榊原紀惠子 のすべての投稿

2017/9/3 週報メッセージ

   北海道問安を旅して
                                                                                                             朝位 真士
  私は、八月二五日(金)~二七日(日)迄、ホーリネスの群委員の一人として北海道の関係教職並びに教会・伝道所を問安いたしました。
 二五日(金)午前、羽田から新千歳空港まで飛行機で行き、空港より札幌からJRで砂川まで行き、車でS牧師の入院されている病院を問安いたしました。先生はフミ子牧師と同期の女性教職であり、四回ほど骨折で入院され、現在も入院中ですが、なお牧師としての御用をされています。二七日は北海道の教会で礼拝の御用をされる予定です。車イスに乗り、妹さんの運転で高速道路片道二時間かかる教会の礼拝説教をされる予定だと言われていました。私より一~二才年長で、四十数年の牧会伝道をされているファイトに満ちた先生とお会いして、こちらが励まされたのです。
 二六日(土)は新千歳空港より女満別空港まで四五分間フライトして、空港より高速バスに乗り、網走駅でM牧師の出迎えを受け、網走観光、特に網走監獄(現在の網走刑務所の前身)の博物館に案内していただきました。
網走監獄の一二七年の歴史には、涙せずにはいられません。中央道路開削工事では、一一一五人の囚人の方々が極寒の突貫工事で二二八KMの道路を八ヶ月で完成させたため、二一一人の方が死去され、看守の方々も犠牲になったということでした。
 二七日(日)の礼拝もA伝道所で礼拝の御用をさせていただきました。M牧師より一三年間の開拓伝道の涙と苦悩の歴史を聞かされました。なお戦いの中にあることを覚えます。人数的にも経済的にも(牧師夫妻はアルバイトをしながら三人の子供の養育中)試練の中にあり、私達はもっと困難にある教会・伝道所の宣教のために祈りと経済的支援をしなくてはならないと感じました。二七日午後五時頃、羽田空港に到着し、高速バスで新宿に到着。そして教会に帰りました。皆様のお祈りに感謝しています。ハレルヤ!!

夏を感じて

イメージ 1写真:三陸海岸
今年は8月に入って、涼しい日が続きましたね。
7月の暑さに慣れて、夏本番を覚悟して8月を迎えましたが、おやっ?という感じでした。
ここ数日、夏が戻ってきましたね。
大雨の被害など、気候変動の猛威を感じております。
被害にあった地域において、1日も早く日常が戻るようにと願っております。
過日、東北大震災の被害があったリアス線で、三陸海岸沿いを旅しました。地震の傷跡が残っていました。交通機関も一部JR線は復旧していませんでしたが、確かな日常の中で、地域が活性化していることを感じました。
波にさらわれた漁村の田野畑村・机浜を訪問しました。机浜の山頂から写真を撮りました。
神様の御計画とは、どのようなものなのだろうと考えたりしました。
岸先生がお話された花婿を迎えるための油とは何だろうと、ふと思いました。
日常生活の中でイエス様を信じて生活を営んでいることなのだと思いました。
気張らずに、ただ丁寧に、日常を生きるって、できるようでできないなあと思います。
日常は、掃除、洗濯、食事等何気ないところにあって、そういうことを丁寧にできるってすごいと思うのです。もちろん、人との関係もです。
今日は、これから祈祷会に行ってきます。
主とともにあることの幸いに感謝して。
「わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」詩編32編8節

2017/8/20 週報メッセージ

   四国、慰安・問安の旅をして                                                                  
                                                                                                               朝位 真士
  私共は八月一一日~一五日迄、夏期休暇で四国の琴平教会に家族(夫婦と娘家族)で行かせていただきました。ちょうど夏休みの時期で交通機関は大変混雑していましたが、無事五日間の休みを取ることが許されました。
 一一日金曜日に高松空港に到着し、車で琴平教会に到着しました。今回は憲義牧師の牧会している教会で礼拝出席したいと願っていたので、一三日の礼拝に家族六人(大人四人、子供二人)で出席しました。朝九時過ぎの教会学校には子供が数人出席していました。大人の礼拝は一〇時三〇分からで、憲義牧師のメッセージで礼拝を守ることができました。私共は何か複雑な気持ちがしました。我が子が献身して牧師となり、両親・妹家族の前で堂々と力強く神の御言を語っていたことに、唯々神の御名を崇めるばかりでした。神学校を出てまだ数年しか経過していないのに、大変確信に満ちた力強いメッセージでした。礼拝後、恒例のうどんで昼食。一杯一五〇円。このうどんも教会員の方の献品であり、教会の貴重な収入です。当日の礼拝は二八名位であったと記憶しています。信者の方々は熱心で、特に婦人会のメンバーが中心でいろいろな奉仕をされていました。礼拝後良き交わりをさせていただきました。
 滞在期間中、小豆島の内海教会を訪問しました。現住陪餐会員四名、礼拝出席八名です。島にある二四の瞳の映画村も見学しました。そこの牧師がわざわざ時間をさいてくださり、いろいろと説明案内してくださったことに感謝しています。今治のタオル美術館にも立ち寄ることができました。
 温泉は二回入り、うどんは数回いただきました。さすが本場だけあって、美味しくいただきました。往復飛行機を利用させていただきましたが、無事に一五日午後五時四五分羽田空港に到着して、八時少し前に桜ヶ丘教会に到着。皆様方のお祈りと神様のお守りに心から感謝しています。(詩編一二一・七~八)ハレルヤ!!        

