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「キリストに結ばれた生き方」2021・3・28説教要旨

「キリストに結ばれた生き方」2021・3・28説教要旨

 今日は1コリント4・14~21節を通して聖書学んでいきましょう。この4章は主に忠実であるべきこと。真のさばき。言葉よりも力が語られています。1~2神の奥義である管理者であるパウロ。3~5主からだけ裁かれる身分。6御言葉を超えて人を評価すべきではない。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して使徒の謙遜と忍耐の模範。14~17彼らの父としての訓戒。18~21彼らの使徒としての予告。が語られています。

1コリント4・14~21節を見て下さい。ここでの結論は20節に語られています。神の国の特徴は(言葉ではなく、力である)口で偉そうな事を言って人をけなしても、その生活と奉仕にどれ程の力があるかが問題であります。真に力ある生活を送り、パウロのようにいかなる苦難屈辱をも主イエス・キリストのために喜んで受ける人こそ、真に勇者であります。

コリント人の不遜な態度に対して、憤慨したパウロは、鋭い言葉でコリント人を責めた。しかし、パウロの真の目的は、彼らを責めて辱める為ではありませんでした。むしろ、コリント教会の生みの親であるパウロは、父として、愛する子供らを諭したのであります。第1テサロ二ケ2・11~12p375「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた1人1人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」といっていますが、同じ気持ちでありましょう。ここでパウロは、急にやさしい口調になっています。15節に「養育係」とありますが、子供の学習を助けたり、学校への往復を守ったりするガラテヤ3・24~25に出て来ます。年配の信頼できる奴隷で、行儀を教えたり、する役目をもっています。1人の子供に多くの養育係がいても父親は1人だけであります。パウロはコリント人にとってたった1人の父親なのであります。福音を説き聞かせ、イエス・キリストにおいて彼らを産んだのはパウロであった。これは養育係では代行出来ない者でありました。ここでパウロは実に驚くべきことを言っています。16節をみてください。キリストに倣って忠実に生きているパウロを見習うのが最も手っ取り早く妥当な方法だったわけです。パウロは自分がキリストに倣っているという自信を持っていました。大変素晴らしい事です。私達は如何でしょうか。フィリップ2・19節以下p363第一テサ3・2p376を見て下さい。テモテは、パウロの信任の最も厚かった弟子であり、職務に忠実な青年伝道者でありました。彼は「キリストにおけるわたしの生活の仕方」つまりパウロが実践しているありのままの生活を思い起こさせてくれるであろうという。パウロの生活は、キリストの福音からにじみ出たものでありました。パウロが、テモテを通して、思いださせようとした生活は、キリストにある者すべてに実践されなければならない生活であります。

結び

もう1度1コリント4・14-21節を見て下さい。ここで大事な事は4・17節「すべての教会がわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」と4・20節「神の国は言葉ではなく、力にあるのですから」最後の「神の国は言葉ではなく、力である」これは偉大な金言であります。神の国は、それがどんなに巧みであり、美しいものであっても、単なる言葉ではできません。ただ福音が持っている聖霊の力によってのみ建てられます。この力のみが、人の心に信仰を起こし、人を慰め、人を励ますことが出来ます。この力を抜きにした言葉は空しい言葉であります。そしてコリント人が語っていた言葉はまさにそれに類するものでしたそしてこのパウロは、彼らに「むち」を持って行くか、「愛と優しい心」でいくか彼ら自身に選択させています。(21)このことばの奥には、彼らの反省を促すパウロの深い愛が込められています。

「キリストの福音を語る」2021・3・21説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント4・6~13節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの4章全体を主の忠実であるべき事。真の裁き、言葉よりも力と語っています。そして、今日の6節は聖言を超えて人を評価すべきでないこと。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して述べた使徒の謙遜と忍耐の模範を語っています。

 1コリント4・6~13節を見て下さい。この4章の1~21節までは神の管理人としてパウロは、自分のことをさきに建築士として、コリント教会の関係を説明しました。ここで、さらに、自分を神の管理人としてコリントの人々に語っています。コリントの人たちは、自らの知恵や知識を誇って、傲慢不遜であります。人の才能も能力も、全て神から与えられたものにほかならないのであります。もし誇るならば、神こそ誇るべきであります。私達は、そうした賜物にゆえに、いよいよ謙遜となって、感謝するべきであります。彼らは自分で、自分たちは、富み栄えていると思って、誇りの座に安住している。そして、伝道者を見下してかれこれと詮議だてています。10節から13節を見て下さい。伝道者もまた衆人環視の中で、悪戦苦闘しています。そしてまさに死に瀕しています。それなのに、信徒はいっこうにこれを助け、これを救い出そうとはしない。コリント教会の現状はそうであったのであります。パウロは、元々博学多識の人でありました(使徒6・24)。しかし、愚かに見える福音のために(12・23)、あえて愚かになった。単純卒直にキリストの十字架の福音を語るためであった。しかしコリント人は、福音を哲学と雄弁によらせようとした。彼らは、キリストにあっても、なお賢い者であった。この「賢い者」という字には、利口者、ぬかりのない知恵者(この世とうまく手を握る)という意味であります。彼らは自信家で、自負心に強く、この世に対しても自己心が強く自分の地位を誇示していた。パウロは、この世にあって何らの名誉もなかった。いや、かえって侮られ、罵られることが常であった。11節をもう1度見て下さい。第2コリント11章には詳細に記されています。ここに第1に生活の苦しさである。衣に窮し、食に困り、しかも定まった住居もなかった。第2に、自分の手でもってする働きの苦労であった。彼はテントをつくる職を身につけていた。第3に種々の迫害である。しかも、その迫害の中で、彼は迫害する者を祝福した。すなわち、はずかしめられても祝福し、迫害されても耐え忍び、ののしられても優しい言葉をかけた。こうして忍従の生活は、排斥を受ける1つの原因となった、この世においてはちりのように、人間のくずのようにあしらわれてきたというのである。こうした鋭くまた哀調を帯びたパウロの文字に接すると、私達は、自分の胸をえぐられる思がします。誠に教会における問題は深刻であります。

