朝位真士
序
今日はローマ11・1~10節を通して聖書を学んで行きましょう。私の尊敬する米田豊先生はこのローマ11章全体を恵みの選び。神の慈愛と峻厳。神の経綸。として11章全体をイスラエルの将来と奥義1~6イスラエルの中で、恵みによって残された者。
1~2上神はその民を捨てられない。2下~4昔のエリヤの時の残された者。5~6今も存する恵みの選びによって残された者。7~10イスラエル全体の盲目的かたくなさ。11~12彼らのつまずきと異邦人の救いの関係、およびその意味。13~16異邦人の使徒である記者のユダヤ人の救いの願望。17~24異邦人信者に対する警告。25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエル及び異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章の讃美的結論。パウロは9章で、神の選民たるイスラエル人が不信仰の為に捨てられたからといつて、その為に神の約束が無効になったのではないことを述べ、9章から10章にかけて、かえって異邦人が信仰によって救いを受けた事を述べたが、では(神はその民を捨てたのであろうか)(1)という問題を提起する。これが11章の主題である。11章は、この1節の間と、(彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか)(11)との2つの問いを中心にしるした解答で、そのどちらにも(断じてそうではない)とまず答えておいて、その説明をする。神がその民を捨てられたのではないことについて、パウロは、1・自分もまた選民のひとりであるがゆえに(1)、2・エリヤの時の例を引いて、今も少数の残された者がいるゆえに(2~6)、3・約束は最後に必ず成就して、選民は国民として回復され、皆救われること(26)を述べる。その説明の中に預言者エリヤが(わたしひとりが取り残されたのに、彼らがわたしのいのちを求めています)と神に訴えた時、神が(バアルにひざをかがめなかった7千人を、わたしのために残しておいた)と答えられたことを引いているのは(3,4)私達が大いに学ぶべきことであります。エリヤは自分ひとりが残っていると思っていたが、神は7千人も忠実な聖徒がいると言われた。四面楚歌の中にあってただ自分ひとりが信仰に立っているなどと思うと、心細く寂しく感じられるが、自分と同じ境遇の中にあって苦難に耐えている人が他にもいると思うと励まされる私たちは、主に忠実なのは自分だけ、自分の教会だけなどと思うべきではありません。他にも隠れた敬虔な忠実な聖徒がいる。自分だけが熱心だと思うひとりよがりのうぬぼれは、人を高慢にし、偏狭にします。6節は恵みと行いの区別を明白に述べてものであります。恵みとは、神が任意に与えられる純粋の恵みで、それを受けようとする相手のいかんに関係なく、与えられます。行いとは、人間が自分の力で行う事が出来る。神の選びや救いは純粋名恵みで、人の行いや勲功を条件として与えられるものではありません。それゆえ、これを受け、その祝福にあずかる者に必要なものは、ただ信仰だけであります。ユダヤ人はただ少数の者がこの恵みの選びによって祝福を得るだけで、大多数の者は不信仰と頑なさの為に恵まれないが(7-10)、選民の不信仰によって、救いが異邦人に及び、それによって、イスラエルを奮起させるための神の御計画であります。
本
ローマ11章1~10節を見て下さい。ルーテル教会の岸先生はこの11章1~36節を奇しき救いの計画として11・1~4節イスラエルは捨てられたか。5~12イスラエルのつまずきと異邦人。13~24オリブの木のたとえ。25~27神の救いの奥義。28~36栄光神にあれ。と分解しています。パウロは、信仰の目をもって、神のみわざのきわまりない変転の中に、一貫した神の御計画があることを見極めることが出来たのであります。「神はその民を捨てたのであろうか」という問いに対して、躊躇なく、断じてそうではありません。と答えた。そして自分自身を例にあげたのであります。自分を、エリヤに比較していることが分かります。エリヤは異教徒バアル礼拝者の中にあって、追いつめられて孤立し、この世に自分以外にまことの神を礼拝する者はないと考えた。しかも、バアル礼拝者は、エリヤの命さえうかがっていた。彼が殺されるなら、もはやまことの神の礼拝者はいなくなると考えたのであった。しかし、生ける神は、意外な御告げをエリヤに与えた。「バアルにひざをかがめなかった7千人」が、まだ残っているということであつた。神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはなさらなかったというのがパウロの結論であります。残された少数者こそ、人の力によらないで、全く神の恵みによって選び分かたれた者たちでありました。「わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者であるという言葉のうちにこのことがよくあらわれています。1節を見て下さい。もう1度2節から10節を見て下さい。
結び
パウロは、神の知恵の輪の功妙な仕組みに驚きの目を見張ったのであります。神は、人間より何も求めないで、人間に救いの道を備えられた。「代価なし」という言葉こそ、恵みの意味であります。そうすれば、人間の側で、神の御前に行いが悪いと言うのではなく、行いが出る場所は、ここではないということであります。恵みが純粋に恵めとして受け取られるためには、恵みが、人間を圧倒するよりほかにはありません。恵みが、人間を圧倒して、これによって恵みを受け入れる状態をつくり出す時、これを指して「信仰」というのであります。人間的に見れば、イスラエルは、民族として、自ら、神と無関係となってしまったと考えられますだが、相手は、生きて働き、敵をも愛するまことの神であります。目には目、歯には歯という仕返しをもとめる神ではなく、手におえない者たちを愛しつつ、彼らの留まるところを知らず落下する状態に終始符をうつ神こそこのまことの神であります。パウロは、自分とユダヤ人キリスト者がイエス・キリストに救われているという事実の中に、ユダヤ人に向かって神の手が伸ばされ、神がユダヤ人を捕らえて導いておられる事を、パウロは預言者エリヤの例を挙げて示しています(11・2-4)。パウロはエリヤのことを例に挙げて11・5を見て下さい。それを旧約聖書(申命29・3,イザヤ29・10、ローマ11・9~10詩篇69・23~24、70人訳)。から引用しています。