榊原紀惠子 のすべての投稿

2025/11/16 週報メッセージ

こどもの好きなイエス様(マルコによる福音書10章13〜16節)

川﨑 理子 

 子供の頃、母に連れられて通っていた教会学校で「こどもをまねく」という讃美歌(旧こどもさんびか48)があり「こどものすきなイエスさまよ」の歌詞を大きな声で歌った記憶があります。「こども」すなわち「わたし」を好きでいてくれるイエスさまを、好きだったからです。

 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた」(13)ことを「弟子たちは叱った」のです。

弟子から見れば、多忙なイエスさまに近づくことは「非常識」なことであり、子供たちからイエスさまをお守りしなくては、と思ったのでしょう。

「しかし、イエスはこれを見て憤り」(14)ました。この「憤り」とは、不公平な扱いに対する「正義の怒り」でした。

子供たちをご自身のもとに連れて来るのを妨げること程深刻なことはないのです。イエスは「来させなさい」、「子供のように神の国を受入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(14、15)と語ります。

「子供のように」とは、地位がなく、社会の為に貢献できない者こそ素直に神の国を求めることを表しています。

成長するに従い、家事を担い、働いて役に立つようになります。様々な力が身に着きます。身に着けたものを手放せなくなります。神よりも自分の力、人からの評価が気になり、神の国から遠ざかってしまうのです。

 イエスさまは、幼子として馬小屋で生まれ、神の子として「神の愛」を顕して下さいました。その「愛」は「十字架」そのものです。弱さの中にこそ神の愛が宿るのです。

八木重吉作「神を呼ぼう」という詩があります。

「さて、あかんぼは、なぜに、あんあんあんあん泣くんだろうか ほんとに、うるせいよ、

あんあんあんあん あんあんあんあん うるさかないよ、うるさかないよ

よんでるんだよ。かみさまをよんでるんだよ。

みんなも よびな。

あんなにしつこく よびな」

 待降節を前に、わたしに足りないものは何か、を教えられます。

2025/11/9 週報メッセージ

キリスト教書籍のこれから

川﨑 信二

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)

去る11月3日は「文化の日」だった。以前「読書の秋」と言われたが「読者」も激減、「秋」もいつが秋なのか分からないこの頃である。そんな中、キリスト教書籍専門店も厳しい状況に置かれている。私がキリスト教書の仕事に携わっていた時はライバル会社の「いのちのことば社」や「CLC」(クリスチャン文書伝道団)も元気で、出版と文書販売にしのぎを削っていたが、今や全てが様変わりしている。

 4年前、コロナ禍でお茶の水クリスチャン・センターの2階にオアシスお茶の水店がオープンした。全国でキリスト教書店の運営を担ってきた70年の歴史をもつCLCが2020年に解散した。そこに新宿ライフセンター(いのちのことば社)が「オアシス」として入ったのだ。大嵐の中での船出となった。

キリスト教書店の現状は、もはや不振や低迷のレベルではない。30年前からキリスト教会の教勢低下、さらに活字離れ、本離れが重なって、苦戦が続いてきた。かつて1980年・90年代には全国に大小約120のキリスト教専門書店があったが、今はその半数以下。その間、閉店・再編がじわじわ広がりコロナ禍でそれが一気に加速した。NCC系の書店はもっと顕著に悪化している。日本基督教団出版局もその一つだ。それでも、救いを求めている方にとって「活字」は必要である。その活字はみことばが土台になっている。 

 時代は変わっても、みことばは変わらない。イエス・キリストの愛も廃れることはない。

 主イエスのことばを求める人に寄り添う働きが継続できるようお祈りください。

2025/11/2 週報メッセージ

召天された方々をおぼえて

川﨑 信二   

人は死んだらどこにいくのか。どういう状態になるのか。Ⅰコリント15章には「霊の体」になる、と記されているので地上の肉体とは違うのだろう。死を経験していない者にとって、死後の体については想像するほかない。

 召天、永眠、復活。死後の状態を表す言葉がある。私は「復活」がしっくりくると思う。理由は、主イエスが初穂として復活され、私たちにも復活を約束してくださったからだ。すなわち、私自身も体験できる恵みなのだ。

 召天は、地上から故人を記念するときに用いる言葉だ。遺族から見て、今は地上ではなく神のみもとにおられる。だから「召天者を記念する」のである。

永眠という言葉には、死後ずっと意識がないようなイメージがある。科学的には一番近い表現だとは思うが、死者は眠り続けるのではなく、目覚める時が来るのだ。

すなわち、神のもとで起きる。それが聖書的な死生観だ。

私は、永眠とは「永遠の安らぎ」という意味で理解している。

言い方はともかく、故人はいま、一番よいところで幸せを得ているといえよう。それが究極の、神の慰めである。

 死去を「凱旋」と表現する場合がある。ホーリネス系の教会では葬儀で「凱旋」と言う。地上の戦いを終えて、天に凱旋する。あまりピンとこないが、キリシタンへの迫害や弾圧されて殉教した人には正に凱旋だろう。厳しい試練に耐え抜いて死んだ人も凱旋。ただ、人間の功績ではなく、あくまでも神の召しであり、深いご計画によるものと言える。

科学的、あるいは生物学的な死では、その後、別の世界で生きることは不可能なことだ。しかし、私たちは主イエスの約束を信じ、そこに希望を置いて生きる民である。

故人との再会も期待できる。主イエスが愛する者と再び会ってくださったように、互いの再会も主イエスの愛によって果たされること、それが私たちの、今を生きる力となる。

死んでみないと分からないが、聖書には「希望は失望に終わることがない」

(ローマ5章)と書いてある。

主イエスの約束を信じ、この世の馳せ場をしっかりと走り抜きたいものである。

2025/10/12 週報メッセージ

十字架を潜って

川﨑 信二 

桜ケ丘教会は、外の通路の屋根に赤い十字架が横たわっている。その十字架をくぐると会堂の入り口にたどり着く。私たちの救いのために主は十字架で血を流され、死んでくださった。そのイエスの体を通って神の御国へと招かれる構造となっている。立っている十字架でなく、横になっている赤い十字架を見ると「主イエスの死」を連想させられる。主イエスの死を通ることは、主イエスの復活に与ることにほかならない。信じて、潜りたいものだ。

 三重県の某教会が30年ほど前に会堂を建築された。玄関は広く、誰でも、どんな人でも多くの人が入れるような造りとなっている。靴を脱ぎ、スリッパを履いて横長のロビーを歩いてゆくと段々と妙な気分になってくる。

通路が少しずつ狭くなっていくので圧迫感というか、何か落ち着かない気持ちになるのだ。奥の、最も狭くなっているところに細い扉があり、それを開けると礼拝堂が広がっていて、まさに天国のような空間が目に飛び込んでくる。

 上から見ると、「X」(クロス)の形をしていて、真ん中の交差しているところは点のように細い。点は一人。一人だけが十字架の死を経験された。主イエスの言葉を思い出す。

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13、14)

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

(ヨハネ14.6)

弟子たちや多くの人がイエスさまと共に歩いてきた。しかし、ゴルゴタの丘には誰も着いて来られなかった。主イエスお一人が十字架の裁きを受け、救いを全うされた。

私たちは信じて、主の後に続き、十字架の門を通って、さらに信仰をもってその扉を開けたいものである。

そこには永遠の主、輝くイエスがおられ、手を広げて待っていてくださる。