「旧週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2015/4/26 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                         朝位 真士
  宣教の内容(2)生の全領域における変革 ⑥「召命」とは、キリストの祭司、また復活の証人として、世に遣わされることです。キリスト者はその存在と生活の一部分ではなく、その職業生活、家庭生活、社会生活の全体が、全生涯にわたって、神に召されています。したがって、職業もまた、単なる食べるための苦役(創3・17)ではなく、召命との関わりで考えられるべきです。召命の自覚は、キリスト者に真の生涯を与えるでしょう。
 ⑦キリストの福音を証しするためには、自分がキリスト者であることを公にし、いつも隣人のために祈ることが肝要です。(マタイ5・44、2ペト1・10、ガラ2・20、ロマ12・3)
 (3)終わりの日の完成 ①死人の中からよみがえられたイエス・キリストは、現在わたしたちと共におられるだけでなく、終わりの日に再び来られ、救いの業を完成されます。そのとき、「恵みの契約」が成就し、人々には「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命」(使徒信条)が与えられます。福音の持つすべての明るさ、希望の力、愛の実践力などは、キリストの復活と再臨の確かさの中に、その根拠を持っています。(使18・9~10、マタ28・18、同28・20、1ペト1・5~9、2コリ6・2、フィリ1・6、黙21・3~4、1コリ15・28、エフェ1・10)
 ②復活者キリストは、今も教会の先頭に立って御国の福音を宣べ伝え、戦っておられます。教会は今日も明日もこの主に仕えることを喜びとします。その限りにおいて、教会はこの世にある間は戦いの中にありますが、同時に、すでに主の勝利にあずかっています。すなわち、わたしたちの目には成功と見える日にも、失敗と見える日にも、その労苦は決して無駄ではなく、御言葉は一つとしてむなしく地に落ちることはありません。

2015/4/19 週報メッセージ

   2015年ホ群年会に出席して
                                                                              朝位 真士
  4月6日~8日迄、ホ群年会が二つの場所で開催された。吉川の東京聖書学校と越谷コミュニティセンターである。  
 第1日、開会礼拝、説教深谷春男師、司会國吉常與兄。レセプションがあり、聖会Ⅰ、説教村上義治師、司会中西絵津子師。
 第2日、事務会Ⅰ、追悼式、司会島隆三師、東京聖書学校後援会、教師会、信徒会、派遣式。ホ群委員長、13名の教師達の移動があった。聖会Ⅱ、説教久多良木和夫師、司会三坂幸英師、合唱東京聖書学校。
 第3日、事務会Ⅲ、派遣礼拝、説教大友英樹師、司会齋藤悦夫兄であった。
 今回の聖会は、ホーリネスの群結成70周年(2016)記念に向けて、主題「召しに応える」副題ー腰を据えてここに立つー(使徒言行録18章9~11節)「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ』」という所より、村上委員長がメッセージと委員長挨拶を述べられた。特にホーリネスの群結成70周年について、初期の願いと信仰に立ち帰って新たな一歩となれるよう祈り、取り組んでいきたいと語られた。日本基督教団の動向として、「伝道に熱くなる教団」から「伝道に燃える教団」へと訴えてきた。今期は「伝道する教会の建設」ー教会の一致に基づく伝道の推進ーの旗の下集結することになった。人事については、派遣式が12教会、移動教師13名(卒業生4名を含む)となった。最後に、「パウロは1年6か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」という旗印の下、群全体としての前進を願い、全国の群に属する教師・信徒達と共に主の御心に適って進んで行きたいと語られた。

2015/4/12 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                      朝位 真士
  引き続き「宣教の内容」(2)生の全領域における変革から始めましょう。
 ①ただ神の恵みにより、信仰によって義とされた者は、この「義認」の恵みによって、日々聖霊の実を結びます。これを「聖化」と言います。また、同じ「義認」の恵みのゆえに、教会を形成し、一人でも多くの者に福音を宣べ伝える「召命」を受けます。義認と聖化と召命は、一つの恵みのみわざです。決して三つがバラバラに起こるのではなく、常に同時に起こっています。(ロマ6・11、エフェ2・4~6、ガラ3・27、同6・15、2ペト1・10)
 ②「義認」とは、キリストを信じる者の罪がもはや罪として認められず、神との交わりの中に入れられることです。(ロマ8・1~11、1ペト1・8、1ヨハ1・3)
 ③「聖化」とは、キリスト者がただ義認の恵みに基づき、その生の全領域において、日々古い自分に死に、新しい自分に生まれ変わって、神に向かって生きるようになることです。(エフェ4・22~24、ガラ2・20、使20・32、マタ13・23、同7・17)
 ④その人は、父なる神がお喜びになる善い業をするようになります。善い業の基本は、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りです。神に「父よ」と祈る祈りから出たものではない業は、肉の業であり、良いわざとは言えません。(ロマ8・14~16、ガラ4・6、マコ14・36)
 ⑤キリスト者が祈りによって神と結ばれるとき、その人は神を愛し、神を畏れる者となり、強いられてではなく、喜んで、死に至るまで神に従うことを願うようになります。その意味において、その生涯は悔い改めの生涯となるでしょう。また、その人は聖霊の実を結び、「キリストの香り」を放つ者となるでしょう。(ガラ5・16~17、同5・22~23、詩1・1~3、2コリ2・14~15)                                               