2017/8/13 週報メッセージ

   礼拝①
                                                              山本 潤
 私達は教会に集って礼拝に出席していますが、その礼拝の各プログラムについて、今日と再来週に亘って少し考えてみたいと思います。私は、礼拝のプログラムにはどれにも意味があり、主の恵みに溢れていると思います。
  まず、前奏。礼拝が前奏から始まることを示すために、司会者が前奏の前に開会を宣言し、〝最初に前奏を聴きながら、心を静かにし祈りましょう〟等の黙想を促します。この時を、礼拝に対する備え、静まって神様が共におられることを祈る時間となっています。
 讃美は歌の形をとった〝献げる祈り〟と言っている方もおられます。賛美の中には、祈りの言葉があります。私は、さんびを〝賛美〟とは書かずに〝讃美〟と〝言〟偏がついているのもこの理由ではないかと思っています。讃美は、神様をほめたたえ、信仰を告白するための一人一人の〝神様への応答〟ですから、神様にしっかり聴いていただけるように胸を張って讃美したいと思います。
 主の祈りは、イエス様が教えてくださった基本となる祈りでシンプルですが、奥深い祈りです。そして、皆の共同の祈りとなっていますので、揃って祈りたいとおもいます。私が経験したいろいろな礼拝の中で、ある司会者の方に〝主の祈りを祈りましょう〟と宣言した後、〝主の祈り〟と合図をかけていただいて揃って祈ろうとされる司会者の方もいらっしゃいました。
  司会者の祈祷は、礼拝での公同の祈りです。T(時)P(場所)O(場合)に応じて、この礼拝が、共におられる神様、そして神様によって皆がここに集められた感謝をささげ、奉仕されている説教者・兄弟姉妹、祈りながらも欠席せざるを得なかった、特に病のために床に臥している兄弟姉妹のために、祈る時にもなっています。また、イエス様を信じる者全ての者のために、そして未だイエス様の愛にふれていない方々のために祈る時でもあります。報告後の祈りの時間と合わせて祈りを合わせたいと思います。(つづく)

2017/8/6 週報メッセージ

      永遠への道
                                                                                                                                         朝位 真士
  前号からの続きです。
  (四)汎神論 ― (1)日本における汎神論  日本人の神観は仏教系や神道系、その他複数の宗教が多層的に重なり合っています。その種類は八百万(やおよろず)の神々というくらい多いものです。太陽・月・山・湖・滝・木・石・動物などの自然を神としたもの、先祖・英雄・偉人などの人間を神としたもの、結婚や出産など人間生活をつかさどる神、農業や漁業、海運などをつかさどる神など、種類も働きも様々なものです。
 (2)汎神論のおもな型(西洋) ①唯物的汎神論 物質がすべての生命と精神の原因であると主張します。宇宙こそ、ただ一つの神であるいうのです。②物活論=汎霊論 すべての物質の分子は生命の原理を持っており、究極の単位は小さな霊魂(単子)であるという論理です。後者は精神と物質が個別に存在し、分離できないと主張します。③中性論 究極の実在は、精神でも物質でもなく、その二つを持つ中性的な実体が神であるという理論です。④観念論 実在とは思考、理性であって、世界は一つの偉大な思弁過程(精神の産物)であるという理論です。
 (3)汎神論の共通するまちがい ①人間個人は無限者の一部分に過ぎないということは何の証明もされていない仮定であって、現実の自己意識と矛盾します。②神の人格性を否定するが、意識的な人間の存在が無意識な精神からどのように発展するのか説明できません。③人間を神の一部分とすることによって神格化します。神は人間においてのみ意識を持つものであるとすれば、人間はこの世界で神の最高の顕現ということになりますが、それは現実を調和します。

