聖書箇所 イザヤ書 第53章1節~12節
説教題 「まことの美しさ」
お 話 柏 明史 師
聖 歌 480番
聖 歌 402番
聖書箇所 イザヤ書 第53章1節~12節
説教題 「まことの美しさ」
お 話 柏 明史 師
聖 歌 480番
聖 歌 402番
荒れ野を旅する神の民である教会
朝位 フミ子
モーセの時代に、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から神の導きによって救い出されます。イスラエルの民は、葦の海を渡り、エジプトから完全に逃げ切ることができました。しかし、神によって無事に海を渡り、救い出されたイスラエルの民がすぐに導かれた場所は、約束の地ではなく「荒れ野」でした。救われたイスラエルの民が奴隷の家から導き出された後、ただちに向かったのは40年間の荒れ野の旅でした。
聖書の中では荒れ野には二重の意味があって、一つは死と滅びの世界の象徴です。荒れ野とは死の世界であり、苦しみの多い場所です。そこには乗り越えなければならない試練と誘惑のある世界です。特に、主イエスが試練に遭われるのは荒れ野です。それはサタンの世界だからです。荒れ野は、今私たちが現実に生活している場所です。相変わらず苦難があり、試練があり、サタンの誘惑の多い荒れ野です。今私たちは洗礼を受けて救われた神の民として、約束の地、神の国を目指している荒れ野を旅する神の民なのです。
そして、荒れ野の二つ目の意味は、神の民が神様の救いを経験した場所だということです。エジプトから救い出されたイスラエルの民は、この荒れ野の40年の旅をして、約束の地カナン、乳と蜜の流れる地に入ります。荒れ野の40年こそ、死と滅びの世界でしたけれども、神様が共におられて、神様にしがみついて旅をして、神様との交わりを深めて、神との結びつきを強くすることができました。だから、荒れ野で信仰を飛躍させて、成長させることができました。荒れ野が、神様から離れたら生きてはいけない所だったからこそ、神様に必死にしがみついて、イスラエルの民は荒れ野で神と共に生きる経験をすることができたのでした。私たちも、この世の荒れ野を旅する神の民です。祈りと礼拝を大切にして、神との交わりを深めていきましょう。
出会い 2
朝位 フミ子
私たちの人生は、主イエスとの出会いによって、大きな力によって、変えられることになるのです。そして、主イエスは、皆さんの人生のある時、ある所で、あなたを待っていてくださる。待ち構えて、その愛の御手で捉えてくださる。そういう出会いが皆さん一人ひとりにもあると思います。
モーリアックというフランスのカトリック作家に、『イエスの生涯』という小説があるのですが、その小説の終わりのシーンは、あの使徒言行録の、ダマスコに行く途中で主イエスがパウロを待ち構えているというものです。本当に予想もしなかった仕方で、角を曲がった所で、ばったりと出会うように、主イエスと出会うのです。私たちも、出会ってくださった主イエスからの問いかけをしっかりと受け止めていきたいと思います。
洗礼を受けて、信仰が与えられる者は、神との出会い、主イエスとの出会いが、本当に自分の人生を変えた出会いであったと、そのことがよく分かるのではないかと思います。主イエスと出会い、イエス様の恵みと愛をしっかりと受け止めて歩んでいく人には、主イエスの恵みと愛の力が、私たちの生きる力となって、豊かな人生を導くものになるはずなのです。つまり、主イエスとの出会いが、神の愛の力が、私たちの隅々まで行き渡り、私たちの考え方と行動を深く捉えて、私たちをキリストに従う者に造り変える力を持っているのです。
洗礼によって主イエスと結ばれて、信仰が与えられているクリスチャン。私たちは、主イエスの恵みと愛の力の大きさを、本当にしっかりと受け止めきれているか? 人生を導くものとなっているか? 私たちを愛の業へと動かす力に至っているかということを、よく振り返ってみると、何とも不徹底であり、中途半端ではないかと思うのであります。そういう意味でも、私たちは、再び礼拝を通して主イエスと出会い直さなければならないのではないかと思わされます。
聖書箇所 ヨハネによる福音書第20章11節~18節
説教題 「なぜ泣いているのか」
お 話 山本 修一牧師
讃美歌 385番
聖 歌 490番
求めなさい
朝位 憲義
私たちは、ただ何でも自分の心のままに「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」という祈りではなく、最も私たちに良いものを与えてくださる神様に信頼して、この祈りを祈ることを、主イエスは教えてくださいました。
主は、私たちが何を祈り、何を求めて、何を願うのか、こういう風に祈りなさいと、具体的な祈りの姿勢を教えてくださいました。神様が私たちに与えてくださる最も良いもの、それは神様が私たちを愛してくださっているということです。良いものとは、神様の愛のことです。ここで、私たちが神様に「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」と祈り求めるものは、唯一、神様の愛を求めることです。神様は人間の親以上に、私たちに良いものである愛を確実に与えてくださっています。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節)という通り、私たちが天の神に愛を求めたら、神様は必ず私たちを愛してくださっているのだから、私たちも隣人を愛することを積極的に求めなさいと、教えられている訳です。隣人を自分のように愛することができるように、神様に愛を求めて祈りなさい。隣人を愛することができるように、神様に積極的に愛を求めて祈りなさいということなのです。
神様が与えてくださる良いものは、聖霊であり、神様の力のことです。これこそが、神様の与えてくださる人を愛する力です。隣人を愛することです。あなたが求めるなら、神様は必ず隣人を愛する力を与えてくださる。それは、金持ちになるとか、有名になるとか、頭が良くなるとか、そういうことではなくて、人を愛するということです。あなたが隣人を愛する愛を求めるなら、神様は必ず神様の愛の力で聖霊を送り、あなたの心を燃やして、あなたが人を愛することができるようにしてくださいます。隣人のために祈り、愛し続ける者でありたいと思います。
聖書箇所 創世記第21章9節~21節
説教題 「神は子どもの泣き声を聞かれる」
お 話 山本 修一牧師
讃美歌 354番
聖 歌 589番
人からしてもらいたいことを、する!
