「感謝すべき福音」2020・6・14説教要旨

朝位真士

今日はローマ7・13~25節を通して「感謝すべき福音」と題して聖書を見て参りましょう。この箇所全体を通して聞こえてくるのは、キリストにあって義とされた人間の雄々しい戦いの声ではなく、実に惨めな罪の奴隷のうめき声である。

1・18-3・20において、パウロは神の怒りの下におる人間の罪について述べている。しかしそこに描かれてるのは罪の支配下でうめき嘆く人間ではなく、罪の中にありながらなお自ら高ぶる人間の姿であり、更にその状態をよしとする倒錯した心であった。

そのような人間の姿は、福音の光に照らされて初めて明らかにされる。7・7―13では、罪は神の律法や戒めを通してそのいとわしい

姿を現わすほど邪悪であることが示されたが、それに続く箇所でパウロは、生きながら地獄を経験した人間のことを語っています。

 今日のローマ7・13~25節を見て下さい。この13~23節まで二律背反を語っています。パウロは、律法は、聖なるもの、正しいもの、また善なるものと言い、さらに、この段では、霊的ものであると言った。このことを記憶しておくことは、ここにあるパウロの自己分析についていくのに役だつのである。次に、ここに見る事柄は、キリストと出会って、罪のゆるしを与えられた後のパウロの自己分析であることである。なぜなら、このような思い切った自己分析は、キリストの光なかである。そのことは、24節と25節からわかるのである。

キリストを信じる者は、その信仰によって罪がゆるされる。しかし、罪がゆるされ、神との関係が、正常にされるのは、あくまでもキリストの中においてである。しかし、キリストを信じる者は、キリストに免じて神との正常な関係に立たされるにしても、キリスト者の中身は、やはら、まだ「古いわたし」なのである。キリスト者は、義とされた者であると同時に罪人であると言うことがキリストの中にある者に対して言いえられるのは、ここに述べた理由である。

キリストの中にある「わたし」は、霊的な律法、すなわち、神をみなもととしている律法をよろこび受けるはずなのだが、現実のわたしは、肉につける者であるからそうはしないとパウロは告白する。キリストを知っても体質の改善は、全面的に完成したわけではない。まだ「肉のもつ特有の傾向をもっている」ので、「罪の下に売られた者」として存在する。

しかし24~25節を見て下さい。勝利は約束されている。人間失格の叫びである。自分で自分を救うことができないのに、自分で救おうとすれば、死ぬよりほかはない、それは、死に勝ちをえさせることである。ところがここで、人間理性では説明のつかない救いがキリストからきたのである。だから、パウロの言葉は、簡単である。

しかし、その言葉は、勝利者の凱歌である。万歳の叫びである。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」といっただけである。ギリシャ語では、「感謝、神に対して、イエス・キリスト、わたしたちの主によって」の順序である。

キリストの御業を証する御方は、聖霊である。感謝は、聖霊の証に対し反射的におしだされる。父なる神が、その感謝をおうけになる。そして、イエス・キリスト、私達の主こそ、救いのみわざの実行者である。だからキリストを通路として、「わたし」の感謝と讃美とは、父なる神の御前にささげられる。ここに三位一体の神のそれぞれの役割をのぞきみると共に、「わたし」は、このような生ける神の御手のうちにあって、この方に応答しているのだという確信をもたらされるのである。

この神にしてはじめて、罪の支配に対する勝利を得ることが出来るのである。罪と死と悪魔と三つが上げられ、人間をほろびに導く恐るべき力として知られているが、父と子と聖霊なる神は、この力の上に立って悪の力を克服したもうのである。「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とイエスは弟子達を勇気づけられた。パウロが彼の問題に悩み抜いて、主から与えられた導きもこれであった。すなわち、この世にある限り、キリスト者は二律背反を体験する。しかし、罪の律法は、キリストによって、骨抜きにされている。牙のない毒蛇である。大胆に自分の罪を認め、これを告白し、また、それ以上に大胆にキリストを信じ、神の御心に従う事こそ、」キリスト者の行くべき道である。これは、ルターが、メランヒトンに宛てた手紙の一節の内容であるが、パウロの線に立っているものであることは、だれにでも、解るところである。

結び

 もう1度ローマ7・24~25節を見て下さい。この14~25節は神の律法と罪の法則が語られています。

パウロのこの議論によって、「律法」がそれ自体「罪ではない」と言うことは確かに明らかにされ、「律法は良いものであること」が明らかにされました。しかし「律法」は、私たちをこの内部の渇藤から「救う」ことについては無力であることも、明らかになりました。律法は罪を目覚めることに有効であります。その罪がひとつの法則性さえ持っていることに目覚めさせることに有効であります。しかし、その手強い、法則性さえ持っている「罪」からわたしたちを解放する「救い」の力は、掟にはありません。

パウロは24節で、「私は何という惨めな人間なのだろう」と叫んだのではありますが、これは決して、自分の中に内部分裂があるから「みじめ」だという叫びではありません。私の中に善い事をしたいと言う思いもあれば、しかし実際には悪い事ばかりすると言うことを、彼は「みじめ」だと言っているのではありません。そんなことであれば、ギリシャの文化人でもローマの文化人でも皆言ってきたのであります。

パウロがここで本当に自分のみじめさを告白しておりますのは、救ってくれるはずの「律法」に「救い」の力がない、と言うことを知ったからです。「いのちに導く律法」が、「罪」を目覚めさせるには力がある、「罪の法則性」を知らせることにも有効なのに、その力からわたしを解き放ってくれない、「律法」だけでは救われないという事実にパウロはぶち当たっているのです。神様が人間に与えて下さった宗教、「これを行え、さらば生くべし」と言って下さったその「律法」が救うことについては無力だとしたならば、人間はどこに希望を託せますか。「私はなんと惨めな人間なのだろう」しかし、「感謝すべき」ことに、「私達の主 イエス・キリストによって、神は」その無力な「律法」とは違う“恵みによって私達を罪の力から救う、救いを与えてくださったのであります。これが「感謝すべき福音」なのであります。もう1度7・24~25節を見て下さい。