「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/3/19 週報メッセージ

盲人のいやし

朝位 フミ子 

 マルコ福音書8章の盲人の癒しです。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何が見えるか』とお尋ねになった。」(23節)

 イエス様は盲人の手を取って、一人だけ村の外に連れ出して、一対一で癒してくださったのです。この物語はイエス様と盲人の一対一の癒しのドラマなのです。イエス様がこの盲人とマンツーマンで関わっているのです。大勢とイエス様ではなくて、イエス様はいつもそうやって、助けを求めている人や神様に向かってお祈りしている人と、一対一でしっかりと向き合ってくださるのです。だから、私たちの礼拝での祈り、祈祷会や日々の家庭での祈りは、とても大切なのです。イエス様はいつもそうやって、その人の抱えている悲しみや悩み、不安と、とことんまで付き合ってくださり、どこまでも向かい合って、癒し、慰め、励ましてくださる救い主なのです。

 神の子であるイエス様が、一人の人に対して、そこまでして一対一で深く関わってくださっています。一人の人間が抱えている、悩み、痛み、病、苦しみ、悲しみ、不安、恐れを全部受け止めて担ってくださり、真剣に向き合ってくださるくらい、イエス様の気持ち、深い愛が、この一人の人に注がれているのです。主イエスが一対一で、いつも私たちのことをよく見ていてくださいます。そして、いつも私たち一人ひとりの抱えている問題と向かい合ってくださっています。いつも私たち一人ひとりに対して、真剣に関わってくださっています。

 イエス様が盲人を一対一で癒した奇跡を見て、神様がどれくらい私たちと真剣に向き合ってくださるのかについて目が開かれていったら、私たちの人生は本当に明るく幸せなものになるでしょう。

2023/3/12  週報メッセージ

 神の国に生きる人のしるし

朝位 フミ子 

 聖書には、主イエスが神の国を婚礼の食事の席に譬えた話があります。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」(マルコ2章19節)断食するのは、悔い改めをすることです。当時、古い宗教的な断食をしている人は、飲み食いしないで、忍耐と根性をもって修行僧のような厳しい禁欲生活をしていたので、暗い顔をして、しかめ面した怖い顔で断食をしていました。それに対して、主イエスと弟子たちは「飲んだり食べたり」していました。だから、古い習慣を守っていた人にとっては、主イエスと弟子たちの顔は浮かれているように見えたのです。人々の目から見ても、主イエスと一緒に食事をしている弟子たちの顔は明るい顔に見えたのです。

 主イエスは言われます。「断食は神様の所に帰るためだよ。婚礼の花婿が一緒にいる時のお祝いでしょう。皆が祝福してお祝いしている時は、皆嬉しいに決まっている。神様の所に帰って、誰も暗い顔なんてできない。神様の所に帰ってきたら、皆新しい生き方ができるんだよ。信仰生活は、空威張りや空元気、やせ我慢じゃない。新しい革袋に新しいブドウ酒を入れなさい。神様の所に帰ってきたら、そこには新しい神様が共におられるんだから、古い自分の生き方を脱ぎ捨てて、喜びに生きる原動力がそこにあるんだ。それを素直に受け入れて喜びなさい。婚礼の食事の喜びこそが、神の国に生きる人のしるしだよ。いつも神様の所に帰ってきて、新しい神と共に生きてニコニコ笑っていることが、神と共に生きている人のしるしだよ。断食してしかめ面した怖い顔をしている人は終わっているよ。」

 私たちは、礼拝でイエス様と出会い、喜んで生きる力をいただきましょう。笑いが神と共に生きる、神の国に生きる人のしるしですから、ニコニコ笑って、笑顔で生きていきましょう。

2023/3/5 週報メッセージ

 悔い改めて福音を信じなさい!

