榊原紀惠子 のすべての投稿

2025/3/16 週報メッセージ

受 難 節

川﨑 信二   

 教会暦では受難節を過ごしています。日本基督教団では受難節または四旬節といい、カトリックでは大斎節と称し、主イエスの十字架の苦しみを覚える期間を指します。

今年は3月5日(灰の水曜日)から4月19日(主の復活日の前日)までの46日間となります。これは日曜日を除く40日間であり、ゆえに四旬節ともいう訳です。日曜日は主の復活を記念する祝祭日ですので「受難」から外されています。この期間を少しでも主の苦しみに倣い、断食をしたり、酒を我慢したり、各々の自由な信仰的判断で節制して過ごします。中世の頃は義務的な節制でしたが近代以降は自らの選びにより自粛する教会が増えました。教派によってはこの時期は結婚式を控える教会もあります。

「40」は特別な準備期間を示す数字です。モーセは出エジプトのあと、民と共に40年荒野を彷徨っています。約束の地に入る準備期間という意味付けです。

主イエスは公生涯の前に40日間荒野で断食されました。教会は歴史において、復活日の前の40日間を準備期間としてイースター当日に受洗する伝統が生まれました。洗礼を直ぐに受けさせるのではなく、準備期間を経て、晴れて喜びの日を迎える。それは主イエスに倣う、という背景があるのです。

 私は、日本語の「受難節」という言葉がその意味をよく表していると思います。主イエスが十字架で苦しまれたことがはっきり示されていて、そのことで私の罪の赦しと救いのためであることが分かるからです。

英語では「レント」(Lent)という語が用いられますが、この言葉は元々ゲルマン語で「春」を表します。「受難」と「春」とではだいぶニュアンスが違ってきます。

以前のこどもさんびかにこんな歌詞があります。

「小さい命が土の中。外の寒さに負けないで、虫も蛙も待っている。春が来るのを待っている」(詞/佐伯幸雄/1979)

 忍びつつ待つ期間、という意味ではレントよりも受難節が適しています。響きは横文字のほうがカッコ良いのでしょうが、意味が伝わりません。言葉の使い方はともかく、主がこの私の罪のために十字架で磔にされ、肉を裂き、血を流され、惨めな死を遂げられたことを忘れないように、この時を過ごさせて頂きたいと願わされています。

2025/3/9 週報メッセージ

湖上を歩く主イエス  マタイ14:22〜36

川﨑 理子 

「それからすぐイエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。」(22) 

「イエスは弟子たちを強いて…。」弟子たちがイエスを残して自分達だけ舟に乗ることを躊躇していたのに無理やり舟に押し込んだことが分かる。しかし主イエスは「祈るためにひとり山にお登りになった。」(23)

一人で父なる神と向き合う時間が欲しかった。バプテスマのヨハネの死を知り、友の無残な死への悲しみ、またご自分の命も狙われることへの葛藤、すべての人の救いの為に十字架への道を歩むための決意。その為に「ひとり人里離れた所に退かれた」のである。

そんな中で後を追ってくる病人や空腹の人達。主イエスは群衆を満腹にさせ、病人を癒し、エネルギーを費やした。充電する為にも、なんとしても「ひとり」になりたかった。どうしても「父なる神との交わり」=「祈り」が不可欠だったのだ。「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」(23) ほどに霊的な恢復が必要だった。

 弟子たちの乗った舟は「既に陸から何スタディオンか離れており逆風のために波に悩まさていた。」(24)

風に抵抗せず戻った方がよいのに律儀に主の言葉を守り、夜が明けるまで抗っていた。まだ暗い中、湖の上を歩いてきたイエスの姿は弟子たちには幽霊に見えた。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と主は直ぐに「しっかりしなさい。勇気を持ち続けなさい」と励ましてくださった。憂いを帯びた一人ぼっちの主イエスが父との交わりで新たな力を得、頼もしい言葉を発しておられる。

主イエスの言葉にペトロが応答し、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28)と立ち上がった。「来なさい。」(29) 主の言葉に喜んで舟から飛び降り、水の上を歩き始め、主に向って進んだペトロだったが、「強い風」に気がつくとたちまち「怖くなり」沈みかけた。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロの手を主が捕まえ「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」(31)と一喝された。「薄い」は原語で「小さい」の意。つまり「小さい信仰」。ここで主イエスはペトロを責めているのではない。からし種一粒の信仰があれば良い。

「イエスと歩きたい」という願いだけで良い。その求めに主は応えてくださるのだ。私たちも主の方へ進みたい」と願う小さい信仰をもって歩ませて頂きたいものである。

2025/3/2 週報メッセージ

新しい神殿  マタイ21:12~17

川﨑 理子 

「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」⑿

ヨハネ2:15では「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し…」とあります。このものすごい剣幕のイエスの姿は私にとって強烈なものでした。この行動の理由は「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」⒀との主イエスの言葉からうかがえます。

