に、M兄弟とT姉妹の召天を覚え、お二人をしのぶ会を開催することができました。
 婦人会とホープ会を合同で開催し、昼食を取りながら、思い出話などをさせていただき、お二人がまるで同席しているような気分になりました。
私たちは、桜ヶ丘教会が、今後とも主に用いられるように、忠実な主の僕として歩んでいきたいと思います。
桜ヶ丘教会が、十二分に教会としての働きができますように、主に一人ひとりを導いでいただきましょう。背伸びをしようとしても、主がすべてをご存知です。
日々、主に育てていただき、各自、目標を持たせていただき、進んでいきたいと思います。

10月を迎えて

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10月の朝は、秋が深まって来ていることを私たちに知らせてくれています。
さて、10月第一聖日の桜ヶ丘教会では、この夏に2人の信徒の方が天に召されて寂しさを隠せませんが、新たに桜ヶ丘教会の礼拝に御出席になる方も与えられて、少し嬉しく思っております。
また、10月1日の昼の祈祷会にも、新たな方がおいでくださいました。
日曜日礼拝では、高価なナルドの香油をイエスさまの頭に注がれた女の話を通して、最も大切なものを献げることの意味を教えていただきました。
女の注いだ香油は、お金に換えれば貧しい多くの人に施すことも出来ました。
そのことでそこにいた何人かは、女に憤慨して厳しくとがめたとあります。
しかし、イエスは、女のイエスに対する信頼を理解され、女が一生を通じて1回しかないイエスに対する配慮の機会をとらえ、女が十分な愛をしめしたことに、重要な意味があることを諭されたのです。神に対する信頼の行為は、たとい人の目に愚かに見えなんの意味もない無駄なものと思われても、キリストによって意味が与えられるというのです。永遠性を持った行為となると教えていただきました。
ウイリアムバークレーが、この語全体を愛の行為として4つ上げているとのことでした。
1つは、女のしたことは美しい事であった。
2つは、もし愛が真の愛であれば、常にそこにはある種の浪費があるに違いない。
3つは、愛はそれを行う機会がただ1回限りしかないことがあるということを知っている。
4つは、もう一度我々はイエスに破りがたい確信をみるのである。
神様に献げるときに、余っているものを献げるというような事ではなく、大切なものを献げることが重要であるということを、この女の香油注ぎの話から理解できます。
どうぞ、与えていただいている命や時間、財的なものなど・・・・恵みを感謝し、主にささげることを考えたいものです。

敬老感謝の礼拝

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 2015年9月は、敬老の日を迎え、シルバーウイークと称される連続した祝日を迎え、はや最終日が過ぎようとしています。新緑の5月ゴールデンウイークとは異なり、どことなく実りの秋の落ち着きがありますね。
 9月20日(日曜日)の礼拝では、75歳以上の方々に感謝の思いをお伝えいたしました。
 高齢者になると、「1弱ってくる、2退かなくてはならない、3終わりに近づく」という3つのことに直面することについてお話がありました。また、「1整理する、2準備する、3チャレンジする」ということについてもお話をうかがい、高齢期の豊かな人生のあり方とはについて、考えさせられました。
 また、20日の礼拝では、O姉妹の洗礼式が執り行われました。とても静かで、感動的な主のお導きを感じるものでした。O姉妹の穏やかですが、明確に主に委ねて生きようとされている心を感じる洗礼式でした。これまで歩まれてきた人生の中で、泉のほとりにたどり着いた安堵感が満ち溢れていました。
 神様が新たにお仲間を加えてくださり、教会員一同本当に嬉しく思っております。主に感謝するとともに、O姉妹に心からお祝い申し上げ下ます。
 礼拝のお話は、「目を覚ましていなさい」というテーマでした。(マルコによる福音書第13章32~37節) 主の恵みは誰にでも注がれています。恵みを受けて聖霊の実を実らせて行く必要があります。愛の実を身にまとい、平和の主に仕えていくことができるように、絶えず目を覚ましていたいと思います。主は実をつけない木にも、栄養を与え、実をつけることができるように忍耐をもって憐れんでくださいます。
しかし、その日はいつ来るか誰も知らないのですから、私たちは、目を覚まして過ごすことがどのような事なのか、しっかり心に受け止めて、過ごしてまいりましょう。
 

