「律法は聖であり正しい」2020・5・24説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ7・7~12節を見ていきましょう。米田豊先生は7~25節は律法によってはきよめられない事。7~12節は律法の目的。律法と罪の関係。13~14律法と罪とわたしの三者の関係。15~24内住の罪のための煩悶。25上救主の発見。25下律法の下にある実際の状態。と分解しています。

 7節以下12節を見て下さい。7節以下では(それでは・・・律法は罪なのか)(7)と、(では、善なるものがわたしにとって死となったのか)(13)との2つの問い提出して、それに答える。まず、律法とはいかなるものかを述べて、(聖なるもの)(正しく、善かつもの)(12)また(霊的なもの)(14)で、その目的は罪を示すにあることを説き(七)律法の下にあっては罪が活動するもので(9)、本来は人を生かすかためにあたえられた律法(ガラテヤ3・11~12)が、かえつて人が罰せられることを述べている(10)。人の生来の罪は、(戒めによって機会を捕らえ)人を誘って罪を犯させ、ついに死に至らせる(8、11,13)。ローマ7章は、「福音が律法から解放をもたらすもので」あることを教える者でありますが、今日の箇所では「律法」とは何かここでパウロは律法そのものが悪しき者、間違ったものであるかのように考えることはハッキリ否定しています。7・12「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものである。」と語っている。「律法」という言葉は日本のキリスト教の術語であって、他ではあまり使われません。英語ではLAWで、「法律」と同じ言葉です。聖書において用いられている場合は、神の法律、神の掟という意味が強いので、神が与えてくださった人間生活のルールであります。このルールにそって生活する事によって、人間として訓練され、堅実な生活を築くことができるのであります。もう1度7・7~12節を見て下さい。ユダヤ人が、生まれますと物心の付くときから、親から読み書きを習いあるいは言葉を教わりますその言葉、その文字は、聖書の掟であります。だからユダヤ人がものが言えるようになって最初に言える言葉は、釉薬聖書の律法の言葉であり、彼らが字を書けるようになる最初は旧約聖書の掟の文章でありました。ところがユダヤ人は、男子13歳から神の戒めを自分自身の責任でことごとく守る責任を請け負う1人前のユダヤ教教徒として成人式「パル・ミツワ」、“戒めの子`という意味でありますが、これを迎えるのであります。それはそのころにならなければ暗記していた神の戒めの意味が分からないからであります。私達クリスチャンは、決して、神の戒めを首尾よくまもり果たす事によって、神様から義とされて救われるのではありません。そのような手続きから解き放たれております。わたしたちはただ、自分が無力であることを、キリストを私の救い主として信じますと言えば、その信仰によって、恵みによって救われます。

結び

 もう1度ローマ7・7~12を見て下さい。ここまでの事柄を要約すれば、律法は、もともと、神のみまえにおける人間にいのちにいたる行為の規準を与えられる者であるのに、「古いわたし」に接蝕するときは、かえって、死に導く結果をもたらすことになってしまうのである。これがパウロにいつわりのない告白からひきだされる結論である。12節を見て頂きますと、パウロは、この段で、「律法」と「戒め」とをならべ、相互の関係を示してくれる。律法は総括的な表現であり、戒めは、律法と特定の部分出関係する。言葉を換えて言えば、戒めが集まって律法を構成するといえるのである。律法も戒めも聖なるものであるということは、律法も戒めも、共に神にぞくし、神より出で、神にぞくし、神のためにこの世のものとくべつされていることを意味しているのであります。しかがって、これらは、神の側に立つものであって、罪の側に立つものではなく、したがって、罪のそとにあるのである。さらに、律法及び戒めが正しいと言うことは、それらは神のみこころと一致していて、人間の行為に対して規準となりうることを示しているのである。これらのものが、善なるものであるとは、悪と何のかかわりをもたず、むしろ、積極的に、われわれを、刑罰と死とをもたらす悪から遠ざけるように強要するだけの倫理的な力をもっていることをあらわしている。このように、律法と戒めとは、「聖」「正」「善」として性格づけられるものを本質としていることがわかるのである。