朝位 真士
序
今日は1コリント7・1~16節を学んで行きましょう。この7章全体は結婚者と独身者。神の前に生活の必要。分解1~9結婚および夫婦生活に関するパウロの勧め。10~11既婚者に対して、離婚してはならないとの主の御命令。12~17未信者の配偶を持つ者の離婚問題。18~24召された時の身分にとどまること。25~28未婚者の結婚に関するパウロの意見。29~35このような意見の生じるパウロの見解。社会の変換と結婚生活の煩雑さ。36~38処女である娘を持つ父に対する注意。39~40寡婦の再婚について。この7章は結婚問題について聖書の中で最も明白にしるされた聖書の箇所であります。神がエデンの園で制定されたことであり、キリストもカナにおいて結婚の宴に臨席してこれを祝福された。結婚は厳粛な礼典であり、夫婦生活は神聖な関係である。パウロはこれをキリストと教会の関係になぞらえて(エペソ5・21~33)、ヘブル人への手紙の記者も、『すべての人は、結婚を重んずべきである』(へブル13・4)。ところが7章ではむしろ独身を推奨するかのように見えるのは、主の再臨が近づいていることを信ずるゆえに、この世のことにとらわれず(29~31)、結婚生活の煩雑さを避けて(余念なく主に奉仕させたい)からであり、(32~35)、更にまた、更にまた、再臨の前に患難時代のあることを知る故に、そのとき家庭の係累のあるものはさらにその患難が増すことを思って(26~28)、パウロの意見を述べたのであります。パウロ自身は独身生活で主のために精進しており、出来れば彼らも主のためにそのような生涯を送るようにと願い(35)、むしろ独身を推奨したのであります。
本
1コリント7章1~16節を見て下さい。コリント教会は、形成後の日も浅く、未だ教会の固定した慣習もなかった。それで何かの事件にぶつかると、問題をどう処理したらよいかわからないということがかなりありました。パウロは、そうした具体的な問題に対して、またきわめて具体的な解答を与えています。この7章は結婚問題を語っています。ここでは結婚の原理のことよりも、いろんな事態に直面して、実際にどう対処したらいいか、と言う問題であった。例えば、独身の状態はどうであるか。離婚は絶体にいけないのか。夫婦の片方が未信者の場合はどうすればよいか。処女や寡婦の結婚についてはどうか。そうしたことについて、コリント教会はパウロの意見を求めた。パウロは、これに対して、コリントという特殊の土地を考慮にいれながら、答えています。1~7節をもう1度見て下さい。キリストの再臨は近い。できれば、独身でいたほうが身軽であります。パウロの結婚の意義に関する教えはきわめて厳かであり、コロサイ3・18~25,エペソ5・22~23などに見られます。人にはそれぞれの異なった賜物がある。要はそうした場所で、そうした時代に、どうすることが、主の道を守るのに最もよいかということであり、各人がそれぞれ決定しなければならないことであります。8~16節を見て下さい。15節を見て下さい。やむを得ず、離婚が認められる。その理由として、第1には、神が信者を召されたのは心の平和を得させるためであったからである。離れ去った相手と、無理に結ばれていかねばならないとすれば、平和はいつも失われる。第2の理由は、とうてい相手を信仰に導く可能性がないからであります。未信者と生活している信者は、相手を信仰に導き、救いに入れることが義務とされた。しかし、そうして相手に対して、その確信がもてるか。なかなか困難である。その確信が持てないならば、安価な感傷にふけって、いつまでも自分を苦しめる必要はありませんとパウロは語っています。
結び
この1~7節は男性と女性、夫と妻、独身であれ結婚するのであれ、いずれにしても主に従っていくことを進めています。マタイ19・11~12節見て下さい。p367。8~9未婚者と寡婦、7・10~11節結婚した人々に。7・12~16節を見て下さい。配偶者が未信者の場合の離婚。この論法の問題点は、1・結婚してから導くというが、その相手が救われる保証はない。救いは主のみ業であります。御言葉に従わないでいて、主に期待するのは虫がよすぎる。2・結婚してから信者でない相手が救われたという例は確かにあるし、それは素晴らしいことであるが、保証がありません。バークレーこのコリント教会がパウロに相談してきた問題を整理してみると、1~2クリスチャンは結婚すべきではないと考える人々への勧告。3~7すでに結婚している者もおたがい性関係を一切断つべきだと主張する人々への勧告。8~9未婚者および未亡人への勧告。10~11既婚者は離婚すべきだと考える人々への勧告。12~17夫婦の一方がクリスチャンであり、他方が未信者である場合、その結婚は解消されるべきだと考える人々への勧告。