結び

もう1度1コリント4・6~13節を見て下さい。

元来信仰は人を謙虚にするはずであります。しかし現実はなかなか厳しく、特に信仰に燃えている時ほど高慢になる危険があります。信仰が自分の自信と化し、自己確信になり、やがて自尊心となって高ぶりに変わるのであります。それは多くの場合他人への裁きとなって現れます。特に多いのは牧師や役員に対する非難であります。牧師や役員は理想的な人物であるべきだというだという期待も手伝って、牧師、役員の1挙1動および一言一句が教会員の裁きに対象にされてしまします。

今日のテーマは「キリストの福音を語る」です。福音のメッセージを語るには2つの方法があると思います。1つは聖書を通してイエス・キリストの十字架と復活、この聖書のメツセージは教会に来られた方は誰でも語れると思います。もう1つはその方の生き様を通して福音を語る。これがある意味で難しい事だと思います。俗にいう教会の顔と、教会を出てからの顔。これが一番難しい事です。何故クリスチャンが少ないかは、勿論いろいろな原因があると思いますが、教会顔と世間顔の極端な区別です。わたしは信仰生活60年になりますがいろいろなクリスチャンの方々や牧師・信徒の方々を見てきました。私は決して模範的牧師、クリスチャンではありません。欠けのあるものですが、もし感謝出来ることがあればそれは毎日聖書を読み、祈り、黙想し、誰かにキリストの福音をなるべくかたるようにしています。この2021年使徒181~11節が与えられて特に「この町には私の民が大勢いる」という御言葉を信じて家族友人知己の方々にイエス・キリストの福音を証しようではありませんか。特にコロナウイルス流行のこの時多くの人々が不安、恐れに悩んでいる方にはチャンスだと思います。

「主は裁かれる」2021・3・14説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント4・1~5節を通して聖書を見ていきましょう。この4章1~12節は教会の在り方そして副題として使徒の使命について述べています。この4章では。先ず使徒とそのあり方を述べ、次の使徒教会について語り、この教会に対する使徒の思いをパウロは述べています。

 1コリ4・1~5節を見て下さい。1節の使徒について語っています。使徒とは1・キリストに仕える者。2・神の秘められた計画の管理者であること。仕える者(ヒュペレータイ)はこの言葉は三段漕ぎ船の最下層の漕ぎ手で「奉仕者」よりも低い僕、そこから広く他者の手下として仕える者を意味しました。彼らはキリストの使命を果たす為の下働き人である。しかし同時に神の奥義の管理者であります。すなわち神の家としての教会を建てる為の監督であり、キリストによって現わされた神の奥義、福音を管理する家令であります。」ゆえに管理人に要求されていることは、何よりも(忠実)であることであります。人のうわさや批判に耳を傾けることなく、ただ神に対して忠実であることこそ神の奥義を管理する教師に要求されている中心的事柄であります。3節彼自身の経験と態度とを語っています。パウロは自分が忠実であることを示しているだけでなく、あらゆる批判に束縛されないことを示しています。つまり彼は教会から批判されようと、法廷で裁かれようと「わたしには最も小さいことです」(少しも問題ありません)」と言う。そしてパウロは自分で自分を裁くこともしないと言う。これは他者の批判や自己批判を一切無視しているというのではありません。4節むしろそれよりももっと決定的・究極的な者にパウロ自身は支配されています。つまり彼を裁くのは主なのです。自分の内なる法廷においていくらやましいことはあったと自覚していても、それで直ちに神の法廷において義とされることはありませんと言っています。5節ですから、主が来られる時までは、先走って何も裁いてはいけませんとパウロは語っています。主の来臨の時まで、主の来臨を目指して生きることがキリスト者の生きかたです。そこに何ものにも支配されないキリスト者の自由があります。主の裁きは1・闇の中に隠されていた秘密を明らみに出す。2・人の計画を明らかにする。3・そのとき各自は神からの称讃が与えられる。神からの刑罰ではなく、称讃を与えられることこそキリスト者の究極の目標であります。

