「福音を伝える者の幸い」2020・8・16 説教要旨

朝位 真士

序 

 今日はローマ10・14~21節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの10章全体を神の義と、律法の終わり。救いを得る道。信仰の根拠と全体をまとめています。また10・14~17節では福音宣伝者の特権と責任。18~21節はイスラエルの不従順と、異邦人の救いとまとめています。(信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである(17)。それゆえ、伝道者の伝えるべきものは主の言葉、神の言葉で、信仰の根拠はこのはかにはありません。しかし、聞いたことのないものを信じる事は出来ない(14)。ここに、すべての伝道者および信者の責任がある。伝道者は勿論「時が良くても悪くてもそれを励み」「御言を宣べ伝え」なければならないが(第2テモ4・2)、全ての信者も、つとめて福音の恵みを、多くの人にあかししなければならない。

18~21節に、神がユダヤ人を悔い改めさせるための3つの方法を示す。神を求めなかった異邦人でさえ恵まれることを示し(ゆえに彼らも信じさえすれば救われる)。次に彼らが異邦人の妬みを起すようにさせ(19、11・14)、そして更に(服従しない反抗する民)にも(手を差し伸べて招いておられる(21)。それゆえ私達も、この神の恵みと愛の心をもって、いかなる反対者や不信仰な者のためにも、祈りまたあかしをするべきであります。

ローマ10・14~21節を見て下さい。14節には3つの問いが列挙されています。この一連の問いの強調点が、「宣べ伝える人がいなくて、どうして聞く事が出来るでしょう」と語っています。15節のイザヤ52・7節の引用によってp1148宣べ伝える者はすでに派遣されていることが明らかになっています。したがってパウロは、聞いたことを何故信じなかったのか、何故御名を告白し、呼び求めないのかと、ユダヤ人の不信仰を責めているのである。

信仰が従順と結び付くように、不信仰は神が提供しておられる恵みを拒むことに直結しており、そのような人々は不従順の責任を問われる事になる。このイザヤ52・7節の引用は「良いことの知らせを伝える人々」と複数形にすることによって、キリストの福音を宣べ伝える人々をさしています。「なんと美しいことか」は、彼らが派遣され、福音を語ることがちょうど良い時になされたことを物語っています。福音はそれほど周到に伝えられた。したがって、自分は彼らから福音を聞かなかったという言い訳は成り立たないのであります。

しかし16節を見てください。これはイザヤ53・1節からの引用です。ここで言われている「知らせ」は、福音のメツセージ、福音の内容であります。苦難のしもべ(メシヤ)についての使信をだれも信じなかったというこの嘆きのことばは、そのまま、十字架につけられたキリストを語る説教を聞いても信じなかったユダヤ人に対する嘆きとなっています。次に17節は「キリストについてのみことば」であります。しかしユダヤ人たちは、復活して天に挙げられた主が、聖霊によってかたられる御言葉を聞いたのであります。

それにもかかわらず福音を拒絶した彼らの責任は重大であります。18節は、イスラエルから彼らの弁解の根拠となるものをすつかり取り去るために記されたものであります。これは詩編19・4節の引用であります。(詩編19・5節新共同訳)ユダヤ人たちは、キリスト教の説教を聞いた。この詩編19・5節を福音の世界大の宣教という意味で用いています。19節は18節の内容をいつそう深く掘り下げています。まずモーセの言葉、申命記32・21節p333引用言葉によりローマ10・20節はイザヤ65・1節の引用p1167には異邦人によって神が「見いだされ」、また神も彼らに御自身を現された。という特別掲示と、それに対する応答があったという事をイザヤ65・1節で語っています。ローマ10・21節を見てください。これはイザヤ65・2節の引用同じくp1167神は「不従順で反抗する」イスラエル人に、忍耐強く憐れみを持って語り続けられるのであります。

まるでルカ15章の放蕩息子の父親のようであります。しかし、福音の宣教は、復活のキリストの言葉を全世界に向かって語ることであり、信仰と、不信仰、従順と不従順の応答を導き出す。それによって、神の永遠の予定は実現していくのであります。私たちの近くにある御言葉を拒否することは、1・18以下で論じられた「神を知っていながら、その神を神としてあがめない」罪以上の思い責任を人に課すのであります。神のみことばが人と出会うところで実現していきます。それだけに、福音を伝道する者にも、これを聞く者にも大きな責任が伴うのであります。

結び

もう1度10・14~21節を見てください。キリスト教は伝道の宗教であります。キリスト教では、キリストの福音を聞き知った者は自分の方から出かけて行って、これを伝えようとします。伝道、ミツションこそ、キリスト教生活そのものと切っても切れない、基本的な働きであります。エミール・ブルンナー博士は「火が燃えることによって存在しているように、教会は宣教によって存在する」といわれました。このようにキリスト教は伝道ナシにはあり得ない。それは伝道がキリスト教の本質と関わっているからであります。

第1に伝道は主イエス・キリスト御自身からでるものであります。第2にこのキリストは、ただわれわれの所に来られて出会われたというだけでなく、我々の罪のために十字架についてくださいました。ここにキリストの愛があります。このキリストの捨て身の救いを知った私たちは、これを1人でも多くの人々に伝えなければならない責任があります。第3に伝道はキリスト者が人々に対して果たさなければならない責任があります。お互いにこの素晴らしい福音を伝えるものにしていただきましょう。