朝位 フミ子 

 

 主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。聖書によれば、悔い改める人の所に神の国が近づいてきて、神の支配が私たちの深い所の隅々にまで入ってきて、それから私たちの生き方が方向転換して、変えられていくことが始まります。

 悔い改めることは反省することではありません。放蕩息子がお父さんの家を出て、さんざん罪を犯して悪の道に迷い込んでしまった後に、お父さんの所に帰ってきたように、悔い改めることは、私たちが神様の所に帰ることです。父なる神様は、私たちが悪の道、罪の中から神様の所に帰ってくることを心から喜んでくださり、帰ってきたら温かく迎えて罪を無条件に赦し、祝宴まで開いて祝福してくださる慈愛に満ちた方です。だから、私たちは悪の道に迷い込んで、罪を犯して神から離れても、いつもこの方のところに安心して帰ってきて、神様の無条件の赦しを得て、癒していただくことができるのです。

 イエス様の私たちに対する悔い改めよという呼びかけは、大きな喜びの知らせです。悪の道を歩いていても、罪の支配の中に生きていても、私たちにはいつも帰る所があり、喜んで迎えてくださる神様がそこに臨在してくださるのです。悔い改めることで無条件の赦しと祝福に与ることができるのですから、私たちは暗い顔で悔い改めなんてできません。神の所に帰ってきたら、罪赦されて祝福までしてくださる神様に出会うことになるのですから、私たちの生き方は神と向かい合うように変えられて、そこから新しい生き方ができるようになり、嬉しい気持ちになるに決まっているわけです。

 私たちが神の前に悔い改めて神様の所に帰ってくると、そこに神との新しい出会いがあり、神が共に生きてくださり、新しい喜びに生きることができるのですから、この喜びの中に生きる人こそ、神の国に生きている人のしるしになるのです。

2023/2/26 週報メッセージ

誘惑と試練

朝位 フミ子 

 「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイ4章1節)

 この「誘惑」という言葉は、誘惑と訳されるだけではなく、もう一つの言葉で訳されます。それは「試みる」「試練」というものです。本当に不思議なことに、誘惑と試練は聖書では同じ言葉で、聖書の文脈によって試練あるいは誘惑と使い分けられている言葉なのです。

 誘惑とは、その出来事を通して私たちが神様に躓き、神様への信頼を失って、神様から引き離されてしまうことだと言ってよいでしょう。その出来事が誘惑になるならば、私たちが信仰を失い、教会生活から離れ、神から引き離されてしまうことですから、私たちは神様のおられない世界に生きることになってしまうのです。

 反対に試練については、使徒パウロの有名な言葉があります。コリントの信徒への手紙一、10章12~13節で、試練には必ず逃れる道があると語られます。試練には必ず出口があると言われます。試練の先には、必ず逃れる道、出口が用意されています。それがどこにあるのか、それがいつなのか、私たちには分からないことですが、分かっているのは、神様は真実な方であるということです。ですから、神様は私たちに乗り越えられない試練や、耐えられない試練は決して与えられないわけです。私たちは試練の中でも神様に信頼し、神と共に歩み抜くならば、試練を通して、試練を経験する前よりもずっと深く神様との絆が固く結ばれる機会となると、使徒パウロは教えているのだろうと思います。

 私たちの人生の経験をふり返れば、私たち人間には、試練と誘惑をあらかじめ区別することはできないことが分かります。私たちにできることは、神さまと共に試練を歩みきったとき、神が備えてくださっている出口を出たときに、神様の守りと導きの確かさを知らされて、神への信頼がいっそう堅くされるということでしょう。

2023/2/19 週報メッセージ

恐れることはない。ただ信じなさい。

朝位 フミ子 

  「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(ルカ8章50節)

 恐れるな。これは、恐れるのは不信仰でだらしがないぞということではなくて、聖書では神が共におられることに気づかせる時の言葉です。天使や神様が共におられることを思い出せ、神があなたと共におられるからもう大丈夫だ、何も心配しないで行けということです。ヤイロの信仰が失われないように、主イエスがここで彼を励まし力づけたのです。

 人間にはもうどうすることもできない絶望的な現実、死の現実を前にして、主イエスは、諦めるな、最後まで私と一緒に歩き続けなさい、どんなことが起こっても私から離れるな、私について来いと命じられたのです。人間の常識は、結論はもう出たので仕方がない、諦めようというものです。私たちも神の救いが待ちきれないで、すぐに自分の判断で結論を先に出そうとします。しかし人の常識に従うのではなく、主イエスの「私に最後まで従え」との御言葉に従って歩み出すのです。これが信仰というものです。信仰とは、人間が先走って自分の考えで結論を出したくなる時に、そこに踏みとどまって神に信頼し、神の救いを待つということなのです。私たちが、もう駄目だ、もう無理だ、もう何をしても無駄だから諦めようと思っている時に、主イエスは「私を信じる人は、もう駄目だということは絶対にないんだ」と強く呼びかけてくれます。