 もう1度1コリ4・1~5節をみてください。パウロは、自分のことを建築士として、

コリント教会との関係を説明しました。ここではさらに、自分を神の管理人として訴えてています。

伝道者は、神の奥義を管理する役目を負わされています。つまり、御言葉に仕えて、福音を宣べ伝え、教会建設に当たらなければならない。この場合管理人に要求されているのは、忠実であることである。これを委託された神の御意志にのみ添うてひたすら委託された事柄を処理しなければならない。それ以上、人気や世間の風評に左右されて、人間的工作をする必要はない。パウロは人の裁きや、人の批評は、気にかける必要はない。そんなことは神の裁きに比べればとるに足りないと言っています。人を本当に裁き得る方は、ただ1人なる神であります。人が自分であれ、他人であれ、裁く裁きは、みな不完全で不徹底である。消して最後的な者ではない。だから、人の裁きに、余り神経質になって、すぐびくつく必要はありません。いずれ、最後の審判に日がきます。だから、お互いは、その日先走って、つまらない裁きをしてはならない。コリント教会の中には、教師をいたずらに批評して裁こうとする傾向があったようです。ややもすると現代の教会においても、自分の尽くすべき責任をはたさず、他を裁いて快しとする者がないとは言えない。悲しいことです。 

結び

もう1度1コリ4・1~5節をみてください。パウロは、全ての人が直面しなければならない3つの裁きについて語っています。1つは他人による裁き。2つは自分に裁き

3つは神による裁き正しい裁きをなさるのは神であります。真に人を裁き得るのは神のみであります。ですから私達は誰も裁いてはならない。正しい裁きをなさるのは神であります。

「人間を誇ってはならない」2021・3・7説教要旨

朝位 真士

 今日は1コリント3・18~23節を通して聖書を学んで行きましょう。この3章は1~2節はコリント信者が肉に属する者であることを嘆く。3~4肉に属する証拠である妬みや争い。5~9伝道者の使命と神との関係。10~15伝道者の働きとその責任。16~17神の宮である信者。18~20この世の知恵は神の前では愚かであること。21~23信者の特権と身分。が語られています。

 1コリント3・18~23節を見て下さい。この3・18~23節は1言で申し上げるならば、人間を誇ってはならないという言葉につきます。21節から23節をもう1度見て下さい。

パウロはあなた方は神の神殿である16節に言っています。パウロは「あなたがたは神の神殿である」と言ってキリスト者の自覚を呼び起こしてから、自分の知識を誇らないようにと戒めています。さらに「だれも人間を誇ってはいけません」21節と言っています。これは党派についての戒めであります。ここで言っています「人間」には私達も含まれています。信仰者は、自分の信仰を誇りがちであります。私もそうです。私は18歳でキリスト者になって今年で60年になろうとしています。しかし信仰は神から賜るものであります。人には何1つ

誇るものはないはずです。もし誇りたいとすれば、わたしたちの救い主であるイエス・キリストを誇るべきであります。イエス・キリストは、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかって死に3日目に復活された活ける主イエス・キリスト様です。私達の誇るべき方は主イエス・キリスト様だけです。牧師も信徒も役員も皆イエス・キリストの僕です。箴言16・18節を見て下さい。p1012「痛手に先立つは驕り。つまづきに先立つは、高慢な霊」

口語訳箴言16・18節p899「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ」

次に私達は、自分以外の人間も誇ってはならない。他の人を誇るところに派閥が生じる原因があります。そこでパウロは21節をみてください。「だれも人間を誇ってはなりません」と言っています。神様の言葉を語る伝道者は神の僕であるのみならず、私達の僕であります。パウロはさらに22節を見て下さい。キリスト者はキリストに救われて神の子、神の国の相続人とされた。ローマ8・16~17節をみてください。p286キリストが万物の主である以上、キリスト者は世の終わりが来たら、主と共に万物を支配する。それは現在すでに保証されています。その意味ではすべてがキリスト者のものであります。それは信仰者自身の功績ではなく、キリストからの賜物であります。23節を見て下さい。

結び

もう1度1コリント3・18~23節を見て下さい。これまで述べたコリント教会の「ロゴスの危機」に対する批判的論証のしめくくりであります。先ず、パウロは(だれも自分を欺いてはなりません)と命じています。(欺くーエグサパト)は1般的に「欺く」を意味するアパタオーよりも強い意味で「完全に騙す」ことを示しています(ローマ7・11,16・18、2コリ11・3、2テサ2・3)。ここでは他者は勿論自分に対しても欺くことを禁じています。自らの知識を誇り、無知を認めないことは自己欺瞞であり、自らの無知を認めることこそ真の知識への道であります。19節にこの世の知恵は神の前で愚かであることを再び述べています。(神の前で)は審判を意味します(ローマ2・13,14・10)指導者を崇拝し、彼を選んだ自分の知恵誇ることは神の前に(愚かな者として)審判されます。ヨブ5・12、13の一部と、20節では詩篇94・11節を自由に引用して、この段階の聖書証明としています。p932この2つの聖書の言葉によって、パウロは(知恵ある者)が、神の前にいかに愚かであり、空しい者であるかを明らかにしています。21~23節をもう1度みてください。これまで述べてことの結論。