2017/7/30 週報メッセージ

      四九回日本伝道の幻を語る会
                                                                                                               朝位 真士
  七月二五日(火)~二六日(水)、市川サンシティで開催され、申し込み八八名、席上献金三八二、四七四円、予約献金六一五、〇〇〇円与えられた。今回は「宗教改革五〇〇年」―信仰の原点に立て―、主題聖句「福音には、神の義が掲示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ一・一七)
 講師は山口陽一先生(東京基督教大学院神学研究科委員長、同盟教団市川福音キリスト教会担任牧師)と神代真砂実先生(東京神学大学教授、橋本教会協力牧師)、音楽ゲスト姫野徹先生(オーボエ奏者、ユーオーディア・メンバー)、シモン合唱団の方々が御用してくださった。山口先生はヨハネ四章三四~三八節より「目を上げて畑を見なさい」というテーマで、(1)サマリヤのどこに色づく畑、(2)J・サバラの喜び、(3)バラの悔い改め、(4)日本宣教一七〇年の回顧と展望、次にⅠコリ一章二六~三一節より「キリストは私の知恵、義、聖、贖い」という題で、(1)わたしたちの召しのこと(二六~二九)、(2)キリストこそ知恵、義、聖、贖い(三〇~三一)、(3)内村鑑三「われらの万事なるキリスト信仰の単純」、(4)宣教の情熱について語られた。神代真砂実先生はヨハネ四章二七~四二節より「喜びを共にする」で、教会は神の愛と熱意によって建てられていることを語られた。私達のイエス・キリストの「御心を行い、その業を成し遂げること」を喜びとして、一人でも多くの方を招き続ける者でありたい。実りに感謝し、また、結果を目に出来なくても、喜んで種を蒔き続けていきたいと結んだ。
 講演では「宗教改革者ルターが説いた『信仰』とは」、(1)マルティン・ルターによって始まった宗教改革の「原理」、(2)ルターの「神の義の発見」、(3)「外なるもの」は「神の言葉」とも言い換えられる。以上、大変有意義な集会であった。

2017/7/23 週報メッセージ

      ホ群首都圏夏期聖会
                                                                                                    朝位 真士
  七月一七日(月)~一八日(火)、赤羽教会で聖会が開催された。主題「万物の終わりが迫っている」(Ⅰペトロ四・七)―祈りとホーリネス。主講師は工藤弘雄師(日本イエス・キリスト教団、元関西聖書神学校校長)で、二回の説教をしてくださった。聖会Ⅰ、司会西海満希子師、メッセージ山口紀子師、「教会の戦い」(エフェソ六・一〇~二〇)。聖会Ⅱ、聖会交流会、司会澤田直子師、メッセージ佐藤泉師、「再臨・待望・そして祈り」(ミカ七・七~二〇、黙示録二二・二〇)、立証伊藤一夫兄(近畿聖会、如鷲教会)、賛美ユース。聖会Ⅲ、司会深谷春男師、メッセージ工藤弘雄師、「終末の祷告者」(創世記一八・一六~三三)、立証中山信之神学生、賛美東京聖書学校。第二日、聖化講演、司会澤田石秀晴師、講演横山基生師、「命に満ちあふれて生きる恵み」、分団及び祷告会。聖会Ⅳ、司会朝位真士、メッセージ工藤弘雄師、「変貌山からカルバリーへ」(ルカ九・二八~三六、五一)。以上の内容であった。
 昨年は熱海のハートピアで開催した。今年、都内の教会を会場とした理由はいろいろあるが、とにかく一人でも多くの方の参加を得たいということと、近場であれば講師の工藤先生をお迎えしやすいと考えたからである。聖会委員会、教師会で話し合い、祈って準備してきた。神様は祈りに答えてくださり、参加者一三六名、予約献金約九〇万円、席上献金二九万円が与えられた。昨年は参加者六九名、予約献金五四万円、席上献金三〇万円であったと思う。数字的な事柄だけでなく、全体的に大変霊的格調の高い内容であったと思う。首都圏の若手の先生方のメッセージも、大変内容の濃い霊的なものであった。聖会委員の一人として皆様方のお祈りとご協力に心より感謝申し上げると同時に、主イエス様の大きな祝福と恵みに心から感謝する。

