「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2024/6/9 週報メッセージ

新生、聖化、神癒、再臨

川﨑 信二 

『四重の福音』と呼ばれるホーリネス系教会の信仰告白とも言える教義がある。6月は強調月間となっている。

信仰告白といえば、使徒信条やニカイア信条といった基本信条(世界信条)があるのに、何故4つだけピックアップして強調するのか。私には疑問である。むしろ、4つどころか、日本基督教団信仰告白に示されているように大事なことは更に多くあるはずなのに、わざわざ4つにまとめるとはどういうことか。他の告白(教義)はどうでもよい、というのか。それ故に「四重の福音」について分からない、というのが私の正直な気持ちだ。

 これは決して「四重の福音」を否定しているのではなく、私の頭では理解できないという意味である。分かる日が来るよう祈り求め続けたいと願わされている。こんな者をこの群れに置いてくださる寛容さに感謝している。

私なりに思うのは「四重の福音」とは単なるピックアップではなく、「個人の救い」に関わる大事な事柄。

四重とあるように、4つは一体で切り離せない大切なもの。私たちの救いに直結する神のわざ(福音)、といえる。

新生は信仰義認、聖化は聖霊を受けて成長する、神癒は死からの復活。どれも福音の根幹である。この中で「再臨」は今後起きる未来の恵み。この再臨信仰こそ私たちの希望である。そしてこの再臨信仰が、かつての天皇制の下に行われた宗教弾圧のきっかけとなった教義である。

再臨信仰が、政治権力で抑えつけようとしても抑えきれないものであり、戦後復興した教会の姿はそれがどれほど大事なものか、を教会の歴史が物語っている。

もし「四重の福音」を「強調」することで他教派と歩めず、分裂や離脱することがあれば、何かが違っているように思う。「強調」より「協調」こそが今の日本基督教団に必要なものではないか。

日本基督教団に留まったホ群の使命は「違い」を強調し、「色」を鮮明にすることよりも「一致点」を見いだし、互いに愛し合う教団の姿こそが今後世に証するものではないか、と思わされている。

2024/6/2 週報メッセージ

「見えない光」 (ヨハネ9:40-41)

川﨑 信二 

 ある日曜日の午後、教会の皆さんと礼拝堂にて上を見上げ、天窓から差す陽の光について語り合いました。

「夏は本当に暑いんだよね」とある信徒さん。

 建物の中に燦々と日の光が注がれるのは有難いことですが、暑すぎると健康面や礼拝そのものにも支障が出るのかもしれません。私はまだ夏を経験していませんが。

 聖書では天から注がれる光は「闇夜を照らすまことの光」(ヨハネ1:5)であり、独り子イエスの栄光です。私たちの罪を白くして救うところの神の愛が、この光に込められているのです。

一方で、光は神の審きとも言えます。隠れた罪を光の前にあぶり出し、晒すのです。使徒パウロはキリスト者を迫害していた時に主の光に打たれて地に倒れました(使徒9章)。

私たちは光に耐えられない生き物。神に直接会おうとしても眩しすぎて見ることさえできないのです。人の罪を審く神の義。そこに神の愛が注がれて初めて光は穏やかな光となる。

神の愛とは御子イエスを天から贈って下さる無償の愛です。故に私たちは光の子として歩むことが許されているのです。

時に、神は人を見えなくさせ、不自由にさせます。本当の光(真理)を見えるようにさせるために、です。

山口博子さん(ゴスペルシンガー)の歌で『時を忘れて』という曲があります。

目を閉じなければ見えない世界がある。

口を閉じなければ言えない言葉がある。

耳をふさがなければ聞こえない声がある。

歩み止めなければ会えない人がいる。

少しくらい遅れたとしても大切なものを

見つけたいから‥‥

道であり真理であり命である主に尋ね求める

時を忘れて‥‥♪                       

2024/5/26 週報メッセージ

「わたしが選んだ器である」 (使徒9:15)

川﨑 理子 

5月は父、息子、姪っ子そして自分の誕生日に加え、受洗記念日がある月で、「おめでとう」「ありがとう」とのメッセージを沢山受け取り、また伝える月だった。

上記の御言葉は35年前に受洗後の学び会で、開かれた箇所である。それこそ沢山の方々から「おめでとう」と受洗の祝福を頂いたのだが、聖書の学びをしてないのは不味いのではと思い、牧師に相談すると、「祈祷会へ来ているから大丈夫。でも、学んでみたい箇所があるなら」と言われ、私は「使徒行伝を学びたい」と伝えた。