(だれも人間を誇ってはなりません)この命令法の根拠は、(すべては、あなたがたのもの(だから)です。このすべての説明として(パウロもアポロも・・世界も・・将来起こることも)と、キリスト者はあらゆる人間、世界、運命、時間・・・・のすべてに対して主であり、自由であります。(しかしあなたがたはキリストのもの、キリスは神のもの)ここにキリストの自由があります。だから人間を誇ってはならないという結論ではだれを誇るのでしょうか。それは天地万物を創造され人間を創られた父なる神と私達の罪のため十字架にかかって身代わりとなって死に3日目に復活された主イエス・キリスト様と聖霊なる神様の三位一体の活ける真の神様を誇るべきです。

世の中には素晴らしい方は多くおられます。勿論そういう方々に対して尊敬することは大切だと思います。年長者やお世話になった両親や目上の方対しては失礼があってはならないと思います。皆キリストのアガペーの愛をもって愛し合い、仕え合わなければならないと思います。

「神の宮である教会」2021・2・28説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント3・10~17節を通して聖書を学んで行きましょう。この3・10~15節は伝道者の働きとその責任。16~17節は神の宮である教会または信徒と言うことが語られています。ここでは10~17節を通して伝道者の責任を記しています。そして信徒を(神の畑)また(神の建物)に、そして伝道者を農夫(6~9)また(建築師)にたとえています(10~17)奉仕をする場合、おのおのに異なった使命があり、その賜物も異なっており、ある人は植え、ある人は水を注ぐ。しかし、同様に主の御用において、(神の同労者)としてただ忠実に働くなら、(それぞれその働きに応じて報酬を得る)また。伝道は建築工事のようなものである。(土台はイエス・キリストで)、その上に教会を建て上げるために働くのである。(金、銀、宝石)を用いて建てるとは、神の言葉、福音の真理をもってそれをなすことであります。しかし、自分の思想や人の説をもってするのは(木、草、または、わら)を用いて建てるようなものであります。彼自身は信仰を持っていればさばきの日に救われることは出来ても、その働きは全く無効に帰する。また、人の前にどんなに大きな、また成功した働きも、その動機が神の御旨に叶わない者であれば、木、草、わらのように、さばきの火に焼かれて何も残らず、彼自身はかろうじて魂だけは救われる。反対に、人の前には認められない小さなわざでも、神と人とを愛する純粋な心からの奉仕であれば、金、銀、宝石を用いたわざのように、かの日に栄光を受け、報酬を受ける。私達の働きはどうでしょうか。永遠に残る尊い働きでしょうか。信徒は(神の建物)また(神の宮)であります。きよくあるべきもので、心の中に肉に属する不潔な思いをいだいてはならない。御霊の内住を受け、それを意識して、きよい行いをするべきです。

1コリント3・10~17節を見て下さい。コリント教会を創設したのはパウロであります。幾多の困難と戦いながら、ここ地に開拓伝道した人であります。かれは9節であなた方は「神の畑、建物である」と言った。建物にとって、一番大切なのは土台である。そして教会という建物を支える土台とは何か。それは金、銀、宝石である。信仰者の信仰が激しく試される日がやってきます。そのとき、各人が築いた建物の良否がいかんなくあらわれます。私達はイエス・キリストを土台とした教会に相応しいものを建てているでしょうか。ある伝道者がこの箇所を説き明かすのに、東京の帝国ホテルを例に引きました。ライトというアメリカの建築家によって建てられたものですが、その時に基礎工事は大変なものだったそうです。地面を岩盤まで掘らせて土台を据えたので、工事関係者の労苦も並大抵のものではなかった。ホテル側の人たちも、基礎工事にもの凄い時間と費用がかかったので、大変だったと思います。しかし、試練の時がやってきた。1923年(大正12年)9月1日、あの関東大震災であります。そのとき東京の建物はほとんど崩壊したそうですが、帝国ホテルだけはびくともしなかったそうです。壁にひび割れ1つも入らなかったそうです。まさに土台がしっかりしていたからです。伝道においても、蜜室の祈りや個人伝道や訪問伝道が大切です。今はコロナウイルス感染症流行でストツプしています。パウロは、誠実で熟練した建築家が家を建てるように何よりもまず土台を築く事に全力を注ぎました。ここで大切な事は、パウロが据えた土台が主イエス・キリストであったと言うことであります。この世の教会やキリスト者はつい人間を土台にしがちであります。パウロが据えた土台の上に伝道して教会を建てようとしたのであります。1コリント3・12~13節をもう1度見て下さい。この土台に建てられる建物に対して、教師は責任を持たなければなりません。その建築に用いられる材料2種類あります。1つは永久に朽ちないものであり、もう1つは1時的でやがて消滅していくものであります。13節をみてください。私達の伝道も試練に会った時その真価が明らかになります。金の働きであるか、銀の働きであるか、またわらの働きであるかは、ハッキリします。

