2025/2/2 週報メッセージ

無くならない恵み

川﨑 信二 

 主イエスが行われた奇跡。たった5つのパンと2匹の魚で何と5千人の群集(女性と子どもを入れると1万人以上)を満腹にさせるという、度肝を抜く御業をなさったのです。

 パンが増えた?これはミラクル?マジック? でも、<パンを増やした>とか<パンが増えた>とは一言も書かれていません。私たちはどうしてもこの記事を「パンを増やす」話として読む傾向があります。

イエス・キリストは凄い方だぞ!キリスト教は凄い宗教だ、と世に見せつけるために奇跡を行われたのではなく、「大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深くあわれみ」(34)……つまり目の前で苦しんでいる人を放置できず奇跡を行われた。結果的に奇跡をされたが、これ見よがし、ではない。<増えた>のではなく<無くならない恵み>です。それは、神の愛は変わることなく常に私たちに注がれている、ということです。

 イスラエルが求めていたのは<増える力>でした。ローマ帝国を力でねじ伏せるメシアを求めていました。私たちは世界でキリスト教が力をもって優位に立つことを求めてしまいますが、むしろ、十字架の道を歩まれた主の姿から、身を低くして謙虚に歩む信仰を得させていただきたいものです。神が十字架で死ぬことは最も大きな奇跡です。全能の神が死人を復活させることは簡単ですが、独り子を重罰刑で死なせることは最も辛いことでした。

私たちの罪を赦して救うために十字架という奇跡を成し遂げて下さった主を神として仰いでゆきたいと思います。

2025/1/26 週報メッセージ

人間をとる漁師に

川﨑 理子 

 わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。

                  マタイ4:19

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。その時から「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められた。「天の国」は「神の国」であり、「悔い改めよ」とは「回心しなさい」との意味である。いよいよ神の独り子としての主イエスの歩みが始まったのである。

 ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンと兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。

 至近距離で見られながらの作業はどうだったのでしょう。

主イエスの視線を感じながら黙々と二人は漁を続けていた。

さらに進んでその先でヤコブと兄弟ヨハネが舟の中で網の手入れをしているのを御覧になった。

 冒頭の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」は圧倒的な神の権威に満ちた言葉だった。有無を言わさない権威。それは恐怖ではなく、神の臨在そのものであり、その言葉通りにせずにはいられない神々しさであった。だから彼らは「網」を捨てた。また「舟」と「父親」を残して、イエスに「従った」のである。網も舟も父親も彼らの大事なものであり、生活のすべてだったがそれを捨てた。それ以上のものが主イエスの言葉にあったからである。

主イエスは宣教をひとりではなく、弟子と共に行った。弟子と言っても、宣教のための雄弁な言葉を持っている者ではなく、地方のガリラヤ湖で真っ黒に日焼けした漁師たちだった。その彼らに主イエスは「人間をとる漁師に」と声をかけられたのである。すなわち、わたしがあなたを「新しく造り変える」から「共に行こう、共に生きよう」と。主イエスと共に生きる光栄。この上ない、やりがいのある最高の仕事…。彼らは新しく変えられたのである。

主イエスはこの4人を御覧になった。ルカ福音書では「夜通し苦労したが不漁」(ルカ5:5)で落ち込んでいた、とある。主は仕事で落胆し、行き詰まっている者を見つめ、新たに弟子という職を与えてくださる。

わたしたちも主イエスに見てもらい、造り変えて頂けると信じるなら何と幸いなことでしょう。主はあなたをスカウトしようと、直ぐ近くで見ておられます。

2025/1/19 週報メッセージ

初めに言があった

川﨑 信二 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1:1)

 ヨハネによる福音書は「言」という言葉で始まります。

言はギリシャ語でロゴスと言われ、当時の人からは誰もがよく知っている哲学用語でした。翻訳しにくい言葉ですが、崇高で権威ある根源的な意味が込められています。

この福音書には謎めいた言葉が多く難解ですがその謎が解き明かされた時の喜びは大きい。数学的な未知数をXで表しますがそれが解けた時の喜び。キリストもⅩで表します(Χριστός)。Ⅹが解るとXmasの意味も解ります。「言」がイエスであることが解れば、イエスが神であることも解ります。ヨハネは、イエスが天地創造の前から存在された神であることを伝えるためにこの書を記しました。