2015/4/5 週報メッセージ

   復活祭(イースター)を迎えて
                                                              朝位 真士
  今日はイースター礼拝です。私はイースターを54回迎えます。イー
スターは毎年日付が変化します。この日はキリストの復活を記念する日
であり、紀元(AD)325年のニカヤ会議にて、春分の日の後の第一の
満月後の日曜日と定められました。
 イエス・キリストは十字架の死後3日目、週の初めの日(マタイ28章、
マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章)、すなわち日曜日に復活されま
した。キリストの復活によって、罪の結果であり人間の最大の敵である
死に勝利がもたらされたこの日を記念し、教会では特別礼拝、聖餐式
などが行われます。
 使徒パウロは、コリント第一・15章にキリストの復活のことを記載して
います。特に15章3~5節で「最も大切なこととしてわたしがあなたがた
に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に
書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、ま
た、聖書に書いてあるとおり3日目に復活したこと、ケファに現れ、その後
十二人に現れたことです」と書いています。また使徒2章32節には「神は
このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人で
す」と書かれています。イエス様は十字架の死と復活の予告を生前3回
されましたが、その予告が実現しました。それが今日、イースター礼拝の
この日です。私共もこの復活信仰をもって、罪からの勝利と、復活の証人
としての新たな決意をいたしましょう。

2015/3/29 週報メッセージ

   桜ヶ丘教会
                                                                                                        齋藤 文博
  1年間、桜ヶ丘教会というすばらしい教会にて、ご奉仕させていただき、また教会学校、主日礼拝、夕礼拝を共に守らせていただけたこの恵を心より感謝いたします。
 多くの思い出があり、それら全てを書いてしまいますと、とても指定された文字数では足りなくなってしまいます。そのくらい私にとって桜ヶ丘教会でのご奉仕は、心に残るものでありました。
 その中でも一番感謝なことは、学校の用事以外で主日礼拝を休むことなく守れたことであります。今年度は、親知らずを4本抜いたり、中耳炎になったりと体調不良なことが多々ありましたが、神様に守られて1年間走りぬくことができました。
 もう一つには、教会学校が1年間休むことなく守られたことであります。子ども達が少ない中、小学校に入学するために勉強におわれなかなか礼拝を守れないお友達や、家庭の用事等で礼拝を守れないお友達、体調を崩して礼拝を守れないお友達、ときにはお友達一人で礼拝を守るという時もありましたが、とにかく教会学校にお友達がいなくて守ることができなかったということがなかったことは、本当にすばらしいことであると思います。そして、来年度新しいお友達が教会学校に加えられようとしております。しかし、まだまだこの地域には、救われるべき魂が多くあります。もちろん、子ども達だけでなく大人の方々も同様であります。
 大きなマンションが建設されつつあり、駅ナビにも桜ヶ丘教会が登録され、スマイル合唱団にも教会を使っていただいたりと、桜上水に桜ヶ丘教会があるということを、地域の方々に知っていただける機会が多くなり、感謝であります。多くの魂が救われ共に神様を賛美し、神様の御言葉に耳を傾け、その御言葉を握り1週間を神様と共に歩む者へと変えていただきたいと思います。                        在主