朝位 憲義
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章12節)この御言葉が、主イエスが山上の説教全体を通して、私たちに何よりも教えたかったことです。使徒パウロも言いました。律法を完成させるのは愛であると。
私たちが、人からしてもらったら嬉しいことを、あなた方も、それをするんだぞ! と、主イエスから呼びかけられている私たち一人ひとりが、それにお応えしていく、それが私たちキリスト教会の大切な使命であると思います。私たちも、少しでも人に喜んでもらえるように、人からしてもらったら嬉しい事を、建設的な励ましの言葉を語る、心が明るくなる事を、私たちも人に幸せを届ける、小さな良い事を少しずつでもしていきたいと思います。
そして何よりも、神様がイエス様によって、私たちの最もして欲しいことをしてくださいました。本当に困った時に助けてくださる、愛の業をしてくださいました! 神から離れている者を教会に招いてくださり、洗礼の恵みに与らせ、十字架と復活の恵みに与らせて、罪の中から救い出してくださいました。洗礼によってイエス様と一つに結ばれ、生きていても死んでいても、これからも永遠に変わることのない、神の愛の交わりの中に加えてくださいました。神と共に生き、良い実を結ぶ人生へと、人を愛する人生へと私たちを導いてくださいました。そして、これからも導いてくださいます。
私たちが人生に躓き、悩み、本当に困っている時には、神に祈り礼拝する時に、手を差しのべて、神の愛の中でしっかりと捉えていてくださり、助けてくださいます。それが父なる神の、イエス様を通して私たちにしてくださる救いの恵みです。それは、私たち一人ひとりに対する神の深い慈しみと憐れみの故に、なされたことでした。私たちも、少しでも恵みに応えて、他の人に愛の業をしていきたいと思います。
聖書 ルカによる福音書第7章11節~17節
説教題「もう泣かなくともよい」
お話 山本修一牧師
讃美歌 228番
聖 歌 478番
聖書箇所 マタイによる福音書第7章7節~12節
説教題 「求めなさい」
お話 朝位憲義 牧師
讃美歌 527番
聖歌 472番
朝位真士牧師 召天・葬送告別式
朝位 憲義
桜ヶ丘教会の主任牧師、朝位真士牧師は、2022年8月22日午前3時、悪性リンパ腫のために78歳10ケ月で召天しました。
朝位真士牧師は、北九州復興教会曽根教会で19年間、桜ヶ丘教会で28年間、47年間の伝道者の生涯の中で、大切にしていたことは、毎日の祈りによって神との交わりを大切にする、祈りの人でした。また、朝位真士牧師は、今、目の前にいる、一人の人を、ただ一途に愛することに力を注ぎました。病床の中で、朝位真士牧師は「一人の魂のために、永遠の命に導く、そして、一人の魂が、イエス様の所に行くように、祈り、愛し関わることが、伝道者として本当に大切なことである。」と熱く語っていました。
朝位フミ子牧師は、朝位真士牧師を一言で言うと「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ一・5章16~18節)その御言葉通り、本当にそのままを生きた人であると証言しています。朝位真士牧師は、人が好きな人で、絶対に人の悪口を言わない人、飾らない人、怒らない人、傲らない人、表と裏のない、正直な人、ありのままの人でした。
朝位真士牧師が、生涯、祈りの人、愛の人に生きる生涯に導かれたのは、間違いなく、神様が、朝位真士という人を豊かに用いてくださったからでした。朝位真士牧師は、神様から特に愛されて、多くの人々に、愛されて、最後まで、本当に幸せなキリスト者の生涯を歩むことができました。
朝位真士牧師の厳しい闘病生活の最期は、苦しみながらも、天に召される時には、聖書の詩編23編の御言葉を聞き、お祈りをしている時に、朝位真士牧師の顔を見ると、今までの苦しみが嘘のように、顔が穏やかになり、笑顔になり、安らかで、平安な顔で、すーと、天に召されて行きました。神の国で神と共に生きる人の喜びの顔、平安の顔、安らかな顔でした。天にあって朝位真士牧師の上に、神と共にある平安があるように、お祈りいたしましょう。