 「初めに言があった」。「初めに」とは単なる「時の始め」ではなく、神の決意を表します。神は並々ならぬ決意をもって世を創られた。黙示録にて主イエスが「わたしは初めであり終りである」と告げておられます。主が愛をもって世を創造され、責任をもって万事を締めくくってくださる。実に頼もしい言葉です。この方こそ「言・命・光」なのです。

 

 暗闇は私たちのことです。暗闇が光を理解せず、主イエスを十字架で殺してしまうことを指しています。分からないから殺しちゃった。ギリシャ人はロゴス(言)の意味を知っていてもそれが主イエスだとは分からなかった。ユダヤ人も理解不能でした。

 世は主イエスを理解できない。ヨハネも主イエスの一番近くにいたのに理解できていなかった。放蕩息子の兄もそうです。私も教会の中に住んでいるものの神の愛を理解しきれていません。でも、感謝なことに理解しない民の中にこそ光は輝く。理解しない民を救うために、十字架の光が厳然と輝いています。主は裁き主ではなく、私たちの罪を赦し、救って下さる方です。

私たちは本当の意味で主の愛を理解しているでしょうか。理解できない私のために主は十字架にかけられた。そのことを感謝したいと思います。

2025/1/12 週報メッセージ

新しいぶどう酒

川﨑 理子 

 桜ケ丘教会は以前、毎週礼拝後に愛餐会があったと聞いています。昨年のイースター礼拝後(歓送迎会)に、先月のチャペルコンサート後に、またクリスマス祝会、イヴの茶話会と、4回も皆さんと交わりができたことがとても嬉しく、感謝のひと時を過ごすことができました。

 コロナが5類になってからようやく少しずつ各教会で愛餐会が持たれているようです。もちろん、まだまだのところもあるかとは思います。

教会の愛餐会を暫くお休みして分かったことがありました。誰かが「マルタ」になって下さっていたこと。そして、その業は喜んでなされていたこと。恵みが沢山であったこと。その業はイエス様の愛無しではあり得ないものだということを私自身が気づかされたのです。

 聖書では、イエス様から「わたしに従いなさい」と声をかけられた徴税人レビ(マタイ)がその御礼にもうけた宴会の場面が記されています。集まっていたのは徴税人の仲間と共に律法学者たちもいました。徴税人はローマ帝国に高額な税を納めるためにユダヤ人からお金を徴収する仕事をしていて、ユダヤ人からは罪人と呼ばれ、嫌われていました。主はその罪人と一緒に食事をしたのです。

「わたしたちとファリサイ派の人々は断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」とヨハネの弟子達が問いました。「花婿=イエス様」が一緒にいる間は「喜びの時」だから断食する必要がない。「新しい服=新しい布切れ」を古い服に継ぎ当てても、洗えば新しい布は縮んでしまい古い服が破れてしまう。古い革袋は伸縮性も失われているから、注ぎ込んだ新しいぶどう酒の発酵に耐えきれない。つまり古い考えは新しい生き生きとした命を受けとめきれないのです。主が「罪人を招くために」来られたこと自体が新しいことなのです。すなわち、罪人を審く古い律法と、罪人を救う新しい福音とは相容れないと教えています。神ご自身が救い主としてわたしたちのもとに来られたことは古い約束から全く新しい約束へと転換したことを意味しています。

主は罪人の私を救うために宴を設け、食事を用意しておられます。食事の席にイエス様もおられます。ハレルヤ! (マタイ9;14-17)

2025/1/5 週報メッセージ

主よ、あなたこそぶどうの木です

(ヨハネによる福音書 第15章 4~5節A)