新約聖書の「〇〇への手紙」の殆どはキリスト者を迫害していたパウロが著者だったので、パウロを知りたいと思った。自分で読んで気になる箇所を牧師に質問するという学びが始まった。9回目の学びで「なぜアナニアに幻の中で主はサウロのところへ行け、と言われたのかな」と牧師から質問されたので、「ダマスコにアナニアがいたから。」(使徒9:10)と答えた。「そうですね。もう一度理子さん、15節を読んで下さい」「すると、主は言われた。行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」

「この言葉でアナニアは兄弟サウルの為に主がわたしをお遣わしになったと知ったんだね。」と牧師。今思い返してみると普通の会話だ。しかし、質問されたのはあとにも先にもこの一回だけだった。この学びの最後に、「行け。わたしが選んだ器だ」に促されて受洗し牧師になり、今日在るを得ている。今鮮明にあの時の事が思い出されるのは、私を桜ヶ丘教会へ主がお遣わしくださったからだ。

2024/5/19 週報メッセージ

「一人ひとり」そして「一同」と共に

川﨑 信二 

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。Ⅱコリント13:13

パウロが書いた手紙の最後にある祈りの言葉です。礼拝においては頌栄の後に祈られる「祝福の祈り」、また「派遣の祈り」とも言われています。これは多くの教会で用いられている「使徒的祝祷」と呼ばれるもので、「三位一体の神からの祝福」を祈る形がとられています。

パウロはどの手紙でも相手の祝福を祈って手紙を書き、また相手の祝福を願って祝祷で手紙を閉じています。問題の多いコリント教会の兄姉たちが生活の中に三位一体の神の祝福を意識しながら歩むようにとの思いが込められています。父・子・聖霊はどの教会の祝祷も同じです。

「あなたがた」と「一同」という言葉。あなたがたは「一人ひとり」という意味です。礼拝の祝祷には牧師によって様々な言い方がありますが、聖書ではほとんどの翻訳が「あなたがた一同」となっています。文語訳では「なんぢら凡(すべ)ての者(もの)と偕(とも)にあらんことを。」、前田護郎訳では「皆さんとともにありますように。」となっています。「皆さん」だけではどうしても、皆「ひっくるめて」とか「一緒くたに」という、一括りの響きがあります。

「あなたがた」には、お一人一人のお顔を思い浮かべつつ、お一人一人を大切にする思いが込められています。また「一同」には教会が「ばらばら」にならないで一つになって歩むようにとの思いが込められているのではないでしょうか。

まさに今の状況。全員が礼拝堂に一同で会することのできない状況下にあって、場所は違えど、ばらばらではなく心を合わせる。一つの信仰が試されているような気がします。

私たちは聖日ごとに聖霊の息を吹きかけられて(ヨハネ20:22)それぞれの持ち場へと遣わされます。目に見えない聖霊の交わりの中に身を置くこと、それが最も大切なことであると改めて確認させて頂きたいと思います。

2024/5/12 週報メッセージ

「だれでもわたしのもとに来なさい」

マタイ11:28      川﨑 理子

ゴールデンウイークの最中、星野富弘さんの訃報がテレビの報道で流れた。いのち溢れる詩人だった。

私の父は元銀行員。現役時代から詩を書いていた。ジャンルは現代詩らしい。星野さんのことを伝えると「情報を有り難う」と一言。

父は30年前、ホーリネス誌に中山倫子先生の後を引き継ぐ形で暫く詩を書いていた。2011年以降は自分のライフワークとして「震災詩」を書いている。『信徒の友』の教会紹介や、『こころの友』で父に似たような人がいるな(写真で)と思ったら父だった。そこで「震災詩人」との肩書を知った。正直今迄に父が書いていた作品はよく分からなかった(実家に凄い賞の数々が飾ってある)が、震災詩には父の信仰が見えて胸が熱くなった。

星野さんが一番初めに出会った御言葉は「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

私はイエス様の「だれでも」に愛を感じる。星野さんは「私がどんなに絶望しようが、どんなに生きたくないと思おうが、いのちというものが一生懸命生きようとしているのです」と、語っていた。

私の父も神が与えられた命を一生懸命生きている。私は毎日イエスさまのところに行く!そして休む!祈る!