16~17節を見て下さい。パウロはここで、教会は熟練した建築家によって建てられた神の宮である。と言う。6・19節には「個々のキリスト者は聖霊の宮」であるとされていますが、2コリント6・16では、「神の御霊が宿る神殿はキリスト者の共同体、すなわち教会であるといわれています。だからキリスト者としての一致を守るように教えています。教会を分裂させることは、聖なる神殿をだめにすることでありますから、最も罪深い行為であるとされています。

結び

もう1度1コリント3・10~17節を見て下さい。コリント教会も「聖なるもの」である。神のために献げられたものであります。この桜ヶ丘教会も実に神の宮なのであります。どのように足りないところがあっても、この教会は実に神の宮であります。そのことを信じ、厳粛な思いを持って、全ての信徒が自らの行動を慎重にすべきであります。

「成長させて下さる神」2021・2・21説教要旨

朝位真士

今日は1コリ3・1~9節を通して聖書を学んで行きましょう。この処は3章で三種類の人。価値ある奉仕。神の宮。1~2コリント信者の肉に属する者であることを嘆く。3~4肉に属する証拠である妬みや争い。5~9伝道者の使命と神との関係。が述べられています。3章始めに(霊の人)また(肉に属する者)という言葉がありました。ここに三種類の人がいます。先ず(生まれながらの人)、すなわち生まれ変わっていない人である。キリスト教の感化を受けて、思想的に変化し、あるいは洗礼を受けて、教会に連なっていても、新生の体験を持っていない者はこの部類に属します。次に(肉に属する者(1)また(肉の人)(3)で、(キリストにある幼子)とあるように、新生はしましたが、まだキリスト教徒の完全な領域に達していない人であります。パウロはここで、コリント信者が肉に属する者であることを責めています(3,4)。党派心、妬み、争いなど肉の行い(ガラテヤ5・19~20)のある者は、肉に属する者で、まだきよめられていない証拠であります。肉に属する者は、荒野放浪中のイスラエルの民が、神に救われたのちにもエジプトのものを慕い、不信仰や不平に陥ったように、神の恵みを受け、恵みのうちにおりながら、時々世を慕い、神にそむくことがあります。第3の(霊の人)とは、全く清められて(キリストの思いを持)ち、すべての事をわきまえる者である(2・15~16)。で弟子たちもペンテコステ以前は肉に属する者で、彼らのうちに高慢、ねたみ、野心、争いなどがあったが、ペンテコステの霊を受けてきよめられて初めて全き聖の人となった。アブラハムは霊の人、ロトは肉に属する者、ロトの妻は生まれながらの人であります。私達はどの部類に属しているでしょうか、5~9節では伝道者は神の御手の中にある単なる器であります。

1コリ3・1~9節を見て下さい。コリント教会に属する者多くの者は、「肉に属する者」すなわち「キリストにある幼子」で、霊的発育を遂げていない、信仰上の未熟者である。しかし、素直に育てば、円熟のキリスト者になり得るのであります。コリント教会は、組織も完備し、集会も盛んであり、社会事業も活発であった。しかし、教会員の霊的生活は未だ幼稚でありました。4節から5節を見て下さい。人間的な行動であります。彼らはただキリストから与えられた賜物を活かして奉仕しただけであります。いわば、神の手にある器具にほかならない。その知識も弁舌も、その熱心も、またその得る結果も、みな神にある。教役者は、ただこれを適当に活用する、管理人(スチュワード)に過ぎません。3・6~9節を見て下さい。神がパウロを用い、アポロを通して、福音の種をまき、これに水を注いで、成長させて下さる。だから、「大事なのは」パウロでもなく、アポロでもなく、「神のみ」である。めざすところは、神の栄光とキリストのからだなる教会建設であります。「わたしたちは神の同労者」であります。「あなたがたは神の畑であり、神の建物である」。

結び

もう1度1コリント・3・1~9節を見て下さい。

コリント教会には大別して3種類の人がいました。

1・生まれながらの人間(2・14)―生まれ変わってない人

2・肉に属する人(3・1)―キリストにある幼子

3・御霊に属する人(3・1)―霊的に成長している人。

この三種類の人間を旧約聖書のアブラハム物語からあげるとすれば、アブラハムは「御霊に属する人」。アブラハムのおいロトは「肉に属する人」。ロトの妻は「生まれながらの人間」であったといえます。(創19・26~29)p27

次に伝道者の使命と神との関係(3・5~9)。

パウロは第1に人は人を信仰に導く道具にすぎないと語っています。(5)

第2にパウロは信仰を成長させるのは神であると教える。(6)

