「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2022/8/28 週報メッセージ

朝位真士牧師 召天・葬送告別式

朝位 憲義 

  桜ヶ丘教会の主任牧師、朝位真士牧師は、2022年8月22日午前3時、悪性リンパ腫のために78歳10ケ月で召天しました。

 朝位真士牧師は、北九州復興教会曽根教会で19年間、桜ヶ丘教会で28年間、47年間の伝道者の生涯の中で、大切にしていたことは、毎日の祈りによって神との交わりを大切にする、祈りの人でした。また、朝位真士牧師は、今、目の前にいる、一人の人を、ただ一途に愛することに力を注ぎました。病床の中で、朝位真士牧師は「一人の魂のために、永遠の命に導く、そして、一人の魂が、イエス様の所に行くように、祈り、愛し関わることが、伝道者として本当に大切なことである。」と熱く語っていました。

 朝位フミ子牧師は、朝位真士牧師を一言で言うと「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ一・5章16~18節)その御言葉通り、本当にそのままを生きた人であると証言しています。朝位真士牧師は、人が好きな人で、絶対に人の悪口を言わない人、飾らない人、怒らない人、傲らない人、表と裏のない、正直な人、ありのままの人でした。

 朝位真士牧師が、生涯、祈りの人、愛の人に生きる生涯に導かれたのは、間違いなく、神様が、朝位真士という人を豊かに用いてくださったからでした。朝位真士牧師は、神様から特に愛されて、多くの人々に、愛されて、最後まで、本当に幸せなキリスト者の生涯を歩むことができました。

 朝位真士牧師の厳しい闘病生活の最期は、苦しみながらも、天に召される時には、聖書の詩編23編の御言葉を聞き、お祈りをしている時に、朝位真士牧師の顔を見ると、今までの苦しみが嘘のように、顔が穏やかになり、笑顔になり、安らかで、平安な顔で、すーと、天に召されて行きました。神の国で神と共に生きる人の喜びの顔、平安の顔、安らかな顔でした。天にあって朝位真士牧師の上に、神と共にある平安があるように、お祈りいたしましょう。

2022/8/21 週報メッセージ

 病と信仰                                                                 

朝位 フミ子 

 人間は、誰でも病を経験すると思います。生まれつき元気な人でも、病気がちの人でも、老いと病と死を経験します。病になると、誰でも、神に早く病が癒されることを必死で祈り、求めるのではないでしょうか?

 主イエスの癒しの御手と聖書の御言葉を考え、信仰的に神様と繋がるということを考えていく時に、よい助けになるのは、ヨハネ福音書15章です。主イエスと私たちが一つに繋がって生きていくことをとても分かりやすく書いています。主イエスがお話しになった、有名なブドウの木の譬えです。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

 主イエスに繋がっていく人生は、そこに主イエスとの命の交わりが生まれます。主イエスの愛を直接私たちの心と体の中に注ぎ込んでもらい、力をいただくことができるようになります。主イエスの体の中に流れている愛は、天の父なる神様の愛と同じ神の愛です。洗礼を受けた人は、これからも主イエスと一つに繋がって生きていくことができるので、神の愛を主イエスの体を通していっぱい自分の心と体の中にいただいて、神の力で癒していただきながら、良い実を結んで生きることができるのです。  主イエスと信仰の繋がりのある人は、たとえ今厳しい病の中、試練のどん底の中にいて、心が暗く、深く落ち込んでいたとしても、病との厳しい闘いの中にいても、人間関係の難しい状況の中にいても、神との生きた繋がり、生きた交わりがあるので、主イエスの光がそこに射してきて、神の力によって癒されて元気にされて生きることができるのです。神様との繋がりを固くすることができる場所は、毎週の礼拝と祈祷会ですから、これからも神と繋がる礼拝と祈りを大切にしていきたいと思います。            

2022/8/7 週報メッセージ

人が死んだらどうなるのか?

朝位 憲義 

  聖書の教えでは、キリスト御自身が、人が死んだら復活すると言っています。キリストはその言葉通りに実際に、イースターの祝いの時に、神の力によって、死人の中から本当に復活しました。復活は、キリスト教の信仰の中心なのです。

 人が死んだらどうなるのか、来世はあるのか、ということについては、色々な見方や考え方があります。死んだら無に帰ると考える人もあり、来世はあると考える人もあります。

 聖書は、死んだらどうなるのか、来世はあるのかということについては、あまり積極的には語っていないように思います。その理由は、来世があるかどうかはっきりしない、あいまいだからということではなくて、来世があるかないかということよりも、その根拠として、私たちに向けられている神の愛が、どれほど深く、確かなものなのか、ということを語ろうとするからであると思います。

 新約聖書のローマの信徒への手紙を書いた、使徒パウロも、その手紙の中で、私たちが死んだ後どうなるのか、ということについては、わずかに触れているに過ぎないように思います。それは、死んだらどうなるのかということが、よく分からないということではなくて、今、お話したように、何よりも、私たちをしっかりと捉えておられる神の愛を語る事に集中しているからです。使徒パウロの手紙を読んでいくと、死んだらどうなるのかということについて、使徒パウロに、心配や恐れ、疑いがあったとは思えません。

