榊原紀惠子 のすべての投稿

2012/6/3 週報メッセージ

   創立89周年記念集会を迎えて
                                                                                                          朝位 真士
  今年も岸義紘先生をお迎えできて感謝です。今年で12回目になります。
 今日語ってくださるテーマは、「十字架の表と裏」~始めの一歩~です。聖書はガラテヤ2章18~21節です。
少し長いですが全文を引用します。
   もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになりま
  す。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと
  共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に
  生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げ
  られた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰
  で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
 この聖句は、我々ホーリネスのグループでは、きよめのメッセージとしてよく語られる箇所です。岸先生は、
サックスの演奏者であるとともに神学校の校長先生、また聖書学者のお一人として多くの講解書を出され、巡回伝道者として日本のみならず世界にも行って御用しておられます。先生におおいに期待したいと思います。
 桜ヶ丘教会は1923年6月1日、初代牧師板井康裕先生がアメリカから帰国されて、自宅で開拓伝道をしたのが始まりです。以来今日まで二十数名の伝道者によって宣教の業がなされた教会です。岸先生のメッセージが今までにない神の大きな栄光の業を表す時となることを、主イエス・キリストに期待しましょう。ハレルヤ!!

2012/5/27 週報メッセージ

   ペンテコステ礼拝を前にして      
                                                                                                           朝位 真士
  「主の慈しみは決して絶えない。/主の憐れみは決して尽きない。/それは朝ごとに新たになる。/あなたの真実はそれほど深い。」この聖句は哀歌3章22~23節にある。ペンテコステ礼拝を前にして、私は先週、地区の超教派の朝祷会数カ所に出席した。まず5月15日、午前10時半より午後1時までY朝祷会。一〇数名の出席。5月16日のA朝祷会、二〇数名の出席。5月18日のI朝祷会、カトリック教会に二〇数名出席。5月19日のM朝祷会、一〇数名出席。内容に多少の相違はあるが、プログラムは賛美、祈り、メッセージ、各自の祈祷、軽食。だいたいこのような内容である。
 なぜ私は朝祷会に出席するのか。理由はいくつかあるが、一つは、私が信徒になった当初より朝祷会に出席していて、その頃から祈りの重要性を身に感じているからである。祈らない信徒はいないと思うが、祈りは信仰の基本である。1日の始めまた終わりに主イエス・キリストと交わることは大切である。
 最近1週間に数回も朝祷会に行った理由は二つある。一つは今日のペンテコステ礼拝のためである。S牧師のため、また人々が導かれるよう、一人でも多くの方々が礼拝に導かれるように祈っていただく。もう一つは、創立89周年記念礼拝(チャペル・コンサート)のためである。K先生の御用が祝福されるように、またこの集会に多くの方々が導かれ、救われる方が与えられるように、朝祷会に参加された数十名の方々にお祈りをしていただいた。
 応えてくださるのは主イエス・キリストの父なる神様である。この神様に期待して、私たちは最後まで忍耐をもって祈り続けたいと思う。シャローム!!

ペンテコステ礼拝そして創立89周年記念礼拝

イメージ 1写真提供:KKさん
「こんにちは」と話しかけるポピー
 
5月も後半を迎える頃となりました。
本日は「イエスの力」というテーマで話をうかがいました。
奇跡の技が行われたことを通して、主に全権をゆだねて信じ切ることの決意についても考えさせられました。
悲しみの時、困難の時、主が必ずともなってくださるということ。イエス様の十字架の苦しみを考えるとき、復活の喜びがどのようなことなのかも考えさせられます。
死に対し勝利されたイエス様の恵みを私たちは確信できるペンテコステのお話。
来週5月27日はペンテコステ礼拝です。
「私の天の父の御心」というテーマで、お話があります。
また、6月3日(日)は、桜ヶ丘教会89周年記念礼拝です。
岸義紘先生をお招きしての礼拝です。「十字架の表と裏」というテーマです。
 
 
 
 