2015/3/22 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                       朝位 真士
 引き続き「宣教の内容」(1)中心としてのキリストの出来事-罪の赦し-
 ⑤御子イエス・キリストの十字架において起こった中心的な事柄は、人間の罪を取り除くことです。すなわち、キリストは、わたしたちの現実を憐れみ深い目でご覧になり、そのもっとも深いところにまで根を下ろしている闇の部分に立ち向かってくださいました。ただし、それは驚くべき仕方で、すなわち、御子が御父に従い、全人類の罪を身代わりに背負って十字架上で「呪いの死」を死なれる、という仕方において起こりました。これにより、罪は完全に取り除かれました。(ヨハ1・29、同5・19、同12・31、同17・1~5、ロマ8・3、フィリ2・6~11、ガラ3・13)
 ⑥父なる神は死に至るまで従順であられた御子を義とし、死人の中からよみがえらせました。そして、これを受け入れ、キリストによる罪の赦しを信じる人を神は価なしに義とされます。したがって、「神みずから義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされる」(ロマ3・26、口語訳)のです。(ガラ3・13、マコ15・34、フィリ2・6~9、ロマ3・25~26、同10・10、同3・28)
 ⑦信仰によって義と認められた者は、すでに罪の支配領域から恵みの支配領域へと移されています。その人にはなお罪との戦いが残っていますが、今すでに不安や思い煩いから解放され、神との交わり(永遠の生命)を与えられているゆえに、神と隣人を愛する生活に踏み出すことができます。(2コリ5・17、ロマ6・11、同8・38~39、1ヨハ3・2、ガラ5・1)
 ⑧「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」(1テモ2・5)です。したがって、人類を救う福音はただ一つ、イエス・キリストの御名による救いです。(申6・4、使4・12、ガラ1・6~7、ロマ10・14~17)

2015/3/15 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案                                                                                                                          朝位 真士
  引き続き「宣教の内容」について記載します。宣教の内容は、神がご自身に背いたわたしたちをなおみもとにお招きくださる「和解の福音」です。福音においては、まず第一に、わたしたちの罪がただキリストの義によってのみ赦されたこと、したがって、その義はただ信仰のみによって与えられることが語られなければなりません。ただし、この罪人の義認は、同時に聖化と召命とを必然的に生み出すものであることが、福音の中には含まれています。
 (1)中心としてのキリストの出来事ー罪の赦し
 ①宣教内容には「日本基督教団信仰告白」との一致が求められます。したがって、神学校には日本基督教団信仰告白に基づく伝道者養成・神学教育を行う責任があります。
 ②福音の内容は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3・16)という御言葉に要約されます。この福音は、今この歴史の中ですでに現実となっています。罪人が神と和解させられ、礼拝と賛美へと招かれているからです。(ロマ5・6~
11、2コリ5・18~21)
 ③人間は自分を神としようとして罪を犯し、神との平和を失いました。神は聖なるお方ですから、本来ならば、人間を罪を見過ごすことがおできになりません。罪人である人間は聖なる神と対立しており、神が義であるか、それとも人間が義であるか、言い換えれば、神が滅びるか、それとも神が人間を滅ぼすか、どちらか一つでしかありえない由々しい事態が生じたことになります。(ヨシュ24・19~20、イザ6・1~5、同57・15)
 ④しかし、人間は罪の結果としての悲惨さのただ中にいながら、それが自分の罪のゆえであるとは認めず、他者に責任を負わせようとします。それゆえまた、自分の悲惨さについての認識もきわめて不十分です。しかし実は、自分がなお生かされているのは、憐れみ深い神の限りない忍耐と寛容によることなのです。(創3・5、同3・12~13、ロマ2・4、同6・23)                                                               

2015/3/8 週報メッセージ

   研究会Fグループの発題を聞いて   
                                                                                                           朝位 真士
 
 私はかつて、「断食聖会」においてY牧師の「日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか」という発題を聞いたことがある。5人の共同研究者による研究発表を小冊子にまとめたもので、著者の一人S牧師の許可を得て、もう一度日本宣教の弱点を考えてみたい。簡単に記すと三つの論点になる。
 (1)キリストの心を具体化していない教会であったから。①聖書に基づかない教会。②日本社会に迎合している。③知的信仰に偏った。④伝道・運営がへた。⑤教会の疲弊・閉塞感。                         
 (2)島国的劣等感の束縛。①日本社会から教会が離れ過ぎた。②日本人の和魂洋才。③島国という特性から来る問題。④クリスチャンの西洋コンプレックス、排他性、閉鎖性。⑤敗戦による縮み。             
 (3)牧師・指導者が未熟だった。①牧師・指導者の心が狭い。②牧師の説教が悪い。③牧師の伝道力が弱い。④神学教師・牧師の実践神学が弱い。⑤用語の選択を誤った。                                   
 以上のような内容であった。5人の共同研究者のうち二人は、私が個人的に親しい方である。私共の教会にも毎年チャペル・コンサートに講師として来られているK牧師もその一人である。私はこの共同研究の発題を聞き、本を著者より取り寄せた。もう一度自分の牧会者・伝道者としてのありかたを考えさせられた。             