9節では伝道者が「神の協力者」であるといっています。これは神の御心に従って神と共に働く者、すなわち神に仕える者のことであります。

パウロはまた教会を神の畑、神の建物にたとえていますが、「畑」は6~7節と関連して教会が有機的に成長していく面を描いたものであり、「建物」は10節以下と関連させて教会の各部が相互に関連していくことを語ったものであります。

「神の奥義」2021・2・14説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント2・6~16節を通して聖書を学んで行きましょう。この2・6~10節はパウロの深い教えである神の奥義。11~16節は神の奥義は神の霊によってのみ知るうること。神の奥義は聖霊の啓示によって初めて知ることが出来ます。(10)。(生まれながらの人)すなわちまだ生まれ変わっていない人は、聖霊を受けることが出来ませんので、神の奥義を理解することが出来ません。(14)。それゆえ、神の奥義である十字架が、彼らには愚かなものと見えるのであります。私達のうけた聖霊は「知恵と啓示との霊」(エペソ1・17)、これが与えられる1つの目的は、(神から賜った恵みを悟るためであります(12,ヨハネ16・13~15)。神の奥義は人の(目がまだ見えず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことで)あるが(9)、その奥義が聖霊によって示される。こうして聖霊に示されてそれを理解した者は、それを説くにもまた、(御霊の教える言葉を持って)説かなければならない。(人間の知恵が教える言葉)で神の深さを説明するわけにはいきません。(13)。これが、福音を説く御霊の言葉である聖書の言葉を用い、また御霊によって与えられるメツセージを語らなければならない理由であります。

1コリ2・6~16節を見て下さい。キリストに現れた神の深い真理は聖霊によって、初めて明らかにされます。人知をどのように絞っても、神の深い真理に達することは出来ません。人間は聖霊を受けずして、イエスを救い主と言うことは出来ません。(1コリ12。・3)p315

この「御霊」は「神からの霊」(3・12)であり、人の内に宿る「神の霊」(ローマ8・9)。であり、すべてのことを、そしてその最も深い神の性質や計画を知りつくして、人を教えることが出来る。だから使徒は、人々がこの知恵をいただくために、御霊を受けるように絶えず祈ったのであります。(12・8,エペ1・17,コロサイ1・9)。神に関することは、神御自身の霊によらなければわからない。だから、わたしたちが聖書の言葉を、どんなに文法的に解釈したり、言語学的に研究しても、それだけではその本来の意味はよく納得されない。聖書は神の言葉である。だから、人知だけで探求しても、到底深い真理は理解されない。福音の真理は、霊的真理である故に、霊的方法によらなければ理解されない。と同じように、この福音を宣べ伝える際にもこの世の知恵が与える言葉によるのではなく、専ら霊の言葉によらなければならないことは当然であります。9節の言葉はイザヤ40・13引用であります。p1126キリストの思いをもって、すべてのことを律していくべきであります。そうすれば、教会の中で、他人を批判して悪く言って罵ったり、党派をつくって争ったりできるはずはありません。

結び

もう1度1コリ2・6~16節を見て下さい。神の奥義は聖霊によって啓示されて初めて知ることが出来る(10)。生まれながらの人間は、神の御霊(11)を受けていないので、神の奥義を知ることが出来ません。ベタニヤのラザロは死んで4日間も墓の中に置かれていました。彼は神に命を与えられて初めて生き返ることが出来ました(ヨハネ11章)p188~189

それと同じように、私達も生まれたままでは霊的に死んでいます。神に聖霊を与えられて初めて霊的に生かされ、神のことが分かるようになります。人間はどんなに知恵や知識があっても、またどんなに努力しても、それだけでは神の真理に達することは出来ません。聖霊を受けなければだれもイエスをキリストと告白することは出来ないのであります(12・3)p315。聖霊は神からの霊であり、召された者の内に宿る神の御霊であります。私達召された者が受けた霊は、「神を知るための知恵と啓示の御霊」(エペ1・17p353)であります。また、御霊が与えられる目的の1つは「恵みによって神から賜ったものを、私たちが知るため」(1コリ2・12)ヨハネ6・13~15p200である。1コリ2・13、2テモ3・16p394

神の奥義は聖霊に導かれないと理解できないことがわかりました。クリスチャンは皆神の聖霊を受けています。しかし神を信じなくなると聖霊はその人の心に宿りません。絶えず聖霊に満たされなくてはなりません。その方法の1つはまず1日の時間を決めて聖書を拝読し、祈り、主の奉仕に励み、献金を献げることです。勿論経済的赦されない人は奉仕祈りや教会の為に奉仕、また諸集会にできるだけ出席する。今はコロナで出席が制約されています。自分の与えられた賜物を主の御用に活かすことです。