2012/5/20 週報メッセージ

   ペンテコステを前にして                                                                 
                                                                                                         朝位 真士
  「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒1・14)
 来週5月27日はペンテコステ礼拝です。初代教会の人々は、エルサレムの2階座敷で熱心に祈っていました。すると10日後、聖霊降臨があり、教会が誕生しました。ペンテコステの出来事は祈りによって行われました。ここで祈りとは何かをもう一度考えてみましょう。
 (1)祈りとは、神と人間との対話である。
 (2)祈りとは、秘技に属するもの。旧新約聖書には約束とか契約とかいう語が276回以上記されています。神と人間との対話といってもそれは互角の両者の会話とはいえません。超越者、絶対者なる神と、罪人である人間との対話は、普通の理論で語ることは不可能です。いわば、これは秘義に属することです。この不可能と見える祈りを可能にする背景は、聖霊のお働きであり、神の一方的愛に他なりません。
 (3)祈りとは、祈ることである。祈りとは何か。それは祈ることです。静止して、論理や定義として把握される祈りは、ついに祈りとはなりません。祈りは、神に対する最大の行為です。祈りながら祈りを知り、聴従することによって、それが何であるか知るほかはないのです。
 あのペンテコステ前夜の祈りは、教会誕生の契機となりました。ともに集まって協力の祈りをすると、祈りの真価が発揮されます。来週の5月27日はペンテコステ礼拝です。私共は今一度、初代教会の力の源泉である聖霊の力を頂くために密室で祈り、協同で祈り、桜ヶ丘教会の霊的刷新のために一人一人の信仰が力強く前進し、一人でも多くの人々が教会に導かれ救われることを祈り待ち望みたいと思います。                         

母の日礼拝

イメージ 15月の連休は天候が不安定な中で過ぎていきました。
竜巻も発生するなど、その被害も大きいものがありました。
1日も早く安定した1日が戻ることを祈るばかりです。
 
本日は、母の日礼拝です。
 
様々な家庭があり、様々に母親像がありますが、私たちは母なる愛を身近なところで誰もが感じて生活しています。
お母さんはもちろん母のように接してくださるすべての方々に感謝して、今日1日を過ごしましょう。
 
また、本日は、母の日を記念として礼拝を捧げます。
どうぞ、お気軽にお出かけください。

2012/5/13 週報メッセージ

   母の日に想う
                                                                                                           朝位 真士
  「母の日」(5月第2日曜日)は、アメリカ合衆国のアンナ・ジャービスというクリスチャン女性から始まりました。アンナの母親はバージニア州ウェブスターのメソジスト教会の教会学校で献身的な奉仕をして召天されました。その遺徳を慕う人々は、1908年(明治41年)に記念会をもち、当時フィラデルフィアにいた娘のアンナを呼びました。アンナは席上、母をしのんでカーネーションの一束をささげ、お互いに毎年一度は母親への感謝をあらわすことを提案しました。この趣旨はたちまち多くの共感を得、有名なクリスチャン百貨王のジョン・ワナメーカーの肝煎りで5月第2日曜日に母の日が守られました。
 1914年(大正3年)になると、上院の決議に従ってウィルソン大統領がこれを全国的行事として発令するにいたり、今日世界中に普及しました。亡き母をしのぶ者は白のカーネーション、母の健在な者は赤のカーネーションを胸に飾る習慣がおこなわれ出したのです。なぜカーネーションかというと、5月がその自然開花の季節にあたるからでしょう。
 カーネーションはギリシャ神話でも語られています。栄冠をつくっては、詩人や画家たちに愛されていた美しい娘が、同業者たちの嫉妬を買って殺されてしまいました。けれども、アポロは娘が神壇を美しく飾ってくれたことを思い出すと、彼女を小さな紅色の花に変えました。それがカーネーションだと物語られています。
 このペンテコステ(聖霊降臨節)に初代教会が誕生したこと、また母なる教会という味わい深い言葉をこの母の日礼拝に感じ、ペンテコステ礼拝に継続されることも、神の不思議な摂理であります。聖霊の風よ、強く教会へ吹き給え!!

2012/5/6 週報メッセージ

   ペンテコステを前にして
                                                                                                            朝位 真士
  「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。……すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2章1~4節)
 今月27日(日)はペンテコステ礼拝です。2千年前、エルサレムで120人の人々が10日間、熱心に祈っていると聖霊が降り、一人一人が聖霊に満たされて教会が誕生しました。ここで、教会の特質についてもう一度考えてみましょう。①教会のからだである教会。キリストは教会のかしらであり、教会はすべてのものが満たされているところです。(A)一つの生命共同体。(B)一つの愛の共同体。②キリストの花嫁である教会。
 また教会にはいろいろな働きがあります。①世界宣教。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)教会はキリストの福音の証人です。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4・2)②信仰教育。教会の教育もまた大きな使命です。神への信仰と聖霊の真理をこの世のあらゆる反神的な思想、生活、習慣から守り、また神の恵みを代々に伝えるためにこの教育はなされます。③社会福祉。この地上に置かれています。教会がキリストの愛のうちにこの世との深いかかわりをもち、与えられた神の祝福を共に分かち合うためです。
 ペンテコステを前にして、もう一度教会の特質を考えてみましょう。

