榊原紀惠子 のすべての投稿

2024/9/8 週報メッセージ

イエス・キリストによる贖い(あがな  )

川﨑 理子 

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ヨハネによる福音書8章11節

 姦淫の女とイエス様との出会いは、同じヨハネによる福音書4章でイエス様が井戸の前でサマリアの女に出会う場面を思い起こさせます。「姦淫した」「五人の夫がいた」…二人の女性には「罪を犯した」という共通点があります。

さらに二人とも「罪を犯した自覚」がありました。姦淫の女は現行犯でしたから当然でしょう。サマリアの女が朝夕の水汲みの仕事を昼間していたのは人目を避けていたからです。その点で彼女にも「罪の自覚」があります。

 悪いことをしたら裁かれるのは当然です。規則を破れば罰金などを支払う義務が生じます。しかし、この二人はイエス様に出会ったのです。イエス様は冒頭のみ言葉によって姦淫の女の罪を赦し、罪から解放されたのです。

イエス様のほうから二人に近づき、言葉をかけられたのです。ここに神様の愛を感じます。

 「ラストマイル」という映画を観ました。大手ショッピングサイトの配送段ボールが爆発する事件。物流を扱った映画で、台風10号や米不足による流通問題と重なり、引き込まれました。お客様に荷物が到達するまでの物流の最後の接点「ラストマイル」では「贖罪(しょくざい)」という言葉が出てきて、「(つぐな)い」の意味で使われていました。ネタバレにな

るので詳しい事は書けませんが、一人一人がその人生で負うものとは何か、を考えさせられました。 

私たちは主イエスの十字架の贖いにより、償いきれない大きな罪を赦していただきました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

主のお言葉に感謝します。

2024/9/1 週報メッセージ

主の山にむかう

川﨑信二 

目をあげて、わたしは山々を仰ぐ…わたしの助けは来る

天地を造られた主のもとから    詩編121:13

富士山の北西、南アルプスには3000m級の山々が肩を並べています。それらを展望できる場所に立つとこれだけ高い山々があるのに「高さ」を感じないのです。有名な富士山は外国人も絶賛するほど美しいのに何故でしょうか。それは富士山の周囲には高い山がなく独立峰として突出していて、ひと際目立つから美しいのでしょう。しかし見方を変えると、一人が突出するのは危険で独裁に繋がります。判事も裁判長も止めることができないような、誰も止めることが出来ない権力は不健全なものです。

 日本アルプスの山々は、峰が尾根で連なっている「岳」なので容姿はそれほど美しくない。皆が皆高いからです。全体的にレベルが高いのです。平均点が95点のような、ずば抜けた人がいない。それは全体として素晴らしく、富士山を凌駕する評価をしてもよいほどです。単に標高で言えば、聖書に出てくるタボル山やヘルモン山より高い山々です。見た目にはそびえ立つ険しさは感じなくても実際に高いのです。人の側からみれば、高い連峰に囲まれた環境の中、ハイレベルの競争でしのぎを削って勝利した者が評価されます。けれど、神からみればそれらは五十歩百歩、どんぐりの背比べに過ぎません。

 標記の御言葉はいわゆる山々のことではなく「主の山」、 つまり礼拝を捧げる場所、神の山に上る巡礼の歌です。「山」は自分自身ではなく、神のもとに行く道です。

人は、ダントツで1番になれば高慢になります。むしろ、罪において突出している方が、神の目から見て「救い甲斐」があるのかもしれません。要するに打ちひしがれて、へこんでいる人の方が目立っていて「迷える子羊」のごとく救いに導かれやすいような気がするのです。凸凹だらけの人は神を求め、己の足りなさを聖霊で満たしてほしいと祈るようになるからです。

懐かしい子ども讃美歌にこんな歌があります♪♪

「山には険しい道があるよ。足もと踏みしめ、さあのぼろう。進め、友よ、進め。真理をもとめて進め!」(1966/小鳥律三原作詞)。 神の示される山、誰でも登れる山に向って進んでゆきたいものです。

2024/8/25 週報メッセージ

神との信頼関係

川﨑 信二 

以前、高齢者施設で宿直のアルバイトをしていた。夜勤だったが、ただ居るだけの仕事内容で、私としては有難い仕事だった。入居者の方に対して、看護士や介護士のように直接ケアすることはなく、「私はあまり役に立っていないのかな。不甲斐ないな」と思うこともあった。

ある方が事務所に来て「すみません、これ開けてください」とジャムの瓶をもって来られた。固く閉まっている蓋を「よいしょ、はい開きました。どうぞ。」と渡すと嬉しそうに部屋に戻って行かれた。私にしか出来ないことでもないが、時間帯もあり事務所にずっと居る私に頼みやすかったのだと思う。それでもそれが単純に嬉しい。相手を喜ばせることができて「こんな者でもお役に立てたかな」と充足感を覚えた。

