「神の愛の勝利」2020・7・12説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・31~39節を通して聖書を見ていきましょう。今日でローマ8章が終わります。米田豊先生はこの全体を通して律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌として、1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉的な人と霊的な人。14~17神の子たる者の特権。18~22今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び31~34神の保護、選び。キリストのとりなし35~39愛、神の愛による勝利。永遠の安全。と分解しています。

本 今日のローマ8・31~39節を見て下さい。ローマ8・31~39節には、主イエス・キリストの溢れる御恵みと、このキリストを信じて生きる者に与えられている勝利の人生が、声高らかに歌い上げています。ここはローマ書のキリスト教信仰の基本の結論であります。「神がわたしたちの味方である」(8・31)は、この結論の要約言ってもよいでしょう。「味方」と訳された言葉(ギリシャ語の(ヒュペル)は、英語ではforであり、「ために」とも「代わって」とも訳されています。神はわれわれのために身代わりになってくださったと言うのであります。32節は「その御子さえ惜しまず」とい言葉は創世記22章12節の言葉そのままであります。族長アブラハムがイサクを献げる場面です。

創世記22章を見て下さいp31です。この時の「自分の独り子を・・・惜しまない」という言葉が、その通りにローマ8・32節に使われています。神御自身は御子イエス・キリストを惜しまないで十字架につけて人間のために犠牲とされたのであります。人間の救いをめぐる神の愛の活動は、それは、現在的であって、過去的ではない。といことである。神によって、御計画のままに行われる救いに実施すなわち、神の救いのみわざは、不思議な面をもっているのである。これによって神の愛の生きた力にふれるのである。愛は理論ではない。悪魔との戦いのなかに、具体的にあらわれるのである。キリストを信じる者は、自分が、その愛の中あることを信仰を持って知らされるのである。

神の愛が、「わたし」に与えられていることを信仰によって知る時、神は「わたし」の味方であるという確信を与えられるのである。神は「わたし」の味方と考えるなら、その線に立って、大別にして2つになる。神の側の事柄と、キリスト者側の事柄とである。神の側の場合は1・神はキリストを死に渡したもう。2・万物をも賜う。3・キリストは、父なる神のみこころに一致して死に、そしてよみがえりたもうた。4・キリストは、神の右に座して、わたしたちのためにとりなしたもう。その支配はおわることがない。キリスト者の側の事柄は、神の側の出来事を原因として、あらわれるのであるが、つぎの3つのことがいえます。1・キリストにある者は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣をうける。2・わたしたちを愛して下さったかたによって、あらゆる苦難に対して勝利をえる。3・勝利を得る毎に、神の愛の強さを知り、この愛からわたしたちを引き離すものは何1つないという確信が与えられる。38節をもう1度見て下さい。キリストのうちにある神の愛と「わたし」とを絶縁させるものは1つもない。これがキリスト者が神の愛に押し出されて、わたしのものとするのであります。キリスト者は、神の良き兵卒であります。兵卒は、将軍に対して忠誠をもつ。最悪の事態が身に降りかかっても、たじろがないのが、勝利をねがう兵卒である。キリスト者の信仰の戦いこそ、これである。テモテヘの手紙2・2・1~7節p392見て下さい。キリスト・イエスの兵士としてパウロが書いています。キリスト教の歴史は、キリスト者のキリストへの忠誠の歴史といってもよいでありましょう。

結び

もう1度8・31~39節を見て下さい。特に31節にあった問いに対する回答であります。キリストを通して働く神の愛の力から私達を引き離すものは何もないのであります。神との出会いの故に、永遠なる者と向き合った存在として歴史と人生の最後の瞬間にも、8・39のですから、わたしたちは「御国に生きる」者となるのであります。フイリピ3・20~4・1p365を見て下さい。パウロはローマ書の8・38~39節にもこのことを語っています。どんな被造物もキリストにある神の愛から私達を引き離す事は出来ないと言う確信の告白であります。

悪しき霊の働きは、現代においても種種の占いや迷信の虜になっている。キイスと者はその現実をみて、自らを正すと共に、完全に自由と勝利を得ているかどうかを自問して身を引き締めなければならない。最後に8・31節を歌います。