2012/4/29 週報メッセージ

   『宣教の情熱』を読んで
                                                               朝位 真士
  故本田弘慈先生の著書『宣教の情熱』を読んで、いろいろと学ばされ
ることが多かった。
 「宣教への聖旨」の中で、三つのことが語られている。①神の大いな
る愛、②キリストの贖罪の愛、③聖霊の愛の働き。
  伝道の主役は神ご自身であり、キリストの福音であり、聖霊の御
 働きによります。旧約の預言者ゼカリヤも書いています。「これは、
 ゼルバベルへの主のことばだ。『権勢によらず、能力によらず、わた
 しの霊によって』と万能の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4・6)伝道
 のみわざは、神が人を用い、教会を用いて進められる主の御働きで
 すが、一番に魂を愛しておられるのは神ご自身であり、一番に魂のた
 めに苦しまれたのは主キリストです。そして今も変わらず、救われる
 魂を求め、「言いようもない深いうめき」(ローマ8・26)をもって
 働いておられるのは、御霊であることを知り、感謝すべきでしょう。
 私の父は、九州の本田弘慈クルセードで決心をしてクリスチャンにな
り、九州の田舎の老人施設で死去したが、公立の施設で初めてキリスト
教式の葬儀をしていただいた。また本田先生は東京でも個人的にご指導
くださり、献堂式のために記念として立派な御言の書を書いてくださっ
た。「彼は死んだが、今もなお信仰によって語っている。」(ヘブライ
11・4b)

2012/4/22 週報メッセージ

   伝道とは何か
                                                                朝位 真士
  2011年度宣教方策会議が3月5~6日、教団鳥居坂教会を会場に
「伝道と伝道協力、共通理解と協働を求めて」の主題のもとに開催され
た。東京神学大学教授の神代先生が講演されて、「伝道」と「宣教」の
言葉の定義から始まり、「伝道」とは「イエス・キリストの十字架と復
活を通して罪からの救いの知らせである福音を宣べ伝えること」であり
「宣教」は「伝道、および福音によって生きる者の『愛のわざ』を通し
てなされる『証し』から成る、福音を宣べ伝える働き」であるとした。
伝道と宣教は対立するものではなく、伝道に愛の業を加えたより広い概
念が宣教であると定義した。
 続いて、「なぜ宣教しなければならないのか」という問いに対して、
福音の普遍性があげられた。「福音は天地万物の造り主である唯一の神
に由来しており、全ての人のための救いの知らせである。この伝道は、
神の働きと導きのもと、教会が福音を宣べ伝えるために建てられている
ことによって可能となる」と語られた。また福音は、信仰と共に悔い改
めを引き起こすものであると指摘した。さらには、福音の普遍性は「い
つでも、どこでも、誰にでも」当てはまるということであるから、信仰
の正当性を意味し、それゆえに教会の公同性に結びつくのであると説明
した。 
 私共は主の証し人として、「時が良くても悪くても御言を宣べ伝え」
なくてはならない。

2012/4/15 週報メッセージ

   わたしの民が大勢いる
                                                               朝位 真士
  「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」これはコリント伝道に従
事している時、主がパウロに幻の中で語った言葉でした(使徒18章9
節)。恐れずにはおられない現状を見せたうえで「わたしがあなたと共
にいる」と言葉を重ねたのです(18章10節)。恐れず、語り続け、
黙っていない時、主が共にいることを実感させられるのでしょう。そし
て逆も真なりで、主が共にいて下さるゆえに、恐れず語り続け、黙って
いない地平へと出られるのしょう。(『それゆけ伝道』より引用)
 先日、イースター礼拝でI姉が受洗されました。I姉との関係は、約
20年前にさかのぼります。私共が以前の教会でI姉の妹夫妻とお交わ
りがあり、I姉の御母堂の葬儀をさせていただきました。それ以来、九
州で妹夫妻のお祈りがずっと続けられました。神の導きでI姉と再会し
て以来、今日まで忠実に教会生活を続けられ、礼拝や特別集会に出席さ
れていました。さる3月20日の西東京教区全体研修会でのO牧師の講
演を聞き、彼が牧師をしながら弱者の方々に対する愛の奉仕に命を賭け
ておられる姿に感動されて、受洗の決意をされました。受洗はクリスチ
ャンの卒業式ではなく入学式です。こらから私共と一緒に主のことを学
ばれることをお祈りしたいと思います。
 主の御名を賛美します。ハレルヤ!!