 強盗の巣とは神殿の敷地で商売をして自分達の利益だけを考えている人達のことです。彼らは「祭司」達と結託して弱者からお金を多めに取って私腹を肥やしていたのです。主の神殿に仕えるはずの祭司が金儲けを優先させていたわけです。しかも、遠方からようやくエルサレムにたどり着いたばかりの礼拝者に水を差しだすどころか、捧げ物のための両替だと言って多額のお金を要求するのです。神殿の精神は腐り、祭司も堕落していました。

「境内では、目の見えない人や足の不自由な人達がそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」(14)さらに「『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」(16)と言われた主イエスの言動には、当時、神殿から最も遠くに置かれ、祭司たちから差別を受けていた方々にこそ神の愛を届けるべきとの意思がうかがえます。

 神殿に入れない、憐れむべき方々。目の見えない人、足の不自由な人達そして幼い子供たちのすぐ近くにいてくださる主イエス。新しい神殿とは、見える立派な建物のことではなく、主イエスご自身のことです。

私達も神の近くに行く資格のない者ですが、主によって神の御国に入れてもらえるようになったのです。後にエルサレム神殿はローマ軍によって破壊されます。

主はそのお身体を十字架に明け渡し処刑されます。この方こそ清い、生ける神殿なのです。私達を罪から清め贖うために、差別を受け苦しんでいる人達を救うために、十字架への道をお独りで歩み始められたのです。わが心に主の愛を宿しましょう。

2023/2/23 週報メッセージ

神癒 ―究極の癒し―

川﨑信二

以前「病は気から」ということを載せました。信じて治療するのと、疑って仕方なくするのとでは効果が全く違う、とも言われています。

サプリメントで膝の痛みが改善したという声を聞きます。「プラセボ効果」といって、効果のない成分で作られた偽物の薬でも、効果があると信じて飲むことで本当によくなったと感じることがあり、それは心理的作用によるものだ、というものです。

もちろん、効果のあるサプリメントもあるので一概には言えないでしょうが、信じて服用すると治りが早くなる、ということでしょう。本人が治癒をあきらめ、医師を信頼せず、自暴自棄になってしまうと治るものも治らない、という訳です。

 聖書が語る福音はどうでしょうか。福音は信じると、確かに絶大な効果はありますが、私たちの信心の深さよりも、信じる対象が何か、が重要です。そもそも信仰の対象が偽物ではなく本物であることが大前提であり、それが主イエスのことですし、主イエスの十字架と復活の福音です。

パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリント15.4)と語ったように、人間の信心だけでは救いはありません。「鰯の頭も信心から」と信じる対象は偽物でも、信じる私が居れば大丈夫?? そんなことはありません。自分の死も、自分の死後のことも分からない者を、信用できるはずがないのです。

「鼻で息をしているだけの人間に頼るのをやめよ」(イザヤ2.22)と言われているように「魂も体も滅ぼすことのできる」(マタイ10.28)神に頼るべきだ、と主イエスご自身が述べられています。主イエスのみを見上げて歩みましょう。

2025/2/16 週報メッセージ

天の国の秘密 マタイ13:10〜17

川﨑 理子 

「弟子たちは、イエスに近寄って、『なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか』と言った。」⑽

 「たとえ」の原語は「パラボレー」と言い、意味は「傍らに置く」。つまり、言いたいこと、伝えたいことの傍らにそれと似た話を置く、ということです。

本来たとえ話は理解しやすくする為に用いられますが、余計に分からなくなる。「天の国の秘密」(奥義)だから隠されていて理解できないというのです。主イエスのたとえは至って単純です。求める心さえあれば悟ることができます。この世の学者たちは真理を難しく考え、却って真理から遠ざかってしまいます。

実は目の前におられる方こそ真理なのです。主イエスは「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(16)と言われ、ご自身が神であり、真理であることを証しています。私の傍らに、あなたの傍らに主がおられるのです。せっかく近くにおられるのに疑う人には真理が見えません。心が頑なだからです。

主イエスはたとえの中で「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」(23)だと語られました。良い土地とは私たちの心です。求める心で聞けば御言葉が入るのです。主は常に種を蒔き、愛を注いでおられます。私たちが素直に受けるだけのことです。天の国を隠しているのは私たちが拒んでいるから探せないのです。異邦人でも求める者は救われます。

 キリストが来られた目的は、全ての人を救う為です。裁く為ではありません。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2・4)。

異邦人を見下していた聖職者たちは主イエスを見ているのに信じませんでした。私たちは、聖書を「いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができない」(Ⅱテモテ3:7)人にならないように、主が近くにおられるのに気がつかない者にならないように、祈り求める者でありたいと願うものです。