2017/7/16 週報メッセージ

   永遠への道                                                                    
                                                                                                               朝位 真士
  前号からの続きです。                                                               
  (二)不可知論(懐疑論)―これは「すべての知識は相対的であるから不確実であって、真の知識と言うべきものは全くない」という説です。理性の力は現象の世界から一歩も外に出ることができないので、超越的な存在である神を肯定できるはずがないと考えます。反面、自然科学者の説く無神論も信頼しません。こういう問題は、人間の力ではしょせん解決できない問題(不可知)であるとあきらめてしまいます。科学の面では「実証主義」の基本的な考え方となっています。それは「実際に観察した事実以外には、何ものも真理として受け入れない」という立場です(オーギュスト・コント)。しかし、アインシュタインの相対性原理は物質的世界の研究においても、時間とか空間という見えないものを考慮に入れなければならないことを示して、実証主義に致命傷を与えました。
 (三)唯物論―「心は物質からはなれては真に存在しない物質の随伴現象にすぎないものであり、宇宙に存在するものは、その中にある固有の永遠の法則にしたがって動いている物質のみである」という説です。しかし、物質は永遠ではありません。宇宙には始まりがあって、いわばゼンマイの巻きほぐれつつあるようなものです(崩壊の法則(熱力学第二法則))。次に、物質はそれ自身で物質の起源を説明できません。それは自然の外にある力、すなわち「超自然」的な考察力によって説明されなければなりません。
 (四)汎神論―日本における汎神論「存在する全てのものは神であり、神は存在する一切の総計であり、神は人間を含む宇宙の諸事物から離れては存在しない」という説です。神と宇宙とを一体的なものとし、すべての物は神の部分と考えます。(次へ)                                                               

2017/7/9 週報メッセージ

      永遠への道
                                                                                                                                     朝位 真士
  前号からの続きです。
  三、代表的な世界観―人間は人生の目的や意義なしに生きがいを感じることができません。人生に失望して
 自殺するのはそのためです。人間が他の動物と根本的に違うのは、人間が思想を持っているという点です。
 「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書三・一)人生の目的や生きがいは、その人
 の持つ世界観によって左右されます。人類の文化は世界に対する根本的な見方、考え方によって彩られていま
 す。その代表的な世界観について学んでみましょう。すべての人はその世界観のどれかにあてはまるのです。
    (一)無神論―これは「神は存在しない」という思想です。
    1.無神論の最大の論拠、それは宇宙があまりにも残酷かつ不公正であるように思われるということです。
  ―では、その公正、不公正という観念はどこから来たのでしょう。①直線を知らないで曲がっていると判断できま
  せん。②人が水に落ちて体が濡れるのを感じるのは、人間が水棲動物でないからです。③宇宙に光がなかった
  ら、暗いという言葉は全く意味のない言葉です。④宇宙が無意味に存在するというなら、それが無意味であるこ
  とを、私達は絶対に知り得なかったはずです。
   2.すべては偶然の産物―無神論によれば、すべて存在するものは偶然に存在してきたというのです。偶然に
  物質が生じ、偶然に簡単な生物が生じ、それらは偶然に変異と自然選択をくり返しながら現在の高等な生命へ
  と発達したという理論です。ここでは、統計学による反論を紹介するにとどめます。無から有を生じることはあり
  ません。また無生物から生命が生じ、単細胞から複雑な生物が生じることは、統計学的に不可能です。しかし、
  人間が頭を使って並べればすぐに出来ます。人間の脳細胞が一四〇億あると云われています。その一つ一つ
  が偶然に出来る可能性は考えただけでも気が遠くなりそうです。(つづく)

2017/7/2 週報メッセージ

      人生と宗教
                                                                                                                朝位 真士
  最近、日本同盟基督教団、西大寺キリスト教会の「永遠への道」という求道者用テキストに、大変示唆に富んだ文章を発見したので、ここに転記いたします。
    一、人生の意味
    人間は考え、記憶します。人は自分自身を自覚します。人は自分自身の心をのぞき込むことができます。私
  は、どこから来たの?、どこへ行くの?、何のために生きるの? 大学の教授や学生、哲学者だけが考えるのではありません。人生の厳粛さを特に感じる時、人はだれでも考えるのです。たとえば、
   (一)自分の子供が生まれる―自然的でしかも神秘的な事実―赤ん坊の潜在能力、その生涯に起こるべきあらゆる可能性、その出生と成長と生涯の前途について自分の直接もつ責任を強く感じます。
   (二)予期しない不幸な出来事に出会うとき、病気、貧困、失業、死別、家庭の不幸など、自分の思うままにならない人生の現実にぶつかって精神的・道徳的な弱さと悩みを経験して人生の厳しさを知り、人生の意味を考え始めます。
   二、人生のよりどころ―何かしっかりした立場がほしい、何かしっかりしたよりどころがほしいということは、だれでも感じるところです。
   (一)自力主義―本当に自分の力になってくれる者は自分だけ―自己信頼、自我独尊、自分の中には無限の力があって、自分の理性と判断と行動によって、自分を支持していくことができるという考え方です。―すぐに実践上の障害に行き当ります。
    (二)文明主義―人類の問題は人類自身の努力によって解決できるという考え方です。人類の文明の進歩によって人生の問題を解いていこうとする考え方です。人生の多くの問題は改善されますが、究極的な問題の解決はできません。たとえば罪とか死の問題です。(次号へ続く)