何十年か振りに私はアパ・ルームを使用中。満たされるのは大事だ、と一ヶ月の新生活で改めて知らされた。

2024/5/5 週報メッセージ

「主イエスの憐れみ」 (マタイ26:46)
                        川﨑 信二

 メジャーリーグの名実共にトッププレイヤーで年収も日本人のプロ野球選手とは桁違いの人気アスリート。
彼の信頼していた通訳がお金の管理もしていたようですが違法賭博に手を染めて負債を抱えたため勝手に彼の口座から多額のお金を引き出して窃盗の罪を犯してしまいました。
功名な手口で悪質性もある訳ですからそれなりの償い、刑に服すべきことは当然のことです。地上では許されないことがあります。またそこには依存性の課題もありますし一概には言及できない事柄でもあります。
一方、私はこの件を、主イエスとイスカリオテのユダとの関係に思いを巡らせてみた時に、「罪と赦し」ということを考えさせられました。
イエスは赦した。いつも近くにいた信頼のできるユダ。お金の管理やスケジュールのやりくり、正にマネージャー的な役割を一手に引き受けていた会計係のユダ。
彼は銀貨30枚でイエスを権力者の手に渡し、自分を愛してやまなかった恩師を汚れた金と引き換えに売り飛ばしてしまった。ユダは後悔し、いたたまれない思いが頂点に達し、自ら死を選びます(マタイ27:3)。
彼の死を知った主イエスは、彼の罪と死を引き受けて十字架に向かわれたのではないでしょうか。最後の晩餐でも既にそのお気持ちだったとは思いますが、ユダの死が迷うことなのないご決意となったのでは、と推察します。もちろん、そうでなくても神の計画は成就されますが‥‥。イエスは全ての人を赦し、この私の罪を赦して下さり、全ての人を救う方であることを、改めてこの出来事を通して思わされた次第です。

2024/4/28 週報メッセージ

「見張りの役目」  イザヤ62:6

川﨑 信二

戦争はいったん始めてしまうとこんなふうになる。ロシアとウクライナ、イスラエルと中東情勢。心を痛める報復連鎖のスパイラルだ。

戦争を長引かせる要因の一つに徴兵制がある。イスラエル政府はハマスやイランの攻撃に対応できるよう兵員不足を補うべく徴兵期間の延長を法案化したい考えのようだが、戦争悪化に拍車がかかる事案として懸念される。

国民の間で問題視されているのは徴兵の不平等である。今までもそうだったが、ユダヤ教超正統派の若者は徴兵免除とされてきたが、今後も免除されるかどうか。

これが国民の不満を高めている。イスラエルは予備兵役を入れると国民のほとんどが兵士となる。国民的義務を担おうとせず、仮に徴兵が認められたら、超正統派政党が連立離脱に走る構えだ、という。

 「祈り」に専念する宗教家が、宗教ゆえに免れてきた兵役義務だが、他の若者が戦争へ行くことには賛成しているのに、いざ自分たちにも火の粉が飛んできたら政府に圧力をかけるのだろうか。そもそも、平和を祈るべき彼らが戦争勃発前にそれを止めるのが役目だったのではないか。

ロシア正教の総主教がプーチン大統領の戦略を祝福したことは知られているが、かつての日本基督教団も戦争加担の道を歩んだ過去がある。権力に屈した過去がある。宗教の役割は何だろう。宗教が権力を持つことは恐ろしい事だが有事には国体の過ちを全力で阻止する気概が期待される。戦争よってどれだけの人的財産が奪われることか。始まってからでは遅いと感じる。

 私の伯父は戦前に神学校に入学したが学徒出陣で応召されシベリア抑留で辛酸を嘗める経験をした。戦後3年して復員し、再度神学校で学び牧師となった。学生を送り出す時点で既に勝敗は決まっていた。けれど一度始めた戦争はどちらかが敗北し甚大な損失を被らない限りは終わらない。

預言者の「見張り」の役目とはどんな意味なのだろう。最初は戦争に賛成し、自分たちにも危害が及ぶと分れば反対に転じるのでは遅すぎる。平和のためにキリスト者には何ができるのか。ただただ祈らされるばかりだ。

2024/4/21 週報メッセージ

「主の愛によって遣わされる」
ヨハネ21:15〜23
小見出しに<イエスとペトロ>とあるように、この箇所ではイエスがガッツリとペトロと向き合っている。
15節でイエスの「この人以上にわたしを愛しているか。」との問いにペトロが、「はい、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われた。
二度目は16節で「わたしの羊の世話をしなさい。」と言われた。17節は三度目の同じ問いにペトロはここで「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることをあなたはよく知っておられます。」と答えた。イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい」。
このやりとりはどういう意味をもつのか。1対1の学びであり愛についての信仰問答とも言える。一度目の問答では顔を下に、二度目は少し上げて、三度目は悲しくなり顔を上げてイエスの顔見たら、そこには問いつめる顔ではなく優しい愛の眼差しがあった。
主イエスはペトロを立ち直させる為に三度も問い、ペトロの口から「あなたは何もかもご存じでよく知っておられます。」との応答を導かれた。
ペトロは「自分は大丈夫!絶対裏切らない」という自信があった。イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。世話をしなさい。」と語られた上に、19節で「わたしに従いなさい」とペトロを召しておられる。「従う」とは、イエスからの「共に来なさい」との招きだ。
イエスは100%神の子であられたが100%人の子でもあられた故に沢山の苦しみと、弟子の裏切りも経験したが、神の独り子として、全ての人の罪を担われた。十字架にかかり陰府にまで降られ三日目に甦がえられた。復活の主はこのわたしに問います。「わたしを愛するか」と。
主の愛に遣われて行きましょう。失敗しても恐れることはありません。主が共に担ってくださいます。
(4/14川﨑理子師説教)