心理学者アルフレッド・アドラーを日本に紹介した精神科医野田俊作は、自己受容、信頼、所属、貢献の感覚に分けることを提案している。ありのままの自分でいられる「自己受容」、周りの人に任せることができる「信頼」、自分の居場所がある「所属」、周りの人の役に立つことができる「貢献」。これらの4つの感覚が充足されることによって、「自分はここにいて、役に立つことができる」という所属の課題を果たすことができる。ことに信頼は、自己受容ができてから徐々に周囲の人たちに対し信頼できるようになるという。信頼とは、「周りの人に安心して任せることができる」という感覚。自分だけで背負い込むのではなくて安心して相談できることが大事で、人に任すこと、人から任されること、そこに信頼がある。

主イエスは私たちの重荷をすべて十字架上で担って下さった。だから私たちも主に全面的に委ねればよい。その主が今度は私たちに宣教の業を委ねて下さる。奉仕を与えて下さる。私たちも、「主の用なり」(ルカ19:34)との召しに応える子ロバのように、どんなに小さくても、イエスを乗せる尊い務めを受ける者でありたい。こんな者を信頼し任せてくださる。その信頼に喜んで応えてゆきたいものである。

主に自らをゆだねよ。

主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩編37:4)

2024/8/18 週報メッセージ

いま でかけよう!

川﨑 理子 

 パリ・オリンピックも終わり、次はパラリンピック。私はメダル云々よりも平和の祭典としてウクライナ、イスラエル、ロシア等の選手達が気になりました。

 オリンピック期間中に広島、長崎で79年前に原爆投下された記念祭があり、長崎の記念祭では合唱が小学生と、中高生とでありました。小学生の合唱は人数が少なかったのですが、胸に迫るものがありました。記念祭での合唱は鎮魂歌の意味合いがあるとのことです。

 教会では鎮魂ではなく神様への祈りです。既に魂を満たして下さっている神への祈りです。祈りと同様に賛美もたくさんします。その内容は神様への感謝、そして喜びそのものです。

 8月に2つのキャンプへでかけました。一つは西東京教区の中高生夏キャンプ。もう一つはホーリネスの群首都圏バイブルキャンプでした。どちらのキャンプも朝から大きな歌声で主を賛美して、目を覚まします。(笑)

はじめは大画面の歌詞を追って、慣れてくると体でリズムをとって喜びを全身で表すようになります。その中高生達の姿を見て私は嬉しくなり、やっぱりキャンプは良いな、来て良かったなと思いました。キャンプで神様に出会った私はキャンプに参加する度に心は一気に10代へ戻ります。

教区のキャンプで歌った曲の一つで、

 ♪君は愛されるために生まれた♫ は、イ・ミンソプさん作詞作曲の歌です。久しぶりにこの曲を歌い、主を賛美しました。手話を通してスーっと心に入ってきました。

「君は愛されるため生まれた。今もその愛うけている。うけている。」

 さあ、今日も愛を受けている私達は、神様が遣わす処へでかけてゆきましょう。

2024/8/11 週報メッセージ

主イエスの霊と共に

川﨑 信二 

この時期、日本ではいわゆるお盆の時期となる。「先祖の精霊をお迎えして供養をする期間」として「年に一度浄土から地上に戻ってくる空腹の先祖を家に迎え、共にひと時を過ごして冥福を祈りその霊を供養」する慣習だ。

キリスト教では、死者の霊は既に主の御許にあり幸福を得ているので、供養することも冥福を祈る必要もないという考えに立っている。それでも供養したいという遺族の慰めのために寄り添い、地上を去られた家族が今天にあり、全き至福(成仏)を得ていると信じることができるよう、また遺された私たちもやがて主の懐に帰る希望を持ち続けることができるようにと祈らせて頂くのだ。

 聖書では、霊といえば人の霊ではなく「聖霊」であり、復活の主イエス・キリストの霊を意味する。聖霊は目に見えないが今も生きて働く神ご自身であり、死霊ではない。

 けれども、聖書の時代にも「お化け」や「悪霊」の存在が恐れられていた。主の弟子でさえそういう迷信に陥っていたのだ。ガリラヤ湖の湖面を歩く主イエスを幽霊と見間違えている(マタイ14:22-33)。まことに失礼な話だが、当時そういう考え方があったことを示している。臆病な弟子たちに主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と優しく招いて下さっている。

 幽霊…痩せ衰えた死霊が帰って来る…本当だろうか。柳田國男の『遠野物語』に出てくる座敷童子のような存在が家に幸福をもたらし、守護霊として家の盛衰を司る、そんな霊が実在するのかどうか、霊感のない私には正直よく分からない。良い霊、悪い霊があるにせよ、主の霊に勝るものはないはずだ。死から復活された主の霊は私たちに完全な勝利を与え、悪霊の軍団レギオンでさえもひれ伏すほどに権威のあるお方なのだ。

 秋田にある、101回涙を流す奇跡の聖母像を見に行った人が写真に収めようとしたが、シャッターが動かなかったという。後日、霊感の強い?友人と共に行ってみると、今度はシャッターが作動して安堵したが、後で写真を見ると卍がたくさん写っていて驚いたという。この世では奇妙なことが起きて怖いと感じることもあるだろう。しかし主の霊にこそ畏れ、聴き従うべきである。なぜなら、聖霊に勝さる霊はないからだ。

 この世の霊を恐れる弱い私自身だが、常に復活の主の臨在を感じつつ平安を得て歩みたいものだ。