「キリストを宣べ伝える」2021・2・7説教要旨

朝位真士

今日は1コリ2・1~5節を通して聖書を学んで行きましょう。この2章は伝道の題目と方法。十字架のキリスト。啓示の霊が語られています。1~2パウロの立てたキリストのあかし。3~5彼の謙遜な態度と、知恵の言葉を用いなかった理由が述べられています。パウロは先に、コリントに来て伝道する前、アテネのアレオパゴスの評議所で説教した(使徒17・22~18・1)。その説教は、思想としては実に立派な、ギリシャの文化人に適した説教であったが、その結果はあまり成功したとは言えなかったので、彼はコリントに来た時、特に(イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは)何事も語るまいと決心したのである(1~2)。彼はすべてのキリストの証人の模範であります。何を伝えるべきか、またいかに伝えるべきか、すなわち、伝道の題目とその方法とをよくわきまえていた。伝えるべきものはキリストとその十字架、伝える方法は(巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである)(4)。彼自身立派な学者であり、また彼に聞いたギリシャの人々も文化の高い知識階級の人々であったが、彼は彼らの信仰が(人の知恵によらないで、神の力によるものとなるために(5)、ただ卒直に、十字架につけられたキリストだけを宣べ伝えた。

 1コリント2・1~5節を見て下さい。パウロは、言葉と知恵を尊ぶギリシャ人の間にきた時、大きな誘惑を感じたにちがいない。パウロは豊かなギリシャ文化の知識を身につけられたことのある人である。「すぐれた言葉や知恵に」にも通じた人である。雄弁術を使って、巧みな修辞で、深淵な哲理を説いたら、もっと聴衆に受けたかも知れない。しかし、パウロはここコリントにおいて、そのことをしなかったのであります。2節をみてください。パウロは、説教において、すぐれた言葉と知恵を用いなかった。福音は、美しい言葉でも思弁的な哲学でもなく、単純な言葉で語られるイエス・キリストとその十字架の事実であることを、よくわきまえていたからである。罪に滅びようとする人を救うことのできるものは、この「十字架につけられたキリスト以外」にない。そして、キリスト教における説教とは、この十字架につけられたキリストをありのまま説くことにほかならない。どんなに大衆に受けるからと言っても、十字架の福音を捨ててはならない。パウロは一意専心、十字架のキリストを説いた。彼の説教の内容は、ここに集中されていたのであります。だからガラテヤ教会の人々に向かっても、「十字架架につけられたイエス・キリストをあなたがたの目の前に描き出された」ではないかーパウロの説教で語っているほどであります(ガラ3・1)p345

3節を見て下さい。アテネにおける伝道は失敗であり(使徒17・32)p249、ユダヤ人からは激しく迫害された。しかし、今淫蕩に満ちた大都市コリントにきた。しかしパウロは神の声を聞いた(使徒18・9)「恐れるな、語りつづけよ、黙っているな」「わたしがあなたと共にいる」と、幻の中で語られる主の御声に励まされて立ちあがったのであります。今年2021年度のみ言葉であります。

そして、「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのであります」。人間の知恵と力により頼まない者は、神の知恵と力に頼らざるを得ません。単純に卒直に、十字架のキリストだけを説かずにはいられません。それは、知識をてらう人々には愚かと見られるけれども、実はそれが「霊と力との証明」であった。言葉の巧みはそこになくても、人の魂をうって、信じた者の生活を一変させる力があったのであります。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、」神の力によるものとなるためであった。信仰は決して、人為的なものではありません。だれであっても、人が信仰には入るのは、ただ神の力によるほかありません。

結び

もう1度1コリ2・2~5節を見て下さい。このパウロは私達にとってキリストの証人の模範であります。このことから私達はなにを学ぶことが出来るか。私達は何を宣べ伝えるか、またいかに宣べ伝えるかの宣教の目的とその方法を学ぶことが出来ます。私達が宣べ伝えるのはキリストとその十字架であり、伝える方法は説得力のある知恵の言葉ではなく、「御霊と御力」(2・4)によってである。パウロ自身立派な学者であり、彼に聞くギリシャ人も知的な人たちであったが、パウロは彼らの信仰が「人間に知恵にささえられず、神の力にささえられるために」(5)、十字架につけられたキリストのみを単純卒直に宣べ伝えた。十字架の福音を語るところに、人を救う神の力は働くのであります。当時の大家ガマリエルの門下で学んだパウロが、今は人に馬鹿にされようがあざけられようが、ひたすら十字架のキリストを説き明かした理由はここにあります。私達もパウロのように単純にキリストの十字架と復活を宣べ伝えましょう。最後今年の聖句使徒18・9~11節を読んでお祈りさせて頂きます。

2021/1/31  神の愛を知る

説教 朝位フミ子 牧師 

聖書箇所 エフェソの信徒への手紙 3章14節~19節

こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられます。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神のみちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

「キリストは私達の知恵・義・聖・贖いである」2021・1・24説教要旨

 

 朝位 真士

 今日は1コリ1・26~31節を通して聖書を学んで行きましょう。この聖書の注解は米田豊先生のを参考にさせて頂きます。1~3挨拶と祝祷。4~7コリントの信者の霊の賜物のための感謝。8~9彼らの将来に関するパウロの確信。10~13分争に関する訓戒。14~17パウロの使命。18~25神の力また知恵であるキリストと、その福音のあかしー愚かに見える十字架。26~29弱く見える信仰者。30~31私達のすべてであられるイエス・キリスト。この1章全体として資格と経験。教会内の分争。神の知恵と力である十字架。と分解しています。