T姉の召天に思う

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 9月3日(木曜日)夜間に牧師先生から、T姉が召天されましたというご連絡をいただきました。
 T姉が筆で書かれた「書(聖書の御言葉)」が、桜ヶ丘教会に飾られていますが、T姉と教会員との数々の思い出は、桜ヶ丘教会のそこここにあります。
 何よりも、私たちの心の中に刻まれております。寂しいですね。教会堂で今一度お会い出来たらどんなにか嬉しかったことでしょう。
 T姉の夫であるT兄におかれましては、とても寂しいことと思います。どうぞ、T家に神様のお慰めとお癒やしがありますように。
 いつも祈りに覚え、T姉が病の中にあっても神様とともに平安の内に過ごすことができるように願ってきました。
 T姉とともに旅行にも行きましたね。
 いつも、とてもしっかりされていました。絵もお描きになり、書もされていました。
 8月にM兄を天に送り、9月早々にT姉が天に召されました。
 お二人とも、桜ヶ丘教会をお支えくださったことを覚えて、これからは、私たちがしっかりと信仰にたって進んでいかなければならないと思います。
 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紬もしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。」
  マタイによる福音書6章28~29

涼しすぎる8月末

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 8月末ですが、急に涼しくなりました。
涼しすぎる昨日、今日ですが、何か少し、寂しさも感じるくらいです。今まで側にいて暑いなあと感じさせていた夏が、一気に姿を消してしまった感じですね。
しかし、残暑は戻ってくるでしょう。
 さて、8月23日の礼拝のお話は、「大きな苦難を予告する」というテーマでのお話でした。
 終わりの日についての予言のお話でした。
 荒らすべきものの出現、苦難の日々、偽キリストの出現という3つのものの出現があると言うことでした。
 激しい迫害の中においても、聖霊の働きによって、宣教の助けがあるということでした。
 この世の混乱において、なすすべもないことが起きたとしても、忍耐の後に、産みの苦しみから喜ばしい将来への開門があると言うことでした。
 イエスをメシアであると告白することが真実の宗教、真実の信仰の印で有り、私たちはしっかりここにとどまり、偽者に惑わされることなく歩いて行かなければならないと教えていただきました。
 日本では、江戸時代においては、キリスト教に対し世界に類を見ない程残酷な迫害の歴史があります。現在は、信仰の自由が保障され、私たちは、信徒として、しっかりと礼拝を献げて過ごすことができています。
 迫害にあった多くのクリスチャンのことを考えますが、自分達も、苦難のときにも主を信じていけるようにと強く感じました。
 また、その日はいつ来るということよりも、日々の闘いであるとも考えられます。イエスキリストによりたのみ、日々を過ごしていけるように賢くありたいと思います。
 

M兄弟の思い出

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 8月17日(月曜日)に、M兄弟(88歳)が天に召されました。
 いつも礼拝をお休みすることなく、奥様と御一緒に出席されていました。また、とても皆様から頼りにされてました。
 寂しさを感じてなりません。教会の会計等運営に関する事などをご心配され、「大丈夫?」とお声をかけてくださいましたこと、本当にありがとうございます。
 これからは、M兄弟の次の世代で頑張っていかなければならないと肝に銘じております。主の憐れみのうちに、今までも何とか教会の試練を乗り越えてきました。
 桜ヶ丘教会の100周年も後8年後です。その事をお伝えし、100周年の記念誌にも原稿を投稿いただけるようお願いしたことを思い出します。
 Mさん、本当にありがとうございました。会堂建設の際も、力強い分析力と確かな資金計画等で、お支えくださいました。
 奥様には、教会の昼食作りのご奉仕を長年していただき、食事会から会堂建設への献金もいただきました。この時も、Mさんのお支えがあってのことと深く感謝しておりました。
 本当に、静かに私たちを見守ってくださっておられましたが、いざというときには、しっかりした助言により責任という言葉を思い出させてくださいました。
 奥様の今後のことにおいては、神様の最善の道が整えられますようにこころからお祈り申し上げます。
 また、お嬢様やお孫さん達、M兄弟のご遺族の皆様に主の慰めがありますように。豊かな祝福がありますようにお祈り申し上げます。
 
 

戦後70年目を覚えての礼拝

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 本日は幾分しのぎやすい暑さの1日でした。
 このところの暑さに関しては、記録的という言葉を何度も耳にしましたが、今日すこし穏やかな暑さの中で、日曜日の礼拝を守ることができ、感謝です。
 