川﨑 信二 

 主の年2025年を迎えました。年頭に与えられた聖句は「わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝である」⑸です。

主イエスがぶどうの木です。私たちは主に繋がる小枝です。太い幹である主から栄養をいっぱい受けて歩む民がわたしたちであり、教会の本来の姿です。

週報の表紙にある教会の標語に「実を結ぶ生活」とあり、聖句が記載されています。今年の聖句と同じ節の後半。

「もし私に繋がっており、また私がその人と繋がっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」(口語訳)

これは私たちの信仰生活を表しています。けれど、ぶどうの木である主イエスがおられなければ、信仰すらあり得ないことです。「実を結ぶ」という結果だけを意識し過ぎて肝心な「主を求める心」を見失っては栄養が末端まで届かず痩せた信仰(喜びのない生活)になってしまいます。

「私たち」の歩みが先にあるではなく「主」が先です。「主よ、あなたこそぶどうの木。私たちは繋がる枝に過ぎません」との告白をもって歩み出したいものです。

 ぶどうは赤色のワインとなります。つまり、ぶどうの木は十字架です。十字架で流された主イエスの血潮を意味します。私たちの罪の身代わりに犠牲となられた主の愛がドクドクと枝に向って注がれている。この愛を素直に受けることが先決です。その実は喜び(ガラテヤ5:22)であり、心の満たしです。

 イスラエルは乾燥地帯。水が少ないので地下深くまで、下へ下へと根を下ろします。少ない水分・養分を吸い上げる力が必要です。地下の見えない所でチュウチュウと吸引していて、それゆえに美味しい葡萄が成るのです。

 赤ちゃんがおっぱいを吸うように、私たちが生きるのには信仰が必要です。

しかし私たちは自力で吸う力がありません。代りに幹である主が全部やってくれる。上から注いで下さる。私たちは祈り求めるだけでよいのです。

今年も、主を求め、主に繋がってゆく私たちとさせて頂きたいものです。

2024/12/29 週報メッセージ

神の創造のみわざ

川﨑信二 

 今日は光がつくられた日よ、やみの中にも「光かがやけ」(こどもさんびか2番)

 

年末にあたり、「光あれ!」と万物を造られ、「わたしは始めであり終わりである」と言われた主が今年も守ってくださったことを感謝すると共に、世界の紛争や飢餓、祈りの課題を覚えて主の聖名をあがめ、祈るものです。

 以前「福島被災地ツアー」に行った際、福島第一聖書バプテスト教会で行われた創造論セミナーを受講したことを思い出します。創造論による地質学者イ・ジェマン教授が全地球規模の大激変であった「ノアの洪水」を地質学的に確かな証拠をグランドキャニオンの地層を通して示してくださり、単に大自然の奇跡ではなく、神が「地」に関わり続けておられることを学んだことです。

また、日本を代表する創造論メッセンジャーの宇佐神実先生が言われました。

 「妻が腕によりをかけて作った手料理を、夫が子どもに“この料理は偶然できたものだ!さあ、偶然の力に感謝しよう”と言ったなら、妻は激怒するでしょう…」と。

 この世界は偶然の産物ではなく、造り主がおられ、その方に先ず感謝することが大切であると改めて教えられました。

 

今年のクリスマスチャペルコンサートにてボーマン宣教師から、5000ⅿ級の山の上で貝の化石を発見したご友人の話を聴きました。ノアの時代に高い山を覆うほどの洪水があった根拠、山が海の中に沈んだ事実を示され、改めて聖書の天地創造の業は本当の事だと知らされたことです。

万物を造り、私たちをも造ってくださった主が「これで良し!」(創世記1章)と言われています。「甚だ良い」、「極めて良い」と断言されています。この年を顧みると、新しく教会に受け入れて頂いた感謝と共に、「ああすればよかったかな」と心残りの多い年でもありました。

しかし「これで良し」と言われる主の御手にこの年をゆだね、新しいことを成してくださる主に期待して、歩みゆきたいと思います。

1923年6月1日創立