 1コリ1・26~31節を見て下さい。この世の知恵は神の前には愚かなものであり、神なしの哲学や科学では信仰の奥義はわからない(19~20)。学問も知恵もない者であっても、イエス・キリストの救いの体験を握る時、世の学問や地位が与えることの出来ない幸福を受け、知者も学者も説明することの出来ない心や魂の大革新を実際に経験する(27~28)。実にキリストにある者は幸福であります。(キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとなられたのであります。(30)すなわち、私達はイエス・キリストにあって義とされ、彼にあってきよめられ、また彼にあってこの肉体があがなわれ栄化する。イエス・キリストは(神の知恵)(24)であると共に、また(私達の知恵)でもある。

パウロはコリント人が入信した時のことを思い出させる。この言葉は初代教会を構成していた人々の層を示しています。社会的地位を持った者、富める者が全然いなかったわけではありませんが、それらは多くはないと言われる。大部分は、教育程度の低い、地位も名誉ももたない貧しい人々であった。世間はそのような人々を重んじない。どうかした宗教は、金持ちが信者であるといって誇り、社会的有名人が来ると言って得意になっている。愚かなことである。神のなされたことは、この世の標準とは違っていることを知らなければならない。28節を見て下さい。この世の賢者・富者・権力者はかえってはずかせめられる結果となる。教会の発展した全歴史は、実に、無学者が学者に、卑しい人々が貴い人々に、打ち勝ってきた勝利の歴史である。ついに、ローマの皇帝も、大工の子イエス・キリストの前に、王冠を脱ぎすててひざをかがめたではないか。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。ここに救いの内容が全部書いてあるといっていい。人が何と言おうと、信じる者にとってキリストは「わたしたちの知恵である」そこに人生の根本の解決がある。イエス・キリストに頼る人(聖霊の力を受けた人)の知恵こそ、この世の哲学者の知識も遙かに及ばない知恵である。その知恵の中には、第1に「義」がある。「義」の内容は罪のゆるしである。私達は元来不義(罪)なる者で、神の御前に立ち得ざる者であった。しかるに、キリストは十字架においた、わたしたちに代わり、神のみ前に罪の値(死)を払われた。このようにして、

神はキリストにおいて自分の義を発見することが出来る。だから、わたしたちは自らに何らの義(いさおも力も)、なくて、唯信ずるだけで、義とされ(義と認められ)て、神の前に立ち得るものとされているのである。第2には、「聖」である。義とされた者は、消極的に、自分にあった罪を赦されただけではない。積極的に、自分になかった義をおわされる。このようにして、恵みの中に成長し、ますます神を喜ばせ、善きわざに励み、神に奉仕してゆく力を与えられる。これが聖められることの意味である、第3には「あがない」である。これは唯罪よりのあがないだけでなく、悪魔(罪の原因)と永遠の死(罪の結果)からの全き救いである。それは「誇るものは主を誇れ」と書いているとおりである。人間が自分の知恵を信じ、自分の力を頼って満足している処に、滅びの道がある。しかし愚かと見える福音の中に、神の知恵があり、そこに救いがある。そして、それは、ただ神の恵みによってのみ与えられる。だから人はとるに足りない自分の知識を誇り、自分の力を誇ってはならない。けれども、信仰による救いを体験している者は、心から主を誇りたくなるであろう。いや、誇らずにはおられないのであります。わたしに何の誇るものはない、栄光は主にのみあれ、ここの引用句はエレミヤ9・23からきています。p1194を見て下さい。

結び

もう1度1コリ1・26~30節をみてください。マタイ11・25~30節をみてください。p20~21。ここ言われている「知恵」とは人間に隠されている神の救いの計画に関する神の知恵であって、その知恵を実現した方がイエス・キリストであった(ローマ11・33,コロサイ2・3)。パウロはこの知恵を説明するために「義」「聖め」「贖い」の3つの言葉を出しています。パウロはコリントの信徒に向かって、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分の体を持って、神の栄光を現わしなさい」(6・20)と勧めています。それゆえキリスト者は社会的には自由人であり、同時に「キリストの属する奴隷」(7・22)なのであります。

私達にとってキリストがなんであるかをパウロは4つに分けている。1・キリストに従うときにのみ、私達は人生の道を真っすぐ歩み、キリストに聞き従う時にのみ、われわれは真理の声を聞く。彼こそはまさに人生の達人であります。2・キリストは義である。神との正しい関係を意味している。神が我々のためになさって下さったみわざのゆえにキリストを通してはじめて達成することの関係である。3・キリストは聖である。キリストの臨在の中にあってのみ、人生はあるべき姿の人生たりうるのであります。4・キリストはあがないである。イエス・キリストは人を、過去の罪から、現在の無力から、そしてまた将来の恐怖から、救い出すことのできるお方である。