  「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば救われる」ということは、どんなに悲しいことがあっても、恐ろしいことがあっても、心が落ち込んでいても、主イエスから離れないで、最後までイエスについて行くということです。イエスのお力を最後まで諦めないで信じて、お祈りして救いを待ち続けることです。この御言葉に従って神と共に歩んで行きたいと思います。

2022/2/12 週報メッセージ

人を汚すもの

朝位 フミ子 

  主イエスは言われました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコ7章15節)ファリサイ派の人たちは、汚れたもの、悪いものは皆外にあって、自分の中、自分たちの内、心の中は清いと思っていました。しかしイエス様は、そうじゃない、外にあるものは皆清いものだ、お前たちの内側にあるものが汚れているんだ、あなたたちの内面、心の中が腐っているんだという話をしたのでした。イエス様は、外にあるものは全部清いものだ、神様がお造りになったものは最初から全部清いものなんだ、それなのに人から出て来るものが人を汚すんだとおっしゃいました。私たちは、いつの間にか、自分の心はきれいだと思っているところがあります。自分の方が正しくて、相手の方が悪いと思っています。しかし、イエス様は、悪いものは皆人間の心の中から出て来ると言われたのです。

  ファリサイ派の人は、世間的には立派な人たちでした。自分の内側はきれいだと思っていて、自分はいつも正しいと思っていました。だから、バリバリに隣人のことを裁くのです。自分が神様の側に立って、いつも人を裁くのです。自分の心はきれいで、自分は正しいと思っている人ほど、神様の目から見たら本当に困った人なのです。そういう人に対して、イエス様は、あなたの内側が腐っている、あなたの心の中がどうしようもなく腐っているから、あなたの中に人を裁く心がある、本当に赦されなければならないのは、あなたのその腐った心の中なのだと言われます。

 本当に努力しなければならない務めは、隣人を愛する務めです。その務めがズレている私たちは、外からイエス様を心の中にお迎えするのです。毎週の礼拝で、私たちの中にイエス様を迎える務めをしていきたいと思います。

2023/2/5 週報メッセージ

貧しくなると、豊かになる

朝位 フミ子 

  「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリ八・九)

 神が人になるために、キリストが神の豊かさを全部捨てて、貧しくなった出来事を伝えています。しかし、ある人はこのように言います。「キリストは神の子なんだから、ここで私たちを豊かにするために命を捨てて捧げても、何も困らないだろう。痛くも痒くもないだろう。神として当たり前のことだ。キリストは、そんなに大きな犠牲を払ってはいないのではないか。小さい犠牲なのではないか。キリストの豊かさは無限に、限りなくあるのではないか。」

 でも、それは現代人の発想です。古代の人々は、そうは考えませんでした。古代の人々は、誰かが豊かになるときには、誰かが貧しくなると考えました。逆に、誰かが貧しくなると、誰かが豊かになると考えていましたから、聖書の時代に生きた人たちには、無限という考え方はなかったのです。だから、主が私たちを豊かにするために貧しくなられたということは、主が私たちを豊かにするために、限りある命を捨てられて、本当に貧しくなられたということになるのです。

 キリストが自分の豊かさである命を無限に持っていたから捨てることができたのではなくて、キリストが私たちと同じ人間となって限りある命、限りある豊かさを全部捨てて、大きな犠牲を払ってご自分は貧しくなり、空っぽになってまで私たちを豊かにしたのです。主イエスは、ご自分を無にされ空にされて、ご自分の持っておられた恵みと命の全てを私たちにくださいました。私たちが豊かなのは、主イエスが空っぽになられたからです。主イエスの栄光とは、ご自分を空にして私たちと同じ貧しい人となり、私たちに全てをくださる恵み、私たちと一つになって私たちの死と滅び、罪を担い、私たちに神の子の栄光をくださる恵みなのです。

2022/1/29 週報メッセージ

山上の変容 1

朝位 フミ子 

  「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9:2~3)

  高い山の上で3人の弟子たちは、イエス・キリストの姿が変わり光り輝いているのを見て、「これが神と一緒にいるときに経験することなんだ」と感じました。本当に、今自分たちと一緒におられる神様の姿を見ることができたわけです。だから、わざわざここでペトロが口をはさんでイエスに言ったのです。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」(5節)ペトロは、この高い山の上に、この場所に、この先もずっといたいと思ったのです。ここに小屋を建てて、ずっとこの場所に住みたい。この場所から離れたくない。神様の臨在に触れることができて、神様と共にいることはこんなに嬉しいことなんだ、こんなに素晴らしいことなんだ、これ以上の喜びは他にないと、心の底から思ったのでした。