2015/3/1 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                        朝位 真士
  前回に引き続き「神の民に賜った宣教の務め」を記載します。
 ⑥御言葉の奉仕者は絶えず成長します。そのために、常に聖書をひもとき、祈り、御言葉の研鑽に励み、練達の人となるべきです。「わたしに倣う者となりなさい」(フィリ3・17)と語れる者となる必要があります。御言葉の奉仕者が成長し、生涯を伝道に献げることを願い、全体教会(教団)がさまざまな仕方で支え、必要な神学教育を施すだけでなく、さらにその後も研鑽の場を設け、生涯のある時期研鑽に専念する機会を備えるなどの制度を整えることは本質的に必要なことです。(エフェ4・11、Ⅱテモ3・15、Ⅰテサ5・16~22、Ⅱテモ4・2、Ⅰテモ4・12)
 ⑦信徒もまた、御言葉の奉仕者と共に教会形成と伝道に参加します。信徒は何よりも第一に、礼拝および諸集会に参加する務めを重んじる必要があります。また、教会の健全な成長(礼拝、伝道、奉仕、交わりなど)のために祈り、務める必要があります。また、献身のしるしとして自分の財を献げることにより、教会の維持発展に資する務めがあります。旧約聖書の十分の一献金は望ましい基準です。(ネヘ8・10、出29・42~45、使2・46~47、エフェ4・16、ロマ12・6~8、申14・22、Ⅱコリ9・7、マラ3・10)
  ⑧福音宣教において、信徒の果たしうる役割にははなはだ大きいものがあります。また、御言葉の奉仕者の「献身」と同じ意味で、すべての信徒がその全生涯を主体的にささげる「献身」に生きるようにと招かれています。
 ⑨御子は御国を来たらせるために、十字架にかけられました。それゆえ、十字架の福音を宣べ伝える教会もまた、十字架のしるしを帯びることになります。「証し」は「殉教」にまで至り得るものです。ただし、命を捨てることだけが殉教ではなく、むしろ、キリスト者が信仰に堅く立って歩む毎日が殉教とも言えるでしょう。ギリシャ語では「マルテュリア」という言葉が「証し」をも「殉教」をも意味します。(マタ16・25、コロ1・24、フィリ1・29、3・13~14、使14・22、ロマ12・1、Ⅱテモ3・12)

2015/2/22 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                       朝位 真士
  前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
 (2)神の民に賜った宣教の務め
 ①神はその民である教会に宣教の務めと福音の言葉とを与えられました。したがって、教会の務めは宣教によって福音の前進に奉仕することです。(マコ5・18~19、ロマ10・15)
 ②キリストの体である教会に属するすべてのキリスト者は、受洗と同時に祭司としての職務に任ぜられ、その全存在と全生涯が神の召しにあずかっています。また、そのために必要な霊の賜物をも与えられています。この「全信徒祭司性」の教えが、今日十分に回復される必要があります。そのために、教師も信徒も絶えず聖書の御言葉によって養われ、成長しなければなりません。
 ③「祭司」の務めとは、礼拝共同体としての教会を形成し、神を礼拝する民となることであり、宣教と執り成しの
務めを担うことです。(Ⅰペト2・5、同2・9、ロマ12・1~2、エフェ4・11~16、Ⅰコリ12・4~31)
 ④全信徒祭司性とは、教師と信徒の区別を解消しようとするものではありません。天に昇られたキリストは、この地上に教会をお建てになるために、教会の中から「使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師」(Ⅰエフェ4・11)などを任命し、各々に必要な霊の賜物を与えられました。これらの御言葉の奉仕者は、信徒と共に宣教の務めにたずさわります。
 ⑤御言葉の奉仕者は、喜びと勇気をもって福音を宣べ伝え、聞こえる御言葉である説教と見える御言葉である聖礼典のために仕え、自分の全生涯を献げます。この務めは教会形成の中心となります。また、その人はただこの使命のゆえに、教会の中で敬われる存在です。(エフェ4・11、ヨハ20・21、同21・15~19、Ⅰテモ1・18、同4・12、Ⅱテモ4・1~5)