「神に対して実を結ぶ」2020・5・17説教要旨

朝位 真士

今日はローマ7・1~6節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ7章は米田豊先生は

全体を律法に対する死。律法の下の生涯。心の内の矛盾分解としては1~6律法からの解放された信者の身分。1~3律法は人をその生存中だけ支配する。夫に死別した妻の例。4~6律法と信者の関係。7~25律法によってはきよめられないこと。7~12律法の目的。律法と罪の関係。13~14律法と罪と私の三者に関係

15~24内住の罪のための煩悶25上救う者に発見、感謝。25下律法の下にある実際的な状態。

聖書ローマ7・1~6節を見て下さい。私達信者は律法の下にいない身分の者であることをしるす。いったい

(律法は人をその生きている期間だけ支配するもので)、死んでしまえば律法の束縛から免れるうえ、夫が死ねば妻は再婚することが出来る(1~3)。これは夫が死んだ場合であるが、私達はさきに律法という夫を持ち、

その夫に縛られていたけれども、私達がキリストの死に合体して、(律法に対して死んだので)律法から

解放されたのである)(4~6)。私達が夫である律法に不従順であったため、律法である夫が私達を殺そうとしたのを、キリストがその刃の下に入って私たちの代わりに死んで下さった。それゆえ私達は、キリストによって、律法と死別した身分である。(4上、ガラ2・19)。そして(死人の中からよみがえられたかた)すなわちキリストに嫁ぎ(4下)、今度はキリストを夫として、今迄のように(死のために結ぶ)のではなく、(神のために実を結ぶに至る)のである。(5、4)。キリストの死は私達を「罪から解放し」、(6,7)、(律法から解放)し、(6)、世と絶縁させる(ガラ6・14)。私達は、罪から解放されたので、きよい生活を送ることができ、律法から解放されたので、その生涯と奉仕に自由があり、世と死別したので、世の誘惑に勝つことができる。キリストの死の力は讃美すべきである。

結び

もう1度ローマ7・1~6節を見て下さい。クリスチャンが、今新しい主、主イエス・キリストのものとなって再婚出来ている。このことは事実です。説明の必要はありません。しかしともすると気づかないでおりますことは前の夫の掟(律法)、古い掟に引きずり回されているということです。前の夫は死んだのです。前の律法からの解放されたのです。ルーテル教会の神学者岸千年先生はこの7章全体を律法と律法からの解放としており、7章1~3節は律法の用法。7・4~6キリストの死と律法と分類されています。律法は人をその生きている期間だけ支配するといって、律法の機能は1時的であって、その期間が過ぎれば、その力は、それ以上に及ばない、夫と妻との関係を例に取れば、夫と妻というこの世における秩序の中での関係は、夫の在世中の問題である。だから夫が死ねば律法から解放される。妻は、女性として自由を得るのである。パウロはここで、未亡人の再婚をすすめていうのではなくて、1つの状態からの解放の実例を律法における夫と妻との関係にとっているのである。ですから私達は「神に対して実を結ぶ」それは「きよきに至る実、その終極は永遠のいのち」である。人がキリストとの一致によって生活を守るとき、もはや罪への欲情を喚起させる律法の法に規制されないのである。「精神を尽くし、心をつくしてイエス・キリストに忠誠を献げようとするのである。」また実として考えられるのは御霊の実ガラテヤ5・22~23節「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つの実です。また人がキリストとの一致によって生活を守るとき、律法ではなく、愛の生活の動機となる。愛の力は律法の拘束が実行することの出来なかったことを実行させるのである。ここでキリスト者はキリストの花嫁である故に、「神に対して実を結ぶように」といつているところである。木が水を注がれて養い育てられると、時が来ると、実を付けるように、神の恵みに潤され育てられた者は、神のために、神を喜ばせる生活を産み出していく者である。それにはヨハネ15章にあるぶどうの木と私達の関係を良く現わしています。葡萄の木と私達の関係、キリストに結び付くつまり教会に連なって行くならば、実を結ぶ事が出来ます。