2024/4/14 週報メッセージ

「諦めかけた時に」 (ヨハネ21:1-14)

 エルサレムで復活された主イエスが再び会って下さる。今度はガリラヤで弟子たちにその姿を現された。ガリラヤ湖は一番弟子ペトロが献身する前にこの湖で漁師をしていた、いわば召命の原点の場所でした。「人間を取る漁師にしよう」と主イエスの招きを受けたあの場所、網も大事なものも全て捨てて従った転機の場所でした。伝道者になった元漁師が今また「私は漁に行く」(3)と逆戻りの生き方をしようとするのです 。

漁に出かけた彼らは夜通し漁を試みたが1匹も獲れませんでした。虚しい思いで岸に向かうとイエスが立っておられ「舟の右側に網をおろしなさい」と言われ、その通りにしてみると網が破れそうなほどの大漁となったのです。

誰かが(多分ヨハネ)「主だ」と叫び、裸だったペトロは湖に飛び込んだ、と書かれています。ずぶ濡れのペトロに岸にて暖をとらせ、炭火でこんがり焼けた魚とパンを用意して下さる主。イエスとの食卓は最後の晩餐を想起させます。エマオ途上の2人の弟子の目が開かれたのも食卓でした。聖餐式にてパンとぶどう液を頂く時に、イエスがこの私の罪のために十字架で肉を裂き、血を流されたことに心を留めます。この箇所は召命の原点であり罪の原点に立ち返るための教えです。

ペトロは「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたと一緒に行く覚悟です」と豪語したが、結局主を見捨てて逃げてしまった。イエスから離れようと伝道者を辞めて故郷ガリラヤに戻ろうとする者にも声をかけてくださる主イエス。

私たちが諦めても、主は諦めない。何度も声をかけて下さるのです。再献身。傲慢な私に、自分の罪に気づかせてもう一度弟子にして下さる。その主の呼びかけに謙虚に従ってゆきたいものです。

(4/7 川﨑信二師説教)

2024/4/7  週報メッセージ

説教断片  「イエスは生きておられる」 (ルカ24:13-35)

 イースターおめでとうございます。本日はルカ24章の、「エマオへの道」から学びます。

 第一に、二人の弟子たちは、「目が遮られて」(16)、その旅人が何者かがわかりませんでした。彼らは、失意と悲しみにうちひしがれていました。彼らの目は、「偏見、思い込み、誤解」のため、正しいメシア観、御子イエスを理解することができなかったのです。やがて旅人の聖書の解き明かしを聞くうちに、「心が燃える」体験をしたり、聖餐を思わせるようなパンを裂く行為を見て、霊的な「目が開かれて」復活のキリストだとわかったのです。

だれもが神の言葉に触れ、心が燃えるような経験をするわけではありませんが、教会に来るとなんだか心が安らぐ、説教を聞いて心が迫られる、何らかの感動を覚える、…こういう一つひとつの小さな経験を大切にしていきたい。聖書を慕うところにだけ、御霊は働かれるのです。

  第二に、「エマオへ行く道は」、失意と落胆の道であり、命から死へ(滅び)向かう道でありました。それに対して 「エルサレムに引き返す道」(33)は、真の生き方に変えられる希望と夢の道であり、死から命へと向かう道でありました。夢なく、希望なくエマオへの道を歩く、これがわたしたちの人生の縮図でした。

 第三に、この物語では、「イエスは生きておられる」(23)が中心の聖句です。これはルカ自身の心からなる信仰告白であり、証しでありました。ルカは何としてでも、この福音書の読者に「主は、今、現実に、生きておられる」ことを強調しているのです。確かに「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブ13:8)。

私たちも日々の信仰生活の中で、「イエスは生きておられる」ことの小さな事実・しるしを探し求めていきましょう。 

(3/31 山本修一牧師説教)