 私たちを創造された神は、私たちを救われる方、死の力に打ち勝って、主イエスを復活させた神の愛に、安心して、死の後のことはお任せすることができると考えていたのだと思います。それが、使徒パウロが、死後のことについて、多くを語らなかった一番の大きな理由であると思います。このことは、聖書全体に言えることであると思います。

2022/7/31 週報メッセージ

この世にはなくて、教会にあるもの

朝位 憲義 

  聖書の御言葉にこんな言葉があります。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。」(イザヤ書8:22~23)これはイザヤ書の言葉です。この地上には人々の苦悩と暗闇が広がっていると告げています。暗闇は、世の中のあり方、人々の心の中の深い暗闇、深い罪がある事を表しています。イザヤの時代から、現代にいたるまで、世の中のあり様、人々の心の中に、自分よりも弱い者に対して、苦しみを与えていくような、心の闇、罪が広がっているのです。この世の闇、人々の心の罪の問題から、とても逃げ出す術がないように思います。私たち、キリスト者もこの時代、この世に住んでいます。私たちの心の中にも、この時代の精神に影響を受けて、この世のものが多く入ってきます。この世の様々な問題や課題が私たちの心の中にも入ってきます。私たちがこの世に生きているから仕方ないことです。しかし、同時に、私たちは教会で洗礼によって、イエス・キリストを通して、神と一つに結ばれ、神のものにされています。私たちは、神様のものとされてこの世に生きています。だから、私たちは、教会にはあるけれども、この世にないものがあることを知り、この世にないもので教会にあるものが与えられた人として生きなければなりません。それは、神のものとされた神様との深い繋がり、神様との命の繋がり、聖書の御言葉を聞き、祈り、賛美する生活、聖書の教え、福音の価値観によって、私たちが、神様によって救い出されて、神様のいる世界を知り、イエス様の福音の良い知らせによって、心を明るくされて、元気をいただいて、人生を明るく生きることができることを知り、世の中で、あるいは、今、自分が置かれている所に、色々な大変なことがあっても、望みを捨てないで、前向きに生きていくことができるという、この生き方こそが、この世にないものであり、教会には確かにあるものではないでしょうか。

2020/7/24 週報メッセージ

第32回 首都圏夏期聖会に出席して

朝位 フミ子 

  今年もコロナの感染の中、オンラインを中心として7月18日(月)午後に、2回聖会が開催されました。

 聖会Ⅰ、「神を見る生涯」マタイ5:8。説教は亀井拓也師(東調布教会)によって語られました。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5章8節)今回の主題は、黙示録4章1節の「見よ、開かれた門が天にあった。」パトモスで島流しされたヨハネが、神から直接に幻をいただき、神を見たのです。私たちの心は、神を見ているでしょうか。世の波に流されていませんか。それを解決してくださるのは、第一に、何を土台にするか。み言葉に聞き従ってゆく。第二は、聖霊を求める。聖霊が罪を示してくださっているのです。第三は、献げる。持っているものを献げる。1、献金。2、賜物を献げる。3、奉仕を献げる。4、あなたの人生を献げる。神様が共にいてくださると約束されています。神は何でもできるお方です。

 聖会Ⅱ、「開かれた天の門」黙示録4:1。説教は、深谷美歌子師(新宿西教会)によって語られました。黙示録は聖書の最後に位置しています。創世記から黙示録までで1冊の書物です。内容も様々です。黙示録はメシヤの再臨によって、新しい天と地が到来するという内容で完結しています。黙示という言葉は、秘密にされていたものが開かれるという意味です。「見よ、開かれた門が天にあった。」「ここに上ってきなさい」という言葉は、ヨハネに語られたとともに、兄弟姉妹にも語りかけられたのです。イエス様の血潮によって天の門が開かれ、罪の贖いを信じた者のみが入ることができる開かれた門です。そして今、私たちの世界も、黙示録が書かれた時代のように混沌としています。だから目を覚まして、御再臨を待っていましょう。

2022/7/17 週報メッセージ

 病気になって思うこと                                                     朝位 真士 

 病気になって、初めて健康の有難みが感じられました。今まで健康の時は気づきませんでした。元気な時は、御用を楽しくさせていただきました。できなくなって皆様方にご迷惑をおかけしています。現在は、検査の結果が出ないで待っている状況です。どうぞお祈りしてください。早く元気になって、皆様方にお会いしたいと願っています。

 民よ、どのような時にも神に信頼し

 御前に心を注ぎ出せ。

 神はわたしたちの避けどころ。(詩編62:9)                                                                  

  どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを

ささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神

の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィ リピ4:6~7)                                          

2022/7/10 週報メッセージ

初めまして

朝位 フミ子 

  朝位牧師の緊急入院のことで、ご心配をおかけしています。皆様方にお祈りをいただきありがとうございます。今も、精密検査中です。病院のお食事と点滴を受けて少しずつ体調が良いようです。治療に専念させていただき、教会の皆様方に感謝しております。朝位牧師が病気になって、あらためて普通に過ごすことが当たり前と思っていたことに気づきました。実は難しいことであるということ、「一日一日を大切に生きなければ!」と、さらに神様を見上げて歩いていきたいと思っています。牧師の留守中、後を継いで御用させていただきます。同じ事はできませんが、福音宣教の使命に立って励んでまいります。小さき者達のために、ご協力をお願いいたします。お暑い中です。くれぐれもお体に気をつけてください。教会の皆様方の上お一人おひとりの上に、神様の祝福をお祈りいたします。

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

(コリントの信徒への手紙一 10:13)

2022/6/26 週報メッセージ

最近感じていること

朝位 真士 

 最近急に体の不調を感じるようになり、皆様方にご心配をおかけしています。今病院でその原因を究明しています。信徒の方々のケアをしなくてはならないのに、逆に心配をおかけしていることに対して誠に申し訳なく存じます。そのうち病院の検査結果が出ると思います。私自身不思議に思うのは、1ヶ月前まではあんなに元気で御用できたのに、急に体調が変化したことです。歳のせいとはいえません。私よりも一回り年長の方々が元気に生活しておられるのに、どうして私がという思いがいたします。

 聖書に「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18)「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)とあります。最近肉体の弱さを感じていますが、聖書のみ言葉が私に今までにないほど強く迫ってきます。使徒パウロは獄中で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:6~7)と記しました。そして有名な「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)へと続きます。

  早く私も元気になって、神様のため、皆様方のために力一杯御用をさせていただく所存でございます。妻フミ子師には多大の負担をかけています。どうか、小さき者たちのため、お祈りのご支援をよろしくお願いいたします。皆様方も健康に留意して、神様のため、人々のために働かれることを祈っています。

2022/6/19 週報メッセージ

最近考えること

朝位 真士  

  季節の変わり目であろうと思いますが、最近少し体調を崩していましたら、どこで私のことを知ったのかしれませんが、母教会の94歳の老婦人から素晴らしい内容のお手紙をいただきました。その方は私共が九州にいた時にご夫妻で仲人をしてくださった方であります。私共の若かりし頃の元気な姿を記憶されて、私のことを心配して励ましの手紙をくださいました。私は、牧師・信徒の枠を超えて、いつも祈りによって結ばれている幸いに感謝しました。このご夫妻は教会の中心的な方々で、いつもニコニコして笑顔を絶やさず、教会のことを第一にした生活をされていました。多忙な中でも、教会のため、主のため、前向きに御用されていました。ご夫人が今も年齢を感じさせず、教会のために働いておられる姿が目に浮かびました。また、若い頃からキリスト教信仰に確信をもっておられたことを思い出します。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。」(伝12:1、口語訳)「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに。」(コヘレト12:1)

 祈りの友は、時間・空間を超えて素晴らしいものです。私は18歳の時にクリスチャンとなり、今日まで多くの方々の祈りの支援によって信仰生活を継続させていただいています。信仰と祈りの生活は、私共クリスチャンの原動力です。特に、祈りは神様からいただく恵みの最大の武器です。皆様方も実行しておられると思いますが、個人のため、教会のため、社会のため、ますます真剣にお祈りをして、この社会の不条理に神様が介入されて、一日も早く世界に真の平和が来るのを待ち望みましょう。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(Ⅰテモテ2:1)アーメン。                     

2022/6/12 週報メッセージ

創立99周年記念集会を終えて

朝位 真士  

 6月5日(日)、岸先生をお迎えして記念集会が開催されました。この集会のため、天候が祝福され、礼拝人数も40名以上の方々が与えられるように、教会員の皆様方を始め、知り合いや祈りの友に祈祷の依頼をしていました。コロナ・パンデミックの3年目を迎え、普段の礼拝も20名前後という人数の中で、この集会には40名以上の方々が与えられて、岸先生の御用が神様の祝福を得られるように祈祷していました。使徒2章46節から47節に、「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していのたで、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。神様は祈りに応えてくださり、44名の方々が与えられました。

 当日参加された方々は知っておられると思いますが、私達の祈り以上、期待以上の祝福を与えてくださり、今までにない長時間の演奏とメッセージでしたが、時間の長さを感じさせない集会でした。講師の年齢を語っては失礼かと思いますが、本当に80歳を超えているとは思えない、年齢を感じさせない御用でした。

 私は岸先生がいかに神様から祝福されて、主の御用を継続しておられるかを身近に感じました。先生は若いときから青年伝道にヴィジョンをお持ちで、多い時には千人の青年を集めて集会を持たれたと聞いています。今もその片鱗を見ることができ、伝道者の模範であります。そのような先生が桜ヶ丘教会を愛してくださり、来年もメッセージを用意してくださるとは、なんという幸いでしょうか。桜ヶ丘教会が地域に開かれた教会として、ますます宣教の拡大をして、救われる方が一人でも与えられることを神様に祈る一人であります。