 70年前に広島、長崎に原爆が投下された日を覚えながら、大きな犠牲の上に現在の平和があることを改めて認識するとともに、この平和を守ることを大切しなければならないこと、主にある平和が世界に訪れることを祈りました。
 私たちは、平和の使者として、主から遣わされているとも言えますから、日々、心にシャローム、平和であれという思いで、生活をしていかなければと強く思います。
 さて、 今日の聖書のお話しは、「律法学者とやもめの信仰」といテーマでの内容でした。(マルコによる福音書第12章38節~44節)
 律法学者は、特権階級の衣を身にまとい、その社会的地位からも人から敬われたということですが、問題は、彼ら
がそのことを好み、執着さえするよになり、自我に生きる人間のエゴともいうべき醜い現実を持っていたということです。そこを、イエス様は、厳しく指摘され、非難されたということです。
 私たちも、そのように弱い一面を持ち合わせており、人の上に立つ者は、ともすると、執着してしまう傾向を持っておりますね。
 律法学者とは対照的な存在として、「やもめ」が取り上げられていて、このやもめの話を通し、献金することの真の意味を教えていただきました。
 金持ちたちは、多額のお金を神殿において献金箱に入れましたが、その金額は、彼らにとってなんら彼らの生活に影響を与えるようなものではありませんでした。次に貧しいやもめが神殿にやってきて、彼女にとっては生活費のすべてであった硬貨を献金箱に入れました。その額は、とても少額ですが、それは、生活のすべてを神にささげ、完全に神に献身しているからこそできた行為であったとのことでした。
 そして、イエスは、やもめの態度と生き方に感動され、弟子たちにやもめは誰よりもたくさん献金をしたと言われました。富んでいてもわずかしか捧げることができないという現実があります。神への礼拝で1番大事なことは魂の問題であるということです。
 貧しいやもめのように、自分をすて神に生きることができるということは、神の人といえるということです。
 献金とは、献身のしるしであり、感謝の表現であり、信仰の実践であるということです。
 神の福音のため、人を支えるために用いていただける献金について、私たちはつまずくことがないように、貧しいやもめの信仰にならって、真の豊かさを手に入れたいと思います。
 まだまだ、暑さが続いていますので、教会の皆様が、熱中症にならずに乗り切ることができるように祈りつつ、過ごさせていただきます。

8月の教会

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 厳しい暑さの真っ只中にいる感じですね。
 それでも、風が吹くと気持ちがホッとします。
 また、扇風機の風を十分活用し、夏の暑さも楽しめるように工夫したりしていますが、皆様は暑さをどのように乗り切っておられますでしょうか。
 さて、昨日8月2日(日曜日)の礼拝の説教は、「ダビデの子」というテーマでした。(聖書箇所:マルコによる福音書第12章35~37節)
「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」というダビデの子についての問答について、イエスが言われたことについての、お話でした。
<ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主(神なる主)は、私の主(主なるキリスト)にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と>
キリスト(救い主)として.この世に到来したイエスは、旧約の預言通り、ダビデの家系から生まれたものであっても、ダビデの子ということは出来ない。
キリストは肉の系図を超えたものであって、神の子であるとうことを明らかにされることにより、人間的な血筋をはるかに超えたものであることを、証明されたと言うことです。
 権威問題に対する律法学者たちの認識の誤りを指摘され、メシアがダビデの子孫から現れるという一面だけを強調することから、神から遣わされた世界の救い主であるという肝心な点を見失っていたことを指摘されたと言うことです。
 私たちは、この世が示す権威、人間が形作った見える権威に従属しやすい弱い面があります。しかし、この世の権威からはほど遠い石ころのような無力な者さえも、主は用いてくださり、主の権威により、わたし達を様々なところに遣わされていることを思います。この世の間違った権威に従うことなく、主の権威の下に希望をもって歩みたいと思います。
 自分を主に委ねて、日々の一歩を、主に仕えて踏み出したいと思いますね。
 主の憐れみの目を通して、私たちはこの世界を見つめていきたいと思います。

梅雨も明けて本当に暑いですね

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今日の日曜日も厳しい暑さの1日でしたね。
主のお恵みの中にあり、礼拝に出席することができ、平安な気持ちと新たな勇気を得させていただきました。
また、今日はそうめんの昼食で、少人数でしたが、家族のようにホッとする団らんの一時をもたせていただき、感謝いたします。
本日のお話は、「最大のいましめ」というテーマでした。
『「心をつ尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。』
という箇所からのおはなしです。
この教えは旧約の律法の中にもあった言葉ですが、イエス・キリストによって、律法から愛の教えとしてお話がなされたということです。
神の国の真理に近いと言うことでした。
私たちは、形にとらわれてしまいがちで、献げ物をすることが大切と思ってしまいがちですが、愛を実践することが優れた献げ物であるということを、きちんと心に刻まなければなりませんね。イエスは、「神への愛と人への愛が、真の信仰者の態度であり、基本的なものであることを教えられた。」とお話いただきました。
また、「他人にあだを返したり、恨みをいだくことをいましめ、愛をもって対する事が真の人間の態度である」とも、お話に出てきましたが、現実の生活での実践は難しい時もありますね。
しかし、私たちは陥りがちであることを肝に銘じて、愛の実践とは何かを、毎日の生活で考え行動して行けたらと祈り、この1週間も過ごしていきましょう。
 病の中で闘っておられる兄弟姉妹のためにも、今日の礼拝では皆様で心をあわせて祈りました。日々、祈っていきます。