 ペトロが実感を込めて言うような、神様の臨在に触れる場所、それは私たちにとってはこの桜ヶ丘教会です。桜ヶ丘教会の礼拝の中に神様がいます。神様の臨在に触れる場所がここにあるのです。私たちがここにいることは、本当に幸せなことです。このことは決して間違っていないのです。

 私たちが今捧げている礼拝で、弟子たちのように、今ここで生きて働いておられる神様の臨在に触れるとき、そこにシャロームがあるのです。心の安息、平安、平和があるのです。そこに、感謝と喜びの満たしが確かにあるのです。私たちが、神の栄光が表されるこの礼拝の場所で、生きて働いておられる神の臨在に本当に触れたら、心が喜びで満たされ、心の中が温かくなる経験をしないはずはないわけです。

2023/1/22 週報メッセージ

 深く憐れまれた

朝位 フミ子 

  「イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。」(マタイ10章5節)と書かれていますが、イエス様が弟子たちを生み出すときに、どんな思いで生み出したのか、次のように書かれています。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9章36節)

 イエス様の気持ちは「深く憐れまれた」という言葉に表れています。これは、単なる可哀そうという気持ちではありません。もっと強い意味の言葉で、人への同情から、内臓が締め付けられるような思いになる、その人のためにじっとしていられない気持ちになる、いてもたってもいられないような気持ちになる、その人を放っておけない気持ちになる、その人のために行動したい気持ちになるというものです。私たちに向けられている神様の愛、イエス様の愛の気持ちを、聖書は伝えています。

 これと同じ言葉は、あの放蕩息子のたとえに出てきます。「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」放蕩息子のお父さんは、自分を裏切って見捨てて出て行ったこの放蕩息子を見つけると、過去の過ちや失敗を裁かず、罪を咎めないで、自分の所に帰って来てくれたことを素直に喜びました。息子を見かけると、当時身分の高い人が走ることははしたない行為と言われていたのに、なりふり構わず走り寄ってこの息子を抱きしめて、彼が自分の所に帰って来てくれたことに対して、何よりも嬉しい気持ち、喜びの気持ちを全身で表したのでした。

  それと同じように、今日イエス様が私たちを弟子として選び、神様の仕事のためにこの世に遣わすときも、この放蕩息子のお父さんと同じ気持ちになって、深い憐れみの気持ちで私たちを迎えて喜び、弟子としてこの世界にお遣わしくださるのです。

2023/1/15  週報メッセージ

塩を持ちなさい

朝位 フミ子 

  主イエスは言われました。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9章50節)ここで塩気、塩味と言われている譬えは、キリスト教会のオリジナリティー、キリスト教会の特色のことです。教会、クリスチャンは、地の塩、世の光として、世の中の人たちとは、はっきりと区別される持ち味があるということなのです。クリスチャンと世の人には、はっきりと違う塩気、塩味、特色があるのです。

 教会は、主イエスのしてくださった愛の業をしっかりと受け継いでいく所です。主は、神の国の福音を宣べ伝える働きの中で、最も弱い人を受け入れ、躓かせないように配慮し、大切にされました。これが教会の福音であり、良い知らせ、大切な塩気、持ち味です。ですから、教会が塩気を失うこと、私たちクリスチャンが塩気を失うということは、教会の交わりの中にいる小さい人、弱い人、信仰の未熟な人、不信仰な人、ハンディキャップを持っている人、お年を召されている人たちを躓かせてしまうことに対して、鈍感になるということです。私たち一人ひとりが、教会に来ている弱い人を躓かせることに対して、無頓着、無関心、鈍感になって、配慮する気持ち、大切にする気持ちが失われてしまったら、教会は味を失った塩気のない塩になってしまいます。世の人たちと何の違いも区別もなく、何も変わらなくなってしまいます。

 桜ヶ丘教会が、弱い人、信仰の未熟な人をいかに大切にするのかということに、これからの教会の命がかかっているのです。主は言われます。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」私たちも、神の愛の力をいただきながら、躓きそうな人がいれば、転ばないように、その人を支える杖になって、